人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について

安騎野の歌

 万葉集、安騎野歌群は議論がかまびすしい。とりわけ万48番歌は、その訓みから議論の対象となっている(注1)。その次の万49番歌は、「時」という表現に新しさをおぼえるとして考察の対象となっている。短歌の構成は、全体として、時系列に従って展開されていると考えられている。本稿では、万49番歌の基本的な読解について検討する。
 はじめに歌群の原文と今日の一般的な訓読を示す。

  軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌
 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
  短歌
 阿騎乃野尓宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念尓
 真草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曽来師
 東野炎立所見而反見為者月西渡
 日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時者来向
  軽皇かるのみ安騎あきの野に宿りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふと敷かす みやこを置きて 隠口こもりくの はつの山は 真木立つ 荒きやまを いはが根 さへ押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへおもひて(万45)
  短歌
 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき も寝らめやも 古念ふに(万46)
 ま草る 荒野にはあれど 黄葉もみちばの 過ぎにし君が 形見とぞ来し(万47)
 ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(万48)
 なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時はむかふ(万49)

 万49番歌はほぼ定訓とされている。一句目と二句目のつづきを「なみし 皇子みこみことの」とする説もある(注2)

万49番歌の「来向ふ」

 今日、結句の「時は来向ふ」について、大風呂敷を広げた議論が通行している(注3)。しかし、単に歌を聞いただけで、皇統譜正統の皇子の再生、「日の皇子」再誕の奇跡、迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合などといった壮大な意味合いを認めることは考えにくい。「時は来向ふ」という表現は、諸解説書に、「……狩を催された、その季節がいよいよ来た。」(新大系本萬葉集47頁)、「…… 狩を催された 同じその時刻になった」(新編全集本万葉集53頁)、「……かつて狩場に踏み立たれた時刻は今まさに到来した。」(古典集成本萬葉集70頁)、「狩を催されたその時が、いよいよ迫ってくる。」(稲岡1997.40頁)、「……猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。」(伊藤1995.151頁)、「……今しも出猟なさろうとした、あの払暁の時刻が今日もやがて来る。」(中西1978.73頁)、「……御狩にお出かけになった時刻が今や迫って来る。」(古典大系本萬葉集35頁)、「……御猟を催された、その季節がやつて来た。」(澤瀉1957.327頁、漢字の旧字体は改めた。)などと訳されている(注4)。「時は来向ふ」という言い方において、「時」の用法として目新しく、新境地を開いたものであると考えられているが、はたしてそうだろうか。もしそうであるなら、ひとつの表現として後に引き継がれていくはずである。しかし、万葉集中にばかりかその後においても、特定の「時」が 「来向かふ」という表現は見られない。類例に次のようなものがある。

  霍公鳥ほととぎすづるこころに飽かずして、おもひを述べて作る歌一首〈并せて短歌〉
 春過ぎて 夏むかへば あしひきの 山呼びとよめ さ夜中に 鳴く霍公鳥ほととぎす 初声はつこゑを 聞けばなつかし 菖蒲あやめぐさ 花橘を 貫きまじへ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほししのはゆ(万4180)
 霍公鳥ほととぎす 飼ひとほせらば 今年て むかふ夏は まづ鳴きなむを(万4183)

 季節には四季がある。万4180番歌で、春が過ぎたら夏が来るのは当たり前のことである。万4183番歌は万4180番歌の反歌である。テーマは霍公鳥であり、万葉時代、初夏の景物とされている。季節としては夏しか眼中にない。今年(の夏)を経れば次は(来年の)夏に関心が向く。だから非常に適切な語の使い方として、「夏は来向ふ」、「来向ふ夏」と言っている。やってきて真正面に対峙する形で向き合うことになる。「むかふ」という語は、時代別国語大辞典に、「近づいてくる。迫りくる。」(246頁)、岩波古語辞典に、「(時季が)こちらに向って近づいて来る。」(381頁)と情緒的に釈すが誤謬を含んでいる(注5)。「むか」ではない。
 まったく当たり前のことを歌うために使われているのが「来向ふ」という言葉である。当然やって来ることを示すために用いられている。面と向って真正面な状態になることを意味する「向ふ」を「来」に後付した言葉である。そういう言葉なのだからそういう使い方がふさわしい。万49番歌の「時」を、今日の諸説のように捉え、気分ばかり一人歩きした解釈は差し控えねばならない。

