石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─

石川女郎と大伴田主の歌合戦

 万葉集巻2・126~128番歌は、石川女郎と大伴田主の二人による歌問答である。三首目の万128番歌を含めた一歌群であり、三首目まで通観できる理解が得られないうちは正解とは言えない。

  石川女郎いしかはのいらつめ大伴宿禰おほとものすくねぬしに贈る歌一首〈即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母をせの朝臣あそみと曰ふ〉〔石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首〈即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〉〕
 遊士みやびをと われは聞けるを 屋戸やど貸さず 吾をかへせり おその風流みやび(万126)〔遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士〕
   大伴田主はあざな仲郎なかちこと曰ふ。容姿かたち佳艶きらぎらしく風流みやび秀絶すぐれたり。見る人聞く者、歎息なげかざるはし。時に石川女郎といふもの有り。 みづか雙栖ふたりすみおもひを成して、恒に独守ひとりゐの難きを悲しぶ。こころふみを寄せむとおもふも未だ良信よきたよりに逢はず。ここ方便たばかりして賤しきおみなに似せておのれ堝子なべひきさげてねやかたはらに到りて、こゑむせび足にきて戸を叩きとぶらひて曰はく、「東の隣の貧しき女、まさに火を取らむと来れり」といふ。是に仲郎、暗きうち冒隠やつせる形をらず。おもひほかにして拘接まじはりはかりごとへず。おもひまにまに火を取り、跡に就きて帰し去らしめき。明けて後、女郎、既に自らなかだちせしことづべきを恥ぢ、また心のちぎりの果さざるを恨む。因りての歌を作り贈るを以て謔戯たはぶれとす。〔大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉〕
  大伴宿禰田主、こたへ贈る歌一首〔大伴宿祢田主報贈歌一首〕
 遊士みやびをに 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾そ 風流みやびにはある(万127)〔遊士尓吾者有家里屋戸不借令還吾曽風流士者有〕
  同じ石川女郎、更に大伴田主中郎なかちこに贈る歌一首〔同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首〕
 吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし(万128)〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕
   右、中郎の足のやまひに依りて此の歌を贈りて問訊とぶらふそ。〔右依中郎足疾贈此歌問訊也〕

 通説では、一・二首に「みやびを」問答が行われていて、それとは意を異にする歌が三首目に追加されたかのように前提されて論じられている。一・二首目の解釈において、その語義にばかり注意が走り、あたかも「みやびを」論争の体を成している。最適解は遠い(注1)
 今日、用字の「遊士」「風流士」はミヤビヲと訓まれている。古くはアソビヲ、タハレヲと訓まれたこともあり、ミヤビヲという訓で正しいのかさえ疑われている。筆者は正しいと考える。現在の議論では、「風流」という漢字の意味とヤマトコトバのミヤビとがどのように対照されるのかが疑問視され、決着がつかずにいる。
 これらは歌われた歌にすぎない。歌なのだから声をあげて歌われている。したがって、「風流」という漢語上の語義は二の次で構わない。万126番歌に左注が施され、それがおおむね漢文調だから惑わされている。ただし、左注は歌われた歌を説明しているだけのこと、主役は歌である。歌はヤマトコトバで歌われた。その説明もヤマトコトバで行われた。漢語の奥義を極めるには当たらず、括弧に入れて考えれば良いことである(注2)。漢字の語義にこだわりたいなら、「風流」が題詞や左注に登場しない理由や漢詩文として作られていない理由も問わなければならない。

用字「風流」・「遊」

 菊池2000.は、都市化、都会化がもたらした人々の心情への変化を捉え(注3)、ミヤビという語の出自を探っている。

 ミヤブの名詞形であるミヤビは、宮廷的・都会的なことであり、洗練された文化的な感覚を基調に、上品で優雅なことを内容とする美的理念であった。……年代的に早いのは、藤原の宮の時代の作である大伴ぬしと石川女郎いらつめの贈答歌……のミヤビヲの例である。藤原の宮の時代は、律令国家の形成にともない文物が整えられた時代である。しかも、都は都城制へと移行する……。この時代に整えられた文物が、中央の宮廷を中心とすることはいうまでもなく、都城が恒常化するなかで、そうした文物はひとつの文化的規範として定着することになる。『万葉集』でミヤビの用例がこの時代にみえはじめるのも、こうした時代状況を反映してのことであった。……梅の花がみやびな花としてさかんにうたわれた万葉の後期には、梅に限らず、周囲の自然は官人・貴族たちの宴席を彩る景物として、みやびな目でとらえられ、しだいに季節の景物として固定した。万葉の自然は信仰を基盤としつつも、その一方で、季節を彩る景物としてその美を見いだされたのである。それは、信仰から美へという日本の美意識の展開における基本的な構図でもあった。(253~255頁)

