万葉集巻16・3848番歌の実態
万葉集の研究に民俗学を持ち込もうとする立場があり、万葉民俗学と呼ばれている(注1)。巻十六の万3848番歌について、太田2019.は、歌中の「ひねひねし」という言葉の語義に関して、さまざまな方言の事例から検討を加えている。新編全集本の訓、原文、口訳を掲げる。
夢の裏に作る歌一首〔夢裏作歌一首〕
あらき田の 鹿猪田の稲を 倉に上げて あなひねひねし 我が恋ふらくは(万3848)〔荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者〕
右の歌一首、忌部首黒麻呂、夢の裏にこの恋歌を作りて友に贈る。覚きて誦習せしむるに、前の如し。〔右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌友覺而令誦習如前〕
校異:「々々」は西本願寺本では「干稲」、「令」は「不」を見せ消ち。
新開の 鹿猪田の稲を 倉に上げ納めて ああひねひねし─恨めしいことだ わたしの恋は
右の歌一首は、忌部首黒麻呂がこの恋の歌を作って友に贈る夢を見た。目を覚ましてからその友に幾度も誦詠させてみたら、そのとおりであったそうだ。(④123頁)

左注の解釈にはバイアスがある。大系本は、「黒麿が目覚めてから口ずさんでみたら、夢の中の歌そっくりであったとも、黒麿が夢の中で友人に贈ったところが、覚めて後その友人に読誦させてみたら、友人はこの夢の中の歌を現実に記憶していたという不思議さとも解釈できる。」(四・150頁)と指摘している。
万葉集巻十六は、「由縁有る歌、并せて雑歌」と題されてまとめられている。何か由縁あって歌となったものが集められている。この万3848番歌についても何かしら由縁があるのだろう。その性質が理解されなければ、歌の内容がわかったことにはならない。歌が歌われている内容は、その歌われている枠組みがわからなければわからないという意味である。背景という言い方はふさわしくない。図と地とをわけ隔てる額縁になるものが定まらなければ、何が歌われているか理解できないのである。「由縁有る歌」は、借景の庭のように見ることはできない。解釈にバイアスが生じている状況は、「由縁」たることが理解されていないことを露呈している。枠組みと歌の内容の二つの次元で、なるほどと了解されるまで追究されなければならない。
左注に書いてある事の次第について、忌部首黒麻呂という人が、夢の中で歌を作ってそれを文字に書き、その書いた木簡、ないしペーパーを友のところに送りつけ、その友がびっくりしたことを表すと考えられる。左注に「覚」という字が使われているのは、その書いてあるものを「誦習」、すなわち、声に出して唱えようとした時に、「あらき田の……」という歌が再生されたのでびっくりしたということになる。左注にある「覚」が歌の理解に効いている。夢の中に作った歌なのだから、夢から覚めてという意味と兼ねあわされて「覚」という字が使われているらしい。ヤマトコトバにサメルである。そしてまた、夢の中のことと現のこととの対比が、文字の中のことと声の中のこととに対応している。だからその点を興じ、この歌は「由縁有る歌」として収められたと考えられないことはない。理屈としてはそうだが、大しておもしろいものではない。
左注の最後の「如レ前」の「前」が何を指すのか疑問である。通説では当該万3848番歌のことを指し、それが夢の中だから「前」とされていると思われている。しかし、そのような頭の中で空想したことを表した用字であるとは考えにくい。「如レ右」としていない点からも外れている。「如レ前」は、直前や近くではなくかなり以前の箇所に当たると考えられる。巻十六を見渡せば、次の歌を繙くことができる。
忌部首の、数種の物を詠める歌一首〈名は忘失せり〉〔忌部首詠數種物歌一首〈名忘失也〉〕
枳と 茨刈り除け 倉建てむ 屎遠くまれ 櫛造る刀自(万3832)〔枳蕀原苅除曽氣倉将立屎遠麻礼櫛造刀自〕