武田祐吉氏の先見の明

 「来向ふ」という言葉が当然の推移を表すとすると、「時は来向ふ」という言い方は落ち着かない表現である。助詞の「は」は、取り立ての助詞とされ、その機能は「分説」と呼ばれている。助詞「も」を「合説」と呼ぶのに対比されている。「分説」とは、「は」が承ける事物を他物と区別して特立させることを指す。小田2015.があげている例を示す。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮[……]かなひぬ今(=他ノ時デハナク、今コソハ)漕ぎ出でな (万8)

 「今」という言い方は、他の時を排除して今こそは、という意味合いを含み持っており、素直に受け取ることができる。しかし、上の万4180番歌に、「春過ぎて夏(=他ノ秋ヤ冬デハナク、夏コソハ)来向ふ」という形は不自然である。「来向ふ」ことは自明の必然を表すのだから、春が過ぎたら次は夏に決まっており、秋や冬ではないとわざわざ言う必要はない。
 この点を万49番歌で確認すれば理解に至らないことがわかる。「御狩り立たしし時(=他ノ時デハナク、出猟サレタ時ハ)来向ふ」と言い回している。「来向ふ」ことは必定の事柄でしかないから、承けていない他物と区別する必要がない。「時」と述べ立てることで何を表したいのであろうか。
 万葉集の「時」の用例については、粂川1978.に網羅的な調査がある。「時は」と続く例は、「時には」(when)の意味で使われている例が多数ある。万292・423・892・929・1703・1809・2341・2852・3030・3036・3951・4231番歌である。そのほかには、「時は成りけり」(万439)、「時はしも何時もあらむを」(万467)、「時は経ぬ」(万469)、「時は今は春になりぬ」(万1439)、「時は過ぐれど」(万1703)、「時は過ぎねど」(万1855)、「時は来にけり」(万2013・3987)、「時は過ぐとも」(万3493或本)、「時はあれども」(万3591)、「時はあれど」(万3891・4301)がある。「時しは」と続く例としては、「時しはあらむを」(万585・3957・4214)がある。時間が経過した、その時に至った、そういう時がある、といった現代でもふつうに使う例ばかりである。
 そんななか、万49番歌だけが異例中の異例であるとは考えられない。助詞の「は」によって取り立てて分説する機能は、「来向ふ」という必然を表す意味に不釣り合いである。
 再度原文を見てみると、西本願寺本などには「者」とある部分が、元暦校本に「志」と記されている(注6)。この「志」は顧みられなければならない。「御狩り立たしし時来向ふ」と訓む場合、この「し」は、やはり取り立ての助詞ではあるが、ただ単に取り立てているだけで、他の事物を排斥する意味を持たない。同じく小田2015.のあげている例を示す。

 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山 こもれる 大和うるわし(記歌謡30)

 この「し」の場合、「し」がない場合の「大和うるはし」でも意味は一応通じる。大和って素敵ね、とだけ歌っている。 同様に、「御狩り立たしし時し来向ふ」でも、かつて狩りをした時間がやって来て真正面に対する、と言っているまでであり、分説して他の「時」を考える必要がない。出猟なさった時が当然の流れとして顕在化した、ということは、平たく言えば、ちょうど時間となりました、と簡潔に歌っているものと理解される。
 元暦校本の「志」字をとる見解は、武田1955.ですでに示されていた。「時シ、諸本には時者とあるが、元暦校本に時志とあるのがよい。シは強意の助詞で、強く、時を指定する。草壁の皇子様が馬を並べて御猟におでましになった時節は、いま来たり向った。冬の季節の来たのをいう。この歌に至って、はじめて皇子の御名を出して、全篇のしめくくりとした。」(29頁)とある(注7)。ここで「冬の季節」と考えているが、筆者は、狩りが冬に限定されるとは決められない点を含めて、あたりが明るくなってきた時間帯のことを指すものと考える。ちょうど時間となりました、というのが、聞いている人たちに一番わかりやすいからである。 周囲で聞いている凡人にもわかりやすくなければ、誰も聞きとどめることはなく、歌は歌われた瞬間に消えて滅ぶ。高邁な皇統思想を掲げられても、人だかりは散り散りになっていくだけだろう。