 ミヤビヲという同じ言葉に対しては、「遊士」という字も当てられている。「遊」という字はヤマトコトバではアソブにほかならない。人は誰しも遊ぶ者だと考えるのは上代の語義と乖離する。一般の人は年がら年中仕事をしている。年に数回、お祭りや宴会をしてあそぶ。夜の街の接客業のように、遊びを職業としているわけではない。古代において、「遊ぶ」は、歌舞音曲を楽しむことが原義とされている。葬祭業としてのみ「遊部あそびべ」があった。葬送や招魂の儀礼に歌い奏で、哭き喚き、舞い踊ることをした。それ以外では、動詞に「遊ばす」とあるように、高貴な人の行為を指して言った。生産活動をしないで遊んでばかりいる人たちに対して使われている。そのような人は宮都にいる。今日でも遊びに行くといえば大都会の歓楽街へくり出すことをいう場合が多いのは、そこに遊びの本質を見ているからであろう。高等遊民と呼ばれているらしい人たちも、生活が安定しているか否かに関わらず大都会にしか住んでいない。ポツンと一軒家に暮らしている人たちは、自身では遊んでいると思っているかもしれないが、はたから見ていると農林畜産の作業に没頭している。山奥で窯を開いたりアートを創作している人も、何かを作っていることに変わりない。遊びの本質には蕩尽があり、何かを生み出した途端に反することになる。
 古代において大都会は宮都にしかなかった。したがって、「遊士」なる人はミヤビヲと訓まれて確からしいとわかる。ミヤビという言葉は、宮が大都会と化す過程において生まれた言葉なのである。菊池2000.の指摘に付け加えるならば、ビという接尾語は、そのような状態にするという意味であるから、その言葉の形成過程、時代背景がそのままその言葉に宿ることになっている。言葉の定義を言葉のなかに展開して言葉のなかに収斂してしまうことは、無文字時代のヤマトコトバならではの発想といえよう。
 このようにして生まれた「みやびを」という言葉に対して、どのように書き表すか考えた時、漢語に倣って「遊士」「風流士」と書いてしまおうとした。うまく当てはまるからそう書いた。漢語上、「風流」の意味合いが時代により変化していっているなどという小難しいことは眼中になかっただろう。難しいことを勉強して考え定めているのではなく、ただ単に歌を歌って贈り合っていて、それをただ単に記録に留め置こうとしている。漢土における同字の文字表現例やその思想とは無関係である。

「みやびを」についての歌い合い

 諸説に、石川女郎と大伴田主との間で「みやびを」についての認識に違いがあり、あるいは、概念の多様さを突いて悪口を言い合っているかのように捉えられてきたが誤りである。言葉は空中を飛び交っている。そしてすぐに消える。ああ言えばこう言いの議論をしているのではなく、極めて簡潔な短歌のやり取りをしている。「みやびを」について二首、追加してもう一首あるだけである。語義の曖昧さから議論しているのではなく、言葉の音を捉えて言い返している。なぜそうわかるかと言えば、音声言語はすぐに消えていくからである。あっという間に過去のことになる一回性の音声言語芸術では、ぐずぐずと反論に反論を繰り返すようなことが起こらない。うまいことを言うねえと互いに認め合っているのが歌の問答である。口喧嘩をしているのではなくて洒落を交わしている。
 石川女郎の言い分はこうである。あなたは洗練された都会人、ミヤビヲですよね。ミ(御)+ヤ(屋・舎)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)というのだから、ミヤ(御屋、宮)に止めてくれたっていいじゃないか。全く名前ばっかり格好つけておいて、のろまで間抜けなミヤビヲではないですか、と言っている。
 それに対して大伴田主は、ミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)なんですよ私は、宿泊業者ではなくてタクシー業者なのですよ、だからきちんとお送りしたのですよ、と答えている。ミヤ(宮)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)がいるのは宮都であり、そこは道路が舗装されている。車輪のスポークに当たるヤ(輻)が製作、維持管理できるようになったとき、はじめて車両は利用可能になった。本邦では牛車に限られ、宮都において貴人を乗せて運行した。平安時代でも牛車はもっぱら京の都のなかで用いられ、貴族専用のマイカーであった(注4)。遠出をしたとしても、石山寺、長谷寺、石清水八幡宮ぐらいまでであろう(注5)。車が宮都以外で人を乗せて運行した例は、明治になって人力車が誕生してからのことである。ミヤビな乗り物は、すてきなヤ(輻)を作るテクノロジーに支えられていたのであり、製作技術者がいなければミヤビを続けることはできない。

