万3・4番歌、狩りの歌と舒明天皇即位について

万葉集3・4番歌

 中皇命なかつすめらみことの狩りの歌は、長歌と反歌の二首によって構成される。ここに見える「天皇」とは舒明天皇のことである。「宇智の野」は現在の奈良県五條市付近の野という。以下、原文、読み下し文に加え、現代語訳を多田2009.から引用する。

  天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老献歌
 八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音為奈利朝獦尓今立須良思暮獦尓今他田渚良之御執能梓弓之奈加弭乃音為奈里
  反歌
 玉剋春内乃大野尓馬数而朝布麻須等六其草深野

  天皇すめらみこと宇智うちの野に遊獦みかりしたまひし時に、中皇命なかつすめらみこと間人連老はしひとのむらじおゆをしてたてまつらしめたまへる歌やすみしし 大君おほきみの あしたには 取りでたまひ ゆふへには いり立たしし みらしの あづさの弓の 中弭なかはずの おとすなり あさりに 今立たすらし ゆふりに 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり(万3)
  反歌
 たまきはる 宇智うちおほに 馬めて 朝ますらむ その草深くさふか(万4)

  (舒明)天皇が宇智野で薬猟くすりがりをなさった時に、中皇命が間人連老に命じて献上なさった歌
 あまねく国土を支配なさるわが大君が、朝には手に取ってお撫でになり、夕には寄り添ってお立ちになった、ご愛用の梓の弓の中弭の音が響いてくるのが聞こえる。朝の猟りに今お立ちになるらしい。夕の猟りに今お立ちになるらしい。ご愛用の梓の弓の中弭の音が響いてくるのが聞こえる。
 霊魂のきわまるうち、その宇智の荒野に馬を連ねて、この朝踏み立てておいでになるのでしょう。その草深い野よ。(16~17頁)

 今日まで、多く議論されている点は、「中皇命」とは誰のことを言っているのか、「中弭」とは何のことなのか、の二点である。もう一つの疑問点は、「使間人連老献歌」という煩わしい言い回しである。これは左注ではなく題詞である。当初から、歌の歌われる設定として、必ずそうでなければならなかった条件が示されている。その点についての理解は行き届いていない。
 「中皇命」については、万10・11・12番歌の題詞にも登場する。その左注に、「右は、山上憶良大夫の類聚歌林をかむがふるに曰はく、「天皇の御製の歌なり云々」といふ。」とある。皇極・斉明と重祚した天皇で、この時点では夫君の田村たむらの皇子みこが舒明天皇として即位し、皇后の地位に就いたたからの皇女ひめみこのことと考えられる。万3番の長歌は、構造上、繰り返しや対句表現、枕詞に始まる常套句が多く、宮廷歌謡の影響が指摘されている。たいへんよく似たものとして指摘されるのは、雄略記の歌謡である。

 やすみしし が大君の あさには い寄りたし ゆふには い寄り立たす 脇机わきづきが下の 板にもが 吾背あせを(記104)

 意識的に真似したとも考えられており、宮廷寿歌と献歌とが似通った性格をしているからともいう。ただ、この歌は恋心を歌った歌である。歌ったのは「春日かすが之袁杼比売のをどひめ」という采女である。采女は、天皇の側近くに仕え、給仕や着替えなどの身の回りの世話をした下級の女官である。地方豪族が姉妹や娘などを朝廷に貢物の如く進上し、服属した証としての人質の性格も有していたとされている。養老令・後宮職員令に、「凡そ諸の氏は、氏別ににょせよ。皆年三十以下十三以上を限れ。氏の名に非ずと雖も、自ら進仕せむことねがはば、ゆるせ。其れ采女貢せむことは、郡の少領以上の姉妹及び女の、形容かたち端正きらぎらしき者をもちてせよ。皆中務省に申して奏聞せよ。」(原漢文)とある。いずれにせよ、女性が男性に対して、それも天皇に当たる人に対して歌った歌である点が共通点である。

