持統天皇の御製歌、万28番歌は次のように訓まれている(注1)。
藤原宮御宇天皇代〈高天原広野姫天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇〉
天皇御製歌
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山(万28)
持統天皇の御製である。題詞には「天皇御製歌」とだけ書いてある。この歌の解釈は二つの説に大別される(注2)。一つは衣替えの際の洗濯物を歌ったというものである。もう一つは、その洗濯物が民俗の祭礼用の装束と関係があるとするものである(注3)。わずかに字句を変えて百人一首に採られている。その時には本当に洗濯物の歌であると解釈されたのだろう。しかし、万葉集に当初収録された時点で、単なる洗濯物の歌であったとはなかなか考えにくい(注4)。洗濯物を見て歌を歌うという風習が、よりによって天皇によって景物として歌われているとは考えられない(注5)。
この歌の前後を見渡すと、天皇の所在しているところ、すなわち、「宮」に当たるところについての歌が並んでいる。この歌にも、題詞の前に標目が掲げられ、「藤原宮」と明記されている。一連の歌は、行幸先の離宮を含めた王宮に関係する重要な内容の歌が歌われているようである(注6)。
天皇の御製歌
み吉野の 耳我の嶺に 時無くそ 雪は落りける 間無くそ 雨は零りける 其の雪の 時無きが如 其の雨の 間無きが如 隈も落ちず 思ひつつぞ来し 其の山道を(万25)
或る本の歌
み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は落ると言ふ 間無くそ 雨は落ると言ふ 其の雪の 時じきが如 其の雨の 間無きが如 隈も堕ちず 思ひつつぞ来し 其の山道を(万26)
右は句々相換れり。因りて此に重ねて載す。
天皇の吉野宮に幸しし時の御製歌
淑き人の 良しとよく見て 好しと言ひし 芳野吉く見よ 良き人よく見(万27)(注7)
藤原宮御宇天皇代〈高天原広野姫天皇元年丁亥、十一年、位を軽太子に譲りたまひ、尊号を太上天皇と曰ふ。〉
天皇の御製歌
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山(万28)
近江の荒れたる都を過ぎる時、柿本朝臣人麿の作れる歌
玉たすき 畝傍の山の 橿原の 日知りの御世ゆ〈或に云ふ、宮ゆ〉 生れましし 神のことごと 樛の木の 弥継嗣に 天の下 知らしめししを〈或に云ふ、めしける〉 そらにみつ 大和を置きて あをによし 平山を超え〈或に云ふ、そらみつ 大和を置き あをによし 平山越えて〉 いかさまに 念ほしめせか〈或に云ふ、念ほしけめか〉 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は 此間と聞けども 大殿は 此間と云へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる〈或に云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 繁く成りぬる〉 ももしきの 大宮処 見れば悲しも〈或に云ふ、見れば寂しも〉(万29)
楽浪の 思賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ(万30)
楽浪の 志我の〈一に云ふ、比良の〉大わだ 淀むとも 昔の人に 亦も逢はめやも〈一に云ふ、会はむと思へや〉(万31)
高市古人の近江の旧堵を感傷みて作れる歌〈或る書に云ふ、高市連黒人といへり〉
古の 人に我あれや 楽浪の 故き京を 見れば悲しき(万32)
楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京 見れば悲しも(万33)
紀伊国に幸しし時に、川島皇子の御作せる歌〈或に云ふ、山上臣憶良の作れる〉
白浪の 浜松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ〈一に云ふ、年は経にけむ〉(万34)
日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸す、といへり。
上に記した歌は、万23・24番歌の「麻續王流二於伊勢國伊良虞嶋一之時、人、哀傷作歌」の歌に続くもので、その後は万35番歌の「越二勢能山一時、阿閇皇女御作歌」となっている。万25~34番歌は「宮」の歌と一括できる。「宮」とはミ(御)+ヤ(屋)の意で、天皇がいるところがミヤだから、行幸先を含めて宮の歌が連続しているのである。
万28番歌は藤原宮の歌である。ただし、遷都した喜びばかりを述べるために、天の香具山を持ち出して歌っていると考えるのは誤りであろう。おおらかに洗濯物を風景描写しているわけではないことは、前後の歌を見ても皆曰く因縁がありそうだから確かである。原文に記されているのは、標目とその分注、題詞、歌ばかりである。