左:輻付き車出土状況(桜井市小立古墳、7世紀後半、島根県立古代出雲歴史博物館https://www.izm.ed.jp/cms/cms.php?mode=v&id=385、中:車作(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444/17をトリミング)、右:路面に残された轍(長岡京跡二条条間北大路、竹井治雄「長岡京期の京都」『昔むかし・・・』京都府埋蔵文化財調査研究センターhttp://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/mukashi-top.htm(88頁)をトリミング)

 その次第について、126番歌の左注に詳しく説明されている。「仲郎」とわざわざ「あざな」、すなわち、呼び名が記されている。チウロウなどと音読みしていては当時の呼び名らしくない。ナカチコである。ナ(勿・莫)+カチ(徒歩)+コ(子)という意に聞こえる。移動に歩いたりしないミヤビな男という名を負っている。以下の左注の文章についてもヤマトコトバで読まなければ意味が通らない。火を乞われ、言われるがままに火を与えて「就跡」に帰らせたのはタクシー業者の所業である。彼女が来た時、「蹢足」で来ている。足を引きずってできた「跡」とは、点々とついた足跡ではなく、線状に二本伸びた跡である。そんな跡を忠実に「就」かせるためには、車を出して轍が重なるようにするよりほかない(注6)
 万128番歌の左注に、大伴田主は足に障害があったように記されているが、貴人にしてそういう状況下に置かれていたら、必ず牛車を利用していたに違いあるまいという推測が行われている。なにしろ、彼の名は「田主」である。大規模経営の田圃の主は耕作に牛馬を飼っていた。彼が実際にどうしていたかはともかく、話の上で人々がわかるように言葉の上で明らかにされており、万128番歌の追補が必然的なものであると受け取ることが可能となっている。「みやびを」問答に負けた石川女郎が悔し紛れに捨て台詞を吐いているわけではない。「国語」の授業でそうであるように、答えは本文の中に書いてある。