中弭の謎掛け

 「中弭」という語は未詳とされている。弓の両端の弦をかけるところを筈といい、射る時に上になる方を末筈うらはず、下になる方を本筈もとはずという。弓の筈と弦とが合うことから、当然のこと、道理、わけの意にも使われる。しかし、中弭なる語は他に見られない。そこで、弓束の半ばの握りの部分に儀礼用の鈴か何かがつけてあったとする説(新大系文庫本)、原文の「奈加弭」は文字の転倒で金筈のことではないかとする説(吉永登)、鳴弦の音とする説(契沖、窪田空穂)、中仕掛けがあって鞆と当たって音を発するとする説(吉村誠)、弩弓の弩牙にあたるとする説(井出至)、特に気にかけないで単なる発射音とする説(福沢健)などが行われている(注1)。しかし、ハズという言葉は自明の理を表す。したがって、それらの臆説は道理にかなわない。当時の人々にとって、十分に得心のいく説明があり、そのとおり、そのはずだ、と理解されていたと考えられる。言葉が自己循環的、自己言及的に自らを規定するから誰もが納得する。解かれた時になるほどとわかるもの、今日でいえばなぞなぞに当たるものが隠されていたのであろう。
 万3・4番歌は、過去に歌われた歌の内容だけでなく、歌の歌われた状況をも巧みに使って何かを言おうとしている。二つの歌に非常によく似た出だしのワンセットの歌が仁徳紀に見える。河内の人が、雁が卵を産んだと言ってきた。雁は渡り鳥で、越冬のために列島を訪れても繁殖することはない。

 天皇すめらみこと、是に、みうたよみして武内たけしうちの宿禰すくねに問ひてのたまはく、
 たまきはる 内の朝臣あそ こそは 世の遠人とほひと 汝こそは 国の長人ながひと あきしま やまとの国に かりむと 汝は聞かずや(紀62)
 武内宿禰、かへしうたしてまをさく、
 やすみしし 我が大君は うべな宜な われを問はすな 秋津嶋 倭の国に 雁産むと 我は聞かず(紀63)(仁徳紀五十年三月)

 武内宿禰の答えは、わが大君よ、よくぞ私に聞いてくださった、倭の国で雁が卵を産むとは一度も聞いたことがございません、というものである。
 これが何の話なのかは紀だけではわからない。当該部分を記に見ると、内容的にはほとんど同じ問答が繰り広げられ、その後に建内宿禰が御琴をいただいて歌った歌が付け加えられている。

 御子みこや つひに知らむと 雁は産むらし(記73)

