「石走る 垂水の上の さわらびの」歌(志貴皇子)について


 万葉集巻第八の巻頭、「春雑歌」の標目の最初の歌は、高等学校の教科書にも採用されている(注1)。諸注釈書に、題詞の「懽」について何をよろこんでいるのか未詳であるとされている。歌を詠んだ状況設定がわからないということは、歌の内容もわからないということに相違ない。

  きの皇子みこよろこびうた一首〔志貴皇子懽御歌一首〕
 石激いはそそく たるの上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも〔石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨〕(万1418)(注2)

 梶川2016.に、「勢いよく水しぶきを上げて落下する滝のほとりの、神聖なわらびが、 今まさに芽吹こうとしている春に、なったことだなあ、というほどの意。題詞には「歓びの御歌」とされているが、確かに春の訪れを、感動をもってうたった一首だと言ってよい。」 (68頁)と、現在の通説を語っている(注3)
 しかし、そうであろうか。ワラビ(蕨)が芽生えたことで、たとえそれが冬には凍っていた滝の水が緩んで水しぶきをあげていたからといって、春の訪れをよろこぶというのはあり得るのだろうか。そんなところに「春」を見つけてよろこんだという点が目のつけどころのうまいところで、そこに詩情が見出されるということなのだろうか。ワラビはゼンマイかもしれない山菜で、あく抜きしておひたしや塩漬けにし、今では天麩羅にしても食べられている(注4)。けれども、志貴皇子は食べられるものを見つけてよろこんだとは想定しにくい。もし「春」の訪れを、あるいは献上されたワラビを見つけたと言って興趣があるのなら、万葉歌の他の例に漏れず類似の歌が出てきてよさそうであるが一切ない。「わらび」とあるから神聖なのだと主張されても、ウラジロを正月飾りに使うことの類だとはなかなか思われない。「さ」は小さい、早いの意とも取れ、あるいは、当てこすりの表現かもしれない。「さわらび」は万葉集中に孤語であり、「わらび」という語も古辞書類に見えるものの歌語にはなっていない。正倉院文書に、三月、閏三月、四月に食用とされている。春の雑歌のなかの歌であるが、早春ではなく晩春のことと捉えられ、春の到来のよろこびとするにはふさわしくない。
 志貴皇子が歌った歌に、万51・1466番歌の例がある。それらでは、彼がシキノミコという名を負っていて、鋤の異名、シキのことを含意した歌を歌っている(注5)。具体的に指し示すものがあって、すべて納得づくの洒落となっている。この万1418番歌でも、同様に納得づくの歌であることが予感される。周囲にいてこの歌を耳にした当時の人が、ああ、また、志貴皇子の戯れ歌が始まったよ、いつもおもしろいことを言う皇子様だねえ、と話題になった。話題にのぼるほどだったから万葉集を編むに当たり、編者の考えのもと巻頭歌に据えられていると考える。
 題詞に「よろこび」とある。ヨロコビ、ヨロコブの義で「懽」字が使われている例は、万葉集中、他に二例、題詞に見られ、歌語としてヨロコブルと訓む例が一例知られる。

  大伴家持の霍公鳥ほととぎすを懽ぶ歌一首〔大伴家持懽霍公鳥歌一首〕
 いづには 鳴きもしにけむ 霍公鳥 わぎの里に 今日のみそ鳴く〔何處者鳴毛思仁家武霍公鳥吾家乃里尓今日耳曽鳴〕(万1488)
  逢ふを懽ぶ〔懽逢〕
 住吉すみのえの 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも〔住吉之里行之鹿齒春花乃益希見君相有香開〕(万1886)
  こほろぎに寄せる〔寄蟋〕
 蟋蟀こほろぎの 待ちよろこぶる 秋の夜を 寝るしるしなし 枕と吾は〔蟋蟀之待歡秋夜乎寐驗無枕与吾者〕(万2264)

