万葉集巻第六に、山部赤人の行幸従駕歌とみられる歌がある。「三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南郡に幸しし時、笠朝臣金村の作る歌一首〈并せて短歌〉」(万935~937)に続くものである。神亀三年(726)、都は平城京にあり、聖武天皇の御代である。
山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作謌一首〈并短歌〉〕
やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の 大海の原の あらたへの 藤井の浦に 鮪釣ると 海人船騒き 塩焼くと 人そさはにある 浦を良み うべも釣はす 浜を良み うべも塩焼く あり通ひ 見さくも著し 清き白浜(万938)〔八隅知之吾大王乃神随高所知須稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尓鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尓有浦乎吉美宇倍毛釣者為濱乎吉美諾毛塩焼蟻徃来御覧母知師清白濱〕
反歌三首〔反謌三首〕
沖つ波 辺波静けみ 漁りすと 藤江の浦に 船そ騒ける(万939)〔奥浪邊波安美射去為登藤江乃浦尓船曽動流〕
印南野の 浅茅押し並べ さ寝る夜の 日長くしあれば 家し偲はゆ(万940)〔不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生〕
明石潟 潮干の道を 明日よりは 下笑ましけむ 家近づけば(万941)〔明方潮干乃道乎従明日者下咲異六家近附者〕
一般的な解釈としては従来の説が踏襲されている。新大系文庫本万葉集は、「明石潟の潮の引いた海辺の道ではあるが、明日からは心嬉しいことだろう。家が近づくので。▷「潮干の道を」のヲは、歩きにくい道ではあるけれども、という逆接の意を含む。「下笑まし」は顔には出さず、心の中でひそかに喜ぶ気持。動詞「下笑む」から派生した形容詞。ここは、その未然形「下笑ましけ」に助動詞ムが接続した形。」(159頁)と解説する(注1)。
この解釈の問題点は、陸路か海路かというところにあるのではなく、上の句「明石潟 潮干の道を」がどうして下の句「明日よりは 下笑ましけむ 家近づけば」につながるのかという点にある。これまでの指摘では、「潮干の道を」のヲを承ける動詞が記されておらず、「通って」、「行きつつ」などが略されていると解してきた。仮にそうであるとすると、なぜ今日の歩みは嬉しくなくて、「明日よりは 下笑ましけむ」となるのかわからない。「明石」は畿内と畿外とを画するところだからとする考えによるのであろうか。それでは不安定な言い分だと思ってか、新大系文庫本万葉集では、ヲを逆説の意を含むとして、「道だけれど」といった解釈になっている。しかし、「明石潟 潮干の道」は今日は目にしておらず明日目にするものだとしている。その発想はどこから生まれるのであろうか。
そもそも、「下笑まし」などと内心で笑うような気持ちを歌に表現する理由が説明できていない。「下笑まし」という特別な言葉を使うことで「〈私〉情の表出に成功した。」(鈴木2014.15頁)とするのは、作者である山部赤人に対して赤人研究者がする我田引水的な誉め言葉である。神亀三年九月(続紀では十月)の印南野行幸に付き従って歌われているのだから、天皇以下宮廷の高貴な人にも聞かれる歌を歌っていて大いに受けた歌なのであろう。高貴な人は歌い手の個人的な気持ちなど問題にしない。下級官吏の赤人の〈私〉情など知ったことではない。捨て置かれて当然である。すなわち、多くの人の共感が得られるような歌が歌われているのであって、従駕する人々の多くが「下笑まし」と感じているであろうことを歌に具現化しているから認められているのである。旅行も長くなったからもう帰ろうよ、と思い始めていたことを歌にしている。そして、耳にした天皇までも、まったくそうだねえと思って都へ帰ることに決めたという次第であろう。
では、なぜ、「明石潟 潮干の道を」が提題されているのか。それは、今述べた歌謡の場の設定からすれば容易に理解される。「印南野の 浅茅押し並べ さ寝る夜の 日長くしあれば 家し偲はゆ」(万940)という歌に続いて歌われている。すでに皆、ホームシックにかかっている。だから帰ろうよ、ということになるのであるが、帰る道には明石を通ることになる。そこで歌に言葉遊びのひねりを加えている。「明石潟」と切り出している。明石には潟湖があった。「吾が舟は 明石の湖に 漕ぎ泊てむ 沖へな離り さ夜ふけにけり」(万1229)、「赤石郡の林の潮」(播磨風土記・賀古郡)とある。万葉集の「湖」字は西本願寺本に「潮」とあり、いずれにせよ水門、ミト、ミナトとしてあって、明石川河口には潟湖が広がっていて、そこが船の停泊場所となっていたと考えられている。その潟湖の海沿いに、干潮時になると人の渡ることができる天橋立的な地形が現れていた(注2)。実際に行幸の一行がそこを進んだかどうかは事前に歌を歌っているだけだから関係のないことである。
アカシガタ(明石潟)と耳にして思い浮かぶのは、アカシ(証)+カタ(象)である。証明となる占いの象の義である。「象灼き」(万3694)が行われていた。亀卜である。占いに従って行動しなければ災難に遭う可能性がある。だから、占いどおりに行動しようとした。どういう象が出たかといえば、ラグーンである明石潟にできる象とは、潟がそれをもって潟足り得るものだから、小潮の日にはひょっとすると水面下にあって現れないかもしれないが、大潮の日には潮が引き始めるとまもなく見えてくる砂州の道一筋である。占いに出ているのだから、それは神の心、下心である。それが皆の心のうちと一致しているのだから、「下笑まし」ということになる。なぜ象灼きの占いの話になったかと言えば、長歌に「塩焼く」、「浦を良み」、第一反歌に「藤江の浦」とある音からの連想が働いている。ウミガメを目にして思いついたものかもしれない。