 我が御子様よ、永遠にこの国をお治めになるという瑞祥として、雁が卵を産んだのでございましょう。太安万侶は、これを「本岐ほきうた片歌かたうた」、すなわち、寿ぎの歌の短いものであるとコメントをつけている。
 むろん、この話は言い伝えであり、科学的根拠などあろうはずもない。当時の人は、珍しい話があると良い兆候と考えていた。後の大化改新政府でも、しろきぎすが献上されたら瑞祥であると喜び、孝徳天皇は白雉と改元している。白雉元年二月条には、高麗、中国の例や、応神・仁徳天皇のときに現れたという白烏しろきからす竜馬りゆうめの話を持ち出し皆で盛り上がっている記述が載る。記73歌謡の「御子みこや」の部分を、あなたの御子様たちが、というように、系譜が続くという解釈もあり得はする(注2)が、それでは瑞祥の瑞祥たる珍しさが合理的な解釈に通じてしまいおもしろくない。日本書紀にその歌を載せないのは、中国の史書を手本に歴代の天皇を編年体で書こうとした書物だから、瑞祥どおりに永遠に仁徳天皇の時代であっては困るものとして、言い伝えで伝わっていた言寿ぎの部分が割愛されたものと思われる。
 登場していた武内宿禰という人は記紀に活躍が記録されている。言い伝えの内容を総合すると、歴代の天皇の側近くに仕えた忠臣で、特に神事において霊媒者の役割を果たし、とても長寿を保ち、紀では300歳ぐらいまで生きたことになっている。この伝承の人物については、七世紀になってから有力豪族の手によって架空されたものであるとも、また、そうではないともいろいろ指摘されている。伝承とは、いろいろな人の口が加わったものである。おそらく、現在だけでなく初期万葉の時代にも、正確なことはわからず、伝承を伝承として受け取っていたものと思われる。ポイントは「武宿禰」、「の朝臣」とあるウチについて、内廷に近侍する「内臣うちつおみ」に関係している点、また、宇智うちという地名と関連すると考えられたことである。
 万3・4番歌の作者は、武内宿禰の伝承を受け、それに準える形にした。題詞から宇智の野で狩りをしていたのは事実であろう。「宇智」は武内宿禰にゆかりの地である。それをヒントに歌が構想された。当然、歌は、天皇と長老との間で交わされなければならない。そこで「間人連老」なる人物に託されている。この人は、孝徳紀白雉五年二月条に載る「中臣間人なかとみのはしひとのむらじおゆ」、第三回遣唐使の「判官まつりごとひと」にあたると推測されている。当人が高齢であったかどうかはわからないが、武内宿禰のような長老を思わせる「老」という名前であった。
 天皇と武内宿禰の問答では雁の卵の話がテーマになっていた。長老も聞いたことがない謎の出来事である。中皇命の歌において謎に当たるのが「中弭」である。弭は弓の両端に弦をかける部分を指す。二箇所でとめるものだから中弭なるものは存在しない。狩りに使う弓において中弭は、雁が卵を産むことが知られないようにないのである。
 歌を献上された舒明天皇としても最初は耳を疑ったことであろう。いきなり袁杼比売の歌のパロディーで愛を告げられているかと思えば、中弭などと奇妙なことを言っている。中に弭などない筈である。ところが、その音がはっきり聞こえると歌っている。曰くありげに「中弭の 音すなり」と、五・五音が続いて目立つようになっている。ほかはきれいに、五・七・五・七と続いている。怪訝な顔をしながらもそのまま聞き流して行った。天皇の表情の変化を見て取った間人連老は、笑みを浮かべながら歌い続けた。一曲目が終わり二曲目に入る。タマキハルウチノと聞いて、一曲目にあったヤスミシシワガオホキミノが思い出されたことだろう。そう、これは狩りの歌ではなく、言い伝えに聞く雁の卵の話なのだと。
 大意は、愛しい我が大君が、朝には手に取って撫で、夕方には側に立ってポーズを決めていらっしゃった、御愛用の梓の弓の、この世にあるはずもない中弭の音がはっきりと聞えます。朝方の狩りを今なさっているらしいその時です。宵の口の狩りを今なさっているらしいその時です。御愛用の梓の弓の、この世にあるはずもない中弭の音がはっきりと聞えますのは。これは言い伝えに聞く雁の話同様、瑞祥でございましょう。
 武内宿禰の雁の卵の話では、仁徳天皇の永遠の治世を示す瑞祥であると語られていた。中皇命の狩りのときの中弭の話では、宝皇女の夫である田村皇子、後の舒明天皇の即位を促す歌で、豪族たちの信任の厚いことを語り、説得しているのである。コロンブスの卵の話は、即位の前に歌われている。
 新撰字鏡に、「弭 ゆみ波受はず」、「箭筈 也波受やはず」、和名抄に、「弓 四声字苑に云はく、弓〈音は弓、由美ゆみ〉は箭を遣る所以の器なりといふ。釈名に云はく、弓の末は彇〈音は蕭、由美波数ゆみはず〉と曰ひ、中央は弣〈音は撫、由美都賀ゆみつか〉と曰ふといふ。」、「箭 釈名に笶〈音は矢、〉は其の体を簳〈音は幹、夜賀良やがら〉と曰ひ、其の旁を羽〈去声〉と曰ひ、其の足を鏑〈的の音〉と曰ふといふ。或に之れを鏃〈子毒、楚角、才木三反、訓は夜佐岐やさき、俗に夜之利やじりと云ふ〉と謂ふ。唐韻に云はく、筈〈古活反、夜波須やはず〉は箭の弦を受くる処なりといふ。」とある。

推古天皇の後継者争い

 推古天皇が亡くなったのは、推古三十六(628)年三月七日、亡骸を陵墓に葬ったのは九月二日である。紀には、葬礼が終った後、大臣のがの蝦夷えみしが豪族たちを集め、自宅でパーティーを開いたと記されている。その席上、次期天皇のことを話題に取り上げた。それまでにも蘇我蝦夷は豪族間を説いて回って多数派工作をし、山背大兄王やましろのおほえのみこではなく田村皇子を擁立しようと画策している。そして、への麻呂まろに天皇の遺言を発表させ、列席者たちの意見を訊いている。