 いずれも目的語を明示した形で与えられている。万1418番歌では対象を提示していない。暗黙の了解があることで、それは単に春の訪れをヨロコブというような安易にして軽いものではないと考えるべきであろう。なにしろ志貴皇子は成人していて、公衆を前にして歌を歌っている。大人がヨロコビであると唱える事柄は、本能的な食欲、性欲、物欲、金銭欲、承認欲求などではないのではないか。個人的な「懽」を歌い上げて共感が得られるものかも疑問である。宴席でワラビかゼンマイを賞美したとの説も見られるが、春限定メニューでよろこんでもその場限りのことである。下働きの者は給仕を務めており、ご馳走を目にはしても自らは食べられないのだから聞いていておもしろくない。寒かった冬が過ぎて春が来たことをよろこぶ気持ちは皆に共有され得るから、季節の進行を無邪気によろこんでいると考える点は否定しきれないが、それを題詞に「懽」とばかり書いて示すとも思われない。わからないからである。志貴皇子はシキノミコであるから誰もが思う「懽」を歌にして披露したとするのが、題詞本来の役割、歌の筋立てをフレーミングする機能に適っていよう。
 志貴皇子は磯城、芝基、志紀、施基などとも記されている。シキのキは乙類である。磯城は、巌のようなところで城としての機能が十全に発揮されるところのことである。そんな巌についての当時の人々の認識、誰もが常識と考えていた事情があったことに関して、名に負っているシキノミコが「懽」を歌っていると捉えるのがもっとも合理的である。
 歌の表面的な意味は通説のごとくである。タルミと聞いて思い浮かぶのは、体にあって垂れたところに目が付いていて見ているように思われるもののことである。すなわち、女性の乳首が思い当たる。「垂水の上の さわらび」と言えば、乳首のこと、それが「萌え出づる」とあるのだから露出することを言っている。そのような光景は記紀の言い伝えに認められる。アメノウズメ(天宇受売命、天鈿女命)がダンスをする話は当時よく知られていた。

 天宇あめのうめのみことすきあめの香山かぐやまの天のかげけて、天のさきかづらとして、天香山の小竹葉ささばぐさに結ひて、〈小竹を訓みて佐々ささと云ふ。〉天のいはの戸にうけ伏せて、みとどろこし、かむがかりして、むなを掛き出で、をほとにし垂る。しかくして、高天原とよみて、八百やほ万神よろづのかみ共にわらへり。是に、天照大御神あまてらすおほみかみあやしと以為おもほし、天石屋あめのいはやの戸を細めに開け、内よりりたまはく、「吾がこもすに因りて、天原あまのはらおのづからくらく、亦、あし原中はらのなかつくにも皆くらけむと以為すに、何の由を以てか、天宇受売はあそびをし、亦、八百万神ももろもろ咲ふ」とのりたまふ。爾くして、天宇受売、まをしてまをさく、「みことに益してたふとき神坐す。故、歓喜よろこび咲ひあそぶ」とまをす。(記上)
 又、猨女君さるめのきみ遠祖とほつおや天鈿女命あまのうづめのみこと、則ち手に茅纏ちまきほこを持ち、天石窟戸あまのいはやとの前に立たして、たくみ作俳優わざをきす。亦、天香山あまのかぐやま真坂樹まさかきを以てかづらにし、ひかげ〈蘿、此には此舸礙ひかげと云ふ。〉を以てすき〈手繦、此には多須枳たすきと云ふ。〉にして、火処ほところ焼き、覆槽うけせ、〈覆槽、此には于該うけと云ふ。〉顕神明之憑談かむがかりす。〈顕神明之憑談、此には歌牟鵝可梨かむがかりと云ふ。〉是の時に、天照大神、きこしめしておもほさく、「吾、このごろ石窟にこもり居り。おもふに、当に豊葦原中国とよあしはらのなかつくには、必ず為長夜とこやみゆくらむ。云何いかにぞ天鈿女命、如此かく噱楽ゑらくや」とおもほして、……(神代紀第七段本文)