「忌部首」は忌部首黒麻呂のことかどうかは定め切れないが、仮にそうであったとしてみると腑に落ちるところがある。品のない歌である。「由縁有る歌」であるから深い意味が隠されているのかもしれないが、うんこは遠くでしろ、などと声に出して詠みあげる気にならない。万3848番歌と同じ「倉」の歌だから、この歌が「如レ前」の「前」に当たると考えられる。すなわち、左注原文の校異は誤っていた。
右歌一首忌部首黒麻呂夢裏作此戀歌贈友覺而不誦習如前
右の歌一首、忌部首黒麻呂、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚めて誦み習はざるは、前の如し。
歌を贈られた友は、興ざめして声を上げて誦み習わすことをしなかった。「覚」がサメルであるとしたことがここでも確かめられる。サメル(醒)の意に当たっている。読みあげなかったのは、文字の中のことと声に出そうとすることとが違うからではなく、完全に一致しているものだとわかったからであり、それと気づいてびっくり仰天している。そのびっくり具合をよく示すのが、四句目の「干稲干稲志」という表記である。
「ひねひねし」の検討
ヤマトコトバの形容詞「ひねひねし」については、先行する注釈書に、➀古びたさま、➁恨めしい、の二つの説がある。上代の文献に「ひねひねし」という言葉は孤例なので意味が定め切れないから、新編全集本のように恨めしいといった不思議な解釈も可能となっている。 方言や民俗語彙の「ひね」を取り上げて、恨めしい、という語義があると捉えられているがあり得ないことである。
一句目から三句目までの 「あらき田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて」が、四句目の「ひねひねし」を導く序詞であるとされている。「ひね」という言葉が「干稲」という文字で表されているところが夢→現への結節点なのである(注2)。単に干した稲に悪いイメージは付与されない。本邦の稲作は弥生時代早期以降、水田耕作が主である。この歌に示されている原文「荒城田」=「新墾田」も水田で、陸稲ではない。万一陸稲であったとしても構わない。とにかく稲作においては稲を刈り取ったら干す。現代でも、天日干しによく干された稲は上等のものとして高値で取り引きされている。いかに上手く乾燥させるか、それが米生産の最後の仕事である。湿ったままだとカビが生えたり発芽したりして廃棄せざるを得なくなる。
「干稲」は、それがどんなに古くなろうが食べることはできる。今日、ヒネという言葉は、新玉ねぎに対してヒネの玉ねぎという使い方がされている。ヒネには新玉ねぎのみずみずしさはなくとも、保存が効き、ふつうに食べられる。「ひね」という言葉は、時間的経過、また、時間的に経過したものを表すと考えられる。和名抄に、「稲 唐韻に云はく、稲〈徒皓反、以祢、早晩は和世、晩稲は比祢〉は𥝲稲なりといふ。𥻧〈音は兼、漢語抄に美之侶乃以祢と云ふ〉は青稲白米なりといふ。」とある。
今日、秋の早い時期に収穫されるものを早稲、遅い時期に収穫されるものを晩稲と呼ばれている。和名抄ではワセ/ヒネの対比としている。新米は水分が多いから、炊くときに水加減は少なめにして炊くととてもおいしく炊きあがる。おいしいものには需要がある。米の流通において、上流階級の富裕層が金に飽かせて求めるほど特別視されていたことは想像に難くない。季節先取り的に旬のものを求める風潮はそんなところから生まれたのだろう。我先に我先にと新米を求めるとすれば、米の品種としてのワセ/オクテの意味ではなく、消費者の需要面で、品質の違いによるワセ/ヒネの対比、炊く際の水加減の違い、おいしさの違いを名として捉えた可能性が見えてくる。和名抄の説明は、米の乾燥度合いをもって分類を試みて漢字に当てはめた記述と考えられる。
