酢香手姫皇女のことは推古紀に「見」えないか?

 用明前紀に、酢香手すかて姫皇女ひめのみこが伊勢神宮で日神の祭祀に奉仕した記事が載る。そのなかで、「見炊屋姫天皇紀。」とありながら、実際に炊屋姫かしきやひめの天皇すめらみことの紀、すなわち、推古紀を探すと不明であるとされている。

 九月の甲寅の朔にして戊午に、天皇、即天皇位あまつひつぎしろしめす。磐余いはれに宮つくる。なづけて池辺双槻宮いけのへのなみつきのみやと曰ふ。我馬子宿がのうまこのすくを以て大臣おほおみとし、物部弓削守屋もののべのゆげのもりやのむらじ大連おほむらじとすること、ならびもとの如し。壬申に、詔して曰へらく、云々しかしかのたまふ酢香手すかて姫皇女ひめのみこを以て、勢神宮せのかむみやして、日神ひのかみまつりつかへまつらしむ。〈是の皇女ひめみこ、此の天皇のみときより炊屋姫かしきやひめの天皇すめらみことみよおよぶまでに、日神の祀に奉る。自ら葛城かづらき退しりぞきてみうせましぬ。炊屋姫天皇のみまきに見ゆ。或本あるふみに云はく、三十七年の間、日神の祀に奉る。自ら退きて薨せましぬといふ。〉
 元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこを立てて皇后きさきとす。是よたりひこみこれます。其のひとり厩戸皇うまやとのみまをす。〈またみな豊耳聡聖徳とよみみとしやうとこ。或いは豊聡耳法大王とよとみみののりのおほきみと名く。或いは法主王のりのうしのおほきみと云ふ。〉是の皇子、初め上宮かみつみやましましき。後に斑鳩に移りたまふ。とよ食炊屋姫けかしきやひめの天皇すめらみことみよに、東宮みこのみや位居ましまし、万機よろづのまつりごと総摂ふさねかはりて天皇みかどわざたまふ。ことは豊御食炊屋姫天皇のみまきに見ゆ。其のふたりめの皇子みこと曰し、其のみたり殖栗ゑくりの皇子みこと曰し、其のよたり茨田まむたの皇子みこと曰す。我大臣稲目宿がのおほおみいなめのすくむすめいし寸名きなを立ててみめとす。是めの皇子みこを生めり。〈更の名は豊浦とゆらの皇子みこ。〉葛城直かづらきのあたひ磐村いはむらむすめひろ、一の男、一のひめみこを生めり。男を麻呂まろこの皇子みこと曰し、此当麻公たぎまのきみおやなり。女を酢香手姫皇女と曰し、三代みつのよて日神につかへまつる。(用明前紀~元年正月)

 記事に、酢香手姫皇女と厩戸皇子のことは推古紀にも記されているから「見」るといいと書いてある。推古紀のほうを見ると厩戸皇子の事績は記されているが、酢香手姫皇女のことはどこを探しても見つからない(注1)。日本書紀の編纂作業に杜撰なところがあったのではないかとも推測されている。しかし、よく読んでみるとそうではない。
 酢香手姫皇女については、分注に「炊屋姫天皇紀。」とあり、厩戸皇子については、本文に「語見○○豊御食炊屋姫天皇紀。」とある。大きな違いがある。分注か本文かの違いではなく、「こと」という字が入るか入らないかの違いである。「於豊御食炊屋姫天皇世、位-居東宮。総-摂万機、行天皇事。」という「語」は推古紀に書いてある。一方、「自此天皇時、逮乎炊屋姫天皇之世、奉日神祀。自退葛城而薨。」の「語」は書いていないけれど見ようと思えば見える、と言っている。厩戸皇子の方は事績として書かないわけにはいけないほどのものがあるから推古紀に書いてあるが、酢香手姫皇女の方は「自退葛城而薨。」という程度のことであり、事(「語」)立てて記すほどのことではない。その代わりと言っては何だが、酢香手姫皇女の「自退葛城而薨。」と関連しそうな記述として、その葛城の地にまつわる話が載っている。曰くありげな記事である。