 ……天皇すめらみこと臥病みやまひしたまひし日に、田村皇子にみことのりしてのたまひしく、「天下あめのしたおほきなるよさしなり。本よりたやすく言ふものに非ず。いまし田村皇子、慎みてあきらかにせよ。おこたらむこと不可まな」とのたまひき。のちに山背大兄王に詔して曰ひしく、「いましひと喧讙とよきそ。必ずまへつきみたちことに従ひて、慎みてたがふな」とのたまひき。則ち是天皇の遺言のちのおほみことなり。……(舒明即位前紀)

 抽象的で、道徳を述べているばかりに感じられ、白黒はっきりしていない。群臣たちの反応も鈍く、なかなか発言しようとしなかった。結局、田村皇子を擁立すべきとの意見と、山背大兄王がふさわしいという意見とに割れてしまった。田村皇子を推したのは、蘇我蝦夷、阿倍麻呂のほか、おほ伴鯨とものくぢら采女うねめの摩礼志まれし高向宇たかむくのう中臣弥なかとみのみ難波なにはのざし、山背大兄王を支持したのは、勢大せのおほ麻呂まろ佐伯さへきのあづまひと紀塩きのしほ、中立の立場をとったのが、我倉がのくら麻呂まろであった。
 「遺詔のちのみことのり」の直接の記事としては、田村皇子と山背大兄王の二人に語られている。亡くなる前の日のことである。田村皇子には、

 天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みすることなり。かれいまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず。(推古紀三十六年三月)

山背大兄王には、

 いましきもわかし。し心に望むといふとも、とよき言ふことまな。必ずまへつきみたちことばを待ちて従ふべし。(推古紀三十六年三月)

と言ったとある。やはり、曖昧な内容である。群臣の推挙がなければ天皇の位に就くことができなかったことを指すものでもあろう。また、古代史上、群臣たちが次期天皇を推挙していたのはこの時が最後である。山背大兄王は、斑鳩宮にあって、境部さかひべの摩理勢まりせ三国みくにのおほきみ桜井和さくらゐのわ慈古じこらとともに、自らが次期天皇になるものだと早合点していたようである。推古天皇から自分が聞いたとする「遺詔のちのみことのり」は次のように受けとられている。

 われ寡薄いやしきみを以て、久しく大業あまつひつぎいたはれり。今暦運きなむとす。以てやまひむべからず。故に、いまし本より心腹こころたり。めぐあがむるこころたぐひをすべからず。其れ国家みかど大基おほきなることは、是朕が世のみに非ず。本よりつとめよ。汝肝稚しと雖も、慎みて言へ。(舒明前紀)

 蘇我蝦夷一派が検閲し、部分的に割愛して阿倍麻呂が豪族たちに公表したようである。推古天皇の違勅を実際に聞いたのは、二人の皇子と中臣弥気、側近くに仕えた女性たちであった。
 係争はもっぱら蘇我蝦夷大臣と山背大兄王の間の駆け引きとなる。両者は伯父と甥の関係にあった。それでも、蘇我蝦夷にとっては、聖徳太子の息子である山背大兄王が天皇になることを嫌った。自分の意、ならびに豪族の意に沿った振る舞いをする人物が好まれた。天皇親政では困るというのが多くの豪族たちの考えであったに違いない。それは、飛鳥と斑鳩の距離の離れ方にも表れている。田村皇子は控えめな性格であったと見える。即位の記事には、形式的にせよ、いったんは辞退する言葉を発している。

 大臣おほおみ群卿まへつきみたち、共に天皇すめらみこと璽印みしるしを以て、田村皇子に献る。則ちいなびて曰はく、「宗廟くにいへ重事おもきことなり。寡人おのれ不賢をさなし。何ぞ敢へて当らむ」とのたまふ。(舒明紀元年正月)

