記紀の治水事業について―仁徳朝と推古朝の「堀江」記述をめぐって―

 記紀の説話、逸話には、唐突で前後のつながりを認めにくいものがあり、特に紀には、断片のまま放置されているように思われる記述がある。それに対する研究態度としては、今日、大きく分けて二つの捉え方がある。第一は、歴史の些末事項が追補的に記されているものとしている。第二は、天皇制の正統性を主張するために構想された大掛かりなフィクションの一部であるとしている。いずれにせよ、近代のものの見方、フィルターを通してのことである。文の意味を説く(解くではない)ために、外側から枠組みを後付けしている。しかし、無文字時代において、そのように創話され、伝承されたとは考えにくい。人々が覚えておこう、伝えていこうという意欲が起こらなければ説話や逸話は生まれない。同時代、同場所での経験の外側から post-script 的、meta-physical 的に構築された話には肌感覚がなく、伝えられるには至らない。当事者、ないしその周辺の人にとって、俄かには理解できない話が定着することはないのである。自然でわかりやすい話しか歓迎されなかったということである。
 そのことは、言語というものの本性に由来する。相手に伝わってはじめて言語である。私的言語というものはなく必ず我々の言語としてある。共時的にそれを使う人たちがともに理解し合えるものとしてあるから使うことができ、一つの体系を成しているのが言語である。その言語のなかにあって実際に使うこと、文を作って話すことで意味を織り成していく。言語ゲームがくり広げられているわけだが、そのルールは外的に与えられたものではなく、その場その場のセッションにおきて定まっていく。比喩や誇張、擬人法などのレトリックが展開できるのは、言葉を行使する場で瞬時に決めてゆくことが許されているからである。当然ながら、その場その場で相手と意味が通じること、使用に耐えることが肝要である。
 記紀に残されている説話や逸話も、当時の人が互いに理解し合えることは疑いがない。訳のわからないことを能書きとして記し残すことの方が異様である。すなわち、「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」(注1)として解読されなければならない。説話や逸話が創られ、記された当時の人たちが、どのようにそれらを内側から体系化、組織化していたのかを読み解いていく必要がある。そこに書かれている「言語ゲーム/劇」がどのような一幕なのかについて、答えはテキストのなかにあるものとして考えることが求められる。無文字時代の人たちは、今日の我々が当時のテキストを目にするのと同じように、それぞれの説話や逸話の状況設定がどのようなものか、実は知らないままに聞かされながら、聞くと同時になるほどそうだと内側から理解して他の人に伝達するに至っていた。無文字時代にコミュニケーションが成り立っており、成り立っていたから社会は構成され、テキストとしても残されている(注2)

 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国あふみのくにまをさく、「かまがはに物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津つのくに漁父あま有りて、あみを堀江にけり。物有りて罟にる。其の形わくごの如し。いをにも非ず、人にも非ず、なづけむところを知らず。(推古紀二十七年四月~七月)

 推古紀二十七年条は、特に前後の年と関係のある記事ではない。四月に蒲生河に物が浮いていて人のような形をしていると近江国から報告があり、七月に摂津国の漁夫が堀江に仕掛け網を設置したら物が入ったが、魚でもなく人でもなく何と名づけたらいいのかわからなかった、ということである。何を表している記事なのか深慮されたことはなく、聖徳太子伝暦(注3)を経由して聖徳太子絵伝では人面魚(「人魚」)が献られるところが描かれることもある。
 従来の訓法では、最後の「不知所名」は「なづけむところを知らず」と訓んでいる。今日の我々には理解される用法である。「所」をトコロと訓む訓み方は、漢文訓読の際に助字「所」をそのまま訓む用法によって導き入れられたもので、平安時代以降に確かめられているものの、飛鳥時代にそのように訓まれた、すなわち、そのように話されていたとは考えにくい。場所を示さないトコロなる言い方は、口頭語ばかりの世界には抽象的で理解しづらいからである。
 物に命名するとき、特徴を捉えて名をつける。物体の一部から名をつけることもあるが、場所性にこだわるものではない。日本書紀に見られる漢文の助字「所」の例から考えると、「なづけむことを知らず」、「なづけむすべを知らず」、「なづけむたづきたどき)を知らず」などと訓むのも一法である。
 ただ、もっと簡潔な言い方が見られる。「所名」を名詞の「名づけ」と訓む方法がある。「名づけを知らず」である。

 …… 天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず〔名不知〕 くすしくも います神かも ……(万319)
 …… いりなす こもりにしかば そこ思ふに 胸こそ痛き 言ひも得ず 名づけも知らず〔名付毛不知〕 跡もなき 世間よのなかにあれば むすべも無し(万466)