日葡辞書に、「Fine. ヒネ(陳・古) 一年を過ぎた古い種子.」、「Finegome. ヒネゴメ(陳米・古米) Furugome(古米)に同じ. 一年, または, 二年たった古い米.」(233頁)などとあるのは、需給のだぶつきから備蓄米のことを言うようになり、晩稲のことがいつからかオクテと呼ばれるようになったものかもしれない。その結果、ヒネという語が、大人びてこましゃくれていること、ひねくれることといった意味にオーバークロスしていると考えられたのではないか。用字に「干稲」とある点を広義にとらえれば、和英語林集成に記されるように、「Hine ヒ子 老(furu) Old; not new or fresh: hine-gome, old rice; tane ga hine de haenu, the seed is old and will not germinate.」(161頁)ことはあっても、それを食糧とする限り、おいしさを度外視すれば食べられるのである。
したがって、「ひねひねし」は、時間的にとても久しく、が本来の意であると考えられる。民俗語彙から上代語を捏造してはならない。用例の乏しい語ほど単純な理解が望ましい。それがなぜ恋歌かといえば、通説と異なり、恋心が保存可能なように永久不変にあり続けているよ、という意味に取れるからである。忌部首黒麻呂という人は、少し歳を重ねているのかもしれないが、恋においてはまだまだ現役であると主張している。現役ではあるが、「種がヒネで生えぬ」ことはあるかもしれない。下品な歌を書いて贈られた友は、二度びっくりということで、興醒めするように目が「覚」めることになっている。そうわかるのは、これが夢の歌だからである。寝なければ夢は見ない。忌部首黒麻呂は、老いらくの恋に若い女性と共寝したのであろう。それを友に言ってきている。トモ(友・伴)とは、「鵜飼が伴」(記14、万4011)などというように同じような身分のものをいい、フレンドの意味よりも仕事仲間の同類のことを指している。鳥に使う場合、千鳥なら千鳥、鶴なら鶴、鶯なら鶯のことである(注3)。
藤原の 大宮仕へ 生れ付くや 処女が友は 羨しきろかも(万53)
草香江の 入江にあさる 葦鶴の あなたづたづし 友無しにして(万575)
万575番歌の例は万3848番歌とよく似ている。「あなたづたづし」が「あなひねひねし」に対応し、「友」のことが念頭にのぼっている。トモ(友・伴)は二人以上であることが用件である。複数が重なるから、「たづたづ」や「ひねひね」と重なったもの言いになる。言葉を確かめながら楽しんでいる。そして、万575番歌で「鶴」は「友無し」で一羽である。他のどこかにいる「鶴」とは「たづ」違いになっている。一方、万3848番歌は、「友」は忌部首黒麻呂と同じく歳を取っていたために、忌部首黒麻呂のようには若い女性と交わったりしていない。同じ「ひね」でも違うのである。忌部首黒麻呂は滅多にないトモシ(乏、ト・モは乙類)い人で、歌を贈られた「友」は、仲間として感情を共有する人物、トモ(友・伴)ではないと思った。だから「不二誦習一」、声に出して歌うことはなかった。万葉集の巻16は、「由縁有る歌」の集である。
原文「倉尓擧蔵而」の訓み
新墾田の 鹿猪田の稲を 倉にあげて あなひねひねし 吾が恋ふらくは〔荒城田乃子師田乃稲乎倉尓擧蔵而阿奈干稲々々志吾戀良久者〕(万3848)
三句目はこの訓みで正しいのだろうか。字余りである。原文「倉尓擧蔵而」は、稲を倉にしまうことの謂いである。倉の機能は、「干す・仕舞う・守る」(安藤2010.)である。乾燥を保ちながら保存、保管する。寒暖差があって結露が生じてはならないし、梅雨時に蒸れを起こしてもいけない。害虫やカビも発芽も困る。高床のようにしておくのは賢明なことで、ネズミなどの害獣の被害を免れ、盗難に遭わないように鍵をかけることも必要である。「倉に蔵みて」、「倉に蔵めて」、「倉に蔵して」、「倉に仕舞ひて」といった訓み方も候補であることが知れるが、いずれも字余りの解消とならない。次の例が参考になる。
内大臣藤原卿の、采女の安見児を娶る時に作る歌一首
吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ〔得難尓為云〕 安見児得たり(万95)
梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭にしてな〔加射之尓斯弖奈〕 今盛りなり(万820)
サ変動詞を「に為と」(注4)、「に為て」という形で用いている。同様に当該歌も次のように解される。
新墾田の 鹿猪田の稲を 倉にして〔倉尓擧蔵而〕 あなひねひねし 吾が恋ふらくは(万3848)
「倉尓擧蔵而」で言いたいのは、高床に上げて干しながら仕舞い守ることである。「擧蔵」と書くことで、「倉」の機能を十全にすることを掲示している。つまり、「倉に為」という言い方が行われていたと考える。忌部首黒麻呂が若い女性を娶った、いわゆる囲ったことの蓋然性が高くなってくる。
夢の裏に作る歌一首
新墾田の 鹿猪田の稲を 倉にして あなひねひねし 吾が恋ふらくは(万3848)
右の歌一首、忌部首黒麻呂、夢の裏に此の恋歌を作りて友に贈る。覚めて誦み習はざるは、前の如し。
(大意)夢のような日々を送っていて作る歌一首
新しく開墾した田で、鹿や猪が出て荒らす田に実った稲を倉に上げて干して仕舞うように囲って、ああ久しく続くものよ、私の老いらくの恋は。
右の歌一首は、忌部首黒麻呂が夢見るような日々のなかでこの恋歌を作ったと言って友に贈ってきたもので、贈られた友は驚き、閉口して、声を出して読みあげられなかったのは、以前、屎の歌でそうだったのと同じである。
高齢の彼は、若い女性陣のところへ行って「開墾」している。当然ながら、若い男たちは「鹿猪」のように荒らし回るように譬えられる。そんな「田」に残った晩秋の「稲」を収穫して、自分の「倉」へ仕舞ったのである。「ひねひねし」が原文「干稲干稲志」とあるように、収穫に当たってきちんと乾燥をほどこしたということであろう。「種がヒネで生えぬ」ほどまでに囲いこみ、閉じ込めたという含みがある。歌を贈られた友は、目がぱっちり見開くほどの「覚」をおぼえたに違いない。適齢期の男性を「鹿猪」に譬え、同じく女性を「新墾田」だと言っている。藤原鎌足が「安見児得たり」と、相手の名をあげて尊び喜んだのとは異質である(注5)。「とも(友)」よ、「ともし」いだろうと書いてきたのであるが、「ともし」の意の、好ましく思われる、羨ましく思われるという気持ちにはならない。同類を「とも(友)」と言うのに、人間相手でなくて動植物扱いの「恋歌」を歌うならそれは人間ではなく、動植物である。千鳥の友が千鳥、鶴の友が鶴であったようにである。年齢に似つかわしくない蛮行で、品性を欠いている。結果、「覚而不二誦習一」となった。
もはや「友」ではないから「誦習」しない
古事記の序文に「誦習」という語が登場している。「時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。為人聡明くして、目に度り、口に誦み、耳に拂ひ、心に勒む。即ち、阿礼に勅語して、帝皇の日継と先代の旧辞を誦み習はしむ。(時有舎人姓稗田名阿礼年是廿八為人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代舊辞)」。稗田阿礼の「誦習」については、古来、暗誦説と訓読説を中心に議論されている(注6)。「誦レ口」とあるから「誦」は口に出して言うこと、唱えることであるとわかる。そして、「誦習」と続くのは、習慣的に同じく「誦」するからであるとわかる。もう一回言って、と頼むと、まったく同じに一字一句違わず、イントネーションもそのままに同じ調子で言ってくれる。ヤマトコトバで声に出して暗誦したことが稗田阿礼の「誦習」であったのだろう(注7)。
万3848番歌の「友」が「覚而不二誦習一」であったというのは、歌なのだから声に出して歌わなければならないところ、口にするのも憚られる譬えであり内容であると「覚」ったということである。歌を贈られたら自分でも声に出して「誦」んでみて、味わいを確かめ楽しむものである(注8)。歌は音声芸術だからカラオケのように自分でも口ずさんで楽しむ。そうするのが歌の本来の姿である。けれども途中で嫌になったからやめてしまった。「友」が以後も忌部首黒麻呂の友であり続けたか絶交したかはわからない。忌部首黒麻呂には次の歌もある。
