万葉集巻13の3242番歌は、定訓を得るに至っていない。
百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓日向尓行靡闕矣有登聞而吾通道之奥十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奥礒山三野之山
右一首
ももきね 美濃の国の 高北の 泳宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 吾が行く道の 奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は衝けども 心なき山の 奥十山 美濃の山(万3242)
右は一首
訓が定まらないのは「行靡闕矣」であるが、訓み方の問題だから前後を含めてあやしいと考えなければならない。それでも、歌意についてはおおよそのことが了解されている。「八十一」は掛け算の九九の義から「八十一隣之宮」は景行紀に出てくる「泳宮」である。そこを訪れるべく出かけては行ったものの、険しい「奥十山」がさえぎって到達することができなかった、そのことを嘆く歌であるとされている。
先行研究では、「行靡闕矣」のなかでも「闕」字をどう捉えたらよいのかに難渋している。万葉集中には、「闕」を「欠」の意に使う例が見られる。
世間は 空しきものと あらむとそ この照る月は 満ち闕けしける〔満闕為家流〕(万442)
白髪生ふる 事は思はず 変若水は かにもかくにも〔鹿煮藻闕二毛〕 求めて行かむ(万628)
三野連〈名を闕せり〔名闕〕〉 唐に入りし時に、春日蔵首老の作る歌(万62題詞)
「闕名」は、紀では定式の書き方である。
それに従い、「行き靡かくを」といった訓みが行われ、契沖・万葉代匠記(精撰本)に、「アリク姿ノタヲヤカナルヲ以テ美人ヲ呼ナリ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979064/317)として雄略紀の童女君の女子の姿を例にみている。この訓の難点は、にわかには前後と意が通らないところである(注1)。
また、「闕」には、宮闕、城闕、天闕などの意がある。荷田信名・万葉集童蒙抄に、「闕の字ハ殿闕楼閣なと云て、みやとよむ字なれハ、まふつるみやとか、仕るみやとかよむへき也。」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001741/viewer/1679、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)と指摘されている。そこで「行きなむ宮を」、また、「宮闕」(斉明紀元年十月)という例もあって、「い行き靡かふ 大宮を」と二句に訓む試みも行われている(注2)。この場合は宮の存在を聞いてそれを見に行こうとしているという意味と考えている。
しかし、この解釈は、「日向尓」に関して捉え方が不確かに思われる。「泳宮に 日向ひに 行靡闕矣 ありと聞きて」と、「~に~に」と続いている点の解釈に難がある。日に向って大宮が建っているとするのは、「泳宮に」の「に」が、例えば、平城京のなかに平城宮が東向きに建っているということと聞える。その可能性はないわけではない。「泳宮」を「八十一隣之宮」と表記しているから、そこには碁(将棋)盤目状に条坊があって、その中央部か西端部に東向きの宮殿が構築されているという考えである。ただし、東面する宮殿建築というものがあったのか、寡聞にしてわからない(注3)。
「日向尓」については、「東に」と訓む説もある。賀茂真淵・萬葉考三に、「日向尓 〈東になり。〉」(大阪府立図書館・おおさかeコレクションhttp://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000005-00141646(12/49))とある(注4)。その場合も、「闕」を大宮のことであるとするなら、今度は西向きに建てられた宮殿建築ということになり、様式として認められるものとは言い難いのであるが、歌の作者が奈良の都側から美濃を歌っているとするのなら正対することにはなる。