 名詞「名づけ」は下二段動詞「なづく」の連用形に起こっている。万319番歌は富士山を詠んだ歌で、多田2009.は、「「名づけ」は、未知のものを秩序の下に統御する行為。富士山の霊威は人知を遥かに超えるので、「名づけ」もできない。」(271頁)と通説を襲うが誤りである(注4)。「言ひも得ず 名づけも知らず」は慣用的な言い回しで、空前絶後の虚無感を表している。「天雲」は上空の高いところにあるから障害物など想定されていなかったが進行を妨げられている。「飛ぶ鳥」という名義なのに飛ばなかったり、「燃ゆる火」なのに消えてしまうかと思えば「降る雪」なのに降り積もることがないなど、語義が背反矛盾する状態が起きている。そのことをもって「言ひも得ず 名づけも知らず」と指摘している。言葉が直ちに過ちを犯すことを述べており、「くすし」の意味は、言葉があるのにその言葉が実態を表していないことについて不思議であると言っているのである。
 万466番歌は愛妻を亡くして言葉を失っている様子を表している。あったものが無くなるという世の無常さについて語っていて、口にする言葉が現実を反映することなく常とは裏腹な状態に陥ってしまっている。言葉が正しさを得られないこと、名が体を成さないこととなっている。すなわち、たとえ「名づけ」てみてもどうにも確定させることができないということで、「名」の問題以前の次元においてわからないと言っている。単にわからないというよりも、訳がわからないという言い方が似合う。
 推古紀の例にこの訓がふさわしいのは、水に漬かった物体の呼称が問題になっている点である。水にひたることをナヅクという。

 ……もろもろくだり到りて、はかを作りて、即ち其地そこのなづき田を匍匐はらばもとほりて哭き、うたよみして曰はく、
 なづき田の 稲幹いながらに 稲幹に もとほろふ 野郎蔓ところづら(記34、景行記)
 漚 於候一候二反、去、又平、漬也、漸也、浮也、清也、奈津久なづく、又比太須ひたす、又みづ尓豆久につく、又宇留保須うるほす也(新撰字鏡)

 推古紀の例は、「名(なづく)」と「漚(なづく)」とが同音であることから洒落を言っているのである。漚の物体をどう名づけるか、それがわからないのは、「名づけ(ケは乙類)」=「なづけ(ケは乙類)」、つまり、すでに水に漬かっている物体には名づけようがないということだというのである。推古紀二十七年条の不可解な挿入記事は、この一口話の確立を謂わんがために記されていると考える。
 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国あふみのくにまをさく、「かまがはに物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津つのくに漁父あま有りて、あみを堀江にけり。物有りて罟に入いる。其の形わくごの如し。いをにも非ず、人にも非ず、名づけを知らず。
 表面的に見て、ナヅケの一口話などどうでもいいこと、記述するほどの大事ではないと低く評価する向きもあるだろう。しかし、この記事をよく読んでみると、四月条には近江国の言葉が直接話法で記されている。七月条では摂津国の漁夫の言葉は説明されるだけである。不思議な書き方である。近江の国のが言ったとはなく、「近江国」が話者になっている。他方、摂津の国では具体的に漁夫が登場しているが、何も語らずに「名づけを知らず」と茫然自失している。「言ひも得ず 名づけも知らず」状態に陥っているから話法が使われていない。そのように文章が設定されており、状況が枠組まれている。名がある/ないことと、言葉を発する/発さないこととの関係について、本質を鋭くえぐっている。無文字時代において言葉がどのように認識されていたかがよくわかる記述となっている。歴史を著述する以前の大事といえる。

 蒲生河は現在の日野川で、琵琶湖に注ぎ、そこから瀬田川、宇治川、淀川を下って大阪湾へ注ぐ。大阪湾の河口付近はデルタ地帯でラグーンもあり、開墾に当たってそれなりの土木技術を有する氾濫危険個所であった。くり返し堤防が築かれては改修されてきたと考えられている。仁徳紀十一年条に大掛かりな工事を行った記事が載る。

