はじめに
万17~19番歌は、近江遷都時の三輪山の歌として知られている。原文ならびに新編全集本萬葉集による訓、現代語訳を記す。
額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬代介委曲毛見管行武雄數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也
反歌
三輪山乎然毛隠賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御覧三輪山御歌焉日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江
綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
反歌
三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(万18)
右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といふ。
綜麻かたの 林の前の さ野榛の 衣に付くなす 目に付く我が背(万19)
(訳)
額田王が近江国に下った時に作った歌、そして井戸王がすぐ唱和した歌
(うまさけ) を (あをによし) 奈良の山の 山の向こうに 隠れるまで 道の曲り角が 幾重にも重なるまで 存分に 見続けて行きたいのに 幾たびも 眺めたい山だのに つれなくも 雲が 隠してよいものか
反歌
三輪山を そんなにも隠すことか せめて雲だけでも この気持ちを察してほしい 隠してよいものか
右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に、「近江国に遷都した時、三輪山をご覧になって天智天皇が詠まれたお歌である」とある。日本書紀には、「天智天皇の六年三月十九日、近江に遷都した」とある。
綜麻形の 林の端の 榛の木が 服によくつくように よく目につくわが君ですね
右の一首の歌は、今考えてみると、唱和の歌らしくない。ただし、旧本にこの順序に載せてあるので、やはりここに載せておく。
これらの歌は、左注にもあるように天智天皇が近江へ遷都したときに歌われた歌とされている。都を大和から遷したのは、その四年前、天智二年(663)八月二十八日、白村江の海戦に敗れて以降の情勢による。当時、朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が鼎立していた。そこへ中国の大帝国、唐(618~907)が侵攻を図る。第一ラウンドは、前王朝の隋(589~618)同様、 陸続きの北方から高句麗へ遠征する。何度か失敗を繰り返した後、第二ラウンドとなる。高句麗の背後で結託している百済を先に攻めようというのである。そして唐は、三国のなかでもっとも遠い新羅と連合し、百済を挟み打ちにする。百済は新羅の陸軍、唐の海軍に蹂躙されて都は陥落、倭に人質として留まっていた王子の返還と援軍を要請してくる。倭は、百済救援のために大軍を朝鮮半島に送った。時に唐の海軍は百済の心臓部に迫り、白村江、今の錦江河口、群山付近に陣取っていた。倭の海軍は唐の大艦隊に向かって突撃していく。そしてあっけなく敗れた。百済の要人ともども敗走し、海峡を列島へと渡ったのであった(注1)。
以降、倭国は朝鮮半島の緊張状態の下に、東アジア世界の一員であることを意識した政策がとられた。九州には防人を置き、西日本各地に山城を築いたうえ、近江の地へ遷都している。遷都の理由としては、諸説あげられているが帰一するところがない。白村江の敗戦によって首都防衛のために一国城塞となるようにした、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識した、渡来人が多く居住していて米や木材等生産力が高かった、近江に移住していた亡命百済貴族を重用して律令国家の官僚体制を整えるため、藤原氏、息長氏との関係や旧勢力と新興勢力の対立、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、外国使節が幾度も訪れた飛鳥は情報が知れ渡っていて危険である、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設した、といった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている(注2)。
気持ち的には仕方なく近江へ遷都している。そのような状況下で歌われたのが「額田王下二近江国一時作歌、井戸王即和歌」である。万17番の長歌は、対句が漸次崩れながら進行する形態をとっている。最後の五・三・七音の終わり方は初期万葉の歌によく見られる。急迫した歌い口が印象的である。万18番歌は、一説によると内容的にほとんど変わっていないので、万17番歌と同じときに作られた歌が一緒に伝えられたにすぎず、「反歌」というにはふさわしくないという。四句目の「心あらなも」のナモは、未然形について願望を表す助詞ナムの古い形で、心があってくれよ、の意とされる。
近江遷都に際して三輪山が歌われている理由については、ヤマトの国作りの神として崇められていたからという説から単なる叙景と捉える説までさまざまである。いずれにせよ公の席において歌われていて、初期万葉の原則どおり、宮廷社会全体の総意となっていたと考えられる。あるいはそうあるべきと捉えられていた。万19番歌は、左注の人の指摘にあるとおり、和した歌とは考えることが難しいと思われている。一句目の「綜麻形」のヘソは紡いだ麻糸を巻いた巻子のことで、三輪山伝説と関係して三輪山の異名であるとする説もある。以前はハギの事かともされた「さ野榛」は、今ではハンノキのことと収まっている。また、五句目の「我が背」は天皇のことか、三輪山の祭神のことかと分れている。さらには、万19番歌は一連の歌ではないものとして完全に除外して考える一派もある。万17・18番歌についても、儀礼歌であるとも抒情歌であるとも解釈され、かなり振れが大きい。歌われたのがいつ、どこでなのかについても旅の途中であるとも近江到着後であるとも出立以前であるとも説かれている。なぜ三輪山が歌われているかに関わってくることであるが、議論は錯綜して定説は得られていない(注3)。
東アジア情勢と倭国の対応
万17~19番歌は、歌が歌われた現場がどこであれ、近江への遷都にまつわる歌である。どうして遷都するに至ったかについては国際情勢にかかわる。当時の東アジア圏の中心は世界帝国、唐である。唐の支配原理は、中国と夷狄とを差別して考える中華思想と、夷狄を皇帝の徳によって統合する王化思想を弁証法的にまとめたものである。正州と呼ばれる中国本土を中心にして、その周辺は正州を守る都護府、さらに君臣関係を結ぶ冊封国、貢ぎ物を献上させる朝貢国というように支配地は同心円構造をとる。漢の時代の版図に倣ってモンゴル、チベット、中央アジアへも遠征している。ところが、漢代に楽浪など四郡(注4)を設けていた朝鮮半島が反抗していて支配体制が築けずにいた。半島の、中国からいちばん遠い新羅は、高句麗や百済の攻撃を受けていたから唐に服属する冊封国となって生き残る道を選んだ。唐は新羅と同盟して先に百済を滅ぼすことになる。最終的な戦いが白村江の海戦であった。百済の残党ならびに倭は大敗する。百済の地がいったん唐の領土、かつての楽浪郡のような位置づけと目されるに至っている。
倭国にはたくさんの使者が各国から来ている。唐と新羅に滅ぼされそうな高句麗からは援軍の要請、新羅からは国交を正常化させて大国唐に対抗しようとする使節、そして最大の使節団は、唐の支配下に入った百済、すなわち唐領百済からのものであった。この、唐領百済を暫定統治する将軍からの使節団が何をしに倭国を訪れたのか、はっきりした記録は残されていない。日本書紀を見ると長期滞在型の派遣が多い。