 冬十月の癸卯の朔に、大臣、阿曇連あづみのむらじ〈名をもらせり。〉・倍臣へのおみ摩侶まろふたりまへつきみまだして、天皇すめらみことまをさしめてまをさく、「葛城県かづらきのあがたは、もとやつかれ本居うぶすななり。かれ、其の県に因りて姓名かばねなを為せり。是を以て、ねがはくは、ときはに其の県をたまはりて、臣が封県よさせるあがたとせむとねがふ」とまをす。是に、天皇、みことのりしてのたまはく、「今われ蘇何そがより出でたり。大臣は亦朕がをぢたり。故、大臣のことをば、よるまをさばも明さず、あしたに言さばくらさず、いづれことをか用ゐざらむ。然るに今が世にして、ひたふるに是の県を失ひてば、後の君ののたまはまく、『おろかかたくなしき婦人めのこ天下あめのしたきみとしのぞみて頓に其の県をほろぼせり』とのたまはむ。あに独りわれ不賢をさなきのみならむや。大臣も不忠つたなくなりなむ。これ後のの悪しき名ならむ」とのたまひて、ゆるしたまはず。(推古紀三十二年十月)

 大臣の蘇我馬子が天皇の直轄領である葛城県を割譲して欲しいと言ってきた。けれども天皇は拒絶したという記事である。史実としてはそれだけのことである。しかし、馬子は、葛城県をねだる理由として、第一にもともと自分の「本居うぶすな」が葛城県であるからという点と、それによって「姓名かばねな」となっているからという点をあげている。
 「本居」は、蘇我氏が葛城氏と同族であるからという主張、または、蘇我馬子が葛城県で育ったからということと考えられている。古墳の発掘など、蘇我氏の古跡地として考古学調査は進んでいる。一方、「姓名」については、聖徳太子伝暦に、「葛城寺〈又名妙安寺ト  ノ ノニ 〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544997/30)とあって、蘇我氏の「姓名」がすでにそのように呼称されていた形跡があるとされている。しかし、紀に、「蘇我葛城臣」と記されているわけではない。歴史学では、蘇我氏と葛城氏に深い繋がりがあると考える向きがあるが、氏の話ではなく「姓名」の話である(注2)。蘇我馬子の「かばね」は何か。「蘇我馬子宿禰」という表記が多く、先代も「蘇我稲目宿禰」と言っている。「宿禰」というのは姓ではなく単なる尊称、オホエ(大兄)に対するスクネ(スクナ(少)+エ(兄)の約)の意と考えられている。覇を競っていた相手方は「物部弓削守屋連」(用明前紀)と記されている。「蘇我臣」(欽明紀十六年二月)という記述も見られはするが、舒明紀以降にならないと個別名に現れない。舒明紀以降、「蘇我蝦夷臣」(舒明前紀)、「蘇我倉麿呂臣」(舒明前紀)、「蘇我臣蝦夷」(皇極紀元年正月)、「蘇我臣入鹿」(皇極元年七月)、「蘇我倉山田石川麻呂臣」(孝徳前紀)、「蘇我臣日向」(孝徳紀大化五年三月)、「蘇我赤兄臣」(斉明紀四年十一月)などと一般化している。もともと人名に添えた尊称であった「宿禰」の名称は、天武朝に至って設けられたくさかばねの第三位に位置づけられている。蘇我馬子の姓が何だったのか疑問符が付く(注3)
 「姓名」という用字は、紀にほかに五例ある。

 仰ぎて君のみかほれば、人倫ひとすぐれたまへり。けだし神か。姓名みなうけたまはらむ。(景行紀四十年是歳)
 上古いにしへくにをさむること、人民おほみたから所を得て、姓名かばねなたがふことし。(允恭紀四年九月)
 今ねがはくは、吾とゐやまひを以てとひ答ふべきひとうぢとしくらゐを早く知らむ。(欽明紀十四年十月)
 時に飢者うゑたるひと、道のほとりこやせり。仍りて姓名かばねなを問ひたまふ。しかるにまをさず。(推古紀二十一年十二月)
 相模国司さがむのくにのみこともちせの朝臣あそみしこ布智等ふちら御浦郡少領みうらのこほりのすけのみやつこうぢもらせり。〉と、赤烏あかきからす獲たる者鹿嶋臣かしまのおみ櫲樟くすとに、くらゐ及びもの賜ふ。(持統紀六年七月)

