万葉集のなかにある志貴皇子の歌六首のうち、作歌時点が題詞からわかる唯一の例が次の歌である。
慶雲三年丙午に難波宮に幸す時に〔慶雲三年丙午幸于難波宮時〕
志貴皇子の作ります歌〔志貴皇子御作歌〕
葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は 倭し思ほゆ〔葦邊行鴨之羽我比尓霜零而寒暮夕倭之所念〕(万64)
706年の文武天皇の行幸に従った時の作である。九月二十五日に出京、十月十二日に藤原京に還御している。太陽暦に換算すると十一月五日から二十一日までのことという。「葦べを泳ぐ鴨の背に霜が降り、寒さが身にしみる夕べは、大和が思われてならない。」(中西1978.80頁)と訳されている(注1)。
叙景歌とは考えにくい。薄暗がりにカモの羽に降るはずもない霜を実見できるとは言い難い。今日では想像の産物であるとする説が有力になっている。問題は、そのような景をどうして思い浮かべて歌にしているかという点である。行幸に陪従して歌っているのだから、行幸に伴った人々に向けて歌われたはずで、聞いた人がなるほどそのとおりだと思える歌であったということになろう。ひとり志貴皇子の歌表現の問題はなく、聴衆が合意する理解はどこから生まれているかが検討されなければならない(注2)。
志貴皇子の歌には、彼がシキノミコという名を負っていたことを踏まえて歌われている例が見られる(注3)。この歌でも、宮廷社会の人々に対して、彼は、言葉にシキノミコという役割を演じている。万51番歌同様、鋤のことをシキと言ったことによるのであろう。難波宮で鋤が活躍する場面は、堀などの開削、浚渫のことが考えられ、水辺に活躍していたことを示す歌となっている。作業中にふと目を葦の生えている方へ向けてみると、カモが泳いでいるのが見えたとしている。

寒い折だからカモの羽が交差する背中に霜が降りているといい、都のある倭が思われるとしている。どうしてカモの背中に霜が降りていてカモは大丈夫なのか。実際に霜が降りるかといえば、雪を被ることはあっても鳥の羽はうまくできていて、水を弾くから凍りつくようなことはない。塗れずに浮いていられるのも、「羽交ひ」にある尾脂腺から出た脂を体の羽全体に塗りつける羽繕いをしているからである(注4)。脂の源泉のところでは水は弾かれ霜となることなどない。つまり、「鴨の羽交ひに霜降」るようなことは決してないから、聞く人はおやと思い、耳をそばだててさらに聞くことになる(注5)。きちんと手入れをしているから、カモ(鴨)は寒がらずに水に浸かりながら泳いでいる。人間も寒くないように身の回りをきちんと手入れしなければならない。何が必要か。カモ(氈)があれば寒くないはずである。和名抄に、「氈 野王に曰はく、氈〈諸延反、賀毛〉は毛の席、毛を撚りて席に為るなりといふ。」とある。毛氈が欲しいのだが、こんなに冷えるとは予想していなかったので都に置いてきてしまった。だから帰りたい。そして、氈を用意しておく係は、掃守司と書くカモンヅカサ(カモリヅカサ、カニモリノツカサ)である。職員令に、「掃部司 掌らむこと、薦、席、牀、簀、苫のこと、及び舗設、洒掃のこと、蒲、藺、葦の簾等の事。佑一人。令史一人。掃部十人。使部六人。直丁一人。馳使丁廿人。」などと見える。カモと名に負うているから鴨の勤めを果たしてほしい。宮中の清掃や諸行事の床席の設営をつかさどった。すなわち、万64番歌は防寒具を忘れてきた掃守司の失態を歌にしている。
そして倭を思慕している。皇子の立場から倭へ憧憬の思いを述べた例は、記紀に伝わる言い伝えに有名な件がある。ヤマトタケルの逸話である。東征後に倭へ帰還する途中で衰弱し、望郷の歌を歌い、能煩野で亡くなってから白鳥となって河内国の志幾(キは乙類)へ飛び至っている。そこに御陵が作られ、白鳥御陵と号けられている。同じ音の志貴皇子は、鋤を使って御陵を築くに与った者であったとも自称できるのである。それが名に負うということの意味である。だから、同じ皇子の立場として、英雄のヤマトタケルは亡くなって白鳥となったが、自分も鴨ぐらいには成れると言っている。鴨に霜が降りれば、色は白くなって白鳥に見紛うかもしれない(注6)。だから、「倭し思ほゆ」と言えるのである。
ヤマトタケルの故事にちなんでいることは、「葦辺ゆく」で始まるところから明らかである。ヤマトタケルは伊吹山での遭難以降、足の自由が利かなくなって難儀している。足から葦が連想されている。
其処より発ちて、当芸野の上に到りし時に、詔ひしく、「吾が心、恒は虚より翔り行かむと念ふ。然れども、今、吾が足、歩むことを得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまひき。故、其地を号けて当芸と謂ふ。其地より差少し幸行すに、甚だ疲れたるに因りて、御杖を衝きて、稍く歩みき。故、其地を号けて杖衝坂と謂ふ。……其地より幸して、三重村に到りし時に、亦、詔ひしく、「吾が足、三重に勾れるが如くして、甚だ疲れたり」とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ。其より幸行して、能煩野に到りし時に、国を思びて歌ひて曰はく、
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し(記30)
