雄略記「上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下枝は鄙を覆へり」歌は、「負へり」の誤りである 

 雄略記に三重の采女うねめの逸話が載る。天皇が長谷はつせももつきの下で豊楽とよのあかりをしたとき、伊勢国の三重の采女がお酌をしていた。葉っぱが杯に浮かんでいたので粗相をしたと咎め立て手打ちにしようとした。采女は制止して猶予をもらって歌を歌っている。その歌を承けて大后も歌い、さらに天皇が追っている。本稿では、最初の三重の采女の歌の歌詞にある「淤弊理おへり」について探究する。

 又、天皇すめらみこと長谷はつせももつきしたいまして、豊楽とよのあかりし時に、伊勢国の三重みへうねめおほうきを指し挙げてたてまつる。しかくして、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮きき。其の婇、落葉のうきに浮きつるを知らずて、なほおほ御酒みきを献る。天皇、其の盞に浮きつる葉を看行みそこなはして、其の婇を打ち伏せ、たちを以ちて其のくびに刺しててらむとする時に、其の婇、天皇にまをしてまをさく、「が身を殺したまひそ。まをすべき事有り」とまをして、即ち歌ひけらく、
 纏向まきむくの しろの宮は 朝日の 日る宮 ゆふの 日がける宮 竹の根の 根る宮 の根の 根ふ宮 八百土やほによし いきづきの宮 真木まきく の御門 新嘗にひなへに てる ももる つきは つ枝は あめへり〔阿米袁淤弊理〕 なかつ枝は あづまを覆へり〔阿豆麻袁淤弊理〕 しづ枝は ひなを覆へり〔比那袁淤弊理〕 上つ枝の 枝のうらは 中つ枝に 落ちらばへ 中つ枝の 枝の末葉は しもつ枝に 落ち触らばへ しづ枝の 枝の末葉は 在衣ありきぬの 三重みへの子が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら 落ちなづさひ みなこをろこをろに しも あやにかしこし 高光る 日の御子 事の 語りごとも をば(記100)
 かれ、此の歌をたてまつりしかば、其の罪をゆるしたまひき。爾くして、大后おほきさき、歌ひき。其の歌に曰はく、
 やまとの 此の高市たけちに だかる 市の高処つかさ 新嘗屋に てる びろ 真椿まつばき が葉の ひろいまし 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に とよ御酒みき 献らせ 事の 語り事も 此をば(記101)
 即ち、天皇すめらみことの歌ひたまはく、
 ももしきの 大宮人おほみやひとは 鶉鳥うづらとり 領巾ひれ取りけて 鶺鴒まなばしら 尾へ 庭雀にはすずめ 群集うずすまて 今日けふもかも さか水漬みづくらし 高光る 日の宮人 事の 語り事も 此をば(記102)
 此の三つの歌は天語歌あまがたりうたぞ。
 故、此の豊楽とよのあかりに其の三重の婇を誉めて、あまたものたまひき。(雄略記)

