万葉集で「葦垣」という語が登場する歌は次の十首である。「葦垣の」の形で名詞とするものと枕詞とするものがある。実際の情景を詠んだとは言えずに唐突に「葦垣」と出てくる場合、下の語を導くために冠る語、すなわち、枕詞であると解され、次のように分類されている。
名詞「葦垣」
葦垣の 中の和草 にこやかに 我と笑まして 人に知らゆな〔蘆垣之中之似兒草尓故余漢我共咲為而人尓所知名〕(万2762)
葦垣の 末かき分けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ〔蘆垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知〕(万3279)
葦垣の 外にも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ〔安之可伎能保加尓母伎美我余里多々志孤悲家礼許曽婆伊米尓見要家礼〕(万3977)
葦垣の 隈処に立ちて 吾妹子が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ〔阿之可伎能久麻刀尓多知弖和藝毛古我蘇弖母志保々尓奈伎志曽母波由〕(万4357)
右の一首は市原郡上丁刑部直千国
花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し子ゆゑ 千たび嘆きつ〔花細葦垣越尓直一目相視之兒故千遍嘆津〕(万2565)
人間守り 葦垣越しに 吾妹子を 相見しからに 言そさた多き〔人間守蘆垣越尓吾妹子乎相見之柄二事曽左太多寸〕(万2576)
枕詞「葦垣の」
おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に ……〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓……〕(万928)
弟の死去れるを哀しびて作る歌一首〈并せて短歌〉
…… 闇夜なす 思ひ惑はひ 射ゆ鹿の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて 春鳥の 哭のみ泣きつつ ……〔……闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思乱而春鳥能啼耳鳴乍……〕(万1804)
…… 天雲の ゆくらゆくらに 葦垣の 思ひ乱れて 乱れ麻の をけをなみと 吾が恋ふる ……〔……天雲之行莫々蘆垣乃思乱而乱麻乃麻笥乎無登吾戀流……〕(万3272)
我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我し悲しも〔和賀勢故邇古非須敝奈賀利安之可伎能保可尓奈氣加布安礼之可奈思母〕(万3975)
実際のところ、歌に歌われている「葦垣」がどういうものかよくわからない。
内記、案内よく知れるかの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西面を、やをらすこしこぼちて入りぬ。(源氏物語・浮舟)
この例からすれば、葦を素材にして網代に編んだような垣、葦簀を立てかけたような垣、柴垣の柴に葦で代用したようなものとも見受けられるが、万葉集の「葦垣」と同じと考えてよいかは不明で実態はつかめない。葦を刈り取ったものを使った垣か、葦を生やした生垣、例えば環濠に植えるといった工夫をして垣としたものかも定められない。語の構成として、他には「荒垣」、「青垣」、「斎垣」、「岩垣」、「竹垣」、「間垣」、「瑞垣」といった例が見られる。このうち、材料をして垣根の名前としている例は、「葦垣」十例と「竹垣」一例(万2530)ということになる。「柴垣」は万葉集に見られない。この偏重は謎とすべきであろう(注1)。
「葦垣」という語が好まれて使われている。上代の人は、「葦垣」という語に、言葉遊び的要素を見出したからではないか(注2)。葦の垣を越えるのに、足を掻きもがくこと、足掻くことになるという洒落である。垣の両側で段差があるように思われてならない。
万3975番歌と万3977番歌とは、一連の大伴家持と大伴池主との歌のやりとりの一節である。長い題詞や長歌、短歌の組み合わせを伴い、漢詩まで織り込まれている。歌の「葦垣の外」と関連する題詞部分を示すと次のようになる。
昨日短懐を述べ、今朝耳目を汙す。更に賜書を承り、且、不次を奉る。死罪々々。……
我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我し悲しも(万3975)
三月五日、大伴宿禰池主
昨暮の来使は、幸ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱くも相招望野の歌を貺ふ。一たび玉藻を看て、稍く欝結を写き、二たび秀句を吟ひて、已に愁緒を蠲く。……
葦垣の 外にも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ(万3977)
