長田王(注1)の筑紫に遣はさえて水島に渡りし時の歌二首〔長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首〕
聞くが如 まこと貴く 奇しくも 神さび居るか これの水島〔如聞真貴久奇母神左備居賀許礼能水嶋〕(万245)
葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ〔葦北乃野坂乃浦従船出為而水嶋尓将去浪立莫勤〕(万246)
石川大夫の和へたる歌一首〈名闕せり〉〔石川大夫和謌一首〈名闕〉〕
沖つ波 辺波立つとも わが背子が 御船の泊り 波立ためやも〔奥浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方〕(万247)
右は、今案ふるに従四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中に大弐に任けらゆ。又正五位下石川朝臣吉美侯、神亀年中に少弐に任けらゆ。両人の誰れ此の歌を作れるかを知らず。〔右今案従四位下石川宮麿朝臣慶雲年中任大貳又正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任小貳不知兩人誰作此歌焉〕
「水島」に対して「貴く」「奇しく」「神さび居る」と述べつつ具体的な描写はないため、景行紀に記載の巡行を思い浮かべて言っているものとする解説書が多い。記録として景行紀十二年の熊襲遠征後の十八年の帰還時に肥後の水島に立ち寄った記事があるから、それを思い浮かべて長田王は歌詠しているというのである(注2)。
壬申に、海路より葦北の小嶋に泊りて進食す。時に、山部阿弭古が祖小左を召して、冷き水を進らしむ。是の時に適りて、嶋の中に水無し。所為知らず。則ち仰ぎて天神地祗に祈みまうす。忽に寒泉、崖の傍より涌き出づ。乃ち酌みて献る。故、其の嶋を号けて水嶋と曰ふ。(景行紀十八年四月)
しかし、この考え方には無理がある。そういう事情があるのなら万葉集は題詞や左注に触れていておかしくないが、何ら示唆するところもない。題詞に「長田王、被レ遣二筑紫一渡二水嶋一之時歌二首」と規定するだけで歌を掲げ、誰しもがわかることとして放置されている。景行紀の水嶋命名譚が長田王の歌詠時において広範に通じる伝承であったとは思われない。日本書紀のダイジェスト版的な様相を呈する古事記には見られず、地名譚の域を出ていない点からもついで記事が常識的知識となっていたとは想定できない。歌われた歌を耳にして、ああ、景行天皇時代のことを言っているのだな、と気づく人は少ないだろうし、二首目や石川大夫が和した歌のなかで波立つことをモチーフに選んで歌い合って喜ぶ理由を説明することもできない。景行紀記事に海路のことは触れられず、また、長田王が不遜を顧みずに景行天皇の後を襲って航行しているとなぞらえる必然性も見出せない。
つまり、これらの歌は、景行天皇時代のこととされる事跡とは無関係で、それ以外のことで「水島」に対し「貴く」「奇しく」「神さび居る」と形容し讃嘆していると考えるべきなのである。誰もが共感できるものでなければ声をあげて歌にすることはないから、一句目で作者の長田王が「聞く」ようにであるとともに、歌を耳にする周囲に集まっている人々も「聞く」ように「水島」のことをまったくもって「貴く」「奇しく」「神さび居る」であると形容している。皆さん、そういうことですよね、と同調を求めて歌って認識を分かち合っている。声をあげるやたちまちに人々の間に共通の認識が生まれ、石川大夫の「和謌」も惹起している。そのような状況を引き起こす題材は、端的な事柄、ミヅシマ(水島)という名の他にない。
ミヅシマという言葉は不思議である。シマ(島)という語は通常まわりが水で囲まれている地面のことをいう。ところがミヅシマ(水島)というからには、まわりが水で囲まれながらもその中にあるシマ(島)部分もミヅ(水)でできていることを表している。環礁のような状態のところを言っている。サンゴ礁が環状に形成されて中に潟湖がある場合、それはミヅシマ(水島)と呼ぶにふさわしいだろう。しかし、環礁は日本にはなく、人々の周知するものではない。