宮を詠んだ歌であることに違いはないし、それを出発点として考えるのは妥当なことである。標目から藤原宮であることは明らかである。藤原宮から望む香具山の光景を歌に詠んでいるように思える。目に映るのは香具山であり、それを大仰に「天の香久山」と言っている。何かを幻影していると考えられるわけであるが、持統天皇が勝手に思い描いて歌っているとは考えられない。歌は、歌う人と聞く人とがともに理解し合い、共有し合ってはじめて成立するものだからである。そうでなければ歌がモノローグであったことになってしまう。一人カラオケのようなことがあっても構いはしないが、それが記し留められることはない。コミュニケーションツールとしてあるはずの「歌」になっていないからである。すなわち、聞く人が皆「天の香具山」の曰く因縁のある事柄を、いま見えている香具山になぞらえて歌われているのだと、すぐにわかったということである。
持統天皇は「天の香具山」に何を見ているのであろうか。具体的形象はわかっている。「白妙能衣乾有」である。「天の香久山」と歌に言うからには、人々の想念の中に共通感覚として「白妙能衣」に当たるものがあったということである。だからあえて持統天皇は洗濯物を歌にしている。藤原京遷都後の宮讃め歌であったろうと考えられる。その手法が、今日の感覚からは想像がつきにくいものになっている。
歴史上、藤原の地に宮が置かれるのは二回目である。一回目は枝葉末梢的な事実として伝承され、日本書紀に「藤原宮」として記録されている。允恭天皇がその妃、弟姫(衣通郎姫)のために建てた宮があった。天皇は皇后を憚って、衣通郎姫を側室として後宮に入れることなく、藤原の地に専用の宮を設けてそこへ住まわせた。允恭紀七年十二月から翌八年二月までわずかな間住み、その後はさらに離れた河内の茅渟に宮を作って引っ越している。彼女の名前は衣通郎姫である。名の由来を含めて事情が記されている。
弟姫、容姿絶妙れて比無し。其の艶しき色、衣より徹りて晃れり。時の人、号けて衣通郎姫と曰ふ。……是を以て、宮中に近づけずして、則ち別に殿屋を藤原に構てて居らしむ。大泊瀬天皇を産らします夕に適りて、天皇、始めて藤原宮に幸す。……八年の春二月に、藤原に幸す。密に衣通郎姫の消息を察たまふ。……天皇、則ち更に宮室を河内の茅渟に興造てて、衣通郎姫をして居らしめたまふ。(允恭紀七年十二月~八年二月)
これをもって、天の香具山に衣を結びつけている意味合いが理解される。衣通郎姫にゆかりの地だから衣が干してある。万28番歌では「白妙能衣」の透き通るよう様を言っている。時代は移り、人が変わっても、藤原の地はその拠り所をとどめたまま続いている。その藤原の地の一貫性、正統性を歌に歌っていることになる。したがって、万28番歌原文の「衣乾有」の「衣」はソ(甲類)と訓むべきとわかる(注8)。衣通郎姫という名に音を対応させなければわかるものもわからない。そして、二句目の「夏来良之」を「夏キタルラシ」と訓むのだから、「乾有」はカワキタルアリと訓むべきとわかる(注9)。「乾きたる(キは甲類)」のキタルことがあるから「来たる(キは甲類)」ことであると、証拠に基づく推定を示す助動詞「らし」という語が出来している。言葉の音が助動詞の「らし」を支えている。「らし」は、「その認識が、外部に存在する情報を根拠にして成立したことを表す。」(小田2015.182頁)ものである。根拠となる情報は、確かなものでなければ用をなさない。四季を問わずに洗濯物は干すのだから、根拠たるためには、衣替えのために春の服を洗濯して干してこれからしまうところであるという言い訳となってしまう。万28番歌を額面通りに聞いてそのように聞き取ることはできない。過不足なく歌い上げられたものであり、補うことなく理解可能でなければ口頭言語芸術であった万葉集の歌にそぐわない。
この歌の解釈に、神事用装束の洗濯物説があった。神事用装束の名称は、「衣」である可能性が高い。打掛(帔、裲襠)や襅と呼ばれる上っ張りは、袖なしの貫頭衣であった。祭祀にあたって帔(裲襠)を着て舞を舞ったり、神官が襅を着る機会があった。そして、ヤマトコトバに、袖がついた幅の広いトップスをコロモ、袖なしの幅の狭いものをソと呼んで区別していた。何の神事かは歌自身が語っている。衣類がカラカラに乾いているためにはお日様が必要である。昔々のお話がよみがえっている。
春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾きたるあり 天の香具山(万28)
春が過ぎて夏が確かにやって来た(ナツキタル)ようです。なぜなら、白栲の衣を干して乾いた(カワキタル)のが手元にあるからそう言えるでしょう。日光が強くなったから乾いたのです。思い出してごらんなさい。その昔、天の石窟に籠ってしまった日神、天照大神に出てきてもらうように祈った時、天の香具山の五百箇真坂樹(五百津真賢木)を根ごと掘り取ってきていろいろな飾り物を懸けて用意したでしょう。それで再びお日様は輝くことになったのですね。この宮の裏庭の物干し柱もそんなサカキ製なのでしょう。ここ藤原宮から香具山がよく見えるのは、衣通郎姫が住まわっていたところ、衣を光が通ったと言われるほどの人が住んでいたところです。日の光がそれほどまで強いのですから、夏が来たに違いないではないですか。