 古代のウヂ(氏)は、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称のことである。中村2009.は、「政治組織であり、王権との政治的関係を指標するものである、という考えが通説的な立場であろう。」(5頁)とする(注4)。一方、カバネ(姓)は、古代の豪族の社会的政治的な上下を示すために用いられた世襲の称号のことで、おみむらじみやつこきみおびとなど数十種がある。中村2009.は、「姓は氏の体(テイ・体裁や性格などの意)を示すもの……[で]姓は氏の職掌・出自・本拠地・格などを総合して賜与されたもの」(7頁)であるとしている。
 「姓名」と書いてカバネナと訓む例は、允恭紀の盟神探湯、推古紀の片岡山の聖、そして蘇我馬子が二の臣に発言させた三例に限られる。ウヂナと訓んでいるウヂは、くり返しになるが、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称で、王権との政治的関係を指標するものである。漢字と訓みとは一対一対応ではなく、ウヂは氏とばかり記されているわけではない。姓=カバネ、氏=ウヂというように一対一対応になっていない理由は、当時はヤマトコトバの表記術として創成期だったためであり、いかに書くか(実は第二次大戦後に至るまで)模索され続けていたのである。
 景行紀、允恭紀、欽明紀の例は、蘇我馬子が人を派遣して陳情している際と同様、会話文中の発語としてある。固有名詞のナ(名)は呼ばれるもの、呼ばれてはじめてあるものだから、会話文中にあってこそ本領を発揮する。
 「姓名」をカバネナと訓む例として、允恭紀では氏姓制度が混乱しているからそれを正そうとする政策、盟神探湯くかたちが行われた時のものである。姓を偽って自分を高い地位の人物であるかのように装う人がいて混乱を来していたため、熱湯に手を入れさせて嘘をつくのをやめさせようとしたのだった。推古紀では、太子が片岡に遊行してそこで出会った食べ物に困っている人物に、どこの誰かを尋ねる場面で使われている。雰囲気に高貴さが感じられたらしく、どれほどの格式にある人物か知りたくて姓を聞いている。聖が聖を知るという話として完結している。
 それ以外に訓む例として、景行紀のそれでは、蝦夷の賊首ひとごのかみが、日本武尊やまとたけるのみことふねの威勢に怖れをなして問うてきている。蝦夷の人たちにかばねという考え方はなかったと思われ(注5)、ただ名前を聞いているはずだからミナ(御名)と言っている。
 欽明紀の例では、高麗こまに侵入した百済の王子せしむ余昌よしやうのもとへ、高麗側の兵士が訪れ、姓名、年齢、位を聞いている。「姓名年位」とあるから、「位」が大化前代の臣・連・造などに当たり、「姓名」はウヂナのことであろうとわかる。
 持統紀の例は、御浦郡少領みうらのこほりのすけのみやつこという役職はわかっているが、誰だか名が記録されていないということである。国司や当の赤烏の発見者の名は知れているが、それを取りついだ郡司次官の名前は記録されていなかった。それが誰なのかを知ろうとしても、下級官吏のカバネなど問題にならないから「姓名」はウヂナのことであると理解される(注6)
 すなわち、「姓名」をカバネナと訓む場合、きちんとカバネ(姓)とナ(名)の二つの要素を示している。蘇我馬子のカバネは、「蘇我臣」などと仮に通称されていたとするのであれば「蘇我臣」である。「其の県に因りて姓名かばねなを為せり。」とあるのは、葛城県にちなんで、カバネを「蘇我臣」とし、ナを「馬子」とし、その両方が成り立っているという意味である。蘇我葛城臣という言い方が当時からあったとしてもカバネの説明ばかりであって、ナについては触れていないことになる。
 「馬子」という名が「葛城県」に因るとはどういうことか。言い伝えによると、葛城の地は一言主大神ひとことぬしのおほかみ(一事主神)の顕現したところである。雄略天皇の時代のことである。狩りに行く天皇の行列を鏡に映したようなものが現れ、問答を交わしている。連なる行列のツラツラな面貌をおもしろがった話であった。一言主大神は、狼のようにヲと遠吠えし、天皇のほうはソと馬追いの声を発していた(注7)