 十一年の夏四月の戊寅の朔甲午に、群臣まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「今われ、是の国をれば、さはひろく遠くして、田圃たはたけ少くともし。また河の水よこさまながれて、流末かはじりからず。いささか霖雨ながめに逢へば、海潮うしほ逆上さかのぼりて,巷里むらさと船に乗り、道路みちおほちうひぢになりぬ。 かれ、群臣、共に視て、よこしまなるうなかみさくりて海にかよはせて、逆流さかふるこみきて田宅なりどころまたくせよ」とのたまふ。
 冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海にる。りて其の水をなづけてほりと曰ふ。又まさに北のかはこみほそかむとして、茨田まむたのつつみく。是の時に、ふたところの築かばすなはえてがたき有り。時に天皇すめらみことみいめみたまはく、神しましてをしへてまをしたまはく、「武蔵むざしひと強頸こはくび河内かふちひと茨田まむたのむらじ衫子ころものこ〈衫子、ここには莒呂母能古ころものこと云ふ。〉たりを以て河伯かはのかみに祭らば、必ずくことてむ」とのたまふ。すなは二人ふたりのひとぎて得つ。因りて河神かはのかみまつる。ここに強頸、いさかなしびて、水にりて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏おふしひさこ両箇ふたつらを取りて、き難きかはのぞむ。乃ちふたひさこを取りて、水の中になげいれて、うけひて曰はく、「河神、あふぎて、やつかれを以てまひとせり。是を以て、今吾、きたれり。必ずやつかれを得むとおもはば、是の匏を沈めてなうかばせそ。則ち吾、まことの神と知りてみづから水の中に入らむ。し匏を沈むること得ずは、おのづからにいつはりの神と知らむ。いかにただが身をほろぼさむ」といふ。是に、つむじかぜたちまちに起りて、匏を引きて水にしづむ。匏、なみの上にひつつ沈まず。則ち潝々とくすみやかうきをどりつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずといへども其の堤亦成りぬ。是、衫子のいさみに因りて、其の身ほろびざらくのみ。かれ時人ときのひと、其の両処をなづけて、強頸こはくびのたえ衫子ころものこのたえと曰ふ。
 是歳、新羅人朝貢みつきたてまつる。則ち是のえだちつかふ。
 十三年の秋九月に、始めて茨田まむたの屯倉みやけを立つ。因りて舂米つきしねを定む。(仁徳紀十一年四月~十月~是歳~十三年九月)
 又秦人はだひとえだちて茨田堤、また茨田まむたのやけを作り、又迩池にのいけ依網池よさみのいけを作り、又難波の堀江を掘りて海に通し、又椅江ばしのえを掘り、又墨江すみのえの津を定む。(仁徳記)

 尾田2017.は、この記述の土木的要点は十月条の最初に示されていることに尽きるという。「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く」。それによって、「始めて茨田屯倉を立つ。因りて春米部を定む。」ことができた。湿地帯を田んぼに変えて豊かになった。

 この二つ[堀江開削と茨田堤築堤]の事業が一対のもので……仁徳天皇は二つの事業を平行して行い、田圃を増やそうとしている……。土木の実務家にとっては、遠く[直線距離でも十数キロメートル]離れた堀江と茨田堤という一見無関係に思える二つの工事が相互に関連していることこそがこの条のハイライトとなる。……二つの事業がどうして繋がるのか。まず、堀江を掘って河内湖の水位変動幅を大きくさせる。こうすれば、干潮の時には、浅い湖だけに山側に大きな陸地が一時的に顔を出す。ここに堤を築くのである。山際から半円形に堤を築き出し、一時的に干陸化した土地を囲い込む。つまり堀江とは遠く離れた山際に堤防が築かれることになる。当然ながら一気呵成にとはいかない。毎日、毎日、繰り返す干満に合わせて、少しずつ延ばしていくしかない。この時大事なのは、満潮の時にでも土堤の頭が水の上に出るように堤を築くこと。こうすれば潮が満ちても堤防が消えてなくなることはない。(36~37頁)(注5)

 以上の事業によって、河内湖(草香江)の周辺には肥沃な水田地帯が生まれた。海から進入する大型船は、堀江に入ってすぐのところの津、難波津に停泊可能なわけだが、開削の主目的とはされていない(注6)
 「茨田堤」の位置については以前から推測されている。行基年譜・天平十三年記に、「高瀬堤樋」、「韓室堤樋」、「茨田堤樋」が見え、その茨田堤が仁徳紀のそれと同一であるととる見方もある(注7)。淀川の堤の一部を記紀では「茨田堤」と記しているという考え方である。しかし、記紀に所載の記事は話(咄・噺・譚)である。地名説話ではなく、人柱の話が活写されている。行基年譜とは別種の「名づけ」の可能性は十分にある。記紀の説話に「茨田堤」という名があるのは、第一に、話の設定として盛り込まれていると考えるのが適切である。また、近接する二か所を別の名の「絶間」とするのは不自然である。そして、遠く離れた堀江開削と茨田堤築堤は関連事業であり、ビジョンをもった改良事業であるとすると、広範囲を一つの視野のもとに捉えているのだから、堤の名が一つでなくては混乱が生じ、話としてもうまくないことになる。
 国史大辞典は、「茨田堤」について、「その場所の確定は困難であるが、あるいは淀川右岸(ママ)の堤の総称と考えるべきか。」(238頁、この項、亀田隆之)としている。淀川本流ばかりでなく、河内湖へ流れ込む支流の小河川の堤を含んだ淀川流域の堤の総称とする説である。それがかなり正しい見解であろう。

茨田堤想定地図(国土交通省ホームページhttp://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0616_yodogawa/0616_yodogawa_01.html)