忌部首黒麻呂、恨友賖来歌一首〔忌部首黒麻呂恨友賖来謌一首〕
山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜は降ちつつ(万1008)〔山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管〕
約束したのに「友」が来ないと、忌部首黒麻呂が恨み節を歌っている。深い交友の情を示すものと捉えられており、「賖」字は他に例がなく、名義抄に、「賖 音奢、オキノル、オソシ、ヒロシ、タカラ、クタレリ、ハルカナリ、ツト、トホシ、ユタカナリ、ユルシ、帯」とあることから、「遅く来るを恨む歌」と訓まれている。謝朓・和二王主簿怨情一詩に、「徒使二春帯一レ賖」とあって、「善曰、賖、緩也。」と注されている。しかし、遅く来た時の歌ではなく、なかなか来ない、まだ来ていない時の歌である。または、もう来ないのかもしれない。大智度論・四十八に、「若聞二賖字一、即知二諸法寂滅相一、賖多秦云二寂滅一。」とある。「友」は煩悩の境地を離れて黒麻呂とはもう付き合わない気でいて来ることはないのだろう。名義抄のオキノルは、代金をその場で支払わずに掛けで酒などを買うことをいうように、「賖」字は「除」に通じてオク(置・措)の意で選択されていると考えられる。一切経音義に、「賄賂 上音晦、下音路、韻詮云、賖帛也」とあり、「賖」は「除」に通じるとされている。「忌部首黒麻呂、友の、来るを賖くを恨む歌一首(忌部首黒麻呂、恨二友賖一レ来謌一首)」と訓むことができる(注9)。
「誦習」とは口に出して言葉にすることである。言葉にするとは事柄にすることと同じである。言=事であると考えるのが無文字時代に生きた人々の、言霊信仰の本来の姿である。言葉にしないとは事柄にしないこと、世の中にないことにすること、人でなしとは付き合わないことを態度として明瞭にすることである。その消息を伝えるのが万3848番歌であった(注10)。
(注)
(注1)民俗学の知見に依ろうが依らなかろうが、具体的に万葉集の歌が理解できることが本願である。太田 2019.に、柳田国男、折口信夫、櫻井満、山本健吉、池田弥三郎、上野誠らの研究姿勢がまとめられている。筆者は、それらの議論に踏み入ることを躊躇う。主張されている民俗学というものが、「民俗学」なのか「民俗」学なのか不明だからである。一般的に言えば、民俗学とは、少し前の時代の当たり前の生活についてどのようなものであったかを紹介するものである。時代で言えば、昭和、大正、明治、頑張って江戸時代ぐらいまでの暮らしについてが対象となる。近代に入って前近代に当たり前だったことが当たり前でなくなったためによくわからなくなったから、それを解き明かそうとするのが民俗学である。当たり前のことというところがミソであり、当たり前のことは記録としてとどめないから聞き書きするなどしてわかるようにするのである。今日でも語学留学というのがあり、英語圏の地に行って英語に触れ、英語ができるようになることをしている。これが「英語学」かといえば「英語」学のような気がする。英語圏の人は当たり前に英語で話し、当たり前に英語で考え、当たり前に英語で書いている。それを自らのものにしたからと言って、はたしてそれが学問なのかといえば少し違うであろう。このことは、万葉集の歌についても当てはまる。 万葉集の歌が理解されればそれで良い。つまり、「万葉学」ではなく「万葉」学である。文学の研究は書かれた作品がすべてであるというテーゼは、「文学」か「文」学かに素朴な疑問を抱く一般人の場合、無視して構わないことである。「万葉」学に「民俗」学を持ち込むことの是非を問うても意味がない。
(注2)「忌部首黒麻呂、夢裏作二此恋歌一贈レ友」について、黒麻呂が夢の中で友人に歌を贈ったという、夢の交感のようなことは考えにくい。古代の夢に関する考え方は今日のそれと違い、はかりしれないが、題詞と左注の関係として難がある。題詞は、「夢裏作歌一首」と簡潔である。夢の中で歌を贈ったとするのであれば、それが十分に「由縁」となるために、題詞は「夢裏作而贈レ友歌一首」とでも書かなければ体を成さない。題詞は歌のタイトルであり、歌の体裁、枠組みを決めるものとして与えられている。
