元号「令和」出典である大伴旅人の歌宴は、天平二年正月十三日に執り行われた。少し長めの序が記され、その後に三十二首の歌が歌われている。さらにその歌群を追補する形で四首の歌が載っている。
後に追ひて梅の歌に和ふる四首
残りたる 雪に交れる 梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも(万849)
雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも(万850)
我が屋戸に 盛りに咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも(万851)
梅の花 夢に語らく 風流びたる 花と我思ふ 酒に浮べこそ〈一に云ふ、いたづらに 我を散らすな 酒に浮べこそ〉(万852)
本稿では、万850番歌の解釈について検討する。
雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも〔由吉能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻左加利奈利弥牟必登母我聞〕(万850)
この歌の表現については、漢籍に学んだものとする説が通行している。「雪の色」、「奪ふ」という語が漢語の使い方に習っているというのである。現在通説となっているこの説を構築した碩学の論考を、小島2018.と小島1992.から重複をいとわずに引く。
……このうち「奪ふ」については、この表現が漢詩の表現をまねたものとして、梁簡文帝「梅花賦」の例を頭注に挙げる。この「ウバフ」の例は、『文選』巻十三の名高い謝恵連の「雪賦」にも、「皓鶴奪レ鮮」と見える。これは、白い鶴が白いといっても、雪に対すると、その鮮美を 失うかのようだ、の意。すなわち、雪の白さが白鶴の羽の白さを「奪う」といった趣向である。また『藝文類聚』菓部「奈」に見える「紅紫奪二夏藻一」(梁楮湮「奈詩」)は、奈の紅紫色が夏の藻の色を奪うかのようにあざやかな意。これらはいずれも万葉歌人の目に触れた例である。この「雪の色を奪ひて咲ける梅の花」の 「ウバフ」が漢詩に見える「奪」の用法を学び、新しく歌語として生まれたことは、容易に理解されるであろう。しかもこれらの「奪」は色と結ばれる表現を持つことが多い。
次に「雪の色」は、万葉人の案出した語か、それとも漢語「雪色」(xuě sè)の翻訳語か、ことはそう簡単にはゆかない。しかし諸注はこの語を問題としない。漢語の「雪色」は実はあまり多くの例を見ない。盛唐詩人杜甫はこの語をかなり好んだらしく、その二例を見るが、この「雪の色」とは無関係である。先出の例としては、 六朝陳人徐陵の、
風光今旦動き、雪色故年残る(「春情」、『藝文類聚』人部「美婦人」)
が注意される。しかしこの詩は、六朝艶情集『玉臺新詠』や、『初学記』などの「類書」には見あたらず、はたして万葉人が必ずしも例の多くないこの語をどの詩によって学んだかよくわからない。しかし「雪」に関して、「色」を「奪ふ」という例ならば、例は必ずしも少なくない。たとえば、初唐駱賓王の、
色奪二迎仙羽一、花避二犯霜梅一(「寓二居洛浜一、対レ雪憶二謝二兄弟一」)は、その条件を満たす。これは「色」すなわち「雪の色」が迎仙の皓い鳥の羽の色を奪わんばかりの意。歌人は、「雪の色」を漢語「雪色」から学んだのではなく、「色」を「奪ふ」から「色を奪ふ」という歌の表現を生み、さらにその上に「雪」を冠らせたのであろう。この歌の第一・二句は、この関係において眺めるべきであり、「雪の色」は、漢語「雪色」より考えるべきではない。(小島2018.337~338頁、字体を改めたところがある)
……「雪の色」は「奪」と同様に恐らく「雪色」の飜読語であらう。楊烈訳にも、「雪色如レ銀白、梅花賽レ雪開」とみえる。「雪色」の例は、六朝陳人徐陵の「春情詩」の冒頭に、
風光今旦動き、雪色故年残る(『藝文類聚』人部「美婦人」)
とみえ、「雪の色」が去年のままあはれにも残る、の意。「雪色」の例は盛唐詩人杜甫にも二、三例ほどみえ、その一つ「臘日」に、