三月五日に、大伴宿禰家持の、病に臥して作る
「葦垣の外」という言い方に興趣を覚えたから和しているように見える(注3)。「葦垣」という言葉を殊更に使い、前後する言葉との連なりにおもしろさが感じられるから好まれたのであろう。池主が家持からの手紙に恐縮して、「死罪々々」などと書いている点と、「葦垣の外」という言い方とは何か関連がありそうだと感じられる。他の例を見たうえで再度検討したい。
万1804・3272番歌では、「葦垣の思ひ乱れて」と歌って悦に入っている。枕詞としての「葦垣の」は、一般に、葦の垣根はすぐ古びて乱れやすくまた間を詰めて作ることから、「古り」や「乱れ」などに掛かるとされている。この種の説明はわかったようでいてわからない。「思ひ乱れて」の途中の「思ひ」という語を飛ばして「乱れ」に掛かるいうのでは説明になっていない。もっと鋭い言葉遊びが行われていたと考えなければ枕詞として自立することはなかったのではないか。聞いた瞬間にわかることで言葉の命略は保たれる。

そこで、「葦垣」の義の第三の可能性について見て取ることにしたい。それは、「葦垣」が、夏越の祓に用いられる茅の輪のことを指しているのではないかとするものである(注4)。茅の輪は、背の低いチガヤばかりで作るものではなく、アシやススキなどを一緒に束ねて作られることが多かったようである。使用目的は祓の用具である。なぜ祓をしなければならないか。「思ひ乱れ」があるからである。茅の輪くぐりの行事が終わった後、輪からチガヤを引き抜いて持ち帰る風習の残るところもある。また、季節を問わず神社で行われているお祓いでは、神職が大幣(大麻)を振る仕草をする。穂を出した茅花の形によく似ている。だから、「古り」に掛かる。夏越の祓と呼ばれている民間習俗も、正式には、神官が茅の輪をくぐるだけではなく、中臣祓詞を唱え、人形を一撫一吻し、解縄、大麻の一撫一吻、散米、人形流しなどを行っている(注5)。
祓のための道具である茅の輪のこととすると、祓を必要とする難事に対している場合や、そこで逢う男女が禁断の関係であることを思わせる効果が生まれる。
葦垣の 中の和草 にこやかに 我と笑まして 人に知らゆな(万2762)
万2762番歌に、「和草」とあるのは、アシ、チガヤ、ススキ、オギ、スゲなど、イネ科やカヤチリグサ科の多年草のもつごわごわした葉や稈ではない柔らかい草が紛れていたということを言うとともに、本来なら逢ってはいけない不倫関係を指摘するものでもあろう。万葉時代の婚姻関係は大らかであったことが知られるが、かといって浮気されたことが知れれば嫌がる人がいただろうことも容易に想像できる。相愛関係が人に知られないようにと慮っている。
「葦垣の」が「外」に掛かるのは、茅の輪に穂が混ざるところと考えたか、大幣を茅花に例えて茅の穂と見、ホ(穂)+カ(処)の意であると捉えられたからであろう。
岩波古語辞典に、「ホカは中心点からはずれた端の方の所の意。奈良・平安時代には類義語ヨソは、自分とは距離のある、無関係、無縁な位置関係をいう。また、ト(外)は、ここまでが自分の領域だとする区切りの向うの場所をいう。奈良・平安時代にはウチ(内)・トが対義語であった」 (1190頁)とある。また、ナカについて、「原義は層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなどを三つに分け、その両端ではない中間にあたる所の意。」(966頁)とあって、その対義語がホカなのであろう(注6)。
いま、万葉人が戯れている言語遊戯では、茅の輪の束ねられているところがナカ、そこから外れたところはすべてホカと呼んでおもしろがっているものと思われる。人は茅の輪のナカをくぐっているようで、実は束ねられた輪のナカには入ることができない。祓行事に参加しても、いつだってホカ(穂処、外)にいる。
我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我し悲しも(万3975)
葦垣の 外にも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ(万3977)
我が背子に恋ふ方法がない、葦で作って垣根のように守る役割を果たす茅の輪で祓をしようにも季節外れで中をくぐれずホカにいるばかりだ。季節が当たっていても結局はホカにいるばかりなのだが。どちらにしても効力がなくてただ嘆くばかりだ。私は悲しい(注7)。
葦で作って垣根のように守る役割を果たす茅の輪のホカにであっても、そこにあなたが寄り立って恋しがっていらっしゃっていたからこそ、私の夢に見えたのでしょう。
赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて そを飼ひ 吾が行くが如 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峯のたをりに 射目立てて 鹿猪待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね(万3278)