 このような説話が飛鳥時代の人々、とりわけヤマト朝廷のなかで共通認識として記憶されていたとすれば、葛城というところは馬追いと関係する場所、すなわち、馬子がいるはずのところであると人々に浸透していたことだろう。彼らは無文字文化のなかに暮らしており、その言語活動は、記紀に記されて残る逸話を編むに至っている言語体系を基底としていたと考えられる。葛城と馬子は密接に関係するという認識は、人々の間に広まっていたに違いない。もしそうでないとすると、人間の知は組み立てられていなかったことになり、社会も国家も成り立つことはなかっただろう。
 葛城に起因して「馬子」という名は成っている。「蘇我馬子」という氏名全体についても、馬追いから生まれたものと認識されていた。「蘇我そが(ソは甲類)」のソ(甲類)は馬追いの声である。つまり、ソ(馬追いの声)+ガ(連体助詞)+ウマコ(馬子)である。循環論法の強調表現としての論理術が語られている。ここで、蘇我馬子は、自らが「蘇我臣馬子」であることを説明するのに、一言で、ソであると語っている。 一言主大神の逸話そのままに、ソの一言を発して彼は自らがウツシオミであると説いている。「うつし臣」として推古朝に現在しており、一言主大神の逸話を写して推古天皇の「うつし臣」となっていると論じ陳べている(注8)
 「馬子」という名が本当のところ何によっているかは問題ではない。蘇我馬子がそう主張して、推古天皇はその意を理解している。天皇の言葉に、「今朕則自蘇何出之、大臣亦為朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辞不用。然今朕之世、頓失是県、後君曰、愚疾婦人臨天下以頓亡其県。豈独朕不賢耶、大臣亦不忠。是、後葉之悪名。」とある。夜に聞いたら夜中じゅう、朝聞いたら昼間じゅう考えて、蘇我馬子の言葉の真意を政治政策に用いなかったことはなかったと言っている。なぜ夜に言ったことを一晩じゅう、朝に聞いたことを昼の間じゅう考えなければならないのか。それは、一言主大神の逸話さながらに蘇我馬子が端的に一言で発言していたからであろう。ずばり発せられた一言の真意をよくよく考えるのに時間がかかった。よくよく考えれば、なるほどそのとおりだと思わないことはなかったと言っている。
 今回の申し入れも、謂わんとしている旨がわからないわけではない。一見そのとおりに見えるけれど、葛城県を割譲したら後世、愚かな女帝であったと評価されるし、時の大臣、蘇我臣にとっても不忠者と呼ばれることになると言っている。なぜといって、次の世代には次の大臣として、馬子の子の蘇我臣蝦夷を任ずることが予定されているだろうが、その時、「姓名」において「葛城」とのつながりはもはや見られない。蝦夷は不忠者であるとされるがそれで宜しいか、と天皇は言っている。馬子自身の主張のなかではウツシオミであると自認している。オミとは伝えていく人、「使主おみ」の意も含まれ(注8)、次代へと伝えることが内包されている。そこに矛盾が露呈することになる。だから許すことはなかった。
 この記事は、ひるがえって、葛城という地についての情報を提供することになっている。そこは一言主大神と因縁浅からぬ伝承地であり、切っても切り離せない地名を負っているという点である。本稿は、酢香手姫皇女についての用明前紀の分注に、「見炊屋姫天皇紀。」とある記述を追っている。彼女は、用明天皇と葛城直磐村の娘の広子との間に生まれている。そして、用明・崇峻・推古の三代の天皇の時期に長く伊勢神宮で日神の祀に奉仕していた。老いて任にかなわないと悟り、自ら葛城の地に隠居している。生まれ故郷だからである。故郷のことは古語に「本居うぶすな」である。蘇我馬子も「本居」が葛城県だと言っていたが、よく斎宮の任にたえた酢香手姫皇女が人生の最後の時間を「本居」で過ごしたという重みにはかなわない。
 そのことは酢香手姫皇女という名に明らかである。スカテと聞けば、文字を持たなかった当時の人たちには、ス(酢)+カテ(合・揉)と聞こえたことだろう。酢の物、酢の和え物のことである。