 推古紀二十七年条の「名づけも知らず」物体が堀江で網にかかるとは、とりもなおさず淀川水系の水流が、勢い河内湖へ入っていることを指し示している。茨田堤の切れていることがこの推古紀二十七年条からわかる。それは、治水上好ましいことではない。北東から流れ来る淀川本筋系が滞っていて、東から流れ来て河内湖を作っている大和川系との分離が確保されていない。淀川本筋の河口に堆積が起こっているようである。その状態を放置すれば、せっかく開拓した河内湖東岸の田畑にも洪水が及ぶ。ひいては津の安定性も欠くことになる。「なづけを知らず」という文言は、びしゃびしゃに浸っていてどうなっても知らないよ、言を俟たずにやばいよ、とても心配だから改修しようよ、という声があがっていることを示し、直接的な訴えの声と聞くことができる。実際の被害や具体的な様子には次のような記事がある。

 春より秋に至るまでに、霖雨ながめして大水おほみづあり。五穀いつつのたなつものみならず。(推古紀三十一年)
 是歳、三月より七月に至るまでに、霖雨ながめふる。天下あめのした、大きにう。(推古紀三十四年)
 みやこうちに、驟雨にはかあめふりて、水潦にはたづみ汎溢あふる。又、伎人くれひと・茨田等の堤、往々しばしば决壊くえやぶる。(続紀・天平勝宝二年五月)

 そのような事態は、実は仁徳朝の大工事の完了直後から起こっていた。記紀では、皇后(大后)の嫉妬話としてとり上げられている。

 三十年の秋九月の乙卯の朔乙丑に、皇后きさき紀国きのくに遊行でまして、熊野岬くまののみさきに到りて、即ち其の処の御綱葉みつなかしは〈葉、ここには箇始婆かしはと云ふ。〉を取りて還ります。ここに、天皇すめらみこと、皇后の不在ましまさぬことうかかひて、田皇女たのひめみこして、おほみやうちめしいれたまふ。時に皇后、難波済なにはのわたりに到りて、天皇、八田皇女をすときこしめて、大きに恨みたまふ。則ち其の採れる御綱葉を海になげいれて、著岸とまりたまはず。かれ時人ときのひとかしは散す海をなづけて葉済かしはのわたりと曰ふ。ここに天皇、皇后の忿いかりて著岸とまりたまはぬことをしらしめさず。みづから大津にいでまして、皇后のみふねを待ちたまふ。しかうしてみうたよみしてのたまはく、
 なにひと 鈴船すずふねらせ 腰煩こしなづみ その船取らせ おほふね取れ(紀51)
 時に皇后、大津にとまりたまはずして、さらに引きて泝江かはよりさかのぼりて、山背やましろよりめぐりてやまとでます明日くるつひ、天皇、舎人とねり鳥山とりやまつかはして、皇后をかへしたてまつらしむ。すなはみうたよみしてのたまはく、
 山背やましろに い鳥山とりやま い及けい及け つまに い及きはむかも(紀52)
 皇后、かへりたまはずしてなほでます。山背河やましろがはに至りましてみうたよみしてのたまはく、
 つぎねふ 山背河やましろがはを 河泝かはのぼり が泝れば 河隈かはくまに 立ちさかゆる ももらず 八十葉やそばは 大君おほきみろかも(紀53)
 即ち那羅ならやまを越えて、葛城かづらきみのぞみてみうたよみしてのたまはく、
 つぎねふ 山背河を 宮泝みやのぼり 我が泝れば あをによし 那羅ならを過ぎ だて 倭を過ぎ 我がし国は 葛城高宮かづらきたかみや 我家わぎへのあたり(紀54)
 更に山背に還りて、宮室おほとの筒城岡つつきのをかの南につくりてします。(仁徳紀三十年九月)

 「難波済なにはのわたり」は堀江を横断する渡船場と考えられている。皇后が乗っている船は大船で、渡し船の小舟が近寄って事情を伝えたものと思われる。「大津」は大船が寄港可能なところ、仁徳紀六十二年五月条に「難波津」とあるのと同一と考えられているが、時間の流れに従って「難波津」→「大津」となるのではなく、「大津」→「難波津」となっている点は注意したほうがいいのだろう。大掛かりに「大津」として築いたところに天皇は立っていて出迎えようとしているが、少しあやしくなっていたのが実情で、「難波津」として復旧していたのではなかろうか。皇后が停泊しようとしない理由も上手に物語られている。
 皇后は、熊野岬から難波済を通過して、山背河を遡上し、那羅山を越えて葛城を望んでいる。すなわち、堀江を入って河内湖を経て、淀川から木津川へと進んでいる。茨田堤はその時なかったということになる。二十年ほど経過した段階で元の木阿弥状態だったらしい(注8)
 同様の内容は古事記でも語られている。ただ、文章内の一字がわからずに記事全体を読みわたすことができていない。