万39番歌のおもしろさ

 (注3)に記したように、近現代のものの見方からいろいろな解釈がくり広げられてきた。しかし、言葉の在り方としてあり得ない想定の上に仮構する形而上学には意味がない。万39番歌の表現のおもしろさはむしろ別のところにある。

  なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時しむかふ(万49)

 「なみしの皇子の命」は、この歌が歌われた現時点において安騎の野に狩りに出掛けて来ている軽皇子の父、草壁皇子のことである。諸説に一致している。この時点で、その草壁皇子は既に他界している。つまり、過去に草壁皇子も狩りに出掛けたことがあって、やはり野営して臨んでいたということであり、それとちょうど同じ光景が今ここにくり広げられている、それを歌っている。これまでの解釈でも行われているところである。
 筆者は、草壁皇子のことを「なみしの皇子の命」と呼んでいる点に注目する。今日、研究者に誤解されているように、日に並ぶというほどに皇統意識が高められているということではない。何を言っているのか。「日」に「並」ぶとか、「馬並めて」というように、並んでばかりいる。その並び方は行列を作って縦に並ぶのではなく、横並びの様を言っている。狩りの時に馬を仮に縦列に進めたとしたら、獣は逃げて行くものだから、先頭の騎乗者しか弓を射ることができず狩りにならない。

 遂にとも遊田かりたのしびて、ひとつ鹿しし駈逐ひて、はなつことこもごもゆづりて、うまのくちを並べて馳騁す。(雄略紀四年二月)
 即ちみその中によろひし、弓矢を取りかし、馬に乗りて出で行き、儵忽たちまちの間に馬よりならびて、矢を抜き其の忍歯王をしはのみこを射落す。(安康記)(注8)
 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野(万4)
 いは瀬野せのに 秋萩しのぎ 馬並めて はつ鷹猟とがりだに せずや別れむ(万4249)

 万49番歌の歌の眼目は並ぶことの機知にある。日並しの皇子が馬を並べていた、横並びでどんぐりの背比べ、当たり前のことを印象づけ、「御狩り立たしし」が当たり前に訪れた、と人麻呂は歌っている。つまり、狩りの時は当たり前に到来したこと、春が過ぎて夏が来るように必然的な時間の進展であると申し述べている。それを「来向ふ」と表現している。時という言葉に抽象性を認める余地はない。その時が向こうからやって来る(The time is coming from over there.)と言っているのではなく、その時がとうとう訪れた(At last, the time has come.)と言い放っている。
 これは、時計を手にした人たちが思うように、まったく同時刻に狩りが行われたことを示すものではない。並んでいるのだから並んでいるのであって、同様に経過するのは至極当然のことであると言っているまでである。あたりが明るくなってきて狩りが行われようとしている様について、言葉遊び的な使い方として、「並」ぶという言葉なのだから特段のことではなくて並のこと、ふつうのこととして、「時し来向ふ」と歌っている。
 ここに、反歌三首目の「月西渡」の指し示している意が理解されよう。月が西に渡っていったとき、反対に、東から日が出始めている。夜の鵜飼猟と違い、どんなに月光が明るかろうが、日の光によって明るくならなければ馬を駆って狩りなどできない。満月に近い日に安騎の野へ行って一夜を明かしたのである。「月西渡」に対し、四首目は「日東出」を意味していよう。結果的に、「日雙斯皇子命」の「日になら(配)ぶ」こととは月のことを表していると確かめられる。