葦垣の 末かき分けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ(万3279)
万3279番歌の「末」という言い回しは巧みである。茅の輪は円環だから始点も末端もない。くぐりは8の字を重ねるように左、右、左回りして進むという面倒くさい進み方をする。本当は存在しない茅の輪の「末」のところをかき分けるように罪を祓って越えて来ているのだから、その事情を汲んで、犬よ、吠えて人に告げるようなことをするなと長歌の方で言っている。犬がぴょこぴょこ茅の輪を越えることは想像に難くなく、途中でおしっこをひっかけることもあり得ることである。
万4357番歌は、防人の歌である。「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫に遣はさえし諸国の防人等の歌」と万4321番歌前に題詞のあるうち、「二月九日に、上総国の防人部領使、少目従七位下茨田連沙弥麻呂の進れる歌の数は十九首、但し拙劣き歌は取り載せず。」と万4359番歌の左注に記されるうちの一首である。
葦垣の 隈処に立ちて 吾妹子が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ(万4357)
防人に選ばれて出掛けることになった。生還できるかハイリスクな任務である。お祓いをして無事を祈ったということであろう。直面するつらい事態を歌うものである。
花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し子ゆゑ 千たび嘆きつ(万2565)
人間守り 葦垣越しに 吾妹子を 相見しからに 言そさた多き(万2576)
これらの「葦垣」も茅の輪のことと考えられる。万2565番歌の「花ぐはし」が「葦」に掛かるのは、「葦」がイネ科の総称として用いられていて、「茅花」は若いうちは食用になったから、「花食はし」の意にもとっておもしろがったのだろう(注8)。そして、「葦垣越し」に会うということが、罪・穢れを祓わないでいることを表し、結果的に苦難を味わうことを謂わんとしている。その苦難が千倍になっているのは、「茅」が「千」と同音だからである(注9)。万2576番歌の「さた」は「定む」の語幹であると考えられており、「人間守り」と人に見られない隙をついているのだが、罪・穢れを祓うべき場を逢瀬の場にしていたら、さだめて人言はかえって多くなるものであると言っている。人が見ていないからと言って悪いことをするものではないことは、古今東西変わらぬ教えと思われる。
おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に ……(万928)
難波と葦との関係は、他の例にも知られる。
…… いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳向け漕がむと ……(万4398)
「葦が散る」は、難波が湿地帯の多い地であったことからの修飾語、枕詞とされている。ナニハはナ(魚)+ニハ(庭)、また、ナミ(浪)+ハ(花)の意と捉えられ、海面に風波がちらちら輝くさまと茅花が咲いて揺れ動いてちらちらするさまが同等のものと認識されたからであろう。したがって、万928番歌の「葦垣の」は、「振り」と同音の「古り」に掛かる枕詞でありつつ、「難波の国」によって導き出された修飾語であるとも言える。
以上から、万葉集の「葦垣」は、茅の輪のことをいう文学的表現であったと理解されよう。
とはいえ、語学的にどうして「葦垣」が茅の輪のことを指すと言えるのか。
アシカキと聞けば、水生の哺乳類、アシカ(海驢)のことが思い浮かぶ。当時のヤマトの人はアシカを毛皮でしか目にしたことがなかったかもしれないが、その足が鰭化したものであることだけは了解できたであろう。蝦夷から聞く話でも、這うようにして歩いていることが伝えられていたに違いあるまい。足を掻いて懸命に歩を進めものの、足を欠いているからなかなか進まない。茅の輪くぐりでなかなか前へ進めないことを思わせる(注10)。アシカのことは古語ではミチという。「海驢の皮八重」(記上)とある。道にまつわる動物の名となっている。ミチはミ(御)+チ(茅)の意であるとも解釈できる。

そんなアシカによく似た音の語にアジカ(蕢・簣・䈪)がある。竹や葦などで編んだ籠のことである。新撰字鏡に、「篅 上字、時規・市縁二反、舟笥也。小筐也。又、簞に作る。志太美、又、阿自加、又、伊佐留」、和名抄に、「䈪 方言注に云はく、䈪は形小さくて高く、江東に呼びて䈪〈呼撃反、漢語抄に阿自賀と云ふ〉と為といふ。今案ふるに又、簣の字を用う。史記に見ゆ。」、「籮 考声切韵に云はく、江南の人、筐の底、方にして上、円なる者を謂ひて籮〈音は羅、之太美〉と為といふ。」、「箄 四声字苑に云はく、箄〈博継反、漢語抄に飯箄は以比之太美と云ふ〉は甑底を蔽ふ竹筐なりといふ。」とある。シタミ(蘿・籮)は、底が四角く上が丸く作られた笊のことともされている(注11)。しずくをしたたらすことに用いられ、特に酒を濾すために用いられた。