「葦若未乃」はアシカビノ

 本文の校異として、万126番歌の左注最後に、「因作斯歌以贈諺戯焉」(西本願寺本)とあるのを、諸本の「因作斯歌以贈謔戯焉」と校訂し、また、万128番歌に、同じく「葦若未乃」を「葦若末乃」と意改している(注7)。「葦若末乃」は「足のうれの」と訓みたがることから来るが、アシカビノで正しいのであろう。孤例であるが「足」にかかる枕詞とする説があり、その説に従うには根拠がある。「可美うまし葦牙あしかびひこぢのみこと」(神代紀第一段一書第二・三)とあり、「彦舅、此には比古尼ひこぢと云ふ。」と訓注が付き、記に、「宇摩志阿斯訶備比古うましあしかびひこ遅神ぢのかみ」と対応している。彦舅とは良い夫の意である。これも枕詞に該当しよう。アシカビ、葦の芽生えは、種からのモヤシ(糵)であることもあるが、卑近に知られるのは大群生であり、地下茎の伸展によってもたらされる。白っぽい地下茎が伸びていって発根、発芽を見る。それは枝から小枝が分岐伸長することに同じであり、ヒコバエ(櫱・蘖)と同じだと考えられよう。地上で枝分かれするのではなく、地中、水面下にて枝分かれしているところをおもしろがって枕詞が作られている。よって、アシカビはヒコ(彦)にかかる。
 ヒコ(彦)というニュアンスにヒク(引)という音が重なっている。ヒはともに甲類である。足を引くから「足痛」をアシヒクと訓むことが確かめられる。左注にも「足疾」とあり、アシナヘ(躄、足萎)のことを言っている。和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉あしなへ、此の間に那閉久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。ナヘとは、苗のこと、すなわち、カビのことである。言葉の連関がかなっているからこの歌は成立している。石川女郎のしていたことは、「似賤嫗己提堝子而到寝側音蹢足叩戸諮」であった。身をやつして火を貰いに行くのに、なにもわざわざ「堝子なべ」を持って行ったことまで注さなくてかまわないはずのところ、三首目にナヘ(萎)のことを言っているからというので左注を付けた人が脚色しているらしい。「葦若未乃」という原文どおりにみてアシカビノと訓まれなければならない。
 このように、言葉の音を頼りにした歌が歌われている。言葉の音ばかり気にしているのは無文字時代の言語活動からいえば当たり前のことで、言葉そのものに拘っているということに他ならない。「不拘接之計」して、「拘言」しているということである。すると、万126番歌左注に「因作斯歌以贈戯焉」とあるのはあながち誤りとすることもできなくなる。石川女郎が「みやびを」問答を確かにその通りだ、アハ体験したと追認することで「みやびを」のやりとりは結に至る。そのとおりに終っていて、全体は言葉問答に終始している。言い出しっぺの石川女郎は、自らの行動を恥じるとともに、つれなくあしらわれたことに対する恨みを述べている。タハブレ、つまり、ふざけてお茶らかして誤魔化した、ないしは、男を意気地なしだとからかったとだけ評するのは外れている。事の焦点は言葉にある。「因作斯歌以贈諺戯焉」は、「因斯歌以贈諺戯焉」、「因りて斯の歌を作りて贈り諺戯たばかりこととす」などと訓むのかもしれない。「諺」のコトワザという常訓は、上代において言葉の変化球をもってずばりと言い当てた短い言辞のことを指す。記紀では「諺」の例がいくつか伝えられている(注8)。この「諺戯」は、タハワザ、タハコトといった訓も試されようが、自らの「はかりこと」を覆いつくさなければならないから歌を作っている。タバカリゴトと言えば計略として「方便たばかり」に老婆に変装して訪問したことについて、自分のとった行動を完璧に取り繕うことを表す。タハケ、タハレ、タハブレなど、「戯」や「淫」字で表す意の類音としてまとめたものと考えられる。

「耳」はヒコ

 最後に残された課題は、万128番歌の「耳」である。再掲する。

 吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)