最初は敗戦の翌年、天智三年(664)のことである。
夏五月の戊申の朔にして甲子に、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物とを進る。(天智紀三年五月)
冬十月の乙亥の朔に、郭務僚等を発て遣す勅を宣たまふ。是の日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務悰に賜ふ。戊寅に、郭務悰等に饗賜ふ。(天智紀三年十年)
十二月の甲戌の朔にして乙酉に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天智紀三年十二月)
「百済鎮将」とは百済の占領軍司令官のこと、「朝散大夫」とは唐の官名であり、外務次官のようなものであろうか。「表函」なるものに何が入っていたかが重要である。この一行は大宰府に長く留まり、五月十七日に来て帰ったのは十二月十二日であった。のろし台である烽や水城が設けられたのはその歳のことである。
是歳、対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防人と烽とを置く。又、筑紫に、大堤を築きて水を貯へ、名けて水城と曰ふ。(天智紀三年是歳)
水城は大宰府の北西側に長い堀を築いたことを言っている。使節が都へ来た様子はない(注5)。すると、水城は使節団の目の前で造られている。指導を受けて造られたとしか考えられない。中国では隋代に大運河を開整している。その距離は倭国を縦断して余りある。
十月一日の「勅」は、水城の工事に関係するもので、だいたいできあがったら後はこちらでできます、ありがとうございました、もう帰っていいですよ、という勅であろう。総理大臣の中臣鎌足から褒美も出、送別会も開かれている。郭務悰は親切で、完成を見届けるまで残っていたらしい。この関係は内政干渉的な屈辱外交とは決めつけられない。新羅のように唐との間で冊封関係に入ったわけではない。仮にそうなれば唐側にも史料が残る。唐側の一回目の使節は百済の鎮将劉仁願から出ている。中国との外交関係は、推古朝の隋との交渉以来、朝貢関係にあり、遣唐使によって守られている。今後とも今までどおりの関係を続けるべく、倭は唐領百済と間で密約を結んだのではないか。最初に使節団が奉った「表函」には、軍事、外交、内政面において、手取り足取り指導する内容の親書が入っていたと考えられる。百済を占領する唐にとっての最大の敵は、同盟を結んで戦ってともに戦勝した相手、新羅である。百済の地を治めるのはどちらか、いまだ共通の敵、高句麗があったとしても戦勝と同時に亀裂が入る。そこで唐は倭との間で同盟関係を築きたかった。倭はすぐに呑んで水城建設の現場監督になってもらっている。
二回目の使節は翌年、唐の本国から来訪し、都まで上るお膳立てが整っている。
九月の庚午の朔にして壬辰に、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。〈等と謂ふは、右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰をいふ。凡て二百五十四人。七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表函を進る。〉(天智紀四年九月)
冬十月の己亥の朔にして己酉に、大きに菟道に閲す。(天智紀四年十月)
十一月の己巳の朔にして辛巳に、劉徳高等に饗賜ふ。(天智紀四年十一月)
十二月の戊戌の朔にして辛亥に、物を劉徳高等に賜ふ。是の月に、劉徳高等罷り帰りぬ。(天智紀四年十二月)
是歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。〈等と謂ふは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間をいふ。蓋し唐の使人を送るか。〉(天智紀四年是歳)
さらに三回目は、天智六年(667)にやってくる。
十一月の丁巳の朔にして乙丑に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳に、司馬法聡等罷り帰る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以て、送使とす。(天智紀六年十一月)
大宰府で実務会談をしてすぐ帰っており、倭国側から外交官が派遣されており、使者の伊吉博徳は、翌七年(668)一月二十三日に「服命」(復命)している。天智十年(671)には、亡命百済官僚の叙位や軍事指導にかかると思われる来訪がある。
辛亥に、百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して表上る。(天智紀十年正月)
二月の戊辰の朔にして庚寅に、百済、台久用善等を遣して調進る。(天智紀十年二月)
庚辰に、百済、羿真子等を遣して調進る。(天智紀十年六月是月)
秋七月の丙申の朔にして丙午に、唐人李守真等、百済の使人等、並に罷り帰りぬ。(天智紀十年六月)
その後の記事は、高句麗の滅亡(668)以降の情勢の変化を受けて局面が変わっている。新羅が唐に対して反目を明確にするのは670年以降である。676年には旧百済領から唐の勢力を駆逐し、半島南部はすべて新羅の支配下となっている。倭への使者は援軍や武器の支援要請へと変っていったが、国内では天智天皇は亡くなって外交対応どころではなくなっている。
十一月の甲午の朔にして癸卯に、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言、さく、「月生ちて二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来りて曰さく、『唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比智嶋に泊りて、相謂りて曰はく、今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人、驚き駭みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍に来朝る意を披き陳さしむ』とまをす」とまをす。(天智紀十年十一月)
元年の春三月の壬辰の朔にして己酉に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。是に郭務悰等、咸に喪服を著て、三遍挙哀る、東に向ひて稽首む。壬子に、郭務悰等、再拝みて、書函と信物とを進る。(天武紀元年三月)
夏五月の辛卯の朔にして壬寅に、甲冑弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ふ物は、総合て絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。……庚申に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天武紀元年五月)
十一月の総勢二千人、船四十七隻の来航の時、天智天皇は病床にあった。天智天皇の息子、大友皇子がかつて藤原鎌足が就いていた地位、太政大臣であったが、すでに皇太弟の大海人皇子は近江宮を去っていた。翌年両者は壬申の乱に争い、大海人皇子が勝利して天武天皇となる。
天智天皇の時代に倭は唐に敵対していたわけではない。遣唐使も従来どおり派遣されていた。有能な官僚には亡命百済人も多かった可能性が高く、しかも百済を占領した唐は、当初は略奪を行ったように記録があるものの、抵抗が続くので占領政策を変更したようである。反乱を起こす者には徹底した弾圧を加えつつ、降伏した者には融和政策をとっていった。百済人を官人として登用し、百済の残党を打ち破ったのも百済の降将であった。百済の鎮将劉仁願はもとは唐人であるかもしれないが、百済の代表者と見なされていたのであろう。