「東に」と訓んだ場合、設定としては、「闕」を大宮ととるのではなく門のことと考えたほうが自然である。説文に、「闕 門観なり、門に从ひ欮声」、釈名・釈宮室に、「闕 門の両旁に在り、中央闕然として道と為るなり」とある。上部ないし両サイドに物見櫓をそなえた門のことである。熟語として宮闕、城闕、天闕などと書いてあるのではなく、一字で記されている。ポピュラーな受け取り方をするなら、「門」のことと捉えてかなっている(注5)。
「泳宮」の「闕」は宮門のことである。「~に~に」と続く点についてもうまく説明できる。「泳宮に 東に 行き靡く門を ありと聞きて」と訓むのである。宮には東に門があって、それが「行き靡く」ようなゲートだと聞きつけて見に行こうとしている。さすがは宮殿の門だけのことはある。そんなおもしろい門があるのなら実地で見てみたいという話になっている。
「行き靡く門」とは都の東門である。北は玄武、南は朱雀、西は白虎、東は青龍である。五行説に基づく四神で東は青龍が当たり、それが「行き靡く」者として想念されたのであろう。景行紀に登場していたかなり昔の宮、遠く美濃国へ行幸した際の離宮のことに、外来思想によるそのような門が実在したとは思われない。しかし、万葉時代に、「泳宮」を「八十一隣之宮」と表記した。掛け算の九九が知られたからである。掛け算の九九は外来思想である。第一に、算数の話として、そして、第二に、忘れられがちであるが、クク(九九)と言っているのは音読み、すなわち、外来語だからである。ククリノミヤのククを「九九」だと思った時、その時が外来思想の導入時、発端なのである。この歌が歌われた時、「九九」を想定して歌が歌われ、同時に、五行思想も想定して歌が歌われた。
大宝元年春正月乙亥の朔、天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。其の儀、正門に烏形の幢を樹つ。左は日像・青龍・朱雀の幡、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物の儀、是に備れり。(続日本紀・文武天皇・大宝元年正月)(注6)
ヤマトコトバでククリは動詞ククルの連用形である。古典基礎語辞典の「くく・る【潜る】」の 「解説」に、「クク(漏く、もれでる。隙間をくぐる意)と同根。……原義は、詰まっているところの狭い隙間を通り抜けていくこと。特に、水・涙など液体が、狭い空間を漏れたり流れたりするときに使う。また、液体以外のものが、狭い空間を通り抜けるときや、水や土の中にもぐったり、そこを通行する意味でも用いる。なお、水中にもぐる場合には、ククル(潜る)よりも、ミヅククル(水潜る)の形で使うことのほうが多い。」(428~429頁)とし、「語釈」として、「①水などが漏れ流れる。……②狭い隙間を、身をかがめるようにして通る。……③水や土の中にもぐる。また、その中を通る。」(429頁、この項、我妻多賀子)をあげている。名義抄では、「潜」「泳」「湝」にクヽルとみえ、また、「櫳」字にクヾルとみえる。櫳は檻 cage の意味である。

ククリノミヤに門があるとすれば、人々は門をくぐって入城するのが言葉の上で望ましい。その構造は上に梁が渡されていて、高いところから監視できるように作られた「闕」であると記すことが適切である。ククリノミヤと呼ぶのにふさわしく、そしてまた、「櫳」字から考えられるように、至極尤もなことに門の装飾に空を泳ぐように行き靡く青龍が付けられている。龍はヤマトコトバにタツである。立つのであり、建つのであり、断つのである。門は建造物として建っているのであり、龍は行き靡いて立ち上がるのであり、ゲートが閉じられれば行き来は断たれるのである。門であれば扉はふつう地面とは垂直に軸を置いて開閉する開き戸であるが、「泳宮」なのだから水面を横になって泳いでいて、水平に軸を置いて伏したり起きたりする蔀やばったん床机様になるはずで、それを具現化したものが宮の東門、青龍門だと言っている。門扉は揚城戸(揚木戸、挙城戸、上げ木戸)となって檻の機能を果たすことが想定されたと考えられる。