「日雙斯皇子」はヒナミシノミコ

 神野志1992.に、「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓むべきで、特別な存在として位置づけられており、それはこの万49番歌に淵源があるとする。表記上、「日雙斯皇子命」(万49)、日並皇子尊(万110題詞・167題詞)、日並皇子(天平勝宝八歳六月廿一日東大寺献物帳)、日並知皇子尊(続紀文武・元明・元正前紀、天平元年二月甲戌)、日並知皇子命(続紀慶雲四年四月庚辰、天平宝字二年八月戊申)、日並知皇太子(続紀慶雲四年七月壬子)、 日並所知皇子命(万葉集巻第二目録、本朝月令所引右官史記)、日並所知皇子(七大寺年表所引竜蓋寺伝記)、日並御宇東宮(粟原寺娠盤銘)などとあるからという(注9)
 神野志氏は、万49番歌の「日双斯」について、「日にあいならぶ」意の「ヒナミ」に、過去の助動詞「シ」がついたもので、草壁皇子の皇子である軽皇子が、人びとにあいだに正統な皇位継承者として意識されはじめた頃、人麻呂が独自に歌に詠みこんだものと推定している。ただし、まだ正式な称号とみなすことはできず、「日並」や「日並知」は、称号ないし諡号となっているとする。続紀で統一して用いられている「日並知」という表記は、多く皇位継承に関する記事に現れているから、その正統性を喚起しているのだという。その場合の「知」は「シラス」、すなわち統治の意と解されるべきもので、「日並所知」、「日並御宇」などは、さらにその意識が発展した表記なのであると述べている。
 しかし、続紀を記した文官が「好字」を使っていたことと、万葉集の当て字、戯書、万葉仮名の混在する状態を同じ俎上で議論することはできない。ましてや、続紀に「日並知皇子尊」は皇統譜に現れるのが始めであり、正統性がどうということではない。系譜を示すためにのみ現れている。
 ヒナミシノミコノミコトと呼ばれ始めた当初、人々の間でそれが通用したのには、当時の人々が皆、納得するに至ったからそう呼ばれ始めたのに違いあるまい(注10)。当時の人々が常識として持っていた基本的認識がどのようなものであったかは、古事記や日本書紀から推し量ることができる。ヒナミと関わる事柄は、記紀の中で、「日になら」ぶ存在とある月神、ツクヨミを指す(注11)

 次に月の神を生みたまふ。〈一書に云はく、つく弓尊ゆみのみことつく夜見尊よみのみこと月読尊つくよみのみことといふ。其の光彩うるはしきこと日にげり。以て日にならべてしらすべし。〉(次生月神。〈一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亜日、可以配日而治。〉)(神代紀第五段本文)
 つく夜見尊よみのみことは以て日にならべてあめの事をしらすべし。(月夜見尊者可以配日而知天事也。)(同一書第十一)

 月読尊もシラス(治・知)(注12)ことが求められている。神代紀ですでに「知」と書いてある。続紀で「日並知」と出てきても真新しいことは何もない(注13)
 草壁皇子のクサカベという言葉は、日下部とも漢字表記される。月は東に日は西に、と言われるのは、満月の月の出を表している。万48番歌の状況は、訓は定まりきらずとも、日は東に月は西に、であることに間違いない。クサカを日下と書くことが知られていたら、日が下っていって現れる月のことが草壁皇子に例えていることは最初からわかっている。神代紀に記されるとおり、日にならぶ存在だから、ヒナミシノミコノミコト(日雙斯皇子命・日並知皇子尊)というのだとすでに了解されていた(注14)
 神野志氏が、万49番歌の「日雙斯皇子」はヒナミシミコと訓み、ヒナミシノミコとしない過去の助動詞の用い方、「日なみ」は、かつて日に並んだことがある、の意になる。万49番歌の状況は、日は東に月は西に、の真っ最中である。現況を照らし合わせて詠むのにふさわしいのは、過去のこととして突き放すのではなく、ヒナミシノミコノミコトという固有名詞の中に状況が隠れていることを示していると見たほうがふさわしい。シは強意の助詞である。すでに囁かれていた通称を人麻呂は持ち出して歌っている。歌を披露してから、ヒナミシとはクサカベを日下部とも書くから、云々と説明していたのでは、興醒めしてしまうし、そのような伝は伝わっていない。そして、ヒナミシノミコという呼び名は呼びかえた別称なのだから、草壁皇子に限って用いられた特別な称号と考える必要もない(注15)

おわりに

 万49番歌の訓読と解釈を正した。まことにシンプルな解釈を述べたに過ぎない。先行研究でこれまで築き上げられてきた「時」に関する形而上学的解釈は忘れ去られなければならない。もし仮に形而上学が罷り通ると言うのであれば、どこかに後を引き継ぐ類例があるはずである。うまい表現が行われているのなら、それを聞いていた誰かが真似しないはずはないだろう。他に例を見ないでこの歌ばかりをもって、人麻呂の時間表現が先駆的であったと褒め上げてみたところで、それらはすべて虚構である。