雪色を侵陸するも還萱草、春光を漏洩して柳條有り
とみえる。この前の句は諸注によつて差があるが、しばらく故鈴木虎雄先生注の「萱草までもが雪の色を侵してあらわれいで」(『岩波文庫本』)に従つて置く。もしこのたぐひの詩語「雪色」が「雪の色」として歌語に適用されたとすれば、「雪の色を奪ひて咲ける……」は、「奪ふ」が漢語「奪」によると同じく、第一・二句は詩的表現をまねたものと推定してもそれなりの理由はあらう。(小島1992.264頁、(注)部分を割愛した)
「雪の色」については解釈に揺らぎがあるものの、漢文学から影響を受けた言葉によって万850番歌は成立しているとしている。ただし、この歌は倒置形をとっており、よくよく読み返してみても、不自然極まりない字の並びをしている。「雪の色」の解釈に揺らぎを招きかねないものである。
雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも
梅の花[ノ(ガ)]雪の色を奪ひて咲ける[ハ]今盛りなり、見む人もがも
「奪ふ」という語の語釈に、「他人の大切にして放すまいとするものなどを、力ずくで取りあげる。」(古典基礎語辞典198頁。この項、筒井ゆみ子)、「他のものが放すまいとするものを、力で無理に取り上げる。他のものをかすめとる、横取りすることをいう。」(白川1995.159頁)、「他人の所有物を無理やりに取り上げる。奪いとる。」(日本国語大辞典第二版394頁)などとある。日本国語大辞典第二版には、「(「志を奪う」などの形で)人の気持などを無理に変えさせる。」の義を載せ、「我は兄王(いろねのきみ)の志を奪(うばふ)可からざることを知れり」(仁徳前紀)という例を載せる。
謂ふに、当に国を奪はむとする志有りてか。(神代紀第六段本文)
仍りて強に白鳥を奪ひて、将て去ぬ。(仲哀前紀)
篡簒 所患反、去、奪也。逆而奪取曰篡、字従ム。宇波不(新撰字鏡)
仲哀前紀の例は、白鳥も焼いたら黒鳥だと言って無理強いして奪い取ったという話になっている。「奪ふ」という語の無理やり感をよく表している。万850番歌では、色を無理やりに奪った梅の花は雪と同じように白い色をしているという意味であるが、別に無理やりに奪わなくとも構わないのではないかと思われる。そこで、この「奪ふ」という言葉づかいが漢籍に学んだものであるという発想が生まれる。そういう側面がなかったと完全に否定することはできない。しかし、もし仮に、万葉時代、「奪ふ」という言葉においてそのような用法を学んだのであれば、他に例が現れてもおかしくないはずである。けれども、「奪ふ」という語は万葉集中にこの箇所にだけ現れる孤例である。
このような使い方をする「奪ふ」という言葉は根付かなかったようである。そこが不思議な点である。万850番歌の作者だけが、独りよがりに漢籍を学んで得た知識を披瀝していることは考えにくい。口承文芸である歌のあり方と根本的に相反する。わかる歌として歌は歌われ、人々に共感されたから採録されているに相違あるまい。漢籍を学んだと主張する人たちの見解では、歌の場は漢籍に通暁している人たちに囲まれたサロンであったという。しかし、それならば、「奪ふ」という語に関しておもしろいと思われて、他に流用されて良いはずである。逆に、訳がわからない使い方がされていると思われたなら、歌としてその時点で没であって万葉集に採られることはなかっただろう。この条件をクリアするのは、周囲の人が歌を聞いて理解できたということである。すなわち、特に漢籍とは無関係な意味合いで「奪ふ」という言葉を聞き、今日の解釈とは違う捉え方がされていた。
拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」において、万849~852番歌の「後追和二梅歌一四首」は、大伴旅人が天平二年正月十三日の歌宴にお題としてあげた序の、漢文調の文章の種明かしをしたものであると解釈した。新元号令和の「令」の字が「零」に通じていること、すなわち、雪の零るさまに梅の花の散ることを見立てて歌を作りなさい、というお題であったことを明証するものであった。