日本書紀に所載の「泳宮」の伝承(注7)では、天皇が行幸してその地に美人がいると聞き、宮で鯉を泳がせて楽しんでいる。おもしろそうだと見に来た弟媛を留め置いてしまうというものである。すなわち、弟媛は、餌の鯉に釣られて罠の檻にはまって泳宮に監禁されたのだった。籠の鳥に捕まえられる仕掛けは、中に入ると揚げ簀戸が下りて出られなくなるものであった。伝承の設定を把握したうえで「闕」のことが歌われている。
カド(門)という語はカナトという語を原形とするとされている。
大前 小前宿禰が かなと蔭 かく寄り来ね 雨立ち止めむ(記80)
カナトは金属製の門ではなく、「堅固な門の意と見るのが穏当」(山口1985.235頁)とされている。鎖すときの堅牢さを表す語ということである。それは、「櫳」字が金偏でない点からも見て取れよう。春日権現験記絵のように簀に作られ透けた状態であってさえ、一度締められたら出られないようにできている。
門立てて 戸も閉したるを 何処ゆか 妹が入り来て 夢に見えつる(万3117)
門立てて 戸は闔したれど 盗人の 穿れる穴より 入りて見えけむ(万3118)
門は戸を閉めるものであり、そのロック機能のいかにも優れていることを「闕」字は表している。門に欮が加えられている。説文に、「瘚 屰气なり、疒に从ひ屰に从ひ欠に从ふ」とある。せきこむ意であると察しがつく。万民にわかるように設計され、言葉が作られている。また、欮は厥に通じ、掘ること、穿つことをも表す。万3118番歌の発想は漢字の字義に対応したものになっている。これが漢土との思考の類似を表すものなのか、たまたまなのか、不明である(注8)。
歌の作者はそこへ行こうとしてみるのだけれど、行く手を阻むものがある。「奥十山」である。「泳宮」へ行こうとしてなら泳ぐように進むということになるが、「沖」へまで泳いでは行けない。沿岸流に流されてしまう。九九をしていても「十」の位になると途端にできなくなる。九九によって得られた外来算術は、十進法で二桁になると役に立たず、ヤマトコトバに戻ってしまう。
戻ってしまうとは返って来てしまうことで、見ようとしても見ることはできないから、人麻呂調に山に向って靡けと言い放っている。石見相聞歌のパロディにもなっている。
…… この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は放りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山(万131)
「泳宮」を導く語に、「ももきね 美濃の国の 高北の」とある。「ももきね」は「美濃(の国)」の枕詞かと思われる。「高北」という美濃国のなかの小地名については未詳であるが、「高」は高低を、「北」は東西南北を意識させる。「闕」(=門)が起伏と方角とに関係することを示唆するために取り入れられた言い回しと考えられる。
結局のところ、万葉集巻十三の3242番歌は、外来文化と接触して、古くから伝承されている「泳宮」について、その名について換骨奪胎して考え直してみると、以上見てきたように受け取ることができると戯れている歌なのであった(注9)。
万葉集と漢文学との関係を、表記された用字から漢籍に出典を求めることが研究されて久しい。しかし、それらのなかには、万葉集の歌が声に出して歌われ、その声を聞いて享受されたものという観点、すなわち、人々のヤマトコトバの音声識語(識字ではない)についての意識が乏しい。漢字はヤマトコトバの書記のために方便として用いられたにすぎない。万葉集が万葉仮名で仮名書きされたり、ごくまれに「双六」といった漢語を使う以外、ヤマトコトバばかりを使って歌われていることからして当然のことである。この歌に外来の知識による九九や青龍の考えが持ち込まれていても、ヤマトコトバを解釈し直して戯れるための方便のようなものであることからも再認識される。万葉歌をものにしていた人たちは、すべからくヤマトコトバ人なのであった(注10)。
(注)