 三つの歌謡が歌われて「天語歌あまがたりうた」と称されている。話としては三重の采女の不注意を天皇が咎めたことに端を発している。最初の記100歌謡が歌われることで許され、大后、天皇の唱和を経て美談となっている。この歌謡物語の要は最初の歌にあり、その歌詞をきちんと理解してはじめて全体を把握できることになる。記100歌謡は段落を追って、宮讃めの話、枝の譬え話、末葉の落ちる話、まとめ、と続いている。
 現在までの解釈では、ぼんやりとながら雄略天皇が景行天皇とその代のヤマトタケル(倭建命、日本武尊)に準えられていると捉えられることが多い。そしてまた、なんとなくであるが新嘗祭に当たってのことから国土創世神話がほのめかされているとされている。また、それとなく天皇の統治領域を天・東・鄙に配分して表していることとされており、この点が強調されて通説となっている(注1)
 この通説には大きな問題がある。天下国家について主張していることになっている。采女の分際でそのようなことを言うのだろうか。そして、歌い手側の言い分ばかりを重んじることになっている(注2)。しかし、歌というものは作る側の論理に従うばかりでなく、聞く側が正しく理解できなければ成立したことにならない。文字を知らない古代の人たちは、歌の声を頼りにして互いの見方を一致させて意思を伝達していた。恣意的に受け取られるとするなら、発せられた言葉は世界を分節化して意味づけるどころか無秩序を惹き起こすことになり、コミュニケーションに資するという果たすべき役割を担わずに混乱に陥れることになる。現状の理解のように象徴詩であるかのように捉え、おそらくはそういうことを言っているのだろうという当たらずも八卦的なことはあり得ないのである。当時の人たちが共通の認識として抱いていたものの考え方にすっぽり嵌っているから歌として歌われて共有されたに違いないのである。いまだ正解は得られていないということである。
 記の歌謡は一字一音で記されている。「淤弊理」は一般に「へり」と訓まれている。「おほふ」の意の「ふ」の用例は「真床覆衾まどこおふふすま」という語にある。「都紀」=「つき」はケヤキのこととされており、ケヤキは太い幹の部分でいくつにも分岐し、それぞれの枝が伸びていって上のほうで葉をつける。枝全体が覆うという表現ならわかるが、上中下を別々に扱う理由はわからないし、ケヤキの実際の枝ぶりにもそぐわない。また、あめつ枝を覆っていると言うのならともかく、つ枝があめを覆っていると想定すると、このつきの木は世界樹のような巨大なものを想定しなければならなくなる(注3)
 他の可能性としては「負へり」の意と見ることができる(注4)。ここでいう「負ふ」の意は、「名に負ふ」の「負ふ」の意で、言葉(の音)が意味を背負っていることを表す。そういう言葉(音)なのだからそういうことになるものだと言っている。最終的に、「故、於此豊楽、誉其三重婇而、給多禄也。」と相成っており、だから三重の采女は誉められてたくさんのたまいものを与えられたのだぞ、と述べられている。歌謡物語がくり広げられた結果として誉められるのは当然のことであるとしている。三重の采女が作った歌は最初の記100歌謡だけだから、それが出色の出来栄えだったことになる。
 「淤弊理」を「へり」と解することに支障はない。話は「盞」に落ち葉が浮いていることにまつわっている。「盞」は酒杯のことでサカヅキとも訓まれるが、ウキ(キは甲類)と訓むべきである。歌の後半部でも「瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら」とある。「浮き(キは甲類)」との間で洒落であることを意図し、際立たせている。景行紀では筑紫国での話として、盞を忘れて「盞は(どうしたのか)?」という言葉から「うき」という地名が名づけられたとする地名譚も載る。

 八月に、的邑いくはのむらに到りて進食みをす。是の日、膳夫等かしはでたちうきわする。かれ時人ときのひと、其の盞を忘れし処を号けてうきと曰ふ。今、いくはと謂ふはよこなばれるなり。昔、筑紫のくにひと、盞を号けて浮羽と曰ふ。(景行紀十八年八月)

 話の基底に言葉の洒落がある。記100歌謡も同様なのだろう。「負へり」と言って、そういう言葉(音)なのだから洒落としてそういうことにつながると主張しているのである。
 歌っているのは三重の采女で、三重はヤマトタケルが東征からの帰路に訪れた地で縁がある。豊楽を催した場所は雄略朝の長谷の朝倉宮のはずが、歌詞では景行天皇の纏向の日代宮になっている。冒頭部で宮讃めの言葉がもったいぶって語られている。采女は頸に刀を当てられていて、殺さないでくれ、奏上したいことがあると言っている。ヤマトタケルが熊曾建くまそたけるを殺そうとしていた場面を髣髴とさせる。

 すなはち、其の室のはしもとに追ひ至り、其の背の皮を取りて、剣を尻より刺し通しき。しかくして、其の熊曽建くまそたけるまをして言ひしく、「其のたちをな動かしそ。、白すこと有り」といひき。爾くして、しまらく許して押し伏せき。(景行記)

 ヤマトタケルの逸話になぞらえて歌としているのである。雄略天皇、あなたはまるでヤマトタケルのように勇ましいお人であるよ、とお世辞を言っているかのようである。歌のなかでのことが上中下にわたってくり返し述べられている。
 「」はヤ行のエである。ヤ行のエには、柄、江、胞、役、疫などの意味がある。これらは同根の語と見られていたようである(注5)
 ヤマトタケルは若い時、やまと男具那をぐな(日本童男)、小碓命をうすのみこと(小碓尊)とも言っていた。その大碓命おほうすのみことである。

 其の大碓皇おほうすのみ小碓尊をうすのみことは、ひとに同じにしてふたごれませり。(景行紀二年三月)