 時に我馬がのうまの葬礼があった。二年ほどかけて作った大きな墳墓、現在、石舞台古墳と呼ばれている墓に納体し、参列した人は墓の近くのいほに一晩宿っている。物忌みの行事である。孟子・滕文公章句上に、厳格な儒者の話として、「五月廬に居り、未だ命戒有らず。(五月居廬、未有命戒。)」とある。馬子は一族の首領であったから、蘇我系の諸族の人々が多数参加した。そのとき、境部摩理勢は自分の廬を壊して逃げて行った。蘇我蝦夷は、父親の馬子が侮辱され、自ら倭国に導入した斎宿の儀式も軽蔑されたと感じただろう。
 境部摩理勢と蘇我蝦夷との仲は険悪になった。この両者も叔父と甥の間柄にあったが、皇位継承問題が蘇我氏の内輪揉めの様相を呈してゆき、結局、境部摩理勢は蘇我蝦夷に滅ぼされた。境部摩理勢の長子、毛津けつは尼寺に隠れた。尼僧と情事を重ねていたら、相手にされない尼僧が嫉妬して告発した。追手が来てうねやまに逃げたが包囲され、自害した。「時の人」の歌が舒明即位前紀に記されている。

 畝傍山 立薄たちうすけど 頼みかも 毛津のわくの こもらせりけむ(紀105)

 畝傍山は隠れる木立も少ないのに、それでも頼みにして、毛津の若様は籠もっておられたのであろうか、という意味である。実際の畝傍山に木が少ししか生えていなかったらしいところから、山背大兄王派の無勢をも頼って滅んだ境部一家への同情、揶揄が込められているとされている。万4番歌にあった、「馬並めて」という表現が、「木立薄」と対照的なことがわかる。それはまた、山背大兄王の頭髪が薄かったことからの比喩でもあろう(注3)。皇極紀二年十一月条に、「山背王やましろのみこ頭髪みぐし斑雑毛ふふきにして山羊かまししに似たるに喩ふ。」とある。
 また、今日までほとんど触れられていないが、「畝傍山」については、ウネビとウネメとの音の近似性による洒落が考えられる。

 ここに新羅人、恒に京城みやこほとり耳成山みみなしやま・畝傍山を愛づ。則ち、琴引坂ことひきのさかに到り、顧みて曰はく、「宇泥咩巴椰うねめはや弥弥巴椰みみはや」といふ。是未だ風俗くにひと言語ことばを習はず。故、畝傍山をよこなばりて宇泥咩うねめと謂ひ、耳成山を訛りて瀰瀰みみと謂ひしのみ。時に倭飼部やまとのうまかひべ、新羅人に従ひ是のことばを聞きて、疑ひて以為おもへらく、新羅人、采女にたはけたりとおもふ。(允恭紀四十二年十一月)

 推古天皇の山背大兄王への遺勅を実際に聞いたのは、田村皇子、中臣弥気、栗下女王くるもとのひめみこ、ほかに采女八人ほどの計十人ぐらいしかいない。中臣弥気、栗下女王が蘇我蝦夷の推す田村皇子派についてしまえば、最後の頼みは采女である。その采女も、多くが蘇我蝦夷側についてしまって本当のことを証言してはくれない。それを「畝傍山 立薄たちうすけど 頼みかも」と喩えたという意味にも解釈できる。田村皇子は、舒明天皇として即位する。皇統譜に次のようにある。

 又、吉備国のやの采女うねめして、やの皇子みこしませり。(舒明紀二年正月)

 いつの時期の采女であるかわからないが、仮に推古天皇に仕えた采女であるとすると、田村皇子は当時、後宮に通じていたことをにおわせる。山背大兄王が推古天皇に招喚されて、自らが遺勅を聞いた時の状況を述べる件でも田村皇子はその場にいる。

 おのれ、天皇、臥病みやまひしたまふとうけたまはりて、馳上まうのぼりて門下みかきもとに侍りき。時に、中臣連弥気、禁省みやのうちよりまかでてまをさく、「天皇のおほみことを以てす」とまをす。則ち参進まうすすみて閤門うちつみかどまうづ。亦、栗隈采女黒くるくまのうねめくろ庭中おほばに迎へて、大殿にまゐる。是に、近習者ちかくつかへまつるもの栗下女王をこのかみとして、女孺めのわらはしびたり、併せて数十人とをあまりのひと天皇之側おほみもとに侍りき。また、田村皇子しましき。(舒明即位前紀)