 今日までの解説に、「耳」とは、耳にした事柄、聞いた噂のことを表すとされている。通じないことはないが、「吾が聞きし 耳によく似る」という言い方は饒舌にすぎる。「我が聞きし ことによく似る」としない理由が説明できず、上代では他の例を見ることもない。「耳」字をヤマトコトバで他に訓めないか検討の余地がある。「耳」字には、ジョウ・ニョウと発音する他義があって、七代あるいは八代目の子孫のことを示す。和名抄に、「仍孫 爾雅に云はく、昆孫の子を仍孫〈仍は重なり、今案ふるに七代の孫なり〉とといふ。漢書注に耳孫と云ふ。仍と耳の声、相近し、蓋し一つのなり。」とある。訓み方は特に記されていない。ただし、上に述べた「ひこ」に関連して、ヒコ(ヒ・コは甲類)と訓んだ可能性がある。和名抄に、「曽孫 爾雅に云はく、孫の子を曽孫〈曽は疎なり、和名は比々古ひひこ〉と為といふ。」とある高松本には「曽孫ヒコ」と右傍訓がある。また、皇極前紀に、「渟中ヌナ倉太珠敷クラフトタマシキ天皇曽孫ヒコ」(兼右本右傍訓)、延喜式・神祇八祝詞・出雲国造神賀詞に、「阿遅須伎あぢすき高孫たかひこみこと」とある。新撰字鏡には、「杪 亡少・弥少二反、木末也。木細枝也。梢也。木高也。木乃枝きのえ、又比古江ひこえ」とある。ここに、校異の「未」・「末」は実はいずれにせよアシカビノと訓まれ得るものであることが知れる。漢土ほどに祖先崇拝が盛んであったとは考えにくい本邦においては、遠い子孫のことは皆、ヒコで一括して捉えられてかまわないように思われる。
 「耳」字をヒコに用いて憚らない理由は、「聞」字に引きずられつつひと捻りされているからとも考えられる。山彦やまびこである。万葉集の用字では「山彦」(万971・1762・1937)のほか、「山響」(万1761)とある。知恵ある人がいて、ヒコがかなり遠い孫のことを表すことを思えば、音の聯なり順は正しいけれど、かなり遠くで発せられて耳にかすかなもののことを山彦と命名したのである。なるほどそういうことかと合点が行って、ヒコに「耳」字を当てて書いている。
 そしてまた、孫、ならびに子孫一般のことは、ムマゴとも呼ばれた。和名抄に、「孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古むまご〉とといふ。」とある。ムマゴはウマゴとも言い、馬子、すなわち、仔馬のことである。その仔馬に「好似」、よく似たものにロバ(驢馬)がいる。遠く百済から献上されたものとして「うさぎうま一匹ひとつ」(推古紀七年九月)と訓まれている(注9)。和名抄にも、「驢騾 説文に云はく、驢〈力居反、閭と同じ、宇佐岐無末うさぎむま〉は馬に似て長き耳なり、騾〈音は螺〉は驢の父、馬の母の生む所なりといふ。」とある。ウサギのように耳が長いところからの命名とされている。かなり遠いけれど子孫のようなヒコには「耳」という特徴があるということになる。
 この考えを推し進めると、大伴田主が石川女郎を送った車は、ひょっとすると馬車であったかもしれないことになる。本邦古代に馬車の行われたとする記録はなく、また、漢土に馬車の行われているとの知識からの用字であるかもしれないが、田の経営に、牛耕、馬耕はともに行われていた。貴族の乗り物として牛車が文化的存在として確かなものになったのは平安京においてである。それよりも百年ほど前の藤原京にどの程度普及していたかは未詳である。万128番歌の左注に、「足疾」と殊更に記されていることについて、無文字時代の言語感覚から推測を加えるなら、大伴田主がほんとうに「足疾」であったことを意味して皮肉なもの言いなのかもしれないが、車を引く動力源が「足疾」の動物であった可能性も浮上する。主人も家畜もともに「足疾」であることは、声として飛んで消えていく言葉を納得ずくで理解させるにはとてもふさわしい方便である。二つの次元で「足疾」なのだから、まことにうまく言い当てていると考え落ちることになる。馬は本来、早く走るもので、「疾」走するものであるところ、馬の遠い孫のロバのようにのろまな「足疾」に堕してしまったものがいて、そんな「足疾」の馬に引かれる馬車に乗せられて帰された石川女郎の口をついて出たヒコは、ウサギウマ(驢馬)に値していると考えて「耳」と筆録されたのではないか。「おその風流みやび」のオソとは遅い動きをする(注10)ものであり、この三首が一歌群を成していることをよく物語っている。
 「耳」字をヒコと訓むと次のようになる。

 吾が聞きし ひこによく似る 葦かびの 足く吾が背 勤めぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
 (大意)私が聞いた「the 男」を表すヒコという言葉のヒコバエとよく似ている、葦の発芽もやしに当たる地下茎の引き伸びていく葦かびの、その足を引くあなた様、ご自愛ください。

 石川女郎にとって、帰されるにしても車に乗せられて帰されるだなんて想定外だったのであろう。言うに事欠いてミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)と言って来た。どうして車がスタンバイしてあるのよ、御身足がお悪いからですかねえ、ということで言葉を切り返している。歌の切り返しは、道行きの切り返しに対応し、即応している。瞬時の頓智が歌を報贈する要である。状況の説明を歌のなかに入れ込むことで、発した言葉がその言葉をその瞬間に自己拘束的に定義する作為が行われている。上代の無文字時代の思考に合致しており、その賜物というにふさわしい歌である。