左:金銅装雲珠(群馬県伊勢崎市出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)、右:螺髪(頭が螺髪になっている東大寺大仏、ウィキペディア「螺髪」https://ja.wikipedia.org/wiki/螺髪)

 天宇受売命の返事に、ヨロコビ(歓喜)と記されている。万1418番歌の題詞のヨロコビ(懽)とはこのことである。彼女の名はウズメと言う。それが何によるかはともかくそういう名前である。乳房を露出する踊りに見える乳輪はウズ(渦)を巻いているように見え、一応は神さまの話だから神聖なるワラビ、ゼンマイの巻き巻きの渦だということで接頭語のサを冠してサワラビと呼んだのだと考えられる。人間の肉体の乳首が渦を巻いているようには見えないというのはそのとおりだが、馬具のウズ(雲珠)が乳に見えない人はむしろ少ないであろう(注6)。仏教における「」は渦を巻いて造形されている。梵鐘の装飾に多数の突起物が付けられており、それは「」と呼ばれており、螺髪を表しているとされる。螺髪は仏の頭にたくさんついている丸まった髪の毛のことで、もとはパンチパーマを模したものと言われ、知恵の象徴であるともされる。右巻きの渦を巻いている。神仏の世界のこととして、アメノウズメの乳首に習合的な理解が行われていたと考えられる。
 万1418番歌は、それらを前提として、サワラビという新語で表現を深めようとした試みであった。むろん、当時一般に使われていたわけではなく、志貴皇子がこの歌の修辞のために発案した語なのであろう。当然、新語を唐突に聞く人に、直ちに受け入れられたとは思われない。証明可能の語であったから、なるほどと思われて人々に受け容れられたものと考える。

椹(「庭木図鑑植木ペディア」 https://www.uekipedia.jp/常緑針葉樹/サワラ/ )

 植物のワラビは、また、女房詞にワラとも呼ばれている。ナス(茄子)のことをナスビと言うのと同様である。すると、サワラ─サワラビという語の展開のなかにあったと解釈されうる。そういう語として作り上げたと仮定すれば、他にサワラという語があることに気づく。樹木のサワラ(椹)と魚類のサワラ(鰆)である。その古形はともにサハラと言ったのではないかとも考えられているが、上代に記されることはなかった。樹木のそれは、易林本節用集に「弱檜 サハラ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543887/24)とある一方、和漢三才図会に「椹 さわらぎ……佐和良」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569760/9)とある。雌花は1cm弱の球形をしており、翌秋に茶色く熟す。乳首によく似ていると見立てたのだろう。また、材は桶や樽を作るのに重宝された。槽の材料だったのである(注7)
 魚類のそれは、名義抄に「鰆 サハラ」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586900/11)とある一方、明応本節用集に「鰆 サワラ」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545062/24)とある。この鰆には、肉を食すだけでなく、ボラ同様、卵巣を加工して珍味のカラスミに作られた(注8)。当時の舶来の墨と形や色が似ているからその名が付けられたとされる。その墨の形状に、棒状のものと球状のものがあり、正倉院文書では助数詞に「廷(挺)」と見えるが、中国ではじめ丸い粒状のものとして出発しており、黒い豆粒のような形のものも使われていたようである(注9)。墨を磨るときはそれを硯の上で潰して使った。揉んで潰して汁まみれにしたところから、乳首によく似ていると見たのだろう。
 ここに、サワラビなる語は、乳首様の色、形のものとして言葉と成立しているのである。そして、アメノウズメは裸踊りをして神々をよろこばせ、磯城、すなわち、巌になっている岩屋に籠るアマテラスに対して、「汝が命に益して貴き神坐す。」と言い放つほどであった。彼女は、うけを伏せて舞台にしてその上で躍っている。ウケは桶の古形であり、同じ用途のものにたるがある(注10)。タルミ(垂水)という言葉は、垂れてきた水を樽がけるところのこと、滝壺のことをよく言い当てている。ウケフセと聞くのにかなっている。「石激いはそそく」という枕詞が冠されているのも、アマテラスの天の石屋ごもりの時のことだったからである。アメノウズメが乳首を見せて踊ったから、よろこびが溢れ、結果、アマテラスは石屋から出てきて世界は再び明るくなった。一陽来復、春が来たということである。
 以上まとめれば、この歌は、記紀の天の石屋前でアメノウズメが上半身を露出したダンスを踊ったことを典拠とした歌である。当時の人々にとって天の石屋の話は周知のことであったから、人々によく理解され、志貴皇子様は、その御名のもとに、またうまいことを歌われてことよ、と喝采したことと思われる。この間の事情は今日、研究者にまったく理解されておらず、高等学校の教科書に採られて憚られていない。