 酢 本草に云はく、酢酒、味は酸、温にして毒無しといふ〈酢は倉故反、字は亦、醋に作る、須く酸くべし、音は素官反〉。陶隠居に曰はく、俗に呼びて苦酒〈今案ふるに鄙語に酢を謂ひて加良佐介からさけ、此の類なり〉とといふ。(和名抄)
 醤酢ひしほすに ひるてて たひ願ふ われにな見えそ 水葱なぎあつもの(万3829)
 大坂おほさかに  ぎ登れる 石群いしむらを 手逓伝たごしに越さば 越しかてむかも(紀19)
 敷栲しきたへの 衣手ころもでれて 玉藻なす なびきからむ を待ちがてに(万2483)
 韲 四声字苑に云はく、韲〈即嵆反、訓は安不あふ、一に阿倍毛乃あへものと云ふ〉は薑蒜をき醋を以て之れをふといふ。(和名抄)
 秋去れば 置く露霜に へずして 都の山は 色づきぬらむ(万3699)

 白川1995.に、「かつ〔勝(〓〔勝の旧字〕)・克〕 四段。敵の攻撃に堪えて、現状を守りつづける意。くするの意から、敵にうち勝つ意となった。……「かて」に「難」の字をあてるのは、「かて」を「かたし」の意に解したものであろうが、「かて」は可能を表わす「かつ」の未然形。「かてに」は「かてぬ」「あへぬ」の意であり、勝はその正訓の字である。」(234頁)、「あふ〔敢・堪〕 下二段。「ふ」と同根の語。ことの推移に合せて、適合するように行動する、そのことによく対処して、ことを行なうことをいう。打消しや疑問・反語の形をとり、不可能や困難であることを示すことが多い。」(82頁)とある。酢の和え物については、正倉院文書に索餅むぎなはの例が示されている。今日、冷やし中華に酢をかけて食べることをイメージすれば良いか(注9)。酢糟で茄子を漬けたとも見える。
 つまり、飛鳥時代に酢香手姫皇女という人物は、山椒は小粒でもぴりりと辛い存在として名をとどろかせていたのである。浮かれることのない人生をよく我慢し、斎宮としての祭祀を全うした。そのことは、蘇我氏の威圧に対しても堪えることを意味し(注10)、天皇家の現状を守り通している。重鎮として隠然たる勢力を誇っていた蘇我馬子でも、酸っぱいものを食らい、苦虫を噛み潰したような顔をしたことだろう。
 一言主大神はオホカミであり、それに対した雄略天皇はウツシオミであると述べられていた。日神の祭祀とはアマテラス(天照大御神、天照大神)の祭祀である。天皇家の祖先崇拝がもとである。天皇家にとって大切な祭祀を、酢香手姫皇女は長期にわたりつつがなく行ってくれた。オホミカミに対した彼女こそが本物の立派なウツシオミであった。そんな彼女の祖父は葛城直磐村であった。蘇我臣と葛城直との家格の違いや葛城氏の当時のありさまなどは、言葉でものを考える際の論理展開において露ほども問題とならない。人々の思考は言語の上に築かれる。蘇我馬子と自称する大臣の論理展開もそのヤマトコトバに負っていた。酢香手姫皇女と葛城の地のことを考えるなら、蘇我馬子宿禰改め、蘇我臣馬子(蘇我馬子臣)という姓名だからといってむざむざその地を天皇家から離すことはできない。そういう思考回路を示すべく、用明紀において「見炊屋姫天皇紀。」ときちんと記されている。
 日本書紀は、文字としては漢字を用いて文体は漢文表記に倣っているが、ヤマトコトバで書かれている。無文字時代の思考をよみがえらせるためには、漢字の字面をただ追っていくだけでは駄目である。近世、近代の日本書紀研究では、漢文漢籍の姿に惑わされてその出典を探ることに興味が注がれがちだった。一定の成果を上げてきたものの、当時ヤマトに暮らした人々の思考、思想の跡を見出すところへは辿り着いていない。漢字、漢文はただ字面を借りただけで、内実はヤマトコトバを表そうとしていた、その根本原理に気づかなかったからである。日本書紀を研究して何を得ようとしているのか、その本来の目的が問われるところである。日本書紀はまだまだ読めていないところが多い。

(注)
(注1)諸解説で推古紀に見えないとされているのはふつうである。井上1987.は「現在の『書紀』には該当記事がない。」(410頁)とし、当初あった記事が削除されたかのように述べている。
(注2)津田1930.は「「葛城県者元臣之本居也、故因其県為姓名、」は甚だ解し難い文字である」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041707/88、漢字の旧字体は改めた)として検討を加えているが、結局、要領を得ていない。
(注3)歴史学では、蘇我氏がいつからオミ(臣)になったかこだわった見解は見られない。なお、姓については拙稿「カバネ(姓)雑考」参照。
(注4)本居宣長・古事記伝の見解に見るべきものがあるとして引いているのでここに記しておく。