(注3)古典基礎語辞典に、「とも【供・伴・友・朋】……このトモは、いつも主たる人のそば近くに寄り添って従う者の意を表す「供・伴」のほうが先に生じ、常にいっしょにいて、志や行動を同じくする者の「友・朋」の意を派生したものであろう。なお、上代の例では、「友・朋」のトモの中でも、部べの意で使われているものが多い。部は、農民・漁民・特殊技能者たちから成り、自営的な生活を営んで、皇族・豪族に貢物をしたり、労力を提供したりしていた。このように常に行動を共にし、志を同じくしていた集団をいう。」(851頁、この項、我妻多賀子)とある。
(注4)カテニは、カツ(下二段)の未然形に否定のズの古形ニが接続して成立した語であるが、「難尓」という表記の常態化は、カタシ(形容詞)の語幹カタに助詞ニがついたもので、言葉の混淆を来しているとする解説が、大系本(一・360~361頁)にある。言葉は生き物で、使う人によっていかに認識されて使われたかを中心にして検討しなければならない。
(注5)殿のお手がついて子を授かったという場合も、大名家では側室として大切に扱われた。遊郭の女郎屋に軟禁されるのとは違った。
(注6)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」参照。
(注7)西宮1997.参照。
一時代前、アラビア語圏でのユネスコによる識字教育としてクルアーン(コーラン)が用いられていたことがある。人々は字は読めないがクルアーンは暗唱して覚えている。生徒が読本を読めないでもじもじしていると、先生が冒頭の単語を言ってあげる。すると生徒はそれに続けてどんどん読み進めることができた。似たことは文字文化圏でも容易に起こり得る。中学一年生の英語の授業で He stays in the country. を、彼は田舎に住んでいます。と教えておいて、テストに、He stays in the county. を和訳しなさい、と出題すれば、大多数の生徒は授業のことをおぼろげに思い出して、彼は田舎に住んでいます。と意味も分からず解答して丸をもらっていることだろう。
(注8)この「友」は「贈」られてはじめてこの歌を知ることとなっている。忌部首黒麻呂が歌う顔を見ていない。一般にここの「贈」は、歌を文字に書いた木簡のような形のものを目にしたことと考えられている。一続きの字列を初見し、歌として再現しようと試みた時、ウッ、と思って声にすることをしなかったことだとも考えられる。その作業が「誦習」に当たるというわけである。筆者はそれに反し、稗田阿礼暗誦説を採っている。すなわち、歌を「贈」る際には、使者が立ち、意味は分からずとも丸暗記して伝えていたのだと考える。聞いてもすぐに理解できなかったから、自分で口ずさんでみて理解しようとした。ところが歌い返し出したところ、その内容も言い回しも愚劣なもので、とてもではないが声に表す気にならなかった。言語は音声の形としてあり、自ら言葉にしてしまうと言が事となって認めてしまうことになる。黒麻呂と同等の幼稚で愚劣な人間になることは、良心のある「友」には耐えられず、歌意に気づいて歌うのをやめてしまったのである。
くり返しになるが、筆者は古事記「誦習」について訓読説を採らず、この万3848番歌でも書いたものがあってそれを読み上げることを「誦習」だとしない。もし木簡の形で送られたとしたら、歌は書いてあるわけで、書いてある歌を読み上げることは、正書法が定まっていない変な書き方だから一生懸命に声にして言葉を復活させようと努めたことだろう。だが、そうなるとそれは機械的な作業であり、途中でやめてしまうことはない。「誦み習」ってしまった暁には自分まで穢れると思い留まっているのは、文字を声化するという単純作業ではなかったからできたことである。古事記にしても、書いたものがすでにあるのなら、稗田阿礼に負わずとも太安万侶が暗号的な文言をたどたどしくとも読んで行って「誦習」すれば良いことになる。稗田阿礼にしか読めない古代文字を読んでいたという想定はさすがに証拠立てることができない。