(注)
(注1)拙稿「安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について」参照。
(注2)神野志1992.に、漢字表記を殊更にとりたてる議論がある。
(注3)多田2017.に、「第四反歌は、一夜を過ごしたあとの払暁の時が描かれる。「時は来向きむかふ」の「時」は、オモヒの呪力によって、向こう側の世界から引き出されてきた「古の時」を意味する。そこに亡き草壁(日並)皇子の姿がはっきりと浮かび上がる。しかも、その草壁の姿は、いままさに出猟しようとする軽の姿とも重ねあわされている。それは、軽を草壁の再生として捉え、即位の資格をたしかなものとするためだった。「日の皇子」再誕の奇跡を成就しようとするところに、この一群の歌の大きなねらいがあった。」(75頁)とある。
 伊藤1995.に、「[万48番歌に]追い継いで、
 日並皇子の命、あの我らの大君が馬を勢揃いして猟に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。(四九)
という第四首が詠まれ、一連がしめくくられることになる。亡き皇子が猟を踏み立てたかつての一瞬は、そのまま現身うつせみの皇子が猟を踏み立てる現在の一瞬と重なっている。「古」(父)の行為および心情と「今」(子)の行為および心情とがここで重なり、亡き皇子への追慕は完全に果たされたのである。追慕の達成は、軽皇子がすべてにおいて父草壁になりかわったことを意味する。その草壁は単なる皇子ではない。歌そのものがいうように、「日並皇子の命」、つまり日(天皇)に並ぶ皇子なのである。ということは、「み狩立たし時は来向ふ」とうたい納められた時、軽皇子は皇統譜正統の皇子である「日並皇子の命」そのものとして再生されたことを意味する。追慕の達成は、表現における新王者決定の儀式でもあった。ここには、幻視が事実を呼びこんでしまう、古代詩の壮絶な輝きがある。(151~152頁)とある。
 稲岡1991.に、「第四首目は、朝猟りに出で立つ時刻を待つ一行の敬虔な、しかもきびしい緊張感を伝える秀歌である。歌形はまことに単純で、一、二句には固有名詞がそのままとりいれられている。 ……日に並ぶ、すなわち天子と同格の皇子という、文字どおりの賛仰の心が強く印象されるばかりでなく、荒野にのぼる日のイメージさえも、それは喚起する。……結句の「来向かふ」は、たんに「来た」とか「来る」というのとは異なっている。或る時刻の到来を身に沁みて受けとめている気持ちが「来向かふ」にこめられ、過去の助動詞「し」の働きと相いまって、過去の時刻が現前のことのようにあらわされるのである。これをたんに、帰らぬ過去に対する嘆きの表現というのは当らないだろう。「み狩り立たしし時」は、まさしく今迫り来るのであり、人麻呂たちはその時に向きあっている。……「来向かふ」には迫り来る時とそれを待ち設ける主体の心情の融合した特別の表現性がある。……皇子の生前を「古」として想起する長歌および第一反歌から、草壁の出猟を現前のことのように歌う第四反歌まで、想起の深まりとともに、心情的には過去との隔たりを次第に狭める配列になっていることも注目すべきだろう。」(268~269頁)とある。
 伊藤1990.に、「第四短歌は、かつて一つのできごと(草壁の遊猟)をともに体験した集団が、以前と同じ場所(安騎野)で、同じ時刻(曙光さす時刻)に、そのおりにとったのと同一の行動を起そうとするさまを描いていることになる。これによれば、人麻呂たち=軽皇子の遊猟の供奉者たちは、現実と過去(草壁のとき)とがほぼ完全に重なりあった状況に直面していると言ってよい。こうした状況のもとで、あるいは、こうした状況を目のあたりにした体験に基づいて、「日並の皇子の命」の狩の時がいままさに到来せんとしているとうたうとき、人麻呂は、草壁と軽とがさながら同一人であるかのように観じていたものと考えられる。……安騎野の歌の場合もその例にもれないことは、第四短歌に「来向ふ」とあることによって明瞭になろう。「来向ふ」とは、あるものが我れの前方から(未来の方角から)我れのもとに到来して我れときあう(我れに直面する)ことをいう。「来向ふ」時は、かつて草壁皇子が遊猟したその時にほかならない。しかも、その時は、いままさに狩をはじめようとする軽皇子たちの前方、すなわち、彼らにとっての未来から、彼らのもとを訪れ、そこにおいて蘇生(反復)する。それゆえ、安騎野の歌は、第四短歌の時点で、未来の方角から過去を迎えいれていることになる。……したがって、安騎野の歌の時間構造は、「過去→未来」という流れをもつ時間と、「未来→過去」という流れをもつ時間とが絡みあう構造としてとらえられる。そして、この場合、「未来→過去」という流れをもつ時間のなかで未来から到来するものが、じつは過去(草壁皇子の遊猟の時)にほかならない点に留意するならば、その絡みあいのもと、安騎歌の歌の時間は、全体として、円環的な形態をとると言ってよかろう。」(190~192頁)とある。