 是に、大后おほきさき、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏みつながしはをば、ことごとく海に投げつ。かれ其地そこなづけて津前つのさきと謂ふ。即不入㘴宮而引避其御舩泝於堀江随河而上幸山代。此の時に、歌ひてのたまはく、
 つぎねふや 山代河やましろがはを河のぼり が上れば 河の上に 生ひてる 烏草樹さしぶを 烏草樹の木 が下に 生ひ立てる びろ つ真椿 が花の 照りいまし が葉の 広り坐すは 大君ろかも(記57)
 即ち、山代やましろよりめぐりて、那良ならの山口に到りして、歌ひて曰はく、
 つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ だて やまとを過ぎ 我が見がし国は 葛城高宮かづらきたかみや 我家わぎへあたり(記58)
 如此かく歌ひて還り、しまらくつつ韓人からひと、名は奴理能美ぬりのみいへに入り坐す。(仁徳記)

 途中の訓読していない部分は伝本に次のとおりである。

 即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡偏に尸に羊)於堀江随河而上幸山代(真福寺本)
 即不入㘴宮而引避其御舩衍於堀江随河而上幸山代(兼永筆本)(注9)

 現在、「〓(⺡偏に尸に羊)」または「衍」字は、寛文版本によって「泝」に改訂されており、「さかのぼる」と訓まれている(注10)。歴史的誤解である。「〓(⺡偏に尸に羊) スリコ」(名義抄)とあり、新撰字鏡には「〓(⺡偏に尸に羊) 度嵆反、研米槌」とある。〓(⺡偏に尸に羊)は〓(⺡偏に尸に辛)の異体字で、広韻には、「〓(⺡偏に尸に辛) 研米槌也」とあり、籾殻を除くのに搗く杵のことを言っている。名義抄にスリコとあるのは、擂粉の意で、米を粉にして水に溶いてお乳の代わりに乳児に与えるためのもののようである。また、集韻に、「〓(木偏に厂垂に辛) 槌也。〓(⺡偏に厂垂に辛)〓(⺡偏に尸に辛) 米瀾也、或从〓(尸に辛)」とあり、「〓(⺡偏に尸に辛)」は米のとぎ汁のことを言っている。髪を洗うのに用いられた。ヤマトコトバに「ゆする(泔)」である。

 潘〓(⺡偏に䊩) 二同正、孚園反、平、大也、姓也、浙米汁也、以可沐頭、借普寒反、或本作〓(畨偏に反)〓(米偏に畨)二形非、由須留ゆする也 (新撰字鏡)
 其のあひだに面に垢つけば、ゆするわかしてあらはむとひ、足に垢つけば、湯を燂して洗はむと請ふ。(其間面垢、燂潘請靧、足垢、燂湯請洗。)(礼記・内則)

 真福寺本の〓(⺡偏に尸に羊)字は、兼永筆本では「衍」に作る。新撰字鏡に、「衍 余忍反、大也、垂也、豊也、善也、楽也、比呂万留ひろまる」とあり、説文に、「衍 水、海に朝宗するなり。水に从ひ行に从ふ」、集韻に、「衍 延面切、水溢也、曰大也」とあり、水の溢れることをいう。

 是歳、五穀いつつのたなつもの登衍おひゆたかなり。蚕・麦、うるはしく収む。(仁賢紀八年是歳)
 天皇と皇后と、高台たかどのしまして暑きことをさかりたまふ。(仁徳紀三十八年七月)
 今やつかれは是、日神ひのかみ子孫うみのこにして、日に向ひてあたつは、此れ天道あめのみちさかれり。(神武前紀戊午年四月)

コリントス運河を例にした想定図(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wik/運河、Inkey氏撮影ならびにコラージュ)

 堀江に入りきらないような大きな「御船」を、綱を使って「引きさか」ったというのである。堀江には津の機能が発揮されていない。記には、「又、難波の堀江を掘りて海に通し、又、小椅をばしのを掘り、又、墨江すみのえの津を定む。」(仁徳記)とあって、「津」は墨江にあった。干拓の便のために堀江は掘られているに過ぎず、大掛かりな港湾機能は堀江にはなくて、おそらく水路幅も大船を通すほどには広げられていなかったのだろう。そこへ大きな船を無理やり入れた。座礁することになって底を揺することとなり、白濁したゆする(潘)が溢れた。大后は高津宮から「さかる」ことをして、天皇に「さかる」意を表した。二重に同語反復を施して形容している。堀江に「御船」を引き入れて栓をして流れを逆に戻し、水が周りに溢れたら、そのかみにある河内湖の水位も上がって、淀川との間の堤防、茨田堤の一部が決壊してもとのように流れ込んだ(注11)。そこで、「河而上幸山代」ことが可能になっている。河内湖の水位が異常に高くなり、淀川との間の茨田堤が決壊して低い方へと一気呵成に流れたから、いったんは座礁したかに見えた「御船」は満潮時に「河而上幸山代」することができたのである。水路として続いていなかったものが開通して遡上することになっており、「随河」だけでは言葉不足だから堀江での「〓(⺡偏に尸に羊)」や「衍」という事情が語られている(注12)。別の流れなのに遡ることができるようになったことが密やかに述べられているのである。