万849~851番歌に「散る」という言葉が使われている。実際に入っているのは、万849・851番歌である。万852番歌も、花びらが散るからこそ盃に注いだ酒に浮かぶと言っている。では、万850番歌に、「散る」という要素はどのように含まれているのだろうか。その隠された表現法のために、「奪ふ」という特別な言葉が使われていると考えられる。「奪ふ」とは、相手から無理やりに取りあげることだから、その取りあげる際に抵抗されて、対象物はちぎり取られてバラバラになる印象がある。散り散りになる感じがあるから「奪ふ」という言葉が使われている。その時初めて、「後追和二梅歌一四首」が一連の歌として辻褄が合うことになる。
「雪の色を奪ひて」という言い方が、漢籍の教養のない人にも通じた意味合いとはどういうことか。「奪ふ」の語釈に見られるように、「奪ふ」対象は他人の所有物である。物として形がなければ「奪ふ」という言い方は不自然である。だから漢籍に習ったとされるのであるが、他人に通じない言葉づかいはもはや言葉ではない。周りの人がなぜ理解できたのか、そこにこそこの万850番歌の奥深さがある。
「色」という言葉についての解説には、「塗料、または染料を加えて物や人体の表面におこす特別な光の反射。また、自然のままの顔色。転じて、美しい彩色、美しい容色をいい、さらにはそれにひかれる性質を表した。」(古典基礎語辞典163頁、この項、筒井ゆみ子)とある(注1)。すなわち、「色」という言葉には、塗料や染料の意味合いが深く根づいている。 雪の色は白い色である。そんな白い色を生み出す塗料、染料の類とは何か。顔料の「白土」であろう。胡粉などとも呼ばれる(注2)。和名抄・図絵具に、「胡粉 張華博物志に云はく、錫を焼きて胡粉と成すといふ。」とあるが、牡蠣の貝殻などから作られたものも利用されていた(注3)。実際に雪や梅を絵画に描いたかどうかはこの際問題とはならないものの、「雪の色」とわざわざ断っているのだから、「白土」のことであることは確かである。「雪は白い(雪、白し)」ならともかく、「雪の色は白い(雪の色、白し)」という構文は、万葉びとにとっていぶかしいもの、あるいは、白い雪も泥を塗りたくれば茶色いといった屁理屈への誘発性を感じ取っていたのだろう。
この「白土」の関連語は、万葉集のなかで「知らに」という言葉に当て字として記されている。「白土」(万5・1792)、「胡粉」(万2677・3255)、「白粉」(万3276)と書いてあり、シラニと訓み、知らないで、知らずに、知らないので、の意味である。万850番歌において、雪が消えてしまって梅の花が咲いている。梅の花は雪があったことを知りはしない。季節が進んで雪は消え失せ、梅の花は咲いている。「梅の花」は「雪の色」を受け継いで白く咲いていると見立てた時、顔料の「白土」を掛詞風の謎言葉として「奪ひて」と表せば、すっぽりはまって微動だにしない表現となる。一気呵成にして無理やりに季節が進んでいっていることをうまく言い当てている。それがこの歌の作者、大伴旅人の狙いであったのだろう。宴は大宰府で行われているから、貝殻付きの牡蠣をご馳走にして酒が進んでいたとも考えられる。口に「逆へて奪ひ取るを簒と曰ふ」ことをしている。そのようなことをしながら歌を作る機会はとても少ない。「奪ふ」という語は以降、利用されなかった。
ここまで新解釈を展開させれば、もはや「奪ふ」という言葉について、なにほどか漢籍の知識が影響していると考える人はいないだろう。顔料の胡粉が奪われたと言っている。そしてまた、「雪の色」が、漢籍をあら捜しした結果見つかる「雪色」という漢語とは無縁に歌中へ導かれている。すべての理解は、ヤマトコトバ、シラニのなかに完結している。白土を知らに? と大伴旅人は嗤っている。胡粉を使って描かれた雪の絵には臨場感がある。
