皇極紀によると、乙巳の変の三韓の調の儀式に参内する際、蘇我入鹿は腰に佩いた剣をはずしている。
中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、為人疑多くして、昼夜剣持けることを知りて、俳優に教へて、方便りて解かしむ。入鹿臣、咲而解剣。(皇極紀四年六月)
「咲而解剣」部分、通説では「咲て剣を解く」と訓まれている(注1)。三浦1998.は、「入鹿は「俳優」のワザ(方便り)に寄り憑かれて剣を外すことになったのだから、「ゑらきて」と訓んだ方がいいかもしれない。少なくとも一方的で侮蔑的なワラヒではないし、相手を吸引してしまう力を内在するのが「俳優」のワザであったということは明らかだ。」(254頁)としている。そして、柳田1962.を引きながら、古代文献に「咲」と書かれる語の訓読に、ヱム(ヱマフ)とワラフの二語があると指摘する。
ヱムとは、対称に寄り憑かれて満ち足りた喜びが顔面に溢れ出るさまをいい、そのヱミを受け取った側も相手に吸引され両者は一体化し親和することになる。ヱムの継続形がヱマフ、その名詞形のヱマヒは満ち足りた笑顔をいう。この系統に訓むのは、「咲」(神代紀第十段一書第一一云、雄略紀二年十月、万1257・1738・1807・2627・2762、2900、4160、常陸風土記香島郡)、「咲比」(万478)、「咲儛」(万718)、「咲容」(万1627)、「咲状」(万2642)「恵美」(記3、万4116)、「恵麻比」(万804一云・4011)、「恵末比」(万4114)、「恵麻須」(万3535)などである。
他方、ワラフは声を伴い、あざけりやからかい、さげすみの気持ちを含んでおり、悪い結果や不快の感情を与えるものである。この系統に訓むのは、「咲」(允恭記、清寧記、神武即位前紀戊午年九月、武烈紀七年二月、敏達紀十四年八月、斉明紀五年是歳、天智紀三年十月、播磨風土記神前郡)、「蚩」(継体紀元年正月)、「嗤」(舒明紀九年三月、万3821題詞・3840題詞・3841題詞・3842題詞)、「嗤咲」(万3844題詞・3821左注・3853題詞)、「戯嗤」(万3846題詞)、「嘲咲」(記9)、「哂」(神武前紀戊午年十月)などである。両者の区別は、ヱム(ヱマフ)は内側に潜んでいる充足した生命力や喜びを外部に放出する所作で、発する側と受け取る側の両者が親和的な状態にあるものをいい、ワラフは相手を見下したりさげすんだりするもので、笑う者と笑われる者とが対立的な関係に置かれていくことにあるという。蜂矢2010.も、ワラフとヱムとの意味の相違は動作の大小、声を挙げるか否か、口を開くか開かないか、他動詞か自動詞か、といった尺度では釈然とせず、「ワラフ[笑]は外発的な力による動作であり、ヱム[笑]は内発的な力による動作である。」(142頁)とする。それは、カワク(乾)とヒル(干)の関係に相似すると言っている。
三浦氏は、ヱム(ヱマフ)・ワラフに類する概念としてヱラクが存するという。ユラク(揺)が擬態語ユラ(ユラユラ)から派生した動詞であるように、ヱラクは擬態語ヱラ(ヱラヱラ)から派生した動詞で、物自体に潜む〈たま(魂)〉が自ら発動する状態を示す言葉であるとする(注2)。ヱは、ヱムのほか、今日の笑顔に当たるほほえみのヱ、古語にあるヱクボ(靨)、ヱグシ(笑酒)のヱである。蜂矢氏も、ワラフとともにとらえられる語としてワル(割)をあげ、ヱラクはヱムとともに捉えらえられる語としている。続紀の称徳天皇の宣命にヱラキ(「恵良伎」)(天平神護元年(765)十一月二十三日(詔38)、神護景雲三年(769)十一月二十八日(詔46))とある。ヱラクは天皇から下賜された酒に酔って心が高揚した状態をいうとする。陽気に酔っぱらって、顔をやわらげ赤らめ、声をあげて笑うことである。語幹のヱラは、大伴家持の「為レ応レ詔、儲作歌一首〈并短歌〉」にヱラヱラ〔恵良々々〕(万4266)とあり、楽しそうに、にこにこと笑い興じての意味である。重祚前の孝謙天皇時代、天平勝宝四年(752)の作である。
三浦氏はさらに柳田国男を引きながら、ヱラクと烏滸者との関係に触れている。「俳優」とも呼ばれる烏滸なる神にアメノウズメ(天宇受売命、天鈿女命)がおり、天石屋(天石窟)の神話では、アマテラスが石窟に籠ってしまったのを上手に引き出している。そのワザは、風変わりな装束を身にまとい、桶を逆さにして踊り台とし、神憑りして服を脱ぎながら踊るストリップであった。おかげで高天原は地が震え、八百万神(八十万神)は笑い声をあげた。不思議に思ったアマテラスは「云何ぞ天鈿女命、如此㖸楽や」(神代紀第七段本文)と言っている。同じ個所の記の記述の、「八百万の神、共咲」、アマテラスの発言の、「何の故にか天宇受売は為楽、亦、八百万の神、諸咲」、それに答える天宇受売の、「汝が命に益して貴き神坐すが故に、歓喜咲楽」について、「共咲」はトモニヱラク、「為楽」はアソビヲシ、「諸咲」はモロモロヱラク、「歓喜咲楽」はヨロコビヱラキアソブと訓むべきとする。ヱラクことと遊ぶこととの間には深い関係があるという。