 決壊して米のとぎ汁のような白濁の水が流れた。濁った水は満ち干をくり返している汽水湖、河内湖にもともとあったものではない。遠浅の干潟を有し、貝類の浄化作用もあって水は澄んでいる。汽水湖の水は塩分を多少含み、スリコ(〓(⺡偏に尸に辛)として乳児に与えるわけにも、ユスル(泔、潘)として髪を洗うわけにもいかない。茨田堤と堀江のおかげで干拓事業が進んで茨田屯倉は成り、舂米つきしねが定められている。米を舂いて研いで炊くには真水が求められる。淀川の水を使って米をとぎ、その下流で白濁を起こしているという謂いである。茨田堤が造成される前は合流していた。仁徳紀十一年に両水域の分離が行われて成功したかに見えた治水事業は、皇后の嫉妬の末に簡単に壊れてしまっている。
 「北の河のこみを防かむ」とある「澇」字について、大系本日本書紀に、「ちり、あくた。ただし澇の原義(大波、長雨)からはこの訓は直接には生れない。前本・天本にすでにすでに傍訓があるから、平安時代の語である。後世ゴミと濁音化する。」((二)241頁)とある。また、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し。」(安閑紀元年七月)について、「水びたしになりやすい。多く田についていう。仁徳十一年十月条にも「澇、コミ」とあり、新撰字鏡に「澇、水多、オホミヅ」とある。」((三)217頁)とも注している。人名の当て字、こむたの皇女ひめみこ(応神紀二年三月)=高目こむくの郎女いらつめ(応神記)からコは甲類、四段動詞の連用形からミは甲類とわかる。田が濁った水で浸される形容に、米をといだら白く濁るコミ・コム(澇)という語を用いている。長雨で川に大波が起こり、最後には堤防が決壊して出水の濁るさまを表そうと工夫して「澇」字を使った。澇は潦に通じ、潦はイサラミヅ、ニハタヅミのことをいう。
 ユスルと訓む「潘」字は、カスとも訓む。医心方・巻一に「粳米潘ウルシネカセル汁」とある。新撰字鏡に「濤米 よね加須かす」、観智院本名義抄に「淅 相亦反、カス、ウルフ」、書陵部本名義抄に「淅米 カ(ス)(白氏文集)」とある。「淅」字は、水で米をすすぐ、揺り動かすようにしてごみなどを取り去ることを表し、米をとぎ洗ったり米を水に浸してうるかすことを意味する。ざるに漉しとるとカス(滓・糟)が残る。ヲドミともいい、ヨドガハ(淀川)に音義とも通じている。新訳華厳経音義私記に「漿 音将、訓古美豆こみづ」、新撰字鏡に「饟……餉也、饋也、みづ」(コ・ミは甲類)とあるのはおもゆのことを指す。米のとろける汁状のもの、白濁した液体を言っている。
 堤防は実は簡単に決壊する。水面上につながっている限りはいかに脆弱であろうと水を防いでくれるものの、越水すると俄かに出水する。和名抄に「唐韻に云はく、潦〈音は老、和名は爾波太豆美にはたづみ〉は雨水なりといふ。」とあり、急にひどく降って溢れ流れる水のことをいう。通じる「澇」も俄かに溢れ出る出水を指す。仁徳天皇の治水事業は国土強靭化のためのスーパー堤防建設ではない。新田開発のためのものであり、考古学的調査からは所在が確かめられないような簡素な造りでかまわなかった。突貫工事で茨田堤を築いて分水させれば、一方には田を拓くことができた。ただそれだけだから、淀川から河内湖への流れは堤が壊れたらすぐ再開し、河内湖沿いに広く拓いた田はおびやかされた。川の水位が下がって潮の引いた時を見計らい、当初と同じになるように修復をくり返して命脈を保っていたものと推測される。
 真福寺本に、「即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡偏に尸に羊)於堀江随河而上幸山代」とある「〓(⺡偏に尸に羊)」字に当たる語は、ヤマトコトバのユスルである。「即ち宮に入りさずして、其の御船を引きり堀江にゆする(⺡偏に尸に羊)。河のまにまに山代にのぼいでましき。」と訓む。堀江は高津宮の北側にある。大后の乗る「御船」は宮を横目に見ながら東進し、宮のすぐ前で「御船」を使って堀江の事業をゆさぶり、天皇をゆすっている。その結果、米のとぎ汁(泔、潘)のような白濁の淀川の水が流れ込んでいる。米を増産する新田開発のために茨田堤を築造し、堀江を開削したのだったから、ユスルが話題にのぼっている。脅して金銭を提供させることへと展開した語の最初期の姿が浮かび上がっている。
 兼永筆本、「即不入㘴宮而引避其御舩衍於堀江随河而上幸山代」の「衍」字に当たる語は、ヤマトコトバのアブスである。「即ち宮に入りさずして、其の御船を引きり堀江にあぶす。河のまにまに山代にのぼいでましき。」と訓む。「あぶす」は、余し溢れ出させることをいう。他動詞である。名義抄に「遺 アブス」とある。同音に「ぶす」という語があり、湯水を体にそそぎかけることをいう。米のとぎ汁である泔は髪を洗うときなどに用いた。体に浴びる水に言い換えている。したがって、古事記には原本が一本だけだったわけではなく、少なくとも二本はあったことがわかる。
 この書記の巧みさ、たくましさを鑑みるに至り、記紀の説話、逸話は「言語ゲーム/劇」であると確かめられる。当時の人たちが通念として思うことをヤマトコトバで説話や逸話として創り、語り、記している。本稿では、当時の人たちの思惟、思考の組織化、体系化するさまを内側から読んだ。記紀の説話や逸話は簡にして要を得るように二重拘束的に作られた「言語ゲーム」であった。