それは案外早い段階からで、倭にさまざまな軍事技術を教えるとともに、亡命百済人を重く用いるように要請してきたものと推測される。天智四年二月是月条に、「百済国の官位の階級を勘校ふ。」とあって、どのように融和させるか考えており、そのときすでに百姓四百人余りを近江に植民させている。翌五年の冬には、二千人余りを東国へ植民させている。その記事に、「三歳に至るまでに、並びに官の食を賜へり。」とあって無料で給食させている。至れり尽くせりの優遇は、百済の鎮将劉仁願の指図であったろう(注6)し、それに対して大きな混乱も生じていない。
近江遷都の理由について、筆者は、百済を占領した唐との交渉に関わることとして捉えている。政治的、経済的理由が背景にあったことは否めないが、積極的な理由を求めきれるものではない。それら現実問題とは異次元の、観念的なレベルで検討しなければならない。筆者は、ヤマトコトバの「楽浪の」に当たる地が、唐領百済に迎合するという意味で求められたと考えている(注7)。関わりの中心は百済の鎮将劉仁願であった。漢代に中国が朝鮮半島に版図を広げたときに置かれたのは、楽浪郡である。漢書・地理志に、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。」とある。倭が意識する中国の出張所は「楽浪」であり、それをヤマトコトバにササナミと訓んでいる。そこで、ささなみしか起らない浪の静かなところ、それは湖である琵琶湖にほかならないから、そんな枕詞に冠される「志賀」の地が求められたのだろう。上代の人はヤマトコトバでものを考えている。
唐領百済の軍事的、技術的、文化的な指示、支援に対して、天智朝の政治はそれを観念のレベルへ翻訳して動いていった。近江に住まわせた百済からの渡来人は、兵法や医術をはじめ進んだ技術や文化を持ち、行政の運営方法も知っていて、新しい国作りに欠かせない人材であったことは疑えない。けれども、急進派勢力の意向から近江遷都を遂行したり、天智天皇が政策の優位性を考えて近江遷都を断行したようには見えない。唐領百済からの意向におもねるように決まっていったようである。保守派との間に紛争が起きていないのは、彼らと交わした密約の条件が、敗戦国なら強いられてやむを得ないであろう大きな負担がほとんどなかったからであろう。
近江遷都と夜の酒宴
近江遷都の記述は次のとおりである。
是の冬に、京都の鼠、近江に向きて移る。(天智紀五年)
三月の辛酉の朔にして己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。日々夜々失火の処多し。(天智紀六年三月)
八月に、皇太子、倭の京に幸す。(天智紀六年八月)
七年の春正月の丙戌の朔にして戊子に、皇太子即天皇位す。〈或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に位に即きたまふ。〉壬辰に、群臣に内裏に宴したまふ。(天智紀七年正月)
割注に、六年三月即位説が記されているが、本文上、皇統譜は七年二月条に記されている。六年三月に天皇や側近たち一行が先に近江入りして形式的には遷都していたが、群臣たちが従わずになお留まるものがいたため八月に旧都に早く来るようにと催促に出かけ、七年正月に即位式を行って、二月に立后している。
万17番歌の前にある題詞には、「額田王下二近江国一時作歌」と書かれてある。したがって歌が歌われた状況は、額田王を含む諸王や群臣、後宮に仕える人たちの一行が大和から近江の新しい都に到着してからのこと、先に近江宮に入っていた天智天皇と一緒になって開かれた宴の席上であったろう。万17番歌の額田王の長歌には口承性が指摘されていて、文字で書いて作ったものではないと考えられている。あたかも近江下向の最中の旅路で歌われたかのように錯覚する人までいるが、「額田王向二近江国一時作歌」とは書いていない。また、「天皇下二近江国一時額田王作歌」とも書いていない。天皇の名が見えない以上、旅路で額田王が歌い出したものではない。額田王は天皇に仕える身であった。時に代詠、代作を指摘されるほど、天皇位にある人のために、そのスポークスマンとして歌を歌っている。その歌詠みが天皇もいないところで公的な歌、初期万葉に「雑歌」と分類される歌を歌うことは考えられない。もちろん日々の鍛練は大事であるから一人ごちていることはあったろう。しかし、そういうものは日記に記すような形でなければ残らない。ノートに書きつけるとなると口承性は生まれてこない。額田王は近江宮に到着して天皇の御前に出たときに、旅の途中の様子を歌うように命じられて歌ったものと推定される。当然ながら、特定のある意思、政治的なメッセージを伝えるためにである(注8)。
額田王の長歌の出だしは、三輪山にまつわる歌謡を踏まえている。崇神紀八年十二月条には二つの歌が記されている。初めが諸大夫の歌で、それに天皇が和えた形になっている。
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(紀16)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(紀17)
歌の意味は、夜通しの酒盛りのあとで、三輪の社殿の朝門が開くときにでも出ていきたいものだ。そうそう、三輪の社殿の朝門のときにでも押し開いていくがいい、というものである。当時の人々にはお馴染みの、定番の酒宴の歌であったに違いない。額田王が「味酒 三輪……」と歌い出したのは、それが夜の宴の席であったことを物語っている。そんな夜の宴席について紀は雄弁に語っている。天智七年正月壬辰(七日)の「宴」である。
額田王は、政府のスポークスマンだから、人心の掌握安定を図ることを目的として歌を歌う。ただし、一般民(百姓)に対して歌うのではなく、あくまでも宮廷の中で、宮廷の人に対して歌を歌う。群臣たちを精神的に統率するために歌われたのが政治的メッセージである初期万葉の雑歌である。天智七年正月七日の宴は、即位式の後で行われた晩餐会と位置づけられよう。なおも近江遷都に抵抗感を抱いていた群臣がいたかもしれず、不満をなだめる効果も求めたと考えられる。それを、崇神紀に伝えられる 「味酒 三輪の殿の ……」という君臣唱和の歌の形式をもって表現しようとした。
崇神紀の紀16・17番歌謡は、ただその時の宴席の歌という意味で把握されていたわけではない。紀によると、崇神五年から疫病がはやり、人口が半減したと伝えている。逃亡者や反乱者も絶えなかった。そこで天皇は占いをして何が原因なのかを調べようとした。すると、倭迹迹日百襲姫命が神憑りして神の声、「我は是、倭国の域の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」を聞き、託宣に従って祭ったがなお効果がなかった。さらに天皇および三人の夢の裏に大物主神の子である大田田根子を以て祭るようにとお告げがあった。大田田根子は大物主神と活玉依媛との間に生まれた子であった。そのとおりお祭りすると崇神七年になって疫病は終息に向かい、穀物も豊かに実った。
それを受けて翌八年に大神、すなわち大物主神に奉る「掌酒」、醸造者を定めた。三輪の名の由来は神酒にあると考えている。今でも大神神社には大きな酒樽がたくさん奉納されている。その年の冬にできあがった酒を天皇に献った。そのときに歌が歌われている(注9)。
此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久(紀15)
その御神酒で酒宴が開かれて、「味酒 三輪の殿の ……」の歌が唱和されたのであった。危機から脱出して国が再生していくための新しい門出の歌となっている。