笑いについての定義は実は難しい。その諸相としては、口を大きく開けて喜びの声をたてたりおかしがって声をたてること、ばかにしてわらい嘲笑すること、にこにこしたりほほえむことがあげられる。天石屋戸神話では、はからずも「楽」を「遊び」と採っている。カイヨワ1990.に、聖─俗─遊の分析枠組みの図式がある。それによると次のようになる。
〈遊び〉は、〈聖〉や〈俗〉とも独立した次元にあって、〈聖〉とともに〈俗〉に対立しつつ、〈聖〉に比べて自由で、非生産的で、仮構の上で成り立っている。〈聖〉や〈俗〉が真面目なものとすれば、〈遊び〉とは不真面目なものと捉えることができる。民俗学にいうハレ─ケ─ケガレ説では、祭を、ケ(気)が枯れた状態のケガレ(褻枯れ、穢れ)を祓い、再び日常に気を充満させるためのメカニズムと考える。生活のなかでの時間サイクルに合わさって秩序の更新を意味する。一方、聖─俗─遊の図式では、〈遊び〉が秩序の革新を含む変動論のパラダイムとなっている。〈遊び〉の能力とは、正しい真理とされていることを疑って虚仮にする相対化の能力であり、代替可能な意味づけ、現実をとらえる枠組みや世界観の脱・再構築を生み出す創造の能力でもある。「俳優」のワザとは〈遊び〉であるといえる。
このような考えに従えば、ヱラクが〈遊び〉によって引き起こされるものとすると、目の前の現実がそれまでとは違った意味づけによって転調した結果自ずと起こってくるものと考えることができる。酒や娯楽、芝居の演出の力を借りながら、秩序の縛りから解かれたり、恐怖を伴う緊張感からの放たれたりする際の、緩みを伴った笑いこそがヱラクである。なかでも、俳優のワザによる〈遊び〉によれば、秩序の変革を内包する笑いということになる。宣命のヱラキは、称徳天皇の豊明節会におけるもので、天皇の、今宵は無礼講で構わぬ、苦しゅうないぞ、とのお言葉である。雄略紀二年十月条の、天皇の怒りを解くことができた場面の皇太后の「歓喜盈懐」は、緊張感から解放されて自然と喜びが満ちてきているもので、ヱラギマス(大系本(三)30頁)と訓むのがふさわしい(注3)。
天孫降臨の際、衢に立ち塞がるサルタヒコ(猨田彦神)に対してアメノウズメ(天鈿女命)が例によって服を脱ぎ、「咲噱向きて立つ」(神代紀第九段一書第一)こととなっている。俳優たるべきアメノウズメが笑っている。アメノウズメの笑いによってサルタヒコが屈服したとは考えにくい。サルタヒコは迎えるために待っていたと答えており、話がかみ合っていない。むしろ、サルタヒコを笑わせることに失敗しているとも取れる。そうではなく、アメノウズメは神憑りしないまま、俳優ならではのワザを発揮することなく、ただ笑うふりをしている。すなわち、通説のとおりアザワラヒテと訓むのがふさわしい。
雄略紀に蚕と子の取り違え話が載る。天皇は後宮の女たちに養蚕をさせ、全国に奨励しようと計画した。そこで、少子部蜾蠃に命じて国内の蚕を集めさせた。ところが、蜾蠃は誤って乳幼児を集めて奉った。
天皇、大咲、嬰児を蜾蠃に賜ひて曰はく、「汝、自ら養へ」とのたまふ(注4)。(雄略紀六年三月)
この「大咲」は、ヲコ者の蜾蠃によって引き起こされたもので、大系本のオホキニミヱラギタマヒテ((三)42頁)がふさわしい。三浦氏の、「ここのスガルは侮辱される存在としてあるのだから、大いに笑われなくてはいけないのである。」(253頁)は洒落が通じておらず当たらない。天皇は蜾蠃のことを軽蔑しているのではなく、天皇はなぞなぞが自ずと解けて嬉しく思い、子供はお前が養育せよと言っている。そこから「少子部連」という姓が与えられたと記されている。養蚕の殖産事業はもはやどうでもいい。名の蜾蠃とは似我蜂のことである。他の虫の幼虫を捕えてきて巣の地中に埋めて自分の子にしてしまうという逸話が伝わっていたとされる(注5)。我に似よ、すなわち、ジガと鳴いているというのである。名のとおりの働きを蜾蠃はしていた。天皇はそれに気づいてつい笑ってしまったという話になっている。
古代語にあったヱラクという語が現代語に失われた状況をソシュール流に推測すると、ワラフがヱラクの範疇、概念領域を占領したということではないか。古代語で嘲笑することをワラフという。当時、俳優、今日でいえば道化師的なお笑いタレントがする漫才やコントの芸を見て、同じワラフという言葉で表していたとは考えにくい。人をばかにして笑うのはワラフで、ばかばかしく思えて自然と笑えてくるのはヱラクである。対象に対して自己が屹立するのと溶解するのとの違いである。ヱラクという言葉が確かに存在していたという事実に鑑みれば、両者は別の概念として峻別されていたと考えるべきである。