 推古天皇の側に、近習の者たちとともに田村皇子が当たり前のようにいるのである。女帝の病室となっている大殿に女性の近習ばかりなのは頷けるが、田村皇子がいるのは、采女たちに気に入られていたプレイボーイであったのかもしれない。それは、境部毛津のように、尼僧のなかから嫉妬した者が現れるような下手な遊び方ではなかったことを意味しよう。また、後宮に仕える采女たちにしてみれば、見た目が「頭髪斑雑毛」を好まなかったということかもしれない。さらに、山背大兄王のように品行方正でなく、身分違いのスキャンダルを田村皇子が抱えていれば、豪族たちに弱みを握られているということになり、蘇我蝦夷らは扱いやすいと思ったことだろう。

薬猟をめぐって

 万3・4番歌が歌われたのは、推古天皇が亡くなった後、推古三十六年の夏のことと推測される。紀によると、推古朝には、三度、薬猟くすりがりが行われている。狩るのは鹿である。鹿の角袋は滋養強壮、精力増強剤になると信じられていた。

 十九年の夏五月の五日に、だのに薬猟す。鶏鳴時あかときを取りて、藤原池ふぢはらのいけほとりつどふ。会明あけぼのを以てすなはく。(推古紀十九年五月)
 夏五月五日に、薬猟して、羽田はたに集ひて、相連あひつづきてみかどまうおもぶく。(推古紀二十年五月)
 二十二年の夏五月五日に、薬猟す。(推古紀二十二年五月)

 紀の日付の記述に「五月五日」とある。干支以外の書き方は特殊である。推古天皇時代に派遣された遣隋使が、中国の風習を伝えたことを示すものかもしれない。推古朝の薬猟は、服、冠、冠に添える飾りなど冠位十二階の制に従った正装をしたきらびやかなイベントであったらしい。その推古天皇を偲ぶためにも、恒例の五月五日の薬猟を開こうとして宇智の野に挙行されたのであろう。蘇我蝦夷を筆頭に、田村皇子を天皇に擁立しようとする多くの豪族たち、そして、下にも置かずに主賓とされたのが、後に舒明天皇となる田村皇子その人と、正妻の宝皇女、後の皇極・斉明天皇であった(注4)
 万4番歌に「馬」が出てくる。推古紀には、初春を祝う賀において、蘇我馬子と天皇の君臣唱和の歌にモチーフとして歌われている。

 二十年の春正月の辛巳の朔にして丁亥[七日]に、置酒おほみきをめして群卿まへつきみたちとよのあかりす。是の日に大臣おほおみ寿上おほみさかづきたてまつりてうたよみしてまをさく、  やすみしし 我が大君の かくります あま八十やそかげ 出で立たす そらを見れば 万代よろづよに くしもがも 千代にも 斯くしもがも かしこみて 仕へ奉らむ をろがみて 仕へ奉らむ 歌きまつる(紀102)
 天皇、こたへてのたまはく、
 真蘇我まそがよ 蘇我の子らは 馬ならば むかこま 太刀たちならば くれさひ うべしかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(紀103)(推古紀二十年正月)