額田王の歌が歌われたときも、白村江の敗戦によって戦死者も多数出たであろうし、九州で陣を構えた朝倉宮でも疫病がはやって斉明天皇まで亡くなった記事があり、人口が減少した状況は似ていたのであろう。さらに近江遷都に対して人心の乱れもあったことは、天智紀六年三月条に記されるとおりである。
民衆の反対を押し切った遷都において、最も懸念される点は、新たな国作りを目指すのに、「倭成す大物主」、つまり、ヤマトの国作りの神(注10)、三輪山から離れることへの疑問であった。その力に与りたいはずなのに、どうして見えないところへ行くのか。その疑問は自作自演であるかもしれないながら不安を喚んでいて、それに対する説明のために歌が歌われている。
万17・18番歌と国際感覚
万17・18番歌は三輪山が見えなくなることを惜しんでばかりいる。気持ちとしては群臣とも百姓とも同じであると言っている。言い伝えを信じている同朋である。国の復興のシンボルから離れて新しい国作りはうまくいくのだろうかという不安に共感している。天皇自身、好んで遷都したわけではなく、唐領百済の防衛協力の一環として遷都した。白村江の大敗から目を逸らすことができず、国を刷新していくことが必要で、新しい国作りにチャレンジしていくことが時代の要請であった。宮廷人なら誰しも頭ではわかっていたことであろうが、これまでの常識、伝承への信仰から心のなかに不安がくすぶり続ける。改革は痛みを伴うものである。
個人的にも不利益と感じた宮廷人も多かったに違いない。なかには天皇はもはや倭の国の人ではないと感じた人もいたかもしれない(注11)。多くの宮廷人は、天皇との間に距離が生まれていることを感じていた。その距離とは、近江の新都と大和の旧都という地理的な距離でもあり、先に新都に引っ越していた天皇と、大和に残っていたその他の宮廷人との間の時間的な距離でもあった。
当時の宮廷社会は豪族連合の形を変え、天皇を中心とした集権的な体制へと変わっていく途上にあった。ちょうど遠心分離器にかけたように、中心の天皇と周縁の豪族との間に隔たりが生じ始めていた。百済人官僚の出現によってさらに拍車がかかっていく。その乖離状態をもう一度近づけ、国の再興に一致団結して取り組むためには三輪山憧憬の歌が必要とされた。
歌の歌い手は額田王であり、政権の主張をプロパガンダするものであったろう。すなわち、天皇を代詠する立場に立つ。天智天皇は皇太子時代、白村江の戦いへと赴く船上で大和三山の歌(万13~15)を歌って戦意を高揚させていた(注12)。その際、伝承に聞くアマテラス・スサノヲ・ツクヨミの三神と大和三山の天の香具山・畝傍山・耳成山とを鼎立的に考えてそれらから倭・百済・新羅の三者関係を説いていた。三貴子は分治に当たっては、記紀それぞれの書により若干の違いがあるが、整理するとおおむね次のようになる。

異同はあるものの、天照大神が日の象徴、月読尊が月の象徴であったことは確かであろう。そして、記や神代紀第六段一書第十一には素戔嗚尊は海原を治めたことになっている。アマテラスが日神、ツクヨミが月神、スサノヲが海神を表象している。極東情勢は白村江の戦い以降、また、高句麗の滅亡によって情勢が大きく変化する。連携する必要を持たなくなった新羅と唐が反目するに至る。

遷都によって三輪山から引き離される原因は、対外情勢、朝鮮半島情勢である。ツクヨミ、月神は、「日に配ぶ」存在として意識されている。すなわち、ナラぶものが出てきて倭は大切なものが見えなくなっている。「奈良の山」が「三輪山」を隠しているのである。スサノヲは海神に当たるが、海神は「渡る」ものの神だから、それぞれの海にいてその地方の海・雨・雲・水を司る。その海神が司っている「雲」までも「三輪山」を隠そうとしている。
国作りの神の座します三輪山を、恐れ多くも「日に配ぶ」ほどのはずであるツクヨミ的存在、新羅が「奈良の山」となって手前に立ちはだかっていて見えなくしている。「平」であるはずの山が隠すなんておかしなことだと訴えている。平城と書いてナラと訓む理由はナラス(平)義に由来する。額田王の歌では、枕詞「あをによし」を伴っている。枕詞の意味は未詳ながら、青い顔料が得られる場所との説がある。ヤマトはアマテラス、日神の国、赤く明るく輝いているはずが、青いものに引けを取っていてやるせない。そのうえに、百済を治める唐の軍に当たる「海神」の生んだ「雲」までも見えなくしかねない。これら額田王の歌は、中大兄の三山歌(万13~15)を踏まえた歌と考えられ、そこでは、「海神の 豊旗雲に」(万15)と形容されていた。雲は、湧いたり動いたり消えたりする不安定なもの、訳のわからない、実態のつかめないものである。それが大きく垂れ込めている。
新羅ばかりでなく百済(唐領)までも国作りの神である「三輪山」が見えないところへ追いやろうとしているのか、との嘆きが聞えている。国際情勢を準えたもの言いである。なにしろ雲が晴れたからといって、遠い近江の地からでは三輪山は見えようはずがない。万18番歌では奈良の山は歌の文句から消えてしまい、雲のことばかり気にしている。そのうえ雲に対して誂え、揉み手している。
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
(大意)大物主神の座す三輪山よ、新羅のせいで姿が隠れるまで、紆余曲折があって見えなくなるまで、しっかりとヤマトを立て直したいのに、何度もそれを願っていろいろと画策しているのに、唐はヤマトの心情を察することなく、遷都を当然のこととしているが、そうではないだろう。
反歌
三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(万18)
(大意)国作りの神の座す三輪山をそのように本当に隠すのか。新羅は仕方ないにしても、同盟を結んだ唐までも遷都させようとしているのか。せめて唐だけでも配慮する心があってくれたらなあ。三輪山を隠し続ける遷都はどうしても必要なことか、いやいやそうではないだろう。
文法上、最後のヤは反語を表す。隠すべきではないだろう、と言っている。万17番歌は、周縁の宮廷人から中心にいる天皇への問いかけである。前半では、白村江の敗戦などいろいろ多難の時代であり、新羅にはいま、時の力があって倭国を揺るがせているけれど、天皇に対する忠誠の気持ちは変わらないと歌っている。後半では、唐領百済の意向に沿う形の遷都は、まったくもってやるせないものがあると歌っている。
万18番歌は、同じテーマを天皇から周辺の宮廷人へ向かって歌っている。「しかも隠すか 雲だにも」と畳みかける助詞のモによって、前の長歌にあった家臣の訴えを聞いて同感であることを強調している。遷都が楽浪にゆかりの唐領百済へのおもねりであったことがわかる。「心あらなも」のナモは願望を表す助詞である。ナの一語で示すよりも遠慮気味に、不可能かと思いつつ希望している表現である。この遷都は、外交交渉によるものではなく、忖度であったことを言っている。それでも宮廷内にアピールする力はあったのであろう。崇神天皇時代の味酒の歌は、諸大夫と天皇との唱和の歌であった。この二首はそれに似せた、額田王の一人芝居による君臣唱和の歌である。
白村江の敗戦と多大な犠牲から新しい国作りが求められた。国作りのためには、言い伝えに従えば、国作りの神である三輪山が必要とされるわけであるが、それが見えない地へ行って大丈夫なのか、いやいや大丈夫なのだ、という歌が政府の公式見解として額田王に歌われている。長歌と反歌の連作は、同じ事柄を立場を変えて歌っているものであろう(注13)。万17番歌では「雲」に「心」はないが、万18番歌では「雲」に「心」があって欲しいと変えている。けれども歌全体の調子は一様である。言い伝えのなかに思考していた人々に新しい国作りプランを訴えるのに、伝承に国作りと言えば三輪山ブランドを外すわけにはいかず、それを抜きにしては語れないからであった(注14)。結果、主体性を欠いた遷都であることを示しており、敗戦を引きずった暗いムードの漂うものになっている。
井戸王歌と三輪山伝説