(注4)「御狩り立たしし時」について、時刻ととるか、季節ととるか、二通りの考え方が行われている。
(注5)多田2010.に、「「来向ふ」は、こちらに向かってやってくる意。……季節が異界から訪れるものであることを意識。」(135頁)などとある。神仙思想によらず、季節はこの世にあるものとして何か不都合があるのだろうか。
(注6)影印は、佐佐木2004.6頁、武田1956.219頁、元暦校本萬葉集第一冊、元暦校本萬葉集〔巻第一〕参照。
(注7)武田1956.に、同じく元暦校本の「時志来向」をとりトキシキムカフと訓んでいる。「キムカフは来つて相対する義で、今や皇子の猟にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に来て、正に時を同じくした感慨を述べている。……【評語】……人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である軽の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにその作を成したので、その代表作の一である。」(219~220頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注8)この例は、馬を並べるように接近することで射殺したということであるが、馬を並べて進むことは狩りの時の常套行為だから、装って近づくことができたのである。
(注9)写本等により異動がある点については、新大系本続日本紀241頁参照。
(注10)遠山1998.は、「通称にあらざる表現として、「日雙斯皇子命」が草壁皇子を指すことができるためには、指示が受けてに了解されなければならない。了解は成立したと本論考の筆者は思う。」(240頁)とし、ヒナミシミコノミコトは「安騎野歌内において、誰と分かるように配されている」(246頁)というのであるが、電光掲示板に文字が記されて識字能力のある人たちが読んだものではない。
(注11)万167番歌の前の題詞に、「日並皇子尊の殯宮あらきのみやの時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首、并せて短歌(日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首〈并短歌〉)」とあり、万168番歌の前に、「反歌二首」とあって、二首目にあたる万169番歌に、「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも」とある。「日」をもって天皇を、「月」をもって皇子を例えているとする説は古くからある。山田1932.に、「この「月」は上の「日」に対して皇子尊をたとへたるなり。而してかく月にたとへ奉ることは「日並皇子尊」と申し奉る意にもよくかなへり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117023/162)と指摘されている。
 神野志1992.はその点について、下注に「或本に、件の歌を以て後皇子尊のちのみこのみこと[高市皇子]の殯宮の時の歌の反と為せり。(或本以件歌為後皇子尊殯宮之時歌反也)」と異伝のあることから、草壁皇子ばかりか高市皇子までも「日並」に比喩されるのは不審としてオミットしている。割注を付けたのは万葉集に採録した人であろう。その人が言っていることは、別の本でこの歌は後皇子尊の殯宮の時の歌の反歌としている、と触れているに過ぎない。彼の判断で万167番の長歌の反歌であると認め、ここに記している。すなわち、「或本」に書いてあることは間違いだろうけれど、一応そういう本があったからここに書き留めておくというものである。草壁皇子を月に例えていることに賛同しているということである。
 なお、筆者は、万169番歌の「日」は太陽のことで、天皇のことを例えているものではないと考える。昼間に殯宮の祭祀が執り行われていることを詠んでいるばかりであって、日は照っているけれど月に当たるクサカベ(草壁・日下部)の皇子はお隠れになって惜しいことであると歌っていると考える。「日並皇子尊殯宮之時」は、持統紀三年三月条に、「乙未に、皇太子草壁皇子尊かむさります。」とある直後のこととされ、天武天皇が亡くなってから皇后(後の持統天皇)が「臨朝称政みかどまつりごときこしめす。」(持統前紀)ことをしていて、すぐに大津皇子の謀反事件のごたごたがあり、持統紀四年正月条に、「皇后きさき即天皇位あまつひつぎしろしめす。」と正式に即位している。天皇位が空位状態の時、天皇のことを例えて歌にするとは思われない。