 一卵性双生児である。「」は「」と同音である。「は あめへり」とは、「ほつは あめへり」という意味合いを込めた言い方で、ヤマトタケルが最初に特記されたのは生まれた時、一つの胞に入っていたことで、天の配剤によってそうなっていたと言っている。「ほつ」は+つ(助詞)の形で、のように先に抜きん出たてっぺんのところのものを指している。一番最初に気づかされるエとは、ヤマトタケルの話の最初に出てくる出生譚にまつわってのことである。
 「なかは あづまを負へり」は、「なかつ(伇)は あづまを負へり」という意味合いを込めており、ヤマトタケルが二番目に兵役に就いたのは熊襲を討伐してから帰って来るや否やあづまを征伐するように命じられてのことである。「なかつ」はなか+つ(助詞)の形で、二つの中間に位置することを指し、順序的には二番目のことに当たる。二番目のエとは、ヤマトタケルの東征にまつわってのことである。
 「しづは ひなを負へり」は、「しづは ひなを負へり」という意味合いを込めたもので、ヤマトタケルが衰えることになった病はひなに関わってのことであるとしている。
 「」は伝染病、流行り病のことである。和名抄に、「疫 説文に云はく、疫〈音は役、衣夜美えやみ、一に度岐乃介ときのけと云ふ〉は民、皆病なりといふ。」とある。ヤマトタケルは天然痘や新型コロナウイルスなどの感染症に罹ったわけではない。それどころかスーパーマンのように身体が丈夫で病とは無縁、怖いもの知らずなところがあった。そんな超人も、人しなみに体調不良に陥るようになった。人が皆罹る病とは齢を取って衰えること、やがて必ず死ぬことである。老いるということは疫病のようなものだと頓知的に見なしている。「しづ」は、しづかしづまるしづくしづしづくなどと同根の語である。精力が減退することを言っている。ヤマトタケルがはじめてそのような兆候を示したのは伊吹山で遭難したときである。紀では「日本武尊、於是、始有痛身。」と断られている。ヤマトタケルが人皆と同様に老いという病にはじめて罹患したわけである。であった。

 故、爾くしてあひして、其の御刀みはかし草那芸剣くさなぎのつるぎ以て、其の美夜受比売みやずひめもとに置きて、伊服岐能いふきのやまの神を取りに幸行いでましき。是に、のりたまはく、「の山の神はむなただに取らむ」とのりたまひて、其の山にのぼりし時に、白き、山のに逢ひき。其の大きさ、牛の如し。爾くして、言挙ことあげて詔はく、「是の白き猪とれるは、其の神の使者つかひそ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて騰り坐しき。是に、大氷雨ひさめふらして、倭建命を打ちまどはしき。〈是の白き猪と化れるは、其の神の使者には非ずして、其の神の正身むざねに当れり。言挙せしに因りて惑はさえしそ。〉故、還り下り坐して、玉倉たまくら清泉しみづに到りていこしし時に、御心、やをやめき。故、其の清泉を号けて居寤ゐさめの清泉しみづと謂ふぞ。(景行記)
 是に、近江あふみ五十葺山ぶきやまに荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣をきてみやひめの家に置きて、たむなででます。胆吹山いぶきのやまに至るに、山の神、大蛇をろちりて道に当れり。ここ日本武尊やまとたけるのみこと主神かむざねをろちと化れるを知らずしてのたまはく、「是の大蛇は、ふつくに荒ぶる神の使つかひならむ。既に主神を殺すこと得てば、其の使者つかひあに求むるに足らむや」とのたまふ。因りて蛇をまたこえてなほでます。時に山の神、雲を興してらしむ。みねり谷くらくして、またくべきところ無し。乃ち捿遑さまよひて其の跋渉まむ所をおぼえず。然るに霧をしのぎてあながちに行く。まさわづかに出づることを得つ。猶失意こころまどひせることへるが如し。因りて山の下の泉のほとりして、乃ち其の水をしてめぬ。故、其の泉を号けて醒泉さめがゐと曰ふ。日本武尊、是に始めて痛身なやみますこと有り。しかうしてやくやくに起きて、尾張に還ります。(景行紀四十年是歳)