(注1)引いている雄略紀の例では、歩き始めた幼児の容儀について述べている。当該歌に、美しい女性の姿を「ありと聞きて 吾が行く」という展開があるとする先入観を抱く向きがある。松田1957.には、「闕」を闕文の意と考えて、「手弱女」を補う試案が提出されている。また、「行きかくるなく」と訓む説もある。
(注2)「い行き靡かふ大宮を」と訓む説は、中西1981.、阿蘇2011.、倉住2015.などに見える。「闕」を関の意と取って、「行くなき関を」と訓む説もある。
(注3)垣見2016.は、三音句を差し挟む形と捉え、「…… 日向ひに 行き靡く 闕を ありと聞きて 吾が行く 道の ……」と訓み、「歌の内容は、ある〈場所〉に名高い〈対象〉があると聞いて、それに惹かれて出かけて行くことを歌う形式であり、〈美濃の国の泳の宮〉に名高い〈闕〉があると聞いて出かけて行くけれども、我が通う道には、美濃の山が立ちはだかって通うのが困難であることを嘆く。」(12頁)ものと解している。「泳宮に」「闕」があると聞いてそれを見に行くというのでは、重要文化財か鰹木を載せた棟が珍しいとかいったことになるが、その場合は後者を「殿舎」、「大殿」、「高殿」などと言い換えてわかりやすくするだろう。同じミヤという語を使い、流れ消えていく声で歌っているとは考えにくい。
(注4)万葉集中に「向」字はムク、ムキ、ムカフと訓まれることが多く、「日向」という字面で「東」と訓んだ例は見られない。とはいえ、「朝月日向山」(万1294)、「朝月日向黄楊櫛」(万2500)などとある。方角に関しての例としては、「向南山」(万161)という戯書が知られる。「朝月の」は「日向」を導いていると考えられ、万1294番歌には「朝月日向山」と訓む説もあるが、「向」は対向の意と捉えるのが穏当だろう。「朝月」は西の空に沈みかかって反対の東の空に日が出てきて対向している。そのことは万161番歌の「向南山」の戯書にも当てはまる。
当該万3242番歌の「八十一隣之宮尓日向尓行靡闕矣」では、「八十一」をククと訓ませる戯書がすでに行われている。泳宮に「日」が対向してと考えるには何かしら「朝月」のような性質を「泳宮」が持っていなければならないが、なかなか考えにくい。「朝月日向山」(万1294)の例で考えられる「日向山」は方角的には東に位置すると考えられる。
紀には次のような例がある。
時に東を望して左右に謂りて曰はく、「是の国は直に日出づる方に向けり」とのたまふ。故、其の国を号けて日向と曰ふ。(時東望之謂左右曰、是国也直向於日出方。故号其国曰日向也。)(景行紀十七年三月)
今、我は是れ日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此れ天道に逆れり。(今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。)(神武前紀戊午年四月)
これらの例で、「日」は朝日のことを言っている。神武紀では、「東胆駒山を踰えて、中洲に入らむと欲す。」として臨んでいる。朝日があるのは東である。そこから「日に向ふ」という表現が生まれている。東西の方角を念頭においている。
(注5)日本書紀の「闕」一字の例は知恵がまさっている。
遂に海西の諸国の官家をして、長く天皇の闕に奉ふること得ざらしめむ。(欽明紀五年三月)
蝦夷・隼人、衆を率て内属ひ、闕に詣でて朝献る。(斉明紀元年是歳)
秋七月の辛巳の朔にして甲申に、蝦夷二百余、闕に詣でて朝献る。(斉明紀四年七月)
若し国家に利あらしめ百姓を寛にする術有らば、闕に詣でて親ら申せ。(天武紀九年十一月)
必ずミカドと訓んでいる。将軍や大名を殿と呼ぶように建物名で呼んでいる。ミカドは「御門」の意を出発点とした語である。皇居の門、宮門のことから、皇居のこと、皇居に住む天皇のこと、さらに皇室、天皇家のこと、朝廷、宮廷のことへと展開している。すなわち、「闕」とは門のなかでも宮殿に付随する御門のことだと言っている。当時、物見櫓を備えた門は、宮殿以外には一時期の蘇我蝦夷・入鹿の館ぐらいしか見出すことはできない。
(注6)大宝元年は西暦701年である。高松塚古墳やキトラ古墳といった終末期古墳の壁画に四神が描かれている。7世紀末から8世紀初頭に築造されたとされている。