漢土において、それはチガヤ(茅)で作られ、蕝という字が用いられている。国語・晋語に、「昔成王盟二諸侯于岐陽一。楚為二荊蛮一、置二茅蕝一。」とあって、盟約を結ぶために酒を濾すために茅で作った蕝を使っている。真ん中をくぼめた形にしたものと考えられる。名義抄に、「凹 クボム、禾[和音]エフ、又、和」と訓があって、丸く凹んだものをワと言っていたことが知れる。茅の輪ということになる。霊異記には地名として「片蕝 カタワ」(上・三)とあり、蕝とは輪、すなわち、茅の輪のことであるとわかる。
説文に、「蕝 朝会束レ茅表レ位、曰レ蕝。从レ艸絶声。春秋国語曰、致二茅蕝一表レ坐。」とあって、朝廷の会合の際に位次を表すために立てた茅の束のことを言った(注12)。また、蕝は橇に通じる。アシカは足を欠いてまことに橇のようなものである。史記・夏本紀の禹の治水事業に、「陸行乗レ車、水行乗レ船、泥行乗レ橇。〈集解徐広曰、他書或作レ蕝。駰案、孟康曰、橇形如レ箕、擿行二泥上一。如淳曰、橇音茅蕝之蕝。謂下以レ板置二泥上一以通中‐行路上也。〉」とある。アシカの毛皮は敷物だから席次にまつわり、それを漢土では茅で示して蕝としている。
よって、万葉集に「葦垣」とあるのは、「茅の輪」のことであったと推定される(注13)。なぜこれほどまでややこしい表現が用いられたかについては今後の課題である。
(注)
(注1)万葉集に十例を見た「葦垣」は、その後、中古では源氏物語に三例(催馬楽の曲名「葦垣」が他に二例)を見るものの散文ではほとんど見えない。和歌には、「人知れぬ 思ひやなぞと 葦垣の まぢかけれども 逢ふよしのなき」(古今集506)、「葦垣に ひまなくかかる 蜘蛛の網の ものむつかしく しける我が恋」(金葉集(二度本)446)、「梅の花 いかでにほひの もりくらむ 葦の中垣 ひまなきものを」(夫木抄15016)といった歌に見られる。枕詞など修辞的な利用目的で葦垣という語は使われることが多い。後の作庭文化においても葦垣が実用上注目されるには至っていない。
(注2)賀古1965.に、「「葦垣」の語は、……万葉集歌中において、相思の男女の忍び逢う場である、女の家の垣のある所、その「忍ぶ恋の場」の垣の意を、「葦垣」などの「垣」の類語に負わせて、その恋情意の思惟の表現要素語として用いられている、特定の意義・用法の性格、すなわち、万葉情意語としての性格のものである」(140頁)としている。どうして「葦垣」という語が負わされたのか説明はない。
(注3)阿蘇1995.参照。
(注4)茅の輪くぐりがいつから行われていたか、はっきりしたことは不明である。大森1958.は、民間行事と国家祭祀とが混淆されたものであるとし、「名越の祓とよばれる行事の内容は、茅の輪を潜り越えることと、水辺に出て麻・木綿などを著けた五十籤を立てて祓を行ふことの二つである。このうち、茅の輪をくぐることが本来の名越の祓であって、水辺の祓は大祓系統のものであらうか。」(3頁)とする。
茅の輪を腰に着けたことは備後風土記逸文に蘇民将来の記事に見え、また、類似のものとしてか、「すがぬき」、「水無月の輪」、「御輪」とも呼ばれている。ミワと称されることは、疫病をひろめる祟り神をしてあった三輪山との関係を思わせ、祓えの具として認められるに至っていたであろうことが予感される。
実際の文献としてこれまでもっとも古いとされるのは、執政所抄(12世紀初め)であり、「晦日御祓事 御禊具 八足供物〈茅輪を居ゑ小幣を立て瓜・茄子・桃を供す〉 麻木綿 折敷供物 茅人形 解縄 散米 居坏……」(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200021032/viewer/12)とある。茅の輪が立てられたものかどうか定まらないが、拾玉集(1346年)に、「夏終つる 今日の祓の すがぬきを 越えてや秋に 成らむとすらむ」(巻六・夏二十首)とあり、ナゴシは越えるものとの観念が定着していっているように思われる。茅の輪はくぐるタイプで、すがぬきは身に着けたり身を通したりするタイプかとも言われている。藤原忠通・法性寺関白御集(12世紀)に「六月祓詩」がある。
世上久為流例態 林鐘晦日禊除衆 詠無他詠千年頌 期有定期六月風
苔地燎幽迎夜処 石湍水冷欲秋中 未知何物号菅抜 結草如輪令首蒙
林鐘は六月の異称、菅抜を首にかけることが祓の所作であったようである。スゲ(菅)で作られていたとする説の一方、スガ(清)ヌキ(抜)ゆえの称とも言われている。到津公弘・宇佐宮斎会式(享徳四年(1455))に宇佐神宮で行われていた御祓会の行事の次第が記されている。史料にて遡ることのできない事柄ゆえ、筆者は絶対の自信をもって「葦垣」=「茅の輪」説を唱えているわけではない。それでも、「葦垣」が単純に葦の垣であると考えられない例証として、「……水蛭子。此の子は、葦船に入れて流し去りき。」(記上)や、「葦かびの」という語がある。「葦かびの」が葦の発芽を言うにしても、種子からの発芽ではなく、地下茎からの発芽である。だから「足ひく」にかかる。拙稿「石川女郎と大伴田主の歌合戦について─「みやびを」論争を超えるために─」参照。