歌は、歌の作者と披露された場にいる聞き手との共通理解の産物である。大伴旅人と、その歌を聞いている歌宴に集まった人、正確には、その宴も終わって一夜明けて寝起きの人たち(注4)の間において共有される言葉によってのみ成立している。聞く人に了解されなければ歌は成立しない。当時の地方官吏が遍く漢籍に通じた教養人であったと言えないのは、今日のそれと同じことであろうし、今日の中央官僚でも同じであろう(注5)。学者がぞろぞろと集まるところは学会であって歌会ではない。学会に集まる方にしたところで、万850番歌の注釈書に翻訳語であると指摘されているのを見て知り、慌てて繙いたり検索したりしているのが実情ではなかろうか。
万葉集は上代の日本語、ヤマトコトバの宝庫である。さまざまな知恵を織り交ぜながら歌が歌われ、音声言語として飛び交っていた。その音声言語を留めたものが万葉集である。書記言語の、いわゆるエクリチュールとして考えるのは、その理解の後に来るもの(meta-Yamatokotoba)である。万葉集は知識をひけらかした賢しらごとではない。万葉集に遺された言葉は、我々が「日本語人」(田中克彦)であることを思い起こさせてくれる原資料なのである。
(注)
(注1)万葉集に「色に出づ」という表現が多く見られる。顔色の意味とされるが、本来の「色」の意味からいかに派生したかについては拙稿「万葉集における「色に出づ」表現について」参照。
(注2)和名抄では水土類に、「堊 唐韻に云はく、堊〈音は悪、和名は之良豆知〉は白き土なりといふ。」、墻壁具に、「白土 兼名苑に云はく、白土は一名に堊〈已に天地部・水土部に見ゆ〉といふ。」、容飾具に、「粉 文選好色賦に云はく、粉を着ければ則ち大白なりと云ふ。〈粉は之路岐毛能」、「白粉 開元式に云はく、白粉三十斤といふ。〈白粉は俗に波布迩と云ふ〉」とあって、白い塗料・顔料類には原料を異にしたいくつかの種類があったようである。正倉院文書を考慮した詳しい検討が伊原2010.にあるが、貝殻由来の物があったことについては従来説に縛られているためか検討されていない。
(注3)成瀬2009.に奈良時代の貝殻胡粉の実相について報告がある。
(注4)「後追和」を、本稿の筆者が勝手に翌朝のことと仮定して述べた。
(注5)小島1964.は、「この宴の会同者は、太宰府の役人の面々を始めとして、筑前・筑後・大隅・薩摩・壹岐・対馬などの役人にも及び、薬師・笇師などの加はつたことは、筑紫に於ける官人、文人を集めた一大集会と云へる。いはば奈良の都に於ける長屋王の詩会を思はせる壮観さである。」(939頁、漢字の旧字体は改めた)として、皆、漢文学に通じていたと思っている。
(引用・参考文献)
伊原2010. 伊原昭『増補版 万葉の色─その背景をさぐる─』笠間書院、2010年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、1964年。
小島1992. 小島憲之「上代詩歌にみる漢語的表現─「残」を中心として─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『漢語逍遥』岩波書店、1998年。)
小島2018. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 補篇』塙書房、令和元年。(小島憲之「万葉語の「語性」」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集四』小学館、昭和50年。)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
田中2017. 田中克彦『言語学者が語る漢字文明論』講談社(講談社学術文庫)、2017年。(『漢字が日本語をほろぼす』角川マーケティング(角川SSC新書)、2011年。)
成瀬2009. 成瀬正和「正倉院伎楽面に用いられた貝殻由来炭酸カルシウム顔料」『正倉院紀要』第31号、2009年。宮内庁ホームページ https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/31/pdf/0000000257
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典第二版 第二巻』小学館、2001年。
加藤良平 2021.3.16初出