では、長田王や周囲にいた人々は何をミヅシマ(水島)に見立てたのだろうか。卑近に見られる外が水、中も水という地形に、畦に区切られた田がある。記紀の説話(神話)の形でも残されているから人々の観念の上に宿っていたことは確かである。スサノヲがアマテラスに対して仕掛けた悪戯の一つである。結果、アマテラスは天の石屋に籠ってしまったという有名な件に見える。
……天照大御神の営田のあを離ち、其の溝を埋み、亦其の、大嘗聞こし看す殿に屎まり散らしき。(記上)
水田稲作農耕では水を貯えるように「あ」(畦畔)を造る。小区画水田や条里制のものが知られるが、周囲が水路に囲まれた輪中や中洲での営田のような典型的なミヅシマ(水島)地形も現れる。低湿地で営田するために土木工事で畦(畔)を築き、ようやく洲(州)が堅固なものになっている。スサノヲはそれを「根之堅州国」と呼び「妣が国」のこととしている。モグラの様子から造形されたスサノヲ(注3)が、「海原を知」ることなく住みつこうとしている場所である。スサノヲがアマテラスに悪戯をして「あを離ち」していることは、農家の人が日常的に悩まされたことであった。だから説話が現実感をもち、人々の間に流布している。
畦が壊れることなく水路側、田側のいずれにも水があるミズシマ(水島)状態が保たれれば、たくさんの収穫がもたらされてとても喜ばしい。だが、いったん畦が壊れたら、水田は一気に流されて跡かたなく川と同化してしまうだろう。そうなったら、そこはもはやミヅシマ(水島)とは呼ばれない。筑紫に「水島」という地名があるなら、そこは長期にわたってミヅシマ状態を保っている場所であるのだろう。畦が堅固なゆえであり、水路に当てられてある畦は堤、土手ほどに強固に作られていると思われるのである。造成して最初に生えてくるのはツクシ(土筆)だから、「筑紫」という設定は意味あるものである。うまく言い当てていてすばらしいとしか言いようがない。ツクシ(土筆)状の建物には仏塔が思い浮かぶ。仏舎利を納めるものだが、そこに拓かれている田からも確かな収量が得られ、すなわち、銀舎利の米が獲れるのであって塔だけに「貴く」ある(注4)。言葉が何もかも的確に配置されている。そのことに珍しさが感じられて「奇しく」ある。由来も辿れないほど古くから地名となって続いているから「神さび居る」(注5)ほどである。そういうわけでいたく讃嘆していて、ねえねえ皆さん、言葉はうまくできていておもしろいですね、と同調を求めている、それが歌意である。
長田王の二首目と石川大夫の和歌では波立つことが詠まれている。長田王が波立たないことを願っているのは、彼が水島へ行ったときに波が立ってしまい辿り着けないことのないようにと言いつつ、また、波が立って「あを離ち」したりしないこともともに願っているのだろう。畦が壊れた途端、「水島」はミヅシマではなくなってしまうからと諧謔に歌っているわけである。力づくで強引に水島へ到着したとしても、畦(土手)を壊してしまったらもはや「水島」ではなくなる。名づけに対して冒涜になるようなことはしたくないものである。言葉を大切にする気持ちがなかったら、言葉を操ることで楽しむ歌というものなど歌いはしない。
石川大夫は、長田王に向けて波は立ちませんよと応じている。たとえ「沖つ波 辺波立つとも」、つまり、波は立つかもしれないのだが、そんなことはお構いなしの言い分である。焦点は、「わが背子が 御船の泊り 波立ためやも」にある。「わが背子」は長田王のことである。ヲサダと呼ばれる人は田を治めることの上手な人であると名に負う存在である。田をよく治めるとは畦の管理をきちんとしているということである。水路を船で進んでミヅシマ(水島)と呼べる田へと到着した時に接岸しても、ヲサダさんなのだからよく田を治めて畦を壊すことなどなく、田の水が流れ出して波立つことなどないでしょう、と戯れて返しているのである。