又、歌ひて曰はく、……歌ひ竟りて、即ち崩りましき。爾くして、駅使を貢上る。是に、倭に坐す后等と御子等と、諸下り到りて御陵を作りて、即ち其地のなづき田に匍匐ひ廻りて哭き、歌為て曰はく、……
是に、八尋の白ち鳥と化り、天に翔りて、浜に向ひて飛び行きき。……
故、其の国より飛び翔り行きて、河内国の志幾に留りき。故、其地に御陵を作りて鎮め坐せき。即ち其の御陵を白鳥御陵と謂ふ。然れども、亦、其処より更に天に翔りて飛び行きき。(景行記)
志貴皇子は掃守司という役所の部署のしくじりを笑いに変え、昇華するだけの歌の手腕を備えていた。翻ってみれば、そういう機能、役割が歌にはあったのである。万葉集巻第一「雑歌」の部立は、宮廷内における政治的なメッセージの歌を多く含んでいる。
(注)
(注1)よくよく検討すると定められない点が多い。勝俣2017.に、「諸注釈書で解釈が異なる主な点を挙げると、次のようになろう。①「葦辺行く」は、鴨が葦の生えた水辺を泳ぐ様か、飛ぶ様か。②「鴨の羽がひ」とは、何か。左右の羽の交わる所か、単に、羽の意か。また、別の意味があるか。③「霜降りて」は、何処に霜が降るのか。「羽がひ」のみか、辺り一面か。④上三句は実景か、想像の句か。⑤上三句と「大和し思ほゆ」の関係は、如何なるものか。」(409頁)と整理されている。
(注2)この歌は当初、文字で表したものではない。ここでオーディエンス不在のパフォーマンスについて問われることがないのは、そもそもパフォーマンスとはオーディエンスあってのことだからである。実在しない他者、実在していても伝達されない他者をオーディエンスとしてパフォーマンスをすることも可能ではあるが、文字ほか記録媒体を持たない場合、パフォーマンスが行われたこと自体が知られ得ないことになる。
(注3)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について」参照。
(注4)鵜には尾脂腺がないためびしゃびしゃになり、陸に上がって乾かしている。「鴨の羽交ひ」という語についてこれまで理解されてこなかったが、特に鳥類学に詳しくなくとも、水鳥の様子を鵜と比較してなぜだろうと思い、また、狩りで捕まえてアヒルやガチョウに学べば、なるほど尾脂腺のおかげなのだと知ることは誰でもできよう。
(注5)中西2010.に、「「寒き夕」を何によって歌うかというと、それが「葦辺ゆく鴨の羽交に霜降」る情景である。……実は現実的に葦辺を泳ぐ夜の鴨を見、その羽交に白い霜を見たのではない。身辺にせまる寒さが志貴をして想像させたものが、鴨の羽交にも降っているであろう霜であった。かつこの鴨は離宮での属目において、つねに葦辺を漂っていたものだったのである。そう考えなければ、夜の水面を泳いでいる鴨が実際に霜を帯びていて、それが見えるという事は、不可能だろう。多くの作品が示すように、水鳥は夜の霜に、時おり羽ぶき、それを払うであろう。その羽ばたきの音を、志貴は今聞いている。その音の世界から視覚の世界へと想像していった志貴は、そこで遠く大和を思ったのである。これまた「大和」は今現前にしているものではない。ちょうど都の繁栄が現前になかったように。つねに志貴の思念は遠く非現実の世界へと導かれていくのである。」(168~169頁)と評されている。現代人の深読みは誤りである。志貴皇子が一人で築いた想念の非現実世界を声に発して歌ったとて、すぐに消えていく声についていくことができるオーディエンスなどいなかったであろう。個人的にいかに詩情を高めてみても、聞いてその場で理解する人がいなければ歌として成り立たない。(注2)参照。
(注6)こういうジョークがわからなければ上代人たり得ない。人は言葉に生きている。「白鳥」とは何かという哲学的な理解は紀に記されている。言葉の使い方、ものの考え方に慣れなければ万葉歌の真意は理解できない。
閏十一月の乙卯の朔戊午に、越国、白鳥四隻を貢る。是に、鳥を送る使人、菟道河の辺に宿る。時に、蘆髪蒲見別王、其の白鳥を視て問ひて曰はく、「何処将て去く白鳥ぞ」とのたまふ。越人、答へて曰さく、「天皇、父の王を恋ひたまはして、養ひ狎けむとしたまふ。故、貢る」とまをす。則ち蒲見別王、越人に謂ひて曰はく、「白鳥なりと雖も焼かば黒鳥に為るべし」とのたまふ。仍りて強に白鳥を奪ひて、将て去ぬ。爰に越人、参赴きて請す。天皇、是に、蒲見別王の、先王に礼无きことを悪みたまひて、乃ち兵卒を遣して誅す。蒲見別王は天皇の異母弟なり。時人の曰はく、「父は是れ天なり。兄は亦た君なり。其れ天に慢り君に違ひなば、何ぞ誅を免るること得む」といふ。是年、太歳壬申。(仲哀紀元年閏十一月)
(引用・参考文献)
尾崎1990. 尾崎暢殃「鴨の羽交」『国学院雑誌』第91巻第4号、平成2年4月。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。
高橋1986. 高橋由典「自己呈示のドラマツルギー(E・ゴフマン)」作田啓一・井上俊編『命題コレクション社会学』筑摩書房、1986年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、平成22年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
加藤良平 2022.1.18初出