占い事だからまだ実際にその地に到達してはおらず、長歌に対する反歌三首の構成からして、一続きの歌、一回の宴の席で歌われたものと考えるのがふさわしい。歌謡の場は印南野の陣中であろう。
「明石潟 潮干の道を」のヲは間投助詞と解される。ヲ(諾)という語に発したとされるもので、英語の oh! 、wow と同じである。長歌の「うべ」、まったくそのとおりだ、という語をうけて使われている。家郷のことが偲ばれるなあ、帰るとなると明石潟のあたりを通ることになるよ。言葉にアカシガタ(証象)というのだから占ってみると、干潮時に一筋の道が浮かび出てくるのが亀卜の象だろう。そこを通って早く帰りなさいということだ、やあやあそうだ、心の中に秘めていた思いと合致して明日からは笑顔になるなあ、家が近づくからだなあ。
「潮干の道」が文字どおり浮上しているのは、「塩焼く」ことからの連想である。シホという言葉は、①塩 salt、②潮 tidal、③汐 the number of times の意を表す。証象としての明石潟は、亀卜を試みて甲羅の腹側を焼いてみれば必ず砂州が潟湖をふさぐように対岸へとつながり、一筋の道ばかりが浮かび上がるのである(注3)。汽水湖は塩辛くないが海は塩辛く、潮の干満をもって砂州が河口を塞いだり開けたりする。何べんも何べんもくりかえしそのとおりになっている。それが何よりの証なのであって、前歌の万940番歌に「さ寝る夜」とあるから、この歌に「明日」とあるのは日が明ければの意味であり、それは、アカシ(明)を表している。全部が全部言葉がつながっていて、心の底から頓智のおもしろさに興じられて笑えてくるから、「下笑まし」ことになっていて正しいと知れる。
これをもって「山部赤人の作る歌」は完結している。従駕の歌として面目躍如たるものがある。大仰に「やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる」と前置きしておいて、離宮のある「吉野」ではなく、地方に行幸した「印南野」を褒めたたえたように見せ、来た甲斐があったと歌いながら満喫したからそろそろ帰ってはどうかという人々の総意を、証拠もあると機知を効かせておもしろがった歌を披露している。従駕する人々は、位の高い低いに関わらず、聞いてみてまったくそのとおりだ、ほんとにうまいことを言うねえと思った。歌い手、聞き手の双方が歌意を共有できてはじめて歌は歌として機能する。行幸は折よく帰途に就くように決まっている。公の席で歌が歌われ、その歌が録されたということは、歌が人々に受け入れられたということであり、いかに受け入れられたかを考慮の外に置くことは本来の万葉集研究に値しない(注4)。
(注)
(注1)万941番歌について、清原1995.はなにもわざわざ干潟に一時できた道を歩まずとも山陽道は整備されているはずで、潮干や道について検討した結果、むしろ海路を船で進んだのであろうと捉え、「明石潟が明るい潮干の景を呈する頃、海峡を東へ流れる潮干の道で、きっと心楽しい思いをすることであろう。大和がだんだん近くなるので」(204頁)と訳している。鈴木2014.も同じく海上の航路を道と考え、歌群全体を、王権讃美と家郷思慕、〈公〉の意識と〈私〉情、遠景と近景と想像の景といった概念を駆使して読み解こうとしている。しかし、「明石潟 潮干の道を」とあるところを、「明石潟 潮干の」景色を想像しながら、今は海「道を」進んでいると想定することは、助詞ノの用例として他にどのような例があるのだろうか。
(注2)千田2001.、『上池遺跡第3次発掘調査報告書』、『明石地域の地質』参照。明石川からの土砂流入量は比較的少なく、一方、沿岸流は海峡近くにあってかなりはげしい。土砂堆積と浸食作用が均衡状態にあって、河口部に潟湖が展開する条件にあったとされている。
(注3)砂州と砂嘴については、世古・武田2019.参照。
(注4)政策が決定される、その少なくとも伏線となる機能を、初期万葉雑歌の余韻を保って引き続き持っていたことは注目に値する。
(引用・参考文献)
『上池遺跡第3次発掘調査報告書』 『上池遺跡第3次発掘調査報告書』神戸市教育委員会、平成22年。奈良文化財研究所・全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/10771
清原1995. 清原和義「赤人の潮干の道考」犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会編『萬葉の風土・文学 犬養孝博士米寿記念論集』塙書房、平成7年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
鈴木2014. 鈴木崇大「山部赤人の神亀三年印南野行幸従駕歌」『東京大学国文学論集』第9号、2014年3月。東京大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.15083/00035090 (『山部赤人論』和泉書院、2024年。)
世古・武田2019. 世古春香・武田一郎「砂州と砂嘴の用語の混乱」『京都教育大学環境教育研究年報』第 27号、2019年3月。京都教育大学附属図書館 http://hdl.handle.net/20.500.12176/9205
千田2001. 千田稔『埋もれた港』小学館(小学館ライブラリー)、2001年。
『明石地域の地質』 水野清秀・服部仁・寒川旭・高橋浩『地域地質研究報告 明石地域の地質(5万分の1地質図幅)』地質調査所、平成2年。産総研・地質調査総合センターホームページ https://www.gsj.jp/sitesearch.html?q=明石地域の地質#gsc.tab=0&gsc.q=明石地域の地質&gsc.page=1
加藤良平 2021.7.9初出