我が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足ひく我が背 勤め給ぶべし(万128)
右、中郎の足の疾に依りて此の歌を贈りて問訊ふそ。
(注5)神祇令に、「凡そ六月・十二月の晦日の大祓には、中臣は御祓麻を上れ。東西の文部は祓の刀を上り、祓詞を読め。訖りなば、百官の男女を祓の所に聚め集へ、中臣は祓詞を宣べ、卜部は解へ除くこと為よ。」とある。
(注6)ヤマトは「葦原中国」である。葦を抜いて稲を育てた農業国家である。だから、葦の垣の中は自分のところで、外はそれ以外のところという意識があり、語の形成に与ったと取ることは不可能ではないが、他の用例との整合性が保てない。
(注7)万3975番歌の「葦垣の」は枕詞として考えるのは適当でないと言える。もちろん、垣根によって離されているという心理的な距離感、疎外感を言っているものではない。
(注8)「花ぐはし 桜の愛で」(紀67)の歌について、桜は花の代表だから枕詞「花ぐはし」は「桜」に掛かるとする説は眉唾である。サクラはサクという語(音)をカバーしているから、そういう枕詞を作ったというのにすぎない。万葉時代に桜が愛でられていることはなかったと考えられている。中国の文芸に感化されて梅を愛でることは行われたが、ヤマトにもともとあったものではない。風流という概念で物事を語ることは歴史時代においてそれまで行われたことがなかった。すなわち、今日、パンダがかわいいと思うことは、自然界の原則から逸脱した考えで命にかかわる危険な捉え方である。クマ科の猛獣である。愛玩の対象となるまでには文明の洗礼を受けなければならない。飛鳥時代に都市化が起こって一部の貴族的階級に庭園を造ることがあったが、サクラが植えられた痕跡はない。サクラには実需がある。樹皮が曲物の綴じ皮に用いられている。拙稿「サクラ(桜)=サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)説」参照。
(注9)夏越の祓行事に、「水無月の 夏越の祓へ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(拾遺和歌集292、読人不知)を唱えている。
(注10)本邦の水族館にアシカショーが人気を博している。輪くぐりの曲芸が披露されている。古代に行われたか不明である。
(注11)ずんぐりむっくりのアジカ(蕢・簣・䈪)は脚なしに見え、アシカ(海驢)を意識した語かと思わせる。新撰字鏡に、イザルとあるのは、座ったままで移動すること、膝行することをイザルと言っていたことと符合する。万128番歌に「葦かびの」が「足ひく」とつづくことは、「葦垣」とアシカとの連動を支持するものである。
(注12)文徳天皇実録・斉衡三年(856)十一月壬戌(23日)条に、本邦に三度しかない郊祀、都の南郊に天壇を置いて天帝を祭るものであるとされる最後の例が載り、「設レ蕝習礼」と記されている。桓武天皇時代、延暦年間の長岡京から平安京へ遷っているのに旧時に倣って交野で行っているという。中国では天子がじきじきに赴くところ、大納言の代拝で済ませている。祝板と供物を携えて交野へ行って郊祀の予行演習をする際に席次を示したものと考えられている。あるいは、この「蕝」は敷物としての藁蓋相当のもの、また、茅の輪のようなものと考えられなくもない。
(注13)源氏物語の実在の「葦垣」については、中古文学のなかでは偏在している。語に対する作者の無理解によるのではないかと臆する。
(引用・参考文献)
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岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
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賀古1965. 賀古明『万葉集新論─万葉情意語の探究─』風間書房、昭和40年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
黒須2000. 黒須利夫「『日本文徳天皇実録』とその時代─斉衡の郊祀─」『歴史読本』第45巻第9号(724)、2000年6月。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
額田1984. 額田巌『垣根』法政大学出版局、1984年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
加藤良平 2021.7.18初出2022.12.31加筆