日神が天の石窟に籠ったときの話は次のようなものであった。
……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、中臣連の遠祖天児屋命、忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇真の坂樹を掘じて、上枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中枝には八咫鏡……を懸け、下枝には青和幣、……白和幣を懸でて、相与に致其祈禱す。又猨女君の遠祖天鈿女命、則ち手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優す。亦天香山の真坂樹を以て鬘にし、蘿……を以て手繦にして、火処焼き、覆槽置せ、……顕神明之憑談す。……是の時に、天照大神、聞しめして曰さく、「吾、比石窟に閉り居り。謂ふに、当に豊葦原中国は、必ず為長夜くらむ。云何ぞ天鈿女命、如此㖸楽くや」とおもほして、乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。是に、中臣神・忌部神、則ち端出之縄……界す。乃ち請して曰さく、「復な還幸りましそ」とまをす。(神代紀第七段本文)
……天児屋命・布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木を根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著け、中の枝に八尺の鏡を取り繋け、下つ枝に白丹寸手・青丹寸手を取り垂でて、此の種々の物をば、布刀玉命、ふと御幣と取り持ちて、天児屋命、ふと詔戸言禱き白して、天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、天宇受売命、手次に天の香山の天の日影を繋けて、天の真析を鬘と為て、手草に天の香山の小竹の葉を結ひて、天の石屋戸にうけ伏せて、蹈みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳の緒をほとに忍し垂れき。爾くして、高天原動みて、八百万の神、共に咲ひき。(記上)
この歌は、二句目と四句目で切れる。つまり、独立する三つの文で構成されている。
A.春過ぎて 夏来るらし
B.白栲の 衣乾きたるあり
C.天の香具山
それらが互いに関係し合っているから、ひとつの歌として捉えることができる。Aという推定の叙述は、Bという根拠の叙述によって確かめられ、そのBという叙述はCによって種明かしされている。Aは提題であって、季節感をそのまま表しているわけではない。特に暦に縛られることなく、旧暦の四月ぐらいであれば大体構わない。なぜA「春過ぎて夏来るらし」と確からしく推定して言えるのか、それは、Bにいう「白栲の衣」の「乾」いた状態のものが今ここに「有る」からである。そのこころは、Cの「天の香具山」である。ほら、あそこに見えるでしょう、と言っている。日神である天照大神が石窟から出てくるように祈願してそれがかなったのは、道具立ての天の香具山の真坂樹などが適切だったからである。日の光があふれているから手元にあるシースルー様の袖なしの「白栲の衣」はよく「乾」いている。衣通郎姫が藤原宮に住んでいて、衣を通って光が照るほどであったことを彷彿させると歌っている。洗うほどに白くなることをもって衣通郎姫を思すことにつながるから、「白栲の衣」と言っている。香具山に物干しの実景など見てはいないのである。
(注)
(注1)阿蘇2006.の「歌意」に、「香具山に干している白い衣服が初夏の強い日光をキラキラと反射させて、周囲の濃い緑に映えている様子から、春の季節が過ぎて夏が来たことを、実感として受け止めて詠んだもの。香具山の周囲に広がっていたに違いない青々とし た稲田、山の上に広がる青い空まで目に浮かぶような印象鮮明な歌である。」(122頁)とある。
(注2)松本2007.は、先行研究から、①訓法、②四季観の発達、③白妙の衣の解釈、の三つの問題点に大別されるとして分析している。最終的に惜春の情があるとしている。筆者は、実は歌のすべてが問題点であると考えている。全然読み解けていないからである。大濱2008.に、「その実態が更衣(代匠記 初・精)にせよ神事の衣裳(折口信夫、渡瀬昌忠氏)にせよ、およそ衣類を「乾す」ときに、現代の都会における狭小な住宅事情で、ドライエリアが制限されるような場合ならまだしも、そういうことは到底考えられない当該歌のような場合、わざわざ香具山の〈西斜面ないしは北西斜面〉に「衣」を「乾」 したりするものであろうか。」(16頁)と、当たり前の疑問を呈していることがよく物語っている。したがって、仮構ばかりの諸説については深入りしない。