 この伊吹山山中のことを三重の采女は「ひな」に関わってのこととしている。名義抄に「鄙 陂美反、イヤシ、ウレフ、ハチ、ヰナカ、和ヒ、ヒナ、アシ」とあり、ヒナとはヰナカのことである。古事記ではに惑わされて病み、に至って正気を取り戻している。目には目を、歯には歯を、ゐにはゐを、であり、そこを居寤ゐさめの清泉しみづ醒泉さめがゐ)と呼んでいる。すなわち、伊吹山山中はなかに当たる。「しづは ひなを負へり」とは、勢いを静めてしまう多くの人が罹る病はヰナカに負っているということで、つまりはヒナに負っていると言えるのである。
 以上のことから、記100番歌謡で三重の采女は、眼前の雄略天皇のことを景行天皇時代のヤマトタケルになぞらえて歌にしていたとわかる。誉め讃えるためにそうしていたように思われるかもしれないが、ヤマトタケルが偉大だと認識されていてその姿に雄略天皇を当てはめて持ち上げようとしたと断じることはできない。おべんちゃらを言われて天皇が喜んだという流れにはなっておらず、大后の歌、天皇の歌へと続いて行っている。三重の采女の歌に感心し、同じく「事の 語りごとも をば」と結ぶ歌を作って唱和して盛り上がっている。二つの意味を掛けた言葉を使って置かれている状況を歌にした巧みさが評価されていて、後代の読み手である人にさえもその意が通じると考えていたから歌謡物語は残されている。現代人がその場その場で言葉を弄しているのとは異なり、普遍的に正しい使い方をした完璧な話が作られていたのである。
 話の焦点は同音のエ(ヤ行のエ、ye)による洒落である。今見えている槻の木のはヤマトタケル一代のエ(胞、伇、疫)と同等であり、そんな巧みな修辞を披露できるのも、枝が上中下の三層に重なっていることに自ずと気づくように、私め、三重みへの子がここに控えていたからなのです、捧げていた盃に葉が浮いていたのも、この世の始まりに際して地を生むのにこをろこをろとかき混ぜるべきことを思い起こさせるための方便なのでしょう、すべては昔からの言い伝えを惹起させるべく配剤されたもの、なんとも畏れ多いことでございます、と歌っている。
 三重の采女は頓知の効いた歌を歌った。罪を赦されるばかりか誉められてたくさんの物を賜るに至っている(注6)。彼女は、置かれている現状はヤマトタケルの言い伝えと同等のことだと言葉巧みに述べている。雄略天皇がヤマトタケルとそっくりだと言って讃えているのではなく、言い伝えが伝えているとおりになっていることをもって慶賀であるとしている。言葉(ヤマトコトバ)がそのとおりになっているからそのとおりなのであって、自分はたまたま三重の采女だから気づいただけで、誰しもがそう思い、考えることになることだとしている。「事の 語りごとも をば」とは、近称の指示詞「」がいま歌って来た歌のこと、「事の 語りごと」が事情を語り言とすると、という意味で、定型化した言い方にしたとしてもいま歌って来た歌のようになるぞ、という意味である。「」は再帰性を有している(注7)。言葉(ヤマトコトバ)が具有している深長さに触れて凄いことだと感嘆し、大后や天皇、聞き手である同時代の人、読み手である後代の人を巻き込んで、ヤマトコトバに神意が宿っているかに感じるだろうと思っているのであった。
 無文字時代にあっては、言葉が依拠するのはその音だけである。書記された記録というものはなく、人々の記憶のうちにしか頼むところはない(注8)。そんななか、皆が認識を共有している言い伝えの中で換骨奪胎しながら使う言葉を復古的に確かめていくと、状況は自明化されて力強いものとなると同時に、言い伝えやそれを成り立たせている言葉も正当性を得て強化される。言葉をそのように使っていく限りにおいて、「こと」と「こと」とは共振関係にあるのだった。