(注)
(注1)梶川2016a.、梶川2016b.、大谷2021.参照。
(注2)第一句「石激」は、イハバシルと訓む説が優勢で、教科書にもそのように採られている。本稿のタイトルもそれを踏襲したが、イハソソクと訓むべきことは大谷2021.に詳論がある。
(注3)多くの注釈書が、宴席での歌であるように捉え、春の訪れを食材をもってよろこんだ歌を作り、人々を和ませたという想定が行われている。それ以外には、加封や位階の昇進をよろこんだとする説があった。契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979063/252)参照。
(注4)木下2010.に、「『和名抄』では薇蕨で「わらび」と訓じ、薇が何であるか明らかにせず、また、『本草和名』でもそれを収載していないのは、古い時代ではワラビとゼンマイが形態的に区別しかねたからであり、これらの文献よりやや古い『新撰字鏡』でかろうじて蕨と薇は別物としたが、別項では同じとしているなどちぐはぐの感は否めない。すなわち、中古代の日本では蕨・薇が正しく理解されていなかったことを示唆する。したがって、志貴皇子の歌にある「さわらび」の基原も、「わらび=ワラビ」とは限らず、再検討しなければならない。
 これまで、「さわらび」が生えている垂水は小さな滝と解釈されてきたが、薇の別名に垂水があり、しかも漢籍の出典とあれば、これまでとは異なる解釈も可能になってくる。結論からいえば、「さわらび」は定説のワラビではなく、ゼンマイそれもおそらくは渓流 沿いによく生えるヤシャゼンマイであり、垂水は「小さな滝」とゼンマイの別名の垂水を掛けているとも解釈できる。志貴皇子が万葉集に残した歌から推察すると相当な教養人であり、漢籍にも深く通じていたにちがいない。冒頭の例歌[万1418番歌]は自らの教養の深さをも詠い込んだものとも解釈できる。また、実際に目にした情景ではなく、情景を想像して詠ったのかもしれない。」(617頁)とし、さらに木下2017.に、「『爾雅』に「薇は垂水なり」……とあるから、志貴皇子は漢籍にいう薇を水辺に生えるゼンマイ(ヤシャゼンマイではなく)と直感し、またその別名が垂水すいすいであることを知っていたと考えても不思議はない。早春の平凡な情景で芽を出したゼンマイに飽き足らず、それを埋め合わせる恰好の情景として、その別名とたまたま同名である垂水たるみを詠み込み、枕詞の「石走る」を加えてより躍動感のある歌に仕上げるのに成功したのである。……「さわらび」の歌こそ自らの教養の深さをアピールするものではなかったか。しかし、薇と蕨の区別は中国でもあいまいであり、またわが国では二つの漢名に対して一つの和名「わらび」しか用意されていなかったため、「わらび」と垂水たるみを掛けた高度な技法が解き明かされることはなかった。」(46頁)としている。
 筆者は、志貴皇子が漢籍に広く深く通暁していたとは考えていない。仮にそうであったとしてさえ、歌に詠み込んだことなどなかったと考える。周囲の人のうちどれだけの人が文字をすらすら読めたのか、そんななか蕨ないし薇について爾雅という辞書を繙いて口承文芸の歌に作るとは考え難い。聞く人がわからないことを歌にしてもコミュニケーションに堪えない。
(注5)拙稿「「采女の 袖吹きかへす 明日香風」歌(志貴皇子)について」、「万葉集の「磐瀬の社」の歌─志貴皇子作歌(万1466)を中心に─」参照。
(注6)アメノウズメの名が馬具によるとする考えについては、拙稿「サルタヒコとサルメ」参照。
(注7)和漢三才図会に、「按属、尾州、騨州之、葉似而微淳朴スナホナリ。木皮濃カニシテ於檜ヨリ。亦。其材、微縦理タテキメナリ。〓〔耒偏に片〕クニ。作扇箱リテ桶及ハシハル。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569760/10、適宜字体等改めた)とある。
(注8)本朝食鑑に、「唐墨〈鰆子也〉集解、鰆多子胞刀豆ナタマメサヤ。曝乾シテタリ華墨キニ。名ケテ唐墨。切ルトキハ騮色ニシテ光膩、味亦甘美ナリ。多ヘバカラ、粘シテ牙唇シブ。或ヲシテ。此レモ亦動ズル之故。近代為賀儀隹肴而賞。擬スル多子。土佐、阿波、讃岐国守献。漁家亦貨。鯔魚唐墨、味レリ于鰆。……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569421/22~23)、鯔の唐墨については、「然黄赤甘美ニシテレリ于鰆墨。鰆墨色、紫黒ニシテ甘美ナリト而生辣渋、故稍劣レリ矣。」(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569420/16)と解説されている。
(注9)宋の蘇易簡・文房四譜巻五の墨譜に、「漢書云、尚書令僕丞郎、月賜隃麋、大墨一枚、小墨一枚。東宮故事、皇太子、初拝給香墨四丸。」と来歴が記されている。
(注10)上代にタル(樽)という語は文献に確認されないが、垂れてきた液体を承けるものとして考えられた言葉であったと推測される。紀歌謡102の「ほだり」は、銚子、徳利の類のもので、タリは樽の古形かと説かれている。