万葉集の歌は言葉遊びであることが多い。言葉遊びをするほどに言葉を上手に使うことができていた。声を出して周囲の人たちに聞いてもらうために歌われた歌は、言葉以外に依って立つところはない。ここでも長田王は特定の誰かを相手に歌詠みしたのではなく、石川大夫という人も歌を耳にして当意即妙に和える歌を思いついたために返しているにすぎない。「石川」という名を負っていて(注6)川の性質を心得ていたからうまく言い当てた返しをしている。いずれも何かを伝えるために意図をもって拵えているのではなく、言葉(音)に敏感に反応して歌を作って楽しんでいる。言葉だけが頼りであった時代に、言葉だけを頼りにして言葉遊びをし、個々の言葉が宿すそれぞれの言葉のおもしろさに魅入っている。当時の言語活動の特徴をあげるなら、頓智、なぞなぞが繁栄していたということになり、万葉時代の人たちの言葉の使い方は今日のものとは異なっていて、つまりは思考法として異なっていたということができる。
(注)
(注1)「長田王」は史書に二人見える。➀和銅四年(711)四月以降、位階の記事が散見され、天平六年(734)二月に歌垣の頭、天平九年(737)六月に卒とある。➁日本三代実録の貞観元年(859)十月条、広井女王薨伝に長田王を曽祖父とするとあり、天平七年(735)四月、天平十二年(740)同十一月に位階の記事がある。歌詠は➀の人物と考えられている。ただし、その読み方はナガタノオホキミ、ヲサダノオホキミの二説がある。➁の人物は長皇子の子と思われるためかナガタと訓みたがる向きもある(山田1932.366頁)が、問われるべきは➀の人物である。万葉歌人には「他田」と書く姓があるがナガタは知られず、古写本にもヲサタノオホキミとあり、ヲサダと訓むのが正しいと思われる。この歌群の石川大夫の言い分からヲサダが正しいことは証明される。
(注2)景行紀の事跡によるものではないとする見解として、例えば、武田1957.43頁では、自然の神秘に感動した心をよく描くものとしている。なお、土佐2020.は、景行天皇が熊襲を平定した事績をもって珍しい話だと見ているが、歌のなかでそのことは一切語られていない。ライブでこの歌を聞いた人たちが語られていないことを察知していたとは根拠がないから推測すらできないし、語られていないことを憶測しても証明も反証も得られない。
(注3)拙稿「神代紀第七段一書第二の白和幣(しろにきて)・青和幣(あをにきて)について 」参照。
(注4)土筆を仏塔と見立てていることに関しては、拙稿「柿本人麻呂「日並皇子挽歌」の修辞法「春花の 貴からむと 望月の 満しけむと」について」参照。
(注5)「神さび」の義については、拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」参照。
(注6)イシカハ(石川)はミヅシマ(水島)同様、自己矛盾を含んだような言葉である。カハ(川)はミヅ(水)が流れるべきところ、イシ(石)が流れているらしい。そんなイシカハ(石川)の最大のメリットは、どんなに雨が降らなかろうが枯渇することがない点である。水無し川に石が山積している光景は、イシカハという言葉の矛盾に反し珍しいものではない。自らの名を常日頃から意識していて、長田王がミヅシマ(水島)という語に対して抱いた論理学的疑問にこたえるのに適任者であったということである。その時、イシカハという姓だけが求められ、名は不要だから「名闕」のままである。
(引用・参照文献)
武田1957. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 第四(本文篇 第二)』角川書店、昭和32年。
土佐2020. 土佐秀里「長田王「筑紫水島歌群」の地政学─景行天皇熊襲平定伝承の再生─」『國學院大學紀要』第58巻、令和2年2月。國學院大學学術情報リポジトリ https://doi.org/10.57529/00000852
山田1932. 山田孝雄『万葉集講義 巻第一』宝文館、昭和7年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214385
※万葉集の通釈書については引用文献に限って記した。
加藤良平 2025.3.29初出