(注7)景行紀の「泳宮」の件は次のとおりである。
四年の春二月の甲寅の朔にして甲子に、天皇、美濃に幸す。左右奏して言さく、「玆の国に佳人有り。弟媛と曰す。容姿端正し。八坂入彦皇子の女なり」とまをす。天皇、得て妃とせむと欲し、弟媛が家に幸す。 弟媛、乗輿車駕すと聞き、則ち竹林に隠る。是に天皇、弟媛を至らしめむと権りて、泳宮に居します。〈泳宮、此には区玖利能弥揶と云ふ。〉鯉魚を池に浮ちて、朝夕に臨視して戯遊びたまふ。時に弟媛、其の鯉魚の遊ぶを見むと欲して、密に来でて池を臨す。天皇、則ち留めて通す。爰に弟媛、以為るに、夫婦の道は、古も今も達へる則なり。然るを吾にして不便ず。則ち天皇に請して曰さく、「妾、性交接の道を欲せず。今し皇命の威きに勝へずして、暫く帷幕の中に納されたり。然るを意の快びざるに、亦、形姿も穢陋し。久しく掖庭に陪るに堪へじ。唯妾が姉有り。名を八坂入媛と曰す。容姿麗美し。志亦、貞潔し。後宮に納れたまへ」とまをす。天皇聴したまふ。仍りて八坂入媛を喚して妃としたまふ。七の男と六の女を生めり。(景行紀四年二月)
(注8)関(堰)の門戸が閉ざされていればほかにバイパスとなる隙間を作ってククルことは、水であれ人や動物であれ試みるものである。漢語の通用が字体や音によるだけなのか確かめられないので不明とした。
(注9)倉住2015.は「景行紀伝承を背景とした歌である」(66頁)とし、「美濃の国で「佳人」として評判の高かった弟媛のいた「泳の宮」への憧れと、景行天皇の仮宮であった「泳の宮」への讃美の二つの意味があるに違いない。」(65頁)と述べているが、景行紀の伝承をそのまま基として作られた歌ではない。曽倉2005.に、泳宮は歌の製作・享受時に現存しておらず、伝承についても記されておらず、「この歌は全体として虚構の上に立っていると考えなくてはならないであろう。」(95頁)としている。
(注10)学問のグローバル化において、日本は諸外国と比べて被引用論文数の少ないことが指摘されている。英語力の不足が原因とされている。発展途上国の多くが高等教育において母国語の教科書を持たず、多くの学科で英語教科書を使っていることもその差となっているという。逆言すれば、日本語は熟成されているのである。それは、日本語の構造的な性格によるものかと思われる。日本語はヤマトコトバの段階から、訓読みが行われるとともに、訓読を支えるためにいわゆる和訓なる言葉をヤマトコトバのうちへ編み出していた。西洋の見知らぬ観念を見出した近代でも、新たな漢語を訳語として作成したし、今日ではカタカナ語をもって対処し切っている。そんな日本語のからくりの鍵は、はやくも万葉集に見て取ることができるのである。
(引用・参考文献)
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 七─巻十三・巻十四─』笠間書院、2011年。
垣見2016. 垣見修司「万葉集巻十三三二四二歌難訓考─行靡闕矣吾通道之─」『同志社国文学』第84号、2016年3月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015429(『万葉集巻十三の長歌文芸』和泉書院、2021年。)
倉住2015. 倉住薫「「泳の宮」の伝承歌─万葉集巻十三と記紀の世界─」古橋信孝・居駒永幸編『古代歌謡とはなにか─読むための方法論─』笠間書院、2015年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
曽倉2005. 曽倉岑『萬葉集全注 巻第十三』有斐閣、平成17年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
松田1957. 松田好夫「萬葉集「行靡闕矣」考─巻十三・三二四二の本文復原─」『萬葉』第22号、昭和32年1月。萬葉学会ホームページ http://manyoug.jp/memoir/1957(『万葉研究の新見と実証』桜楓社、1968年。)
山口1985. 山口佳紀『古代日本語文法の成立の研究』有精堂出版、昭和60年。
加藤良平 2021.10.1初出