おわりに─万葉集研究の現状に対して─

 石川女郎と大伴田主との間でくり広げられた三首の歌は、皆、ヤマトコトバの音に基づいた機知、頓智の歌であった。これまでの説に唱えられていたように、宋玉・登徒子好色賦や司馬相如・美人賦、徐陵・玉台新詠序、遊仙窟など漢籍に典故があるのではない。左注をつけた人は、歌の内容を説明しようとしてヤマトコトバを書記するために、漢籍の文字面をアンチョコに使っている。漢籍を典拠に歌が歌われていないと証明することはできないが、それは悪魔の証明と呼ばれるもので、厩戸皇子が厩に生まれたとするのはキリスト生誕伝承が伝わったからだとの主張を否定できないのと同じことである(注11)
 とはいえ、状況を考えてみれば、漢籍由来の典故で歌が歌われているとする考え方には無理がある。フ(ウ)リウ(風流)が歌に歌われているわけではなく、ミヤビ(ヲ)が歌に歌われている。音が空中を飛んでいる。そしてまた、漢籍を典故としているとするならば、石川女郎、大伴田主、さらにこの歌を書き記した万葉集巻二の編者はもとより、同時代の多くの人々の間で共通の認識として漢籍を典故にしていると認識されていなければ歌として成り立たない。人に聞いてもらえるから歌なのである。周りにいて聞いてしまうのはのは舎人や采女など無教養で平凡な人たちである。当時学校はなかったから、どうやって漢籍の知識を多くの人が身につけたか問われなければならない。漢籍を繙いて勉強する暇があったら、舎人・采女よ、働け、と言われたことだろう。舎人・采女は身の回り、家事全般の雑事に携わるシャドウワーカーである。無観客の歌合戦が閉鎖空間で行われてもおもしろいものではないし、記録されればそれだけでいいとも考えられない。万葉集に記された当時、誰がそれを閲覧して喜んだのか不明である。平安時代には読むことさえ難しく、一部は今日へと続いている。歌が歌われた時には皆がわかっていたから歌われていた。わからないことの朗誦に付き合っていた奇特な人が万葉集編者であったとは考えられない。
 大伴田主は「遊士」だから働かなくて良かったかもしれず、左注にあるとおりいい男であったかもしれない。だが、漢籍の勉強家であったとも思われない。今でもそうであるように、勉強ができるからといってモテるというわけではない。文学好きな人が文学に詳しい異性に惚れるのはマニアックなことであって、「容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡歎息也」とは無関係である。歌い出しているのは石川女郎の方だから、彼女が漢籍の知識を自家薬籠中にするぐらい勉強家だった可能性がないわけではないし、昨今のハロウィーンのように老婆に変装することもあったかもしれないが、そうなると今度はそのギャップを埋める新たな理屈が求められなければならない。
 そして、少しでも知識において互いの間、それは歌の応酬をしている二人の間、ならびに歌を歌う人と周りで聞く人との間の両方であるが、共有しきれていない内容が歌われたとすると、そのときにはすでに歌の基盤に瑕疵が生じていることになる。声に出して歌っているのだから、多くの人は聞いてすぐに理解しなければならない。声は消えてなくなっていく。瞬時に理解できない人が多く出てきたら、歌はもはやコミュニケーションツールとして機能していない。歌はモノローグでもなければ、ダイアローグでもない。 その場にいる人々の間で互いに言葉を確かめ合っては即時共有されるものである。共有される言葉をもってしか歌われることはない。

(注)
(注1)先行研究には筆者を弱らせるものが多い。歌の問答を、評判にも似ぬ間抜けな風流人よ→女を泊めずに帰した私こそ風流人→噂どおり葦の葉先のようにふらふらと足をひきずっている貴方お大事に、というやりとりであるとする説が有力視されているが、それでは子どもの言い合いということになってしまう。石川女郎と大伴田主の「みやびを」像の違いを漢籍の典拠の違い、ないし、その評価の違いに求める説があるが、左注の人が説明を付す際に何ら疑問を持たない万128番歌はなにゆえそこにあるのか、提題さえなされずに議論されている。歌群全体について、作り物語、虚構の作品、中国文学に暗示を得たフィクション的小説といった捉え方、また、左注は大伴田主の作文とする説まであるが、なぜわざわざ仮構したのか、その目的についての言及はなく、単なる印象論がまかり通っている。歌群の全体構成の図面が読めないままでは建物は建たず、ああだこうだと議論のための議論をしている。石川女郎、大伴田主という人物が実在の人物か、そして誰なのか、といったことも検討されているが、事実を求めているのか、史実を求めているのか、とても曖昧である。歌とは何か、言葉とは何かを抜きにした「注釈」、「解説」、「論考」は感想文にすぎない。
(注2)「漢字……[は]その音訓を通じてすでに国字である」(白川1995.15頁)。