蜂矢氏も、「ヱラクは、『時代別国語大辞典上代編』に「笑い興じて楽しむ。満悦する。」とあり、ヱラヱラニは、同じく「楽しそうに。にこにこと笑い興じて。ヱラヱラは笑い楽しむさまを表わす擬声語で、(略)ヱラクのヱラクのヱラに同じ。」とあって、これらのヱもヱム〔笑〕のヱではないかと考えられる。「笑い興じて」「にこにこと笑い興じて」「笑い楽しむ」とある「笑い」は、「ほほえみ」とあってほしいところである。」(144頁)としている。精緻な議論である。
皇極紀四年六月条では、鎌足が入鹿の用心深い性格を知っていたので俳優を使い、方便って剣をはずさせることに成功した。「咲」はヱラキテと訓むのがよい。俳優のワザが光っており、入鹿は緊張を緩めニコっとして自ら剣を解いた。そのことが乙巳の変、大化改新という大きな社会の変革に直接結びついている。〈遊び〉が変革を生むことを通奏低音として示しており、ヱラキテの訓が言葉として正しくて真相を深く伝えるものとなっている。俳優は、入鹿臣に比して身分が低く、取るに足らない人間で、あざけることすら価値がないという考えは適切ではない。笑いのツボはその人の内部にある。そこをくすぐる術を持っているから職業として成り立っている。俳優の所作により、入鹿のこわばっていた人格の殻は溶解してしまった。それがすなわち、皇極朝の支配体制の溶解を示している。三浦氏が採った「ゑらきて」は慧眼であり、そう訓んだ方がいいどころかそう訓まねばならない個所である。そうでなかったら、言葉の上で大化改新のクーデターは失敗ということになる。そして、上代は基本的に無文字であり、無文字ななかで暮らしていたのだから、言葉の上で失敗している事など何一つあり得ないのである。
(注)
(注1)岩崎本に傍訓があるわけではないが、大系本(四)228頁、新編全集本99頁、武田1988.509頁ともワラヒテと訓んでいる。
(注2)「たま(魂)」についての見解には同意できない。むしろ実体の輪郭が薄れなくなることの謂いとして見てはどうか。なお、岩波古語辞典ではヱラクは酒に酔う意とのみ捉えている。
(注3)清濁は問わない。
皇太后、斯の詔の情を知りて、天皇を慰め奉らむとして曰したまはく、「群臣、陛下の遊猟場に因りて、宍人部を置きたまはむとして、群臣に降問ひたまふことを悟らじ。群臣嘿然はベりたることは、理なり。且対へまをすこと難みなり。今貢るとも晩からじ。我を以て初とせよ。膳臣長野、能く宍膾を作る。願はくは此を以て貢らむ」とまをしたまふ。天皇、跪礼びて受けたまひて曰はく、「善きかな。鄙しき人の所云る『貴、心を相知る』とは此を謂ふか」とのたまふ。皇太后、天皇の悦びたまふを観して、歓喜盈懐ぎます。(雄略紀二年十月)
(注4)「養」字は古訓にヤシナフ、ヒダスとあるが、雄略天皇は言葉の取り違えをおもしろがって発言しているのだから、その言葉どおりそのままに返すのがふさわしく、カフと訓むべきである。その証拠に、言葉の取り違えとは言葉をカフ(交、換、替、易、代)ことであって、文脈を自己定義して定めることになっている。拙稿「雄略紀「少子部連蜾蠃」の物語について─「仍改賜名為雷」の解釈を中心に─」参照。
(注5)法言・学行に、「螟蠣の子、殪して蜾蠃に逢ふ。之れを祝して曰く、『我に類よ、我に類よ』と。久しくして則ち之れに肖る。」とある。中国の故事がそのまま伝わっていたのか、ただジガという音をもって伝わっていたのか不明である。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
カイヨワ1990. R・カイヨワ、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社(講談社文庫)、1990年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀➂』小学館、1998年。
大系本 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1988. 武田祐吉訓読『訓読日本書紀』臨川書店、昭和63年。
蜂矢2010. 蜂矢真郷『古代語の謎を解く』大阪大学出版会、2010年。
三浦1998. 三浦佑之「ゑらく神々」『神話と歴史叙述』若草書房、1998年。
柳田1962. 柳田国男「笑の本願」『定本柳田国男集 第七巻』筑摩書房、1962年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9541737
加藤良平 2025.9.5改稿初出