 みなそそく 臣の嬢子をとめ 秀樽ほだり〔本陀理〕取らすも  秀樽〔本陀理〕取り 堅く取らせ 下堅く 堅く取らせ 秀樽〔本陀理〕取らす子(記102)

(引用・参考文献)
大谷2021. 大谷雅夫『万葉集に出会う』岩波書店(岩波新書)、2021年。
梶川2016a. 梶川信行「万葉歌を読む22 教科書の中の万葉歌─志貴皇子の歌を読む─」『語文』第154輯、日本大学国文学会、平成28年3月。
梶川2016b. 梶川信行「古すぎる教科書の万葉観」同編『おかしいぞ!国語教科書─古すぎる万葉集の読み方─』笠間書院、平成28年。
川上2000. 川上富吉「大宝三年正月の早蕨─「志貴皇子懽御歌」一首考─」『大妻国文』第31巻、2000年3月。大妻女子大学学術情報リポジトリ http://id.nii.ac.jp/1114/00001395/
木下2010. 木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』八坂書房、2017年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
田中2010. 田中夏陽子「万葉集における「よろこびの歌」」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
中西2021. 中西進「さわらびの春─中西進研究Web報告1 2021/11/3─」『さあ、創めよう』 https://www.nakanishisusumu.com/研究報告1%e3%80%802021-11-03/ (2022年1月23日閲覧)
松本2008. 松本尚美「万葉集一四一八番志貴皇子歌」『広島女学院大学大学院言語文化論叢』第11号、2008年3月。広島女学院大学機関リポジトリ http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hju/metadata/10191
綿谷2014. 綿谷正之「墨の文化史 概説」『奈良保育学院研究紀要』第16号、2014年。

加藤良平 2022.1.23初出