(注9)万3848番歌に「干稲」とあって、和名抄に「晩稲」をそう呼んでいたのは、万1008番歌の「賖」がオクに当たることと通わせていた末のことであると捉えることができる。万葉集書記者の選択的用字は、このような細部において見るべきものがある。
影山2017.は、万3848番歌を万1008番歌とからめて「友」との深い意思疎通の表裏を見、「烏滸な交友のありかたを笑いの料として提示しているのではないか。 教養人としての実在が読者に喚起するのは、冷めた皮肉な笑いである。」(222~223頁)と締めくくる。同性愛感情説(呉哲男)、中国文人の影響による交友の文芸説(辰巳正明)などとの指摘を踏まえたうえで、「説話的次元で意匠されている」(221頁)と落としどころを探り、題詞と左注とを一連の説明文であるとしている。「友」情の裏切りとする考え方は、「覚而不二誦習一如レ前」の「前」が万3832番歌、屎の歌である点から捨てられよう。忌部首黒麻呂は続紀・天平宝字六年正月に内史局助になったとあり、教養人であったとされるが、学問的教養と人間性は必ずしもリンクしないことは今日でも同じである。
影山氏は、万3848番歌の「左注原文のうち「令誦習如前」の「令」字を「不」に作る写本があり、それでは文意不明のため『萬葉代匠記』に「不」を衍文と処理したのだったが、現行テキストは大矢本・京大本および西本願寺本左傍書の採る「令」を本文と認めて異説がない。「誦習」の語義に不安を残すものの「暗誦を繰り返すこと」(小学館新編全集『萬葉集』)の意として大きく外れることはあるまい。」(214頁)を前提として顧みることがない。松岡1935.は、「令」はおかしいから「不」で解してみようとしている(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/114)。
(注10)道徳的課題として現代にも通じるものがある。ここに至り、「万葉学」でも「民俗学」でもなくて、人間とは何かを常日頃から考えていなければ歌の一つもわからないということが知れるであろう。「人間学」が必要なのではなく、「人間」学が求められている。
(引用・参考文献)
安藤2010. 安藤邦廣・筑波大学安藤研究室『小屋と倉─干す・仕舞う・守る 木組みのかたち─』建築資料研究所、平成22年。
太田 2019. 太田真理「フィールドから読む『万葉集』」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。(「忌部首黒麻呂とその友─巻十六第二部和歌説話の構想─」『叙説』第32巻、2010年3月。奈良女子大学リポジトリ http://hdl.handle.net/10935/1804 )
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集9 萬葉集④』小学館、1996年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。同『日本古典大系7 萬葉集四』昭和37年。
西宮1997. 西宮一民「阿礼の誦習と安万侶の撰録」『古事記年報』第39号、古事記学会、1997年1月。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
松岡1935. 松岡静雄『有由縁歌と防人歌─続万葉集論究─』瑞穂書院、昭和10年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213675/
和英語林集成 J・C・ヘボン編、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、1980年。
加藤良平 2021.5.28初出2025.1.31訂正改稿