(注12)「知らす」は「知る」に尊敬の助動詞「す」が付いた形の語である。「す」は奈良時代に四段活用で「知らす」も同様に活用する。「知る」という一つの言葉に、占有・領有・統治・支配の意と、認識・理解の意とが落し込まれている。古典基礎語辞典は「意味的には隔たりがある」(622頁、この項、我妻多賀子)とするが、白川1995.は、「「しる」は全体的に所有すること、「る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知しらす」という敬語的な形の語がある。……「知る」から「る」となったのか、「る」から「知る」となったのか、その両説に分れているが、漢字の字義においても、知・領にいずれも「知る」意があり、また支配する意がある。「む」とも関係のある語である。」(405頁)としている。
 神代紀第五段本文に、「其光彩亜日、可以配日而治。」とあるとおり、光がきちんと届いて対象が見えるから「知る」ことも「領る」ことも可能なのである。不確定性原理の基のようなことが述べられている。領有の範囲を示すための占有のしるし(標)が見えないところは、領ることがまともにできないばかりか何が起きているか知ることもできない。
 すなわち、アマテラスが天の下を領有するという発想は、太陽が光を届けるからであり、アマテラス自身が世界を知るところとなり、ならばそのゆえに世界を領有するということにつながるということになる。論理哲学の循環論法のような申し述べがくり広げられている。そのアマテラスを天皇は祖先としているのだから、支配者として国土を領有することになって当たり前であるとその正統性を主張することになる。詭弁ではないかとも考えられるが、「知る」という言葉の語義がそうなっている以上、ヤマトコトバの体系から脱しない限り循環論法に巻かれてしまう。律令以前の無文字社会における古代天皇制の正統性の主張はここにあり、それ以外に何ら付け足すところはない。
(注13)ヤマトコトバにシル、シラスという言葉が既に使われており、それを漢字でいかに表記したかということばかりである。万葉集には、「知る」の未然形シラに「斯良」(万794(2)・797・800・856・878・881・886・888)、仮名書きする記歌謡にも「斯良」(記22・44(2)・73)と用いられている。
(注14)クサカを日下と書くことについては、拙稿「日下」=「くさか」論」参照。
(注15)遠山1998.は、元興寺伽藍縁起に「日並四皇子」とあるのが敏達天皇のことを表していることを指摘し、「日雙斯皇子命」が草壁皇子に限られるものではないから通称ではないとする見解を述べている。筆者は、クサカベを日下部とも書くことからヒナミシノミコと呼ばれたとした。敏達天皇は、紀に「渟中倉太珠敷尊」、記に「沼名倉太珠敷命」と記され、ヌナクラノフトタマシキノミコトのことである。ヌナクラノフトタマシキと聞いて思い浮かぶのは、ヌバタマノという枕詞である。ぬばたまは、黒い珠、黒いヒオウギの実のことかとも考えられており、「黒」「夜」「宵」「月」「夢」などにかかる。「夜」にかかるから関連する「月」にもかかると考えられている。くろくらとはアクセントの相違から語源的に同根の語と言い切れないとされるが、上代において同系の語と捉えられていたのであろう。丸いものが黒光りすることと丸いものが暗い中で光ることは同様の事柄であると認識されていたものと思われる。万葉集には、「ぬばたまの 夜渡る月」(万169・302・1077・1081・1712・2673・3007・3651・3671・4072)という慣用表現のほか、「ぬばたまの その夜の月夜」(万702)、「ぬばたまの 月に向ひて」(万3988)、「ぬばたまの 今夜の月夜」(万4489)といった例が見られる。
 すなわち、ヌナクラノフトタマシキを、ヌ(瓊、ニの母音交替形)+ナ(連体助詞)+クラ(暗)+ノ(連体助詞)+フト(太、美称)+タマ(珠)+シキ(敷、美称)のことだと理解した人が、それに似つかわしいものの代表として、黒真珠ではなくて月をイメージしてヒナミシノミコ(日並四皇子)と当てたということに他ならない。そのような呼び名が敏達天皇の存命中からあったか、今伝わる元興寺伽藍縁起の成立の上限が天平十九(747)年までしか遡らないからその時期に付与されたか、そのいずれであるかと問われれば、知恵の豊かさや「日にならぶ」のは月のこととしか考え及ばない人によると考えられるから、従前から囁かれていたものと考えるのが妥当である。
 ヒナミシノミコという呼び名は草壁皇子に特別な称号ではないばかりか、柿本人麻呂の創作したものでもなく、おもしろおかしくある種、陰口を叩くことであったから、万49番歌を聞いた人々は瞬時に支障なく受け容れたのである。歌は歌われるとともに消えていく一回性の経験にしてアウラ(ベンヤミン)を持っている。いま何と言った? と聞き直すことなく皆に納得されなくてはならない。ヒナミシミコなる新称が門付け歌人の人麻呂によって歌われたわずか数秒をもってして、世の中に流布し始めるようになることなどあり得ない。