 さて古は氏々の職業ワザ各定まりて、世々相ツギて仕ヘ奉りつれば、其ワザ家の名なる故に、【氏々の職業は、もと其先祖の徳功イサヲに因リてうけたまはり仕奉るなれば、是もホメたる方にて名なり、】即職業ワザを指ても名と云り、さては其家に世々に伝はる故に其名即又姓の如し、されば名々ナヽと云は職々にて即も氏々と云にひとしきなり、……可婆禰カバネと云は、宇遅ウヂタフトみたるにして即宇遅ウヂをも云り、……又朝臣宿禰アソミスクネなど、宇遅ウヂの下にツケふ物をも云り、モトヨリ賛尊ホメタフトみたるなり、又宇遅ウヂと朝臣宿禰の類とをツラねても加婆禰カバネと云り、【藤原朝臣大伴宿禰などの如し、】されば宇遅ウヂと云は、源平藤原の類にカギり、【朝臣宿禰の類を宇遅と云ることは無し、】加婆禰カバネと云は、宇遅ウヂにも朝臣宿禰の類にも、ツラネふにもワタなり、……加婆禰カバネに姓字は、当る処と当らぬ処とあり、(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/394~395、漢字の旧字体は改めた)

 なお、古事記伝には、蘇我氏についての記述もある。

蘇賀ソガノ石河イシカハノ宿禰、蘇賀は、居地名スメルトコロノナにして、神名帳に大和国高市郡、我坐ガニマス宗我都比ソガツヒコノ神社あり、此地なり、万葉十二二十七丁に、菅吉スガヨシ宗我乃河ソガノカハラとよめるも、此処コヽなり、……書紀推古巻に、蘇我馬子大臣、令メテ于天皇日、葛城 ト カ本居也ウブスナナリ レ其県姓名云々、【因其県姓名と云ること、心得ず、皇極紀に、蘇我蝦蛦大臣、祖廟を葛城高宮に立し事もあり、】とあるを以見れば、蘇賀は、葛城郡にあるべきが如くなれど、今も曾我村高市郡に在て、葛城郡の堺に近ければ、古は此あたりまで、葛城県の内にもや有けむ、石河は、和名抄に、河内国石川【以之加波】郡これなり、三代実録三十二に、石川朝臣木村言始祖大臣武内宿禰男、ガノ石川、生於河 ノ ノ ノ別業 レ石川 ノ大家 ト因賜 ヲ ノ宿禰云々、【賜姓宗 ノ宿禰と云は、誤なり、此時宿禰は、たゞ名に附たる称にこそあれ、姓に附たる加婆泥カバネには非ず、……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/576、漢字の旧字体は改めた)

(注5)当時のヤマトの人の考え方に、蝦夷に王権はなく、ただ群れ集って暮らしているだけの部族社会であると考えられていたか定めることは難しいものの、傾向として言えるのではないか。クラストル1989.参照。
(注6)紀のカバネナ記事としては、ほかに「姓字」と記されたものがある。「たてまつ娘子をみなは誰そ。姓字かばねなを知らむとおもふ。」(允恭紀七年十二月)、「是の日、大舎人おほとねり姓字かばねなもらせり。〉はしりて天皇にまをして曰さく、……」(雄略前紀)の二例である。允恭紀の例は、皇后の妹の姫君を後宮に入れさせようとするもので、由緒ある家柄の娘子に限って答えさせようとする天皇の物言いとしてカバネナという訓みが正しい。雄略前紀の例は、雄略天皇の即位に関して重要な役目を果たしているから、天皇からかばねを賜っていておかしくないとの判断が背景にあると考えられる。ほかに「姓字」とあるものに、「寐驚みゆめさめて使つかひを遣してあまねく求むれば、山背国の紀郡きのこほり深草里ふかくさのさとより得つ。姓字うぢな、果して所夢みそなはししが如し。」(欽明前紀)と、「姓字」をウヂナと訓んでいる。夢で見た人物は「秦大津父はだのおほつち」という人で、ウヂが「秦」、ナが「大津父」であったからである。
(注7)拙稿「一言主大神について」参照。
(注8)蘇我馬子宿禰ではなく蘇我臣馬子であると言っている。允恭天皇代の盟神探湯くかたちに値する詐称である。 この点を含めて後世、不忠者と呼ばれるであろうと推古天皇は諭しているのかもしれないが、姓についてはルーズな点が多く、また、大臣おほおみに就いている時点で「臣」であったも同然であると考えられていたかもしれない。
(注9)正倉院文書に次のように見える。