(注3)櫻井2000.に、「折口信夫先生は五月女たちの禊ぎの衣だったと推定された……。田植は今日でこそ家々の稲作上の一段階である労働にすぎないものにみえるが、古くはヲトメが奉仕する神ごとであった。……神ごとであった田植に先立って、選ばれた五月女が神域にこもって禊ぎをする。その禊ぎはたぶん埴安の池の水源だったと思われる哭沢で行なわれたのであろう。「白たへの衣」が禊ぎのたびに干されたに違いない。」(15頁)とある。
多田2009.に、「栲は楮や麻の樹皮の繊維で織った布。洗えば洗うほど真っ白に晒された。それで製した衣が「白栲の衣」だが、聖なる山である香具山に乾したとあるから、一般人の常用の衣ではなく、夏の神事のための巫女の斎み衣だろう。」、「季節の到来を歌う歌─季節の到来をうたった歌は多いが、その季節は大半が春や秋である。夏の到来をうたうのは目新しい。季節の到来を感じさせるのも自然現象であることが多い。しかし、この歌では「白栲の衣」を乾すという人為的な営みが季節の推移を感じさせている。ここには、暦によって季節の到来を把握するようになる直前の時間意識が現れている。その背後には藤原京における新たな都市生活の始まりがある。」(42頁)とある。
(注4)拙稿「万葉集における洗濯の歌について」で考察したように、洗濯の歌自体がないわけではない。しかし、それらは洗濯という作業工程を例えにして歌を歌っている。
(注5)儀式用装束のことを指すからとの指摘もあるが、儀式を歌うのであればその最中のことを歌えばよい。準備や後片付けの様子は備忘録にさえほとんど記されない。毛利2012.に、「季節の到来に「らし」(推量)をもつことは、根拠たらしめる作者の目に映じる景に重点があり、その到来の根拠たるものが重要な位置を占め、歌の主眼ともなっていることである。中国暦法が伝来して季節観も深まり、持統天皇の二八番にその影響が考えられるにしても、この歌自体、季節の到来を根拠づける景の「真っ白な衣が干してある、天の香具山に」がきわめて大きな内容を占めており、その上、その根拠は集中に多く存する自然物であることとは異なる希有な在りようとして存在しているということである。」(13頁)と定位されるが、結局のところ何もわからなかったと述べている。
(注6)編纂者が意図をもって歌を並べることは想像に難くないが、そのような視点から俯瞰した研究は管見に入らない。
(注7)原文の「淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見与良人四来三」をこのように訓むと定説化しているのでそのまま記しておく。
(注8)拙稿「上代語「衣(そ)」の上代特殊仮名遣い、甲乙の異同について」参照。
(注9)万葉集の原文中、「乾」の字の用例には次のものがある。
フ(上二段活用)
「衣の袖は 乾る時も無し〔衣之袖者乾時文無〕」(万159)
「我が衣手は 乾る時もなし〔吾衣手者乾時毛奈志〕」(万703)
「我が袖乾めや〔吾袖将乾哉〕」(万1995)
「袖乾る日なく〔袖乾日無〕」(万2849)
「乾めや我が袖〔乾哉吾袖〕」(万2857)
ビ(訓仮名、ビは乙類)
「朝露に 咲き荒びたる〔朝露尓咲酢左乾垂〕」(万2281)
ブル(訓仮名)
「うらぶれにけり〔浦乾来〕」(万2465)
ヒ(連用複合語名詞)(乾・干)
「由良の崎 潮干にけらし〔湯羅乃前塩乾尓祁良志〕」(万1671)
ホス(四段活用)
「綱手乾したり 濡れもあへむかも〔綱手乾有沾将堪香聞〕」(万999)
ホシ(連用複合語名詞)
「乾鰒」(万327題詞)
カワク(四段活用)
「濡れにし衣 干せど乾かず〔沾西衣雖干跡不乾〕」(万1186)
アメツチ(天地・乾坤)
「天地の〔乾坤之〕」(万2089・3346)
「天地の〔乾坤乃〕」(万3289)
(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
大濱2008. 大濱眞幸「持統天皇御製歌僻案─「春過ぎて夏来るらし」をめぐって─」『国文学』第92巻、関西大学国文学会、2008年3月。関西大学学術リポジトリ http://hdl.handle.net/10112/1217
櫻井2000. 櫻井満『櫻井満著作集 第六巻 万葉集の風土』おうふう、平成十二年。(『万葉集の風土』講談社(講談社現代新書)、1977年。)
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
松本2007. 松本尚美「万葉持統歌(一・二八)の主題─惜春の抒情について─」『広島女学院大学国語国文学誌』第37号、2007年12月。広島女学院大学リポジトリ https://hju.repo.nii.ac.jp/records/471
毛利2012. 毛利正守「持統天皇御製歌─巻一・二八番をめぐって─」『萬葉』第211号、2012年3月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/2012
加藤良平 2021.8.15初出