(引用・参考文献)
伊藤1990. 伊藤益『ことばと時間』大和書房、1990年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注 一』集英社、1995年。
稲岡1991. 稲岡耕二『人麻呂の表現世界』岩波書店、1991年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
粂川1978. 粂川光樹「万葉集の「時」」『フェリス女学院大学紀要』第13号、1978年3月。フェリス女学院大学学術機関リポジトリ https://ferris.repo.nii.ac.jp/records/498
元暦校本萬葉集第一冊 『元暦校本萬葉集 第一冊』勉誠社、1986年。
元暦校本萬葉集〔巻第一〕 小松茂美監修・古谷稔解説『日本名跡叢刊 平安 元暦校本萬葉集〔巻第一〕(国宝)』二玄社、1983年。
神野志1992. 神野志隆光「「日雙斯皇子命」をめぐって」『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。(『論集上代文学 第十一冊』笠間書院、1981年。)
古典集成本萬葉集 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『日本古典文学集成 萬葉集(一)』新潮社、昭和57年。
古典大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集 一』岩波書店、昭和32年。
佐佐木2004. 佐佐木隆『万葉集を解読する』日本放送出版協会、2004年。
佐野2019. 佐野宏「言霊の構造」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系12 続日本紀 一』岩波書店、1989年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集 一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、平成6年。
武田1955. 武田祐吉『万葉集全講 上』明治書院、昭和30年。
武田1956. 武田祐吉『萬葉集全註釈 第3(本文篇 第一)』角川書店、昭和31年。
多田1990. 多田一臣「安騎野遊猟歌を読む─万葉歌の表現を考える─」『語文論叢』第18号、1990年10月。千葉大学学術成果リポジトリ http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900051977/
多田2010. 多田一臣『万葉集全解7』筑摩書房、2010年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
遠山1998. 遠山一郎『天皇神話の形成と万葉集』塙書房、1998年。
土佐2016. 土佐秀里「夜の従駕者 : 赤人「吉野讃歌」と人麻呂「安騎野遊猟歌」の秘儀性」『國學院大學紀要』第54巻、2016年。國學院大學学術情報リポジトリ https://opac.kokugakuin.ac.jp/webopac/TC01610674
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
西澤1993. 西澤一光「人麻呂「安騎野の歌」の方法─虚構の創出と時間の贈与─」『青山學院女子短期大學紀要』第47巻、1993年12月。青山学院大学図書館 https://www.agulin.aoyama.ac.jp/repo/repository/1000/836/
ベンヤミン1997. ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄・高原宏平訳「複製技術時代における芸術作品」『複製技術時代の芸術 ヴァルター・ベンヤミン著作集2』晶文社、1970年。
真木1981. 真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年。(岩波現代文庫、2003年、『定本真木悠介著作集Ⅱ 時間の比較社会学』岩波書店、2012年。)
山田1932. 山田孝雄『万葉集講義 巻第二』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117023

加藤良平 2021.3.19初出