 酢三斗〈五月十一日請〉/用四斗三升〈一斗三升乗用〉/八升供時々索餅韲料/三斗五升経師装潢一千一百六十七人料〈人別三夕〉(宝亀二年五月二十九日)(東京大学史料編纂所・大日本古文書https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0006/0183?m=all&s=0135&n=20(183/606))
 酢壱瓺弐斛捌斗肆升伍合/二斗八升〈七月三日請〉/二斛五斗六升五合〈以同月十二日請瓺納米二斛八斗五升〉得汁〈斛別九斗〉/用六斗七升九合五夕/五斗九升九合五夕〈経師一千十三人装潢一百八十六人并一千一百九十九人料人別五夕〉/八升〈供勘経僧并経師装潢等時々索餅韲料〉/残二斛一斗六升五合五夕
 酢糟七斗/七月中請〈二斗三日五斗十二日〉/用尽/三斗漬茄子一十三斛四斗六升料/二斗〈自進五百十六人仕丁四百九人并九百廿五人料人別二夕〉/二斗依臰不用(神護景雲四年九月二十九日)(同上(93~94/606))

 また、延喜式・大膳司式に、「……右十一月一日より来年十月三十日に迄、供御料。女孺めのわらは女丁によていて、内膳司に向ひ、司ととも料理つくり、ごとくうぜよ。但しあへものは内膳け備へよ。づか索餅むぎなはの料、小麦十七斛七斗〈おん並びに中宮、各八石八斗五升〉、粉米五石三斗一升、紀伊の塩八斗九升、ひしほ未醤みそ各一斛四斗二升六合、酢七斗一升二合、みかまき日毎に三十斤〈主計寮より請けよ〉。……」(分量が違うだけなので前段と後段を省いた)とある。
 索餅は、和名抄に「索餅 釈名に云はく、蝎餅、髄餅、索餅〈無岐奈波むぎなは、大膳式に手束索餅は多都加たづかと云ふ〉は皆、形に随ひて之れを名くといふ。」とある。麺をよじるなどしてスープが絡みやすくなっている。
(注10)推古紀三十二年十月条の記事自体を、逆賊蘇我氏の専横を示すために捏造されたものとする説もあるが、そのようなことがあるとは考えられない。なぜなら日本書紀を編纂した当時、それは天武天皇の詔に「令-定帝紀及上古諸事。」(天武紀十年二月)と記されている時期であるが、ヤマトの言語体系は無文字時代の言霊信仰に負っていたと考えられるからである。筆者は言霊信仰という言葉を、巷間に通説として使われる誤用とは異なり、言葉と事柄とが必ず一致するように目指していたことを示すものとしている。文字がない時代に、言葉を事柄と一致させなければ、ないしは、一致させるように鋭意努めなければ、世界はカオスに陥ってしまう。基本姿勢として人々が皆守るようにしていたから、それはひとつの信仰と呼んでふさわしい。デュルケーム1971.が、近代社会において、人格と個人の尊厳性へ畏敬を払うことは、新たな宗教と呼べるものであると捉えたことと等価の表現である。
 今日の情報化社会においては、技術の進展に伴い、文字、音声、映像のすべてを遠隔、かつ広範に、さらに加工を加えてまで伝播することが可能となり、フェイクニュースも拡散されている。対して古代においては、言葉(音声言語)ばかりを人づてに伝えていくしか伝達手段を持たなかった。伝える人がきちんと理解して言葉を選んで伝え、受け取る人はその言葉のひとつひとつを納得することでようやく伝達が可能となる。納得感が十分に得られなければ情報は安定せず、次へ伝わることはない。もはや伝達は起こらず、言葉は消え、すべては失せる。言葉に対する切迫感がまったく異なっている。

(引用・参考文献)
井上1987. 井上光貞『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
クラストル1989. ピエール・クラストル著、渡辺公三訳『国家に抗する社会─政治人類学研究─』書肆風の薔薇発行、白馬書房発売、1987年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
津田1930. 津田左右吉『日本上代史研究』岩波書店、昭和5年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1041707
デュルケーム1971. エミール・デュルケーム著、田原音和訳『社会分業論』青木書店、1971年。(筑摩書房 (ちくま学芸文庫)、2017年。)
中村2009. 中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店、2009年。

加藤良平 2021.2.27初出