(注)
(注1)居駒2003.は、景行天皇の代の故事から説き起こし、天・東・鄙という統治観やめでたき献杯、創世神話を語ることで、天皇の権威を賛美しようとする叙事歌であるとしている。藤原2007.は、単なる歌による助命譚ではなく、新嘗祭で天皇の治世を寿ぐための歌で、お膳立てとして槻の葉が落ちていて天皇は怒っていると見ている。
(注2)歌は「事の 語りごとも をば」で結ばれている。現在の研究者の指摘によれば、この定型句をもつ歌は比較的長く、話者から一方向に述べ続けられて終わりとなっているように見え、歌問答を伴っていないとされ、他の上代の用例から推測すると「語る」という語には話者から一方向的に発せられる性格があり、話者のものの考えに相手を巻き込もうとする際に使われているという。しかし、そのような意味合いをカタルという語構成に結実させて良しとしていた理由は解明されていない。拙稿「 「事の 語り言も 此をば」考」参照。
(注3)近年の歴史学の論説でも、吉村1997.、仁藤2011.は、上・中・下の枝の話はヤマト朝廷の地方支配におけるコスモロジーの表明で、倭王武に当たる雄略天皇にふさわしいと見立てている。しかし、続く記101番歌に「つ真椿」とあり、槻の木が聖木として特別視されているわけではない。景行紀十八年七月条には筑紫後国の巨樹の歴木くぬぎの話が載っており、国の名の命名譚となっているが、三重の采女の話では百枝槻は豊楽の場所に生えていたという舞台設定にすぎない。そしてまた、三重の采女は眼前の長谷の槻の木を歌っているのではなく、往年の纏向の日代の宮を思い起こして歌い込んだものである。無文字社会に抽象的な観念から演繹する思考法があったとは考えられず、仮にコスモロジーを表明したとしても周囲の人たちはその空想についていくことはできないだろう。古事記は我々現代人のために作られたものではない。
(注4)契沖・厚顔抄に、「負天也……負東也……負鄙也.……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13394231/1/37)とあり、武田1956.も後を襲うが、「枝をもって天を支えている意。」(204頁)と解している。「覆へり」説と解釈に相違がない。
(注5)拙稿「崇神記のパンデミック記事について」参照。
(注6)同様の状況はヤマトタケルの東国征伐からの帰途における筑波問答でもくり広げられている。拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注7)拙稿「「事の 語り言も 此をば」考 」参照。
(注8)今日的感覚として通じるところがある例として観光旅行をあげてみよう。ふだん行かないところへ行くわけだが、そうなると知り合いに出会うこともなく、勤怠カードには何も記録されないから、本当に行ったのか確かめる術は限られる。古代においては旅の記念写真も監視カメラの映像もなく、御朱印帳さえなかったから、行ったことの証明はお土産として貝殻でも持ち帰らなければまずできない。同様に、無文字時代の言語にもおぼつかないところがある。文字を知らず、使わない人たちは、マイナンバーカードと対極に暮らしており、皆が記憶して保ち合っているから存在が確かめられているだけなのである。アイデンティティという発想は近代の賜物で、記憶に対して記録を優位に据える状況を背景にしている。

(引用・参考文献)
居駒2003. 居駒永幸「天語歌の〈語り言〉と雄略天皇」『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、平成15年。
石川2013. 石川久美子「古代歌謡が語る雄略の時代─「天語歌」を中心とした景行の時代との関連─」『国語と国文学』第90巻第7号、平成25年7月。
烏谷2020. 烏谷知子「神語から天語歌へ」『学苑』第951号、2020年1月。昭和女子大学学術機関リポジトリ https://swu.repo.nii.ac.jp/records/6860(『上代文学の基層表現』花鳥社、2025年。)
金沢2012. 金沢英之「『古事記』三重の采女の歌─アメ・アヅマ・ヒナの位置づけを中心に─」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第33集』塙書房、平成24年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、昭和31年。
多田2011. 多田元「祭祀王像としての「天語歌」」『古代文芸の基層と諸相』おうふう、平成23年。(「「天語歌」の位相─歌の実相と記載と(服属をめぐって)─」古事記学会編『古事記研究大系9 古事記の歌』髙科書店、1994年。)
仁藤2011. 仁藤敦史『都はなぜ移るのか─遷都の古代史─』吉川弘文館、2011年。
藤原2007. 藤原享和「雄略朝の新嘗祭と瑞祥」『古代宮廷儀礼と歌謡』おうふう、2007年。(「『古事記』百番歌考」『甲南大学古代文学研究』第6号、平成13年3月。)
山﨑2013. 山﨑かおり「雄略紀の「天語歌」の表現」『『古事記』大后伝承の研究』新典社、平成25年。
吉田2017. 吉田修作「神語と天語歌」『日本文学』第66巻第12号、2017年12月。(『古代王権の恋愛』おうふう、2018年。)
吉村1997. 吉村武彦「天と夷(ひな)・東国」小島憲之監修、伊藤博・稲岡耕二編『萬葉集研究 第21集』塙書房、平成9年。

加藤良平 2025.6.11改稿初出