(注3)「みやぶ」「みやび」という語を、宮廷風にふるまうこと、文雅を解する宮廷人の意とする安直な説が見られるが、語の本義を掴めていない。「みやぶ」「みやび」の対義語は「ひなぶ」「ひなび」である。鄙へ行って宮廷風にふるまうことは難しい。宮廷文学に触れられなくて残念というばかりではない。今日、アウトレットモールが各地に点在するが、銀座や表参道、新宿でブランド品を買うこととは買い物という体験、行為に質的な違いがある。「文化資本」(ブルデュー)の萌芽を「みやぶ」「みやび」という語の発生は物語っている。後述するように、牛車生活を送ろうにも車師、車作がいなければそうはいかない。物質的なものを排して精神的に「~風にふるまう」ことなどできない。
(注4)京樂2017.は、「牛車は、都の文化そのものなのであった。」(26頁)と端的に述べている。
(注5)櫻井2012.に、「牛車の運行地域は、全国的にみると極めて限定されていた。それは平安京を中心にして畿内の主要道が走る地域であった。これ以外で牛車の使用が確認できるのは、斎王群行での伊勢道、鎌倉幕府の中心・鎌倉、『一遍上人絵伝』での薩摩・大隅八幡宮、江戸時代の和宮降嫁等であり、荷物運搬のうしぐるまでは江戸である。あと、平安時代末期の『更級日記』で上総国(千葉県)での乗車記述があるが、牛車か腰車かがわからない。」 (39頁)とある。
(注6)「跡」は、足跡のことばかりでない。春秋左氏伝・昭公十二年に、「昔穆王欲其心、周行天下、将皆必有車轍馬跡焉。」などと見える。
(注7)澤瀉1958.126~128頁参照。
(注8)「きぎしひた使つかひ」、「ところ得ぬたまつくり」、「さば海人」、「堅石かたしは酔人ゑひひとく」、「海人なれや、おのが物からねなく」の類である。拙稿「記紀の諺」の諸稿参照。
(注9)この時、「百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・しろきぎす一隻ひとつを貢れり。」と、まことに遠い大陸奥地の珍しい動物が贈られている。距離にして、百済が子なら、唐は孫だが、それより遠い曽孫にあたるモンゴル、タクラマカン、チベットの動物と捉えられよう。
(注10)オソについては、拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注11)上代の日本文学と中国文学の関係についての検討は注意を要する。「人草」(記上)とあってヒトクサと訓む言葉はヤマトコトバがある。中国にジンソウという語は見られない。ものを考える際、母語をもって考えるのがふつうのことであり、今日ほどに外国語教育が進んでもバイリンガルな人は数少ない。ラブレターに英語で書いてきたら詐欺を疑ったほうが賢明であろう。記紀万葉に見られる漢語の面をした表記に対し、検索の結果見つけた出典どおりの意味であると定められようはずはない。仮に万葉歌が漢語の背景を豊富に盛り込んだものであるとして、その後の和歌文学へ伝承されていないことはいかに説明されるのか。ヤマトコトバとしか考えられないのに意味のはっきりしない枕詞となぜ同居しているのか。それらの点に思いをめぐらした論考を見ない。

(引用・参考文献)
阿蘇1999. 阿蘇瑞枝「石川郎女の歌─大伴田主との歌を中心に─」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人たち』和泉書院、1999年。
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池原2016. 池原陽斉『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。
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岡崎1947. 岡崎義惠『日本芸術思潮 第二巻の上』岩波書店、1947年。
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第二』中央公論社、昭和33年。
菊池2000. 菊池義裕「社会と文化」櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版、平成12年。
京樂2017. 京樂真帆子『牛車で行こう─平安貴族と乗り物文化─』吉川弘文館、2017年。
胡2017. 胡志昂「石川郎女と大伴田主の贈答歌群を巡って」『埼玉学園大学紀要 人間科学部篇』第17号、2017年12月。埼玉学園大学・川口短期大学機関リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1354/00001112/
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学─出典論を中心とする比較文学的考察─ 中』塙書房、昭和39年。
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櫻井2012. 櫻井芳昭『牛車(ぎっしゃ)』法政大学出版局、2012年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
鈴木2006. 鈴木淳「みやびを考」『國學院雑誌』第107巻第11号、2006年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
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仁平2000. 仁平道明『和漢比較文学論考』武蔵野書院、平成12年。

加藤良平 2021.7.6初出2025.1.29訂正