今日まで、井戸王の歌は、額田王の歌の反歌と考えられるには十分に至っていない。しかし、題詞には「額田王下二近江国一時作歌、井戸王即和歌」と書いてある。この題詞は正しい。そう言い切れるのは、題詞に「即」という字が入っているからである(注15)。臨場感あふれる字である。井戸王という人は、額田王が歌ったのにすかさず和えたのである。左注の人が「不レ似レ和歌」と言っているが、題詞自体に偽りはない。単に同じときに詠まれたというだけでなく、三首セットの歌である。なぜなら、上にみた万17・18番歌だけでは、もやもや感がぬぐえないからである。国作りの神である大物主神を祭っている三輪山を離れてどうして新しい国作りが可能なのか、古代人の思考に訴えるに十分ではない。
万19番歌の語句に、つとに三輪山との関係が指摘されている。「綜麻形」、「さ野榛(針)」、「衣に着く」といった表現は三輪山伝承にゆかりある表現と見なされている。紡績や染色に関係する言葉が登場するから、衣料関係にたずさわる女性の詠んだ歌と見て確かなようである。「榛」はハンノキのこととされている。古代では、実や樹皮などを煮出し、各種媒染剤を用いてさまざまな色に染めあげたようである。しかし、この議論の問題点は、印象論的には三輪山伝承につながりがありそうでも、具体的につながっているとまでは確かめられていないところである。結局のところ、なぜ三輪山なのかについて踏み込むことができておらず、万17・18番歌との連動性も不明なままである。
三輪山伝承は次のようなものである。
此の意富多多泥古と謂ふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿端正かりき。是に壮夫有り。其の形姿威儀、時に比無し。夜半之時に、儵忽に到来つ。故、相感でて共婚ひして共住める間に、未だ幾時も経らねば、其の美人妊身みぬ。爾くして、父母其の妊身みし事を恠しびて、其の女に問ひて曰はく、「汝は自ら妊めり。夫無きに何由にして妊身める」といへば、答へて曰はく、「麗美しき壮夫有り。其の姓名も知らず。夕毎に到来て、共住める間に、自然ら懐妊みぬ」といふ。是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひて、其の女に誨へて曰はく、「赤土以て床前に散し、閇蘇の紡麻を針に貫きて、其の衣の襴に刺せ」といふ。故、教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通り出で、唯遺れる麻は三勾のみなり。爾くして、即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸に従に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和と謂ふぞ。(崇神記)
三輪山がミワヤマと言われるに至った地名譚が語られている。三輪山がミワと名付けられた経緯については、もとより不明である。話(話・噺・譚)のレベルにおいてそう言われ、そう知られている。鞠状の「閇蘇」の「紡麻」が伸びていって「三勾」残ったという話である。「赤土」をしるしになるように散しておいて、績み麻につける工夫が行われている。「鉤穴」を通って出て行っている。その輪から逆に手繰って行ったら、三輪山の「神の社」にたどり着いた。大神神社は今日でも三輪山自体をご神体としており、本殿はない。つまり、元のヘソのところがミワ(三勾)、向こう側もミワ(三輪)ということである。両サイドで釣り合いが取れている。
「閇蘇」は、績んだ麻を鞠のように巻いた状態のものをいう。これがそのまま糸として織物に使われるわけではなく、撚りをつけて糸としていく。手間暇のかかる糸製造の半製品がヘソである。績んだ麻を指に巻きつけていってヘソの形にする。左手親指に十巻きほど真横に巻き、次は斜めに十数回ずつ方向を変えながら巻いていき、形を見ては巻いたものを指の先へずらしながら全体に大きくしていく(注16)。

巻き始めは、麻笥にまとめ容れておいた績んだ麻を筵などの上に放り出し、端の三(?)つの輪を見つけて親指に巻き、その周りにくるくると巻いていく。ヘソにはミワの要素があらかじめ内在していたということであろう。そして、次に撚りをかけるために麻を引き出すのには、ヘソの内側の糸口(まだ「糸(絲)」ではないが)から引いていく。引いていく時、転がって行かないところが好都合である。和名抄に、「巻子 楊氏漢語抄に云はく、巻子〈閇蘇、今案ふるに本文未だ詳らかならず。但し、閭巷に伝へる所、麻を續[=績]みて円く巻く名なり〉といふ。」とある。三輪山伝説では、ヘソから出て行った紡麻に従って行って三輪山の社にたどり着いている。
深い観察に基づいてヘソと呼んでいる。動物の臍と同じということである。胞衣の内側へ引かれて胎児に至っている。その腸のような緒のようなつながりを臍という。腸のようなものが繰られている。ワタクリによってワ(輪)+タクリ(手繰)をしたという洒落であろう。活玉依毘売の身籠った理由を探る話である。母胎と胎児とは臍の緒を通して栄養が送られている。臍の緒は撚れるようになっている。だからこそ、「閇蘇」が話題にのぼっている。順当で違和感がない。そしてその時、「赤土」で着色されている。臍が臍だと知れるとき、それは出産のときであるが、血のような赤い色が選ばれなければ話にならない。
万19番歌では、ヘソそのものではなく「綜麻形」と言っている。績んだ麻を巻いた「閇蘇」か、動物の臍かを分別するのではなく、その形に注目が行っている。船の櫓臍の場合、出臍になっている。この出臍の形のことを指してヘソガタと言っている(注17)。櫓臍は擬宝珠の如くろくろ成型されたようにできている。だから紡錘形をした三輪山の形のことになり、前の額田王の三輪山の歌に「即和歌」となっている。
万19番歌に、「狭野榛」とある。和名抄に、「榛 唐韻に云はく、榛〈秦の軽音、字は亦、樼に作る。波之波美〉は榛栗なりといふ。」、新撰字鏡に、「榛 士巾反。藂生木曰榛、草藂生曰薄。波自波弥」とある。これらハシバミは実を食用にしたものである。ヘーゼルナッツはセイヨウハシバミの実である。万葉集中に「榛」はハリと訓まれて別のもの、ハンノキのことである。染色の材料に有用な植物である。ヤマトコトバに漢字を当てたものだから、「榛」をハリと訓むことが起きていてもそれはそれで正しい。「さ野榛」という言い方は類例が他にも見られる(注18)。そしてまた、榛原をハヒバラと訓むように、榛はハヒ、つまり、這うことを連想させるものである。
樹木の同定を誤っていると考えるのは短絡的である。古代の人は植物学上の分類をしているのではない。有用性によって品定めしている。この場合、染料の材料になる点をもって考えている。榛の実、樹皮、葉を用い、アルミナ媒染では黄茶色に、銅媒染では黒味のある金茶色に、鉄媒染では緑味を帯びた鼠色に染められた。また幹材を用いるとアルカリ媒染では赤茶色、鉄媒染では紫味のある鼠色に染まる。いろいろな色に化ける染料のため重宝だったと思われる。使えるから名が付けられていて、さまざまな色が生まれるから樹種、名称に混乱が生じている。ハンノキかヤシャブシか、オオバヤシャブシかヒメヤシャブシか、マルバハンノキかケヤマハンノキか、それらは染め物にした時に異なる結果が生ずるのであればこだわる必要があるが、同じ結果、媒染剤による多様な結果が得られるのなら、上代人が植物分類学を適用することはない(注19)。
さまざまな色に染めあがるから、一つの漢字にさまざまな名で呼ばれている。ハリノキが訛ってハンノキと言われているのかどうかも定かではない。カメレオンのようにその時々の情勢に合わせて移ろいゆく体制の新羅のことを暗示するのに十分である。問題は色の出具合である。特に、銅媒染を使った色は黄海松茶色、鉄媒染のものは海松色と呼ばれている。海松は古代に食用とされた海藻である。それがなぜミル(ミは甲類)と呼ばれるかも定かでないが、榛で染めた色をミルと称していることは興味深い。三輪山を「見る(ミは甲類)」ことができないと嘆く歌に和して海松色を生み出す榛が思いつかれて歌われている。「見る」ことができなくてかまわないのは、海松色が欲しいのではなくて、アルミナ媒染の赤い色が求められているからである。アマテラスの国なのだから、赤く明るい色が望ましい。