(注)
(注1)喜界2003.は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念をわかりやすく説明している。「我々の生活は無数の行為の織りなす巨大なネットワークである。……ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という概念を通して我々の言語の実相を理解しようとするポイントは、この巨大なネットワークをいくつもの典型的な言語使用局面、つまりある種の単純な劇(シュピール)の集まりのごとくにみなそうとすることにある。この単純な劇(典型的言語使用局面)をウィトゲンシュタインは「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」と呼ぶのである。それぞれの言語ゲームは、簡単な背景、前後の脈絡、登場人物を持つ具体的なものであるため、その意味は[その場にいる]我々にとって自然であり、極めて把握しやすい。それは「言語ゲーム/劇」とでも表記すべきものである。文の意味とはそれが属する「言語ゲーム/劇」の中でそれが果たす役割なのである。従って文は、それが登場する言語ゲーム/劇の数だけ異なった意味を持つことになる。」(247~248頁)
(注2)我々も、日々、あらゆる場面で「言語ゲーム」にさらされながらたくましく生き、刻一刻と変わっていく言葉のやりとりに即応している。「国語」という教科は、エクリチュールに対してその能力を培うためにある。テキストの内部に答えがあってそれを理解できるようにすることが一貫して教えられている。
(注3)近江ツカサ便シテサクガマカハ物、其形如クシテ、如クシテ。太子カタリテ左右ハクワザハヒマル于此ヨリ人魚トイフ、非瑞物也。今無クシテ飛菟ヒト、出タル人魚、是ワザハヒ汝等ナンヂタチルベシ。(聖徳太子伝暦・下)
(注4)拙稿「高橋虫麻呂の富士山の歌」参照。
(注5)尾田2017.は、堀江を掘っても河内湖の水位が一気に下がるわけではないこと、水の中には堤は築きにくいこと、水が満ちても土堤の頭が出るように築くことが堤を保つのに重要であることに留意すべきであるとする。逆に、上町台地の砂堆を削るのは土木的に難しいことではなく、また、一度できた堀江は潮位変化による交番流で維持されやすかったと指摘している。例えば、浜名湖は明応7年(1498)の地震津波によって砂州が決壊して今切口が生まれ、潮位変動に同期した交番流が堆積を妨げて汽水湖状態を維持している。
 次の尾田氏の言葉は、紀をよく読んだ言葉と思う。

 実際の事業が仁徳天皇十一〔三二三〕年の単年で完成するはずはなく、さらには実施時期を四世紀と特定する根拠もない。長年月をかけて継続実施された事業に違いない。とはいえ事業の本質は明確に認識されていた。だからこそ『紀』が伝えるように明快な形で取り上げられたのである。その意味がわからなくなったのは、古代人の理解力・総合力に対する現代人の侮りと、物事の本質を見抜く能力が退化したからに他ならない。……この事業の本当の凄さは計画立案の過程にこそある。河内平野全体を視野に入れ、水の流れを総合的に勘案して練り上げられた構想の壮大さは例えようもない。(40頁)。