 正月七日の年賀の宴はこの記事が最初である。薬猟同様、中国からの文化移入と思われ、七草粥として残っている人日じんじつと呼ばれる風習である。馬子は宮讃めをし、忠誠を誓っている。天皇は、蘇我氏を馬なら名だたる日向の駒、太刀なら呉の真刀のような優秀なものだから、使うのは尤もなことである、と返している。この唱和が、推古朝に薬猟の盛んなりし頃に記憶されている。
 万4番歌においても、薬猟において馬に実際に騎乗したというばかりでなく、歌語として使われていることからいって、紀103番歌の馬の譬えの意味を含んでいると考えられる。すなわち、「宇智」は、原文に「内」とあるとおり、宮廷内のこと、「朝」は、朝廷のことである。よって「朝庭」という用字がされ、「馬」は、田村皇子を擁立しようとしている蘇我氏以下の豪族勢力のことを表している。四句目と五句目の間の切れについては、「朝ますらむ」ことの理由を「その草深くさふか」と説明したものである。馬にしてみればたくさんの草を食むことができるし、騎乗の人であれば獣を追い出して獲物を得ることができる、win-win の関係であるとの本音が歌われている。
 万3・4番歌の典故にあげた仁徳天皇と武内宿禰の雁の歌は、問いと答えの問答の歌であった。中皇命の3・4番歌の狩りの歌は、問答無用の歌である。作者が謎掛けし、作者自身が解いている。仁徳天皇と武内宿禰の関係を再生するには、一方が未だ位についておらずに躊躇している人物ならば、宇智の大野において、間人連老をして武内宿禰のように振る舞わせしめればわからせることができるのである。アクセントをも等しくする「雁」と「狩り」の洒落にも、故事を伝える力は潜んでいる。無文字時代に暮らしていた初期万葉の宮廷人は、言い伝えられてきたとおりに言葉が準えられればそのとおりに理解され、実行されもした。ことことであることを旨としていたから、言葉が事柄をそのままに表すよう実践に励むことに躊躇はなかった。そういう言語空間に暮らしていたのである。すぐれたレトリックとしてのなぞなぞが、政治演説に用いられていたのであった。

(注)
(注1)福沢2016.参照。鳴弦とする説は、原文の「奈加弭」を矢筈に見立てた撥のようなものと架空するものらしい。しかし、狩りに行く前の儀式的な楽器演奏を、天皇自らが行って従者が聞いているという光景は想像しがたい。
 万3番歌のハズについては、「梓の弓の 中弭の 音すなり」とあるから、ユハズ(弓弭)であることは動かないであろう。ただし、ハズという語にはヤハズ(矢筈)もある。現在の弓道では、筈溝を思い思いにヤスリ等で加工して調製していると聞く。松尾2013.に、「矢の筈は、古くは竹製・木製・鹿角しかつの製などがあり、特殊なものとしては、ぞう・水晶なども用いられている。現在、弓道で一般に用いられる筈は、ほとんどが水牛製、プラスチック製である。これらの筈は箆に差し込む形式で、継筈つぎはずと呼ばれる。笠筈かさはず、ぬた筈と呼ばれる筈も継筈の一種である。戦場で使用する征矢そやなどでは、箆に直接切り込みをいれて使用していた。これを筈といい、ふしはずとも呼ばれる。」(77頁)とある。正倉院の箭にも、ヨハズ(余筈)らしき切れ込みがある。
 国語学的に注目すべき点は、ハズの種類について、ハズ、ハズ、ハズと、ヤ行ばかりを冠するところである。後考を俟ちたい。
(注2)新編全集本古事記に、「御子みこ」を「あなたさまのご子孫。実際その言葉どおり、仁徳天皇の皇統が継がれてゆくことを『記』は語る。」(304頁)とある。
(注3)頭髪の薄毛は遺伝する。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について」参照。
(注4)吉村2012.は、「皇極は、即位以前の舒明と結ばれる前に、用明天皇の孫にあたる高向たかむく王と結婚して、「あや皇子」を生んでいた。出産経験のある皇女が再婚し、皇后となり、やがて即位したのである。前夫との間に子供をもうけた女性が、後に天皇となる皇子と再婚し、さらに自ら即位するという、珍しい例である。」(86~87頁)としている。政治的資質に長けていたから重祚して斉明となる。その政治力は演説の巧みさに由来するものであろう。飛鳥時代において、万葉集の巻一の前半に区分される「雑歌」とは、政治的なアジテーションの形のものが多い。薬猟に際して雁の瑞祥の言い伝えを持ち出して群卿以下宮廷社会の人々の人心を掌握している。宝皇女=皇極・斉明劇場が開催されている。それは、後に、お抱えスポークスマンの額田王の力を借りることも多くなっていった。

(引用・参考文献)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
福沢2016. 福沢健「乙巳の変と『万葉集』1三~四」『流通科学研究』第15巻第2号、2016年3月。中村学園大学学術リポジトリ https://nakamura-u.repo.nii.ac.jp/records/2558
松尾2013. 松尾牧則『弓道─その歴史と技法─』日本武道館、平成25年。
吉村2012. 吉村武彦『女帝の古代日本』岩波書店(岩波新書)、2012年。

                加藤良平 2020.9.30改稿初出