今日一般に行われている訓には、これらの混乱をあわせ飲むことができるほどには収拾がついていない。
綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
綜麻形の 林のさきの さ野榛の 衣に着く成す 目につく我が背
「始」字はサキ、また、ハシとも訓まれている。「榛」がハンノキであるとすると、それは多く群生する。染色の材料を得るために植林され、また、畔にハザ(稲架)の目的で人工的に植えられたこともあった。湿地や川沿い、谷筋など、水気の多い地を好む樹木である。「林」という語が生やすこと、映やすこと、囃すことの義から生まれた言葉である点からすると、植生地の端っこに植えられているのか不明である。植えているなら群生させてかまわない。また、「榛」が「衣に着く」といっても、ハンノキ林に分け行ったからとてその実や葉の色が衣に染まることもない。煮出したうえ、媒染剤を使わないと染め物にならない(注20)。
そして、「始」字をサキと訓む例は、集中では他に見られない。訓みはハツ、ハジメ、ソメの三種類に限られる(注21)。
すべてを三輪山伝説によるところと考えるなら、次のように訓むものと考えられる。
綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
綜麻形の 映しの始めの さの榛の 衣に着く成す 目につく我が背
「榛」は、ハリであり、ハシバミであり、ハヒである。三輪山伝説に衣の裾に針を刺していたが、正体は蛇であったから、その衣はとても幅の狭いものであったろうと考えられる。そこに針を刺したのだから、サ(狭)+ノ(布、ノは甲類)+ハリ(針)ということになる(注22)。ハミ、また、クチハミは蛇の仲間、マムシのことをいい、和名抄に「蝮 波美」とある。確かに蛇は、端っこに食むための口がついたもので、意味的に針に等しいことになっている。ここに、榛なる植物が、ハリ(ハンノキ)をもハシバミをもハヒ(這)をも表すことが知れる。染料を示唆する点は、「始め」に引きずられる形で、さらに含意を持つものと考えられる。
三輪山を持て囃した最初は、崇神天皇時代、疫病が流行って人がいなくなるかもしれないとの危機的状況に陥った時であった。そこで国作りの神であった大国主神を奉っていた三輪山祭祀を行った。伝説にあるように「閇蘇」の「紡麻」に針を通して夜な夜な訪れる神の衣に刺したことからであった。糸口から糸が出て行っていることと、伝承の端緒を開いていること、識別できるように「赤土」で着色していることから、「始」字はソメ(ソ・メはともに乙類)と訓むものと考えられる。ソメという語は、染剤にそめることと、染められることで前とは違った新しい状態になること、その二つの意味を同根として持つ言葉である。三輪山を持て囃し始めたのにはそれが映えるように染めていなければならず、映えるように染められていたことが三輪山祭祀の始まり、馴れそめということになる。同語反復的な定義(再定義)が行われている。
「赤土」で染めたら赤黄色になる。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土黄にして細密なるを埴〈常職反、和名は波爾〉と曰ふといふ。」とある。また、「丹砂 考声切韻に云はく、丹砂〈丹の音は都寒反、迩〉は朱砂に似て鮮明ならざる者なりといふ。」とある。硫黄と水銀の化合した鉱物、辰砂のことである。同じく赤黄色の植物性染料にハニシがある。和名抄に、「黄櫨 文選注に云はく、櫨〈落胡反、波迩之〉は今の黄櫨木なりといふ。」とある。ハニシという言葉は、また、土師のこともいう。「土師連」(垂仁紀三十二年七月)とある。ハニシはいずれもハジとも言う。色によって言葉が同定されている。この赤黄色は、万19番歌の歌われたとき、井戸王ならびに額田王ほか、群臣はじめ列席者の目に止まるものであったと考えられる。
天智天皇は近江へ遷って即位している。即位の式典で天皇が着る服は、黄櫨染御袍である。いま言うハゼノキ、黄櫨の色に染めた袍のことである。ハゼノキ(黄櫨)の黄色い芯材を煎じた汁に灰汁を用いたアルミナ媒染で染めた深い温かみのある黄色を下染めとし、それに蘇芳ないし紫草を上掛けして黄赤色にした。ハニシ色の装束を身にまとって即位式に臨み、その後の夜の宴で歌が歌われている。新しい国作りをするのに国作りの神であるとされていた大国主神、別名、大物主神を奉る三輪山から離れていていいのか、いいのだ、との額田王の自問自答的な鼓舞に和する形で、すぐさまそれらの歌に覆いかぶさるように、絶対にいいのだと訴えるものとなっている。なぜなら、三輪山祭祀の理由の根幹であるヘソが、「目」の前に、「我が背」となって現れているからである。黄櫨染御袍をまとっている天皇は、まことにヘソではありませんか、新しい国作りに何の支障がありましょうや、というのである。
ハニシによく似た色については本稿ではすでに見ている。榛摺のことをハニスリ、ハジスリとも言っていた。ハニ(赤土)、ハニシ(黄櫨)系統にハリ(榛)がなるかと言えばなる。梅の木と榛の皮を煎じた汁が赤色に染める染料として用いられていた。和漢三才図会に、「波牟乃木 正字未だ詳らかならず △按ずるに波牟乃木は山中に生ず。高きは二三丈、葉は栗に似て輭く、花は亦、栗の花に似て褐色、実は杉の実に似て、其の木肌、心は白色、日に見えれば則ち赤に変ず。今、染家、梅の木の煎汁を用ゐて中に此の木の屑を投じて宿を経て以て赤色に染む。」とある(注23)。京都の愛宕神社の参道で、当地の水尾女がシキミを売るのに赤い前垂れを着けていたのはそれによるという。この染色方法は古代に発祥していると推測する。媒染剤も灰汁ばかりで済む。榛(ハンノキ)の心材は白木である。新羅を思わせる。日に当たると赤くなるということは、日神、アマテラスの栄光があれば赤く色変化する。だから、新しい国作りをしようというのである。そしてまた、ハゼという語には、魚のハゼ(鯊)もある。背鰭に糸状に伸びた種がいて、イトヒキハゼと呼ばれている。針につけた績み麻が伸びていっている様子を連想させる。漁獲したときに、口をパクパクさせて噛みつく習性があり、テカミ(手噛)との別称も持つ。クチハミ(蛇、蝮)のことと対照させておもしろがっていたものと思われる。
これらのヤマトコトバの体系のなかで、井戸王の万19番歌は躍動している。
綜麻の形をした三輪山を持て囃すようになった馴れそめは、綜麻がはっきり映えるように埴で染めたことによるのだが、その三輪山伝説に幅の狭い布のようなのが針そのものに見えるくちはみ(蛇)が這っていって三輪山へと導いた、それはハシバミとも呼ばれてふさわしいもので、ハンノキのことをハリともハシバミともハヒとも呼ばれて紛らわしいのは三輪山伝説によるようです。それを衣に刺したら外れずにくっついたように赤黄色としてよくわかるものでした。そんな赤黄色の黄櫨染のお召し物を着て目立っている我が天皇よ。なにしろ天皇は中大兄と呼ばれるように、おなかの臍を名に負っていらっしゃって目立っていらっしゃいますから、まさに三輪山は現人神としてここに現れてお出でになっているということですね。
歌を歌ったのは井戸王である。歌の内容に関わるから出自の不明な人であっても記名されているのであろう。ヰノヘという語で考えられるのは、第一に、井戸近くの仕事を示唆するためと考えられる。「綜麻形」、「さ野榛」、「衣に著く」といった語が散りばめられており、染織関係に携わっていた人物と見受けられる。第二に、井戸の側でのおしゃべり、いわゆる井戸端会議のようなことと関係するのではないか。左注に、「右一首歌、今案不レ似二和歌一。但旧本載二于此次一。故以猶載レ焉。」とあるのは、今となってはよくわからないと表明するものであるが、いかにもわざとらしい注記である。本当にわからないから注記されているのか、それともわからないふりをして注記されているのか、検討を要する。後者の可能性が高いのは、井戸端会議の産物は得てしてちょっとした軽口を含むものだからである。