(注6)栄原2005.は、「難波堀江の開削、難波津の設定、それから大倉庫群の建設は三位一体の関係にあり、……朝鮮半島をめぐる軍事的緊張の中で、5世紀後半に倭王権が強力な指導力によって作り上げたものであることが理解できる」(27頁)とし、別の考え方をしている。神武天皇時代には、「青雲あをくも白肩しらかた」、「日下くさかたで」(神武記)、「草香邑くさかのむら青雲あをくも白肩しらかた之津のつ」(神武前紀戊午年三月)に停泊している。河内湖の奥へ入った草香江に当たる。難波の津に関する記述としては仁徳紀三十年条に記載がある。後述する。
(注7)上遠野2004.に、「「茨田堤」とは「高瀬堤」・「韓室堤」と並んで淀川左岸堤防の一部と見なしうる。ここに見える「茨田堤」とは『記』・『六国史』に見えるものと同じものを指していると考えなければならない。文献によって同じ名称のものが違うものを指すと考えることは不自然だからである。」(28頁)とある。
(注8)難波の「大津」の不具合と茨田堤の欠損が両方起きている状況からも、尾田氏の見解の正しさが確かめられる。
 応神記に「難波津」とある点が不思議がられているが、その部分は仁徳天皇の逸話を記した部分である。彼の事績として難波宮遷都があり、そこは難波津とがセットで認識されていたため、記では年月を遡ってそのように表されたものと考える。

 天皇すめらみこと日向国ひむかのくに諸県君もろがたのきみむすめ、名は髪長かみなが比売ひめ、其の顔容かたち麗美うるはしときこして、使はむとしてぐ時、其の太子おほみこ大雀命おほさざきのみこと、其の嬢子をとめなに波津はつてるを見て、其の姿容かたち端正きらぎらしきにでて、即ち建内宿禰大臣にあとらへてらく、「是の、日向より喚し上ぐ髪長比売は、天皇のおほもとまをして、あれたまはしめよ」とのる。しかくして、建内宿禰大臣、大命おほみことを請へば、天皇、即ち髪長比売を以て其の御子に賜ふ。賜へるかたちは、天皇、豊明とよのあかりを聞し看す日に、髪長比売におほ御酒みきの柏をらしめ、其の太子に賜ふ。爾くして、御歌に曰はく、……(応神記)

(注9)真福寺本は国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184140/1/6、兼永筆本系統では猪熊本の同https://dl.ndl.go.jp/pid/3438707/1/8参照。
(注10)本居宣長・古事記伝に、「【泝と云には、堀江と訓べきが如くなれども、於字あるは、と訓べきためなり、そは海より堀江に入給ふを云なり、既に堀江に入て、泝りゆくには非ず、】泝は佐加能煩良志弖サカノボラシテと訓べし、万葉廿〈四十九丁〉に、保里江欲利美乎左可能保流ホリエヨリミヲサカノボルカヂオト【さかのぼるとは、水の流るゝにさかひて上るなり、】」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/344、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)一般的な堤防決壊のメカニズムとしては、越水、浸透(バイピング、浸透)、侵食・洗掘に大別されている。二十世紀半ばの統計では、越水によるものが八割とされていた。

堤防決壊のメカニズム(国土交通省関東地方整備局「鬼怒川堤防調査委員会報告書」平成28年3月、3-1頁)

(注12)川の流れとの関係で順、逆はきちんと表現される。

 河中かはなかに渡り到る時に、其の船をかたぶけしめてみづの中におとし入る。しかくして、すなはち浮き出でて水のまにまに流れ下る。(渡到河中之時令傾其船墮入水中爾乃浮出随水流下)(応神記)
 遡流而上かはよりさかのぼりて、ただに河内国の草香邑くさかのむら青雲あをくも白肩しらかた之津のつに至ります。(遡流而上径至河内国草香邑青雲白肩之津)(神武前紀戊午年三月)

(引用・参考文献)
朝倉2008. 朝倉敏成「難波の堀江の開削についての一考察」『東アジアの古代文化』136号、大和書房、2008年8月。
尾田2017. 尾田栄章『行基と長屋王の時代─行基集団の水資源開発と地域総合整備事業─』現代企画室、2017年。
表口1987. 表口喜嗣「茨田堤に関する2・3の問題」『横田健一先生古稀記念文化史論叢 上』創元社、 1987年。
角林1977. 角林文雄「難波堀江・茨田堤・恩智川」横田健一編『日本書紀研究 第10冊』塙書房、1977年。
上遠野2004. 上遠野浩一「「茨田堤」の比定地について」『歴史地理学』第46巻第4号(通巻220号)、2004年9月。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13328921
亀田1973. 亀田隆之『日本古代用水史の研究』吉川弘文館、昭和48年。
喜界2003. 喜界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた─哲学的思考の全軌跡1912-1951─』講談社(講談社現代新書)、2003年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第十三巻』吉川弘文館、平成4年。
栄原2005. 栄原永遠男「古代の港湾都市難波」『都市問題研究「大阪市とハンブルク市をめぐる都市・市民・文化・大学」第2回 日独共同シンポジウム報告書』大阪市立大学、2005年2月。国立国会図書館インターネット資料収集保存事業
https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258149/www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/old/data/0502nichidoku2.htm(2025.11.16確認)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。

加藤良平 2025.11.16改稿初出

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