井戸の上(ヘは乙類)にあるものは何か。井戸の機構にすぐれたものは車井戸である。滑車がついて力がなくても容易に汲み上げることができた。染色にたずさわる作業場で女性が活躍していたとしたら、女手にも水汲みがしやすい工夫として設置されていた可能性がある。その滑車のことは「蝉」と呼ばれた。船具の帆先につく滑車もそう呼ばれている。空中に蝉が止まっている。ヤマトコトバに直せば、ウツセミ(虚蝉、空蝉)である。ウツセミという語はウツシオミ(現し臣)の約と考えられている。天皇のことを神に対して現人神というのは、神という鋳型にうつしとられた像だという考え方である。「蝉」という語は、セ(背)+ミ(身)のことと考えられる。成虫に脱皮するとき、背から身が出て行っていて、まったく鋳型からうつしとられたような形になっている(注24)。「我が背」という呼びかけが正しいのは、「蝉」という語によって証明される。
黄櫨染御袍は、黄櫨染御袍と呼ばれたのであろうか。即位式にいつから着用されるようになったか知れないが、記録としては嵯峨天皇の時のこととして明文化している(注25)。筆者は天智天皇が先駆と想定する。天智天皇は斉明天皇崩御の後、「素服」を着て「称制」していた。称制とは、天皇の位に就かないまま政治を司ることである。天智天皇は近江大津宮に遷都後に即位している。「素服」はまた、「藤衣」とも呼ばれる。名の理由は不明ながら、蔓が這い伸びるところから生成りの灰色を示すものかもしれない。ハヒ(這)だからハヒ(灰)であって、ハヒ(榛)のことが思い浮かぶ。そんな灰色の器は須恵器のことで、その対義的な色の器は土師器である。古墳時代から奈良時代にかけて、二大焼物の称である。だから、素服から黄櫨染御袍に変わったことをうまく言い当てて歌が歌われている。
彼は、中大兄と呼ばれていた。その理由は、皇極・斉明天皇が、自らを神功皇后に擬えて、子を応神天皇に当たるものと言い伝えどおりに朝鮮出兵など企図していたからである。ナカノオホエとは、お腹のナカであって、そこにある大いなるエ(ye)といえば、臍以外のなにものでもない(注26)。すなわち、黄櫨染御袍とは胞衣のことだと見ている。このようなことをわいわい言い合っていて、後で知れた時、「我が背」たる天皇の怒りの矛先が向かないようにするにはどうするか(注27)。万葉集の編纂者は左注に書いた。「右一首歌、今案不レ似二和歌一。但旧本載二于此次一。故以猶載レ焉。」である。私は知らないが、そう載っているからそのままに載せるというのである。同時代資料としてこれほど価値の高いものはない。
井戸王は外交交渉自体は知らなかったと思われるが、その構図は心得ている。そして、遷都の名目、新しい国作りの可能なことを歌っている。染織に従事する者までも、国家の一大事にあって即興的に和している。近江宮での夜の宴会は総決起集会で幕を閉じたということである。額田王によって歌い出された一連の歌は、万19番歌の井戸王の歌をもって完結している。不満の解消から一歩進んで大同団結し、翼賛体制を成立させて歌い切られた。これで宮廷社会は再び一体化した。
実際がどうであったかは別問題である。歌にできることは、宮廷社会の調和を回復するための人心の予祝行為のみである。宮廷社会の基盤自体を揺るがせているのは外国勢力である。当然ながら新羅にも唐領百済にもヤマトコトバの歌が通じるはずはなく、実効的には無力ではあるが、ヤマトコトバ共同体内の知の体系は保たれたということになる。歌は聞いてくれる人を前提とする。内向きのベクトルが働いている。
万葉集の編者がこの万17~19番までの連作を採録した理由はすでに明らかになっている。宮廷社会の存立基盤を揺るがす思いも掛けない事柄、すなわち、外圧への対応としての遷都を歌った歌だからである。編者が歌を撰んだと思われる時期の天武朝は、近江朝を倒した政権であった。題詞に「下二近江国一時」(注28)とあるように近江京については低い評価であるが、話すことは自由であった。
当時、朝鮮半島情勢は急展開している。唐の半島戦略の第三ラウンドは対高句麗に対して新羅とともに挟撃するもので、668年に滅亡する。ところが一転して第四ラウンドには、新羅が半島から唐の勢力を追い出しにかかり、676年にほぼ統一して唐は撤退する。これをもって倭にとっての朝鮮半島の緊張は一挙に解消した。一方、倭も672年の壬申の乱を経て、まったく新しい政権が誕生したかのように装っている。外交政策にも使え、実際、渡来人に頼らずとも律令国家の運営ができるという安心感も広がっていったのであろうし、優遇されていた渡来人も急速に同化していく傾向にあったのではないか。すでに本国の百済も高句麗もなくなっており、待遇も悪くないのだから帰ることは考えなくなり、ヤマトの言葉を覚えて馴染んでいったということだろう。
(注)
(注1)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
(注2)仁藤1998.、森2003.、市2019.参照。
(注3)本来であれば先行研究を逐一紹介をすべきところであるが、議論が拡散していて要領を得ていないため、検討する際、随時とりあげることとする。
(注4)高久2012.参照。
(注5)国の使節ではないから追い返されたとする説もある。胡口1996.参照。奈良時代の天平年間に書かれた『海外国記』という書物の逸文には、「非二是天子使人一、百済鎮将私使。……人非二公使一、不レ令レ入レ京」とあって、正式の使節ではないから都入りできなかったとする。しかし、遣唐使において唐の国書をことごとく破棄していた時代の文献で内容を信用することはできない。なにしろ、直前に戦いに敗れた相手である。言うことを聞かずにいられると考えるのは無理がある。
(注6)田辺1983.参照。
(注7)拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注8)「歌人」の恋を歌っているとの説もあるが、主観的な感想を歌っても仕方がない。口承段階の歌でそれが「相聞」に分類されない理由について不明と言わざるを得ない。共感する人がたくさんいなければ後世に残そうとは企られない。
(注9)記は歌を伴わず、話は簡潔である。
此の天皇の御世に、伇病多に起りて、人民尽きなむとす。爾くして、天皇、愁へ歎きて、神牀に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕れて曰はく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以て、我が前を祭らしめば、神の気起らず、国も亦安平らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使を四方に班ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村に其の人を見得て貢進りき。
爾くして、天皇の問ひ賜はく、「汝は誰が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕は大物主大神の、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶りて生みし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白しき。是に天皇、大きに歓びて詔はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主と為て、御諸山に意富美和之大神の前を拝み祭りき。又、伊迦賀色許しこ男命に仰せて、天の八十びらかを作り、天神・地祇の社を定め奉りき。又、宇陀の墨坂神に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神と河瀬神とに、悉く遺し忘るること無く幣帛を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息み、国家安平らぎき。(崇神記)
(注10)三輪山が国作りの神とされているのは、大国主神と少名毘古那神との二柱の神が国作りをしていたけれど、少名毘古那神が常世国へ渡ってしまったために大国主神が途方に暮れていたときに、海上を照らして近づく神がいて、言われるがままにそこへ奉ったからである。大国主神は大物主神ともいい、大和の大物主神は大国主神の和魂と捉えられている。「美和の大物主神」(神武記)ともある。
是に大国主神、愁へて告らく、「吾独りして何にか能く此の国を作り得む。孰れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのる。是の時に、海を光して依り来る神有り。其の神の言はく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らずは、国成り難けむ」といふ。爾くして、大国主神の曰はく、「然らば、治め奉る状は奈何に」といふ。答えて言はく、「吾をば倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といふ。此は、御諸山の上に坐す神ぞ。(記上)
(注11)中大兄については、「韓人」であるとも呼ばれている。それが万19番歌の歌意の焦点にもなっている。拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注12)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注13)反歌とは何かについて、長歌の内容を要約、反復、補足したり、角度を変えて歌ったものとする通説は従うに足りる。
(注14)土佐2020.に微妙にずれた見解が示されている。
……この「三輪山歌」は天智の意志に基づいて作られた「公的」な歌であったと考えられる。この歌は、祭祀では解決がつかない部分、すなわち人々の遷都に対する不満や反感を拾い上げ、「惜別」という情緒に変換することで代弁したものだったのではないだろうか。額田王は、大和に愛着を持つがゆえに近江遷都に後ろ向きにならざるを得ない人々の気持ちを、三輪山と別れたくないという歌によって代弁してみせたのである。そしてそれは結果的に遷都に対する不満や反感を緩和するという機能を担ったのであろう。そうした「情」へと働きかける機能こそ、祭祀と呪歌が持ちえなかった抒情歌特有の機能だったのである。この歌は一見すると遷都の意志に逆行するようであり、「歌と叡慮と相違也」(荷田春満『僻案抄』)と評されたりもするが、右に述べたように、実は遷都を円滑に進めるための手段だったのであり、祭祀の足らざる点を補完するものでもあったのである。当該歌は祭祀歌ではないにもかかわらず、むしろ祭祀歌ではないがゆえに、祭祀と組み合わされることで政治的役割を果たした。当該歌の表現が祭祀から逸脱するものでありながらもなお「三輪山」を主題化するのは、三輪山がこのとき国家的儀礼の「場」であったからであり、この歌が国家的意志を担った歌であったからであろう。歌の公的性格が、公的な「場」の主題化を要請したと見ることができる。(289頁)
(注15)「即和」については、影山2017.参照。
(注16)文化庁文化財保護部1975.26~28頁のシナベソの作り方参照。績んだシナの先端を見つけるのはわけがなく、シナオミの最初に小さな輪が作られているところが目につくからとしている。三輪山伝説の「三勾」も、そんなヘソカキの実働経験に裏打ちされて人々の記憶に留まるところとなったものと考えられる。
(注17)ヘソガタを、ヘソという地名、今日の栗東市綣、カタは細長い糸筋のこと、アガタ(県)の意、その方面のカタ(方)の意などといった説もある。績んだ麻を巻いたヘソも安定性を保つために出臍形に作ることが多い。
(注18)「真野の榛原」(万3801)とあり、海岸段丘上に生えていることをが、野の榛は特別に目立つことを表していると考えられる。
(注19)ハシバミが染料になるのか、筆者は知らない。
(注20)通例は「摺」るとある。
古に ありけむ人の 求めつつ 衣に摺りけむ 真野の榛原(万1166)
白菅の 真野の榛原 心ゆも 思はぬ吾れし 衣に摺りつ(万1354)
蓁揩の御衣三具(天武紀朱鳥元年正月)
秦(養老令・衣服令・服色)
榛摺の帛の袍十三領(延喜式・縫殿寮式・鎮魂斎服)
これらをもって、ハンノキは摺れただけで着色すると考えるのは誤りである。山崎1981.に、「榛摺 版木を用いて榛の葉または果で模様をすった衣。はにすり、はじすりともいう。」(208頁)とある。また、衣服令の順序から推すと、その色については、庶民の服の色として黄茶色ではないかとしている(同頁)。灰汁を使ったアルミナ媒染で出る色である。
(注21)後続の助詞、助動詞の省略を含めて、ハツ(万420・1095・1560・1584・1593・1614・1651・1939・2216・2273・2276・3886・4171・4180・4189・4249・4252・4493)、ハジメ(万52・1530・3329・4160・4284・4516)、ソメ(万612・642・750・963・1332・1495・1869・2023・2178・2179・2194・2195・2211・2430・2488・2542・2650・2680・2899・3130)である。「始水逝」(万4217)の訓は定まらない。強引なことに、契沖・萬葉代匠記は「逝」は「迩」の誤写としてミヅハナニと訓み、万19番歌の「始」字をサキと訓んでいる。
(注22)「狭野榛」を「狭布針」とする解釈は、出所として記紀の三輪山伝説によっていると見なければ「和歌」たりえない。出雲風土記の国引き伝説の「狭布の稚国」や、清寧記に記される「針間国」が出雲国と大和国との縫い合わせによると見て取れること、顕宗紀の室寿ぎの「出雲は 新墾」、「常世たち」といった言葉に国作り伝承をにおわせるが、すでに国作り伝説のなかに結晶化されているものである。
(注23)山崎1989.によれば、室町時代の雑書集に、「唐茶染一伝〈北室伝〉 布一端ニ梅ヲコマカニワリテ水四升ヲ三升二煎テ 其汁ニテ百文目ホト入テ二升煎テ一返引 又スアイニハリノ木ノ皮ヲ少センシテ 但一アワニタスナリ 其中ヘツクルカ子〔鉄〕皿半分ホト入レテ一返引 其上カサ子テ山桃ノ汁二返引 其上椿ノアク一返引 又水ニテフリ上如此トモ色ウスクハ ススク水ニ石灰茶二服ホト入へシ」とあるという。
(注24)拙稿「一言主大神について」参照。
(注25)日本紀略・弘仁十一年二月一日の「詔曰云々。」条に記されている。
(注26)別訓に、ナカノオヒネというものがある。臍の捻り具合を示している。正当な別訓、別称である。
(注27)阿蘇2006.に、「いまだ皇太子の地位にあるとはいえ、天皇に等しい立場と権威をもって君臨し、近江遷都を定めた中大兄皇子に対し、「さ野榛の衣に著くなす目につくわが背」という表現はふさわしいとは思えない。」(99頁)とある。
(注28)「下る」という言い方は、都から離れることを指す。奈良盆地の倭京を高く評価していることになるが、それを招いたのは白村江敗戦後の唐との関係からである。額田王の歌のなかで「雲」と言っていたものによる。「雲」が垂れこめて泣きの涙雨が降り「下る」ということであろう。
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加藤良平 2021.9.7初出2025.1.26訂正