舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─

舎人とは

 舎人とねり(トは乙類)は、天皇や皇族に近侍する従者で、護衛、身辺の雑事に奉仕する。令制によって整備されたが、令外の舎人も置かれている。日本書紀では、トネリは「舎人」(雄略紀十六年七月ほか多数)のほか、「帳内」(雄略前紀安康三年十月、顕宗前紀安康三年十月、孝徳前紀、持統前紀朱鳥元年十月)、「官者」(雄略七年八月)、「兵衛」(用明紀元年五月(つはものとねり)、天武紀八年三月、持統三年八月)、「左右兵衛(ひだりみぎのとねり)」(天武紀朱鳥元年九月)、「偽兵衛(かすゐのとねり)」(持統紀三年七月)とも記されている。大化以前の記事には、記述年代において紀執筆者が修文、潤色したと説明されることがあるが、言い方(読み方)=声としての言葉が同じであるなら、字を知らない聞き手にとって変わりがあるものではない。トネリとは何か、なぜそういう呼称を伴うのか、を考えるに当たり、トネリは「舎人」と記される傾向の強いことから、当面、「舎人」の表記を中心に検討し、突破口としたい(注1)
 仁藤2005.に、「その[トネリの]用字は『漢書かんじよ』高帝紀上のがん師古しこの注に「舎人は、親近・左右の通称なり」とあるように、中国の古代官制の名前で、本来的には貴人の従者を意味しており、必ずしも大王の従者に限定される用語ではないことが確認される。」(168頁)とある。用字を以てして、中国で確認されるのか本邦で確認されるのか不明な記述であるが、実情はそのとおりになっていることは記紀万葉の用例を見るとわかる。トネリという言葉(音)については等閑視して、令制の前後でどう変わったかといった視点を中心に、漢字表記を基準に古代史研究は進められている。しかし、飛鳥時代の人たちの大半は文字とは無縁に一生を過ごした。彼らにとってはトネリという音こそが、その言葉について重要であり、トネリというものそのものを深く理解する糧であった。文字を知らない人同士で話が通じるとは、トネリという音でともにわかり合えたということである。現代の研究者は視覚偏重に陥り、黙読して漢字の形を見ている。当時の人々の認識からかけ離れたところにいる。

さまざまなトネリ

 いわゆる舎人として記紀万葉で最も名高い人は稗田阿礼である。記序に、「時に舎人有り、姓は稗田、名は阿礼、年は是廿八」と、「男はつらいよ」流に紹介されている。どんな人であるかは不明である。舎人の立場の人に対しては、名前で呼んで使い走りを命じたに違いない。だから、名前(通称)を持っていたはずである。ただし、それは舎人自身のアイデンティティを確かならしめるものではなく、また、使用人一同という際には名を記す必要もなくて記されない場合も多い。記紀の例を大雑把に分類すると、(a)総称として使われていて名前がない例、(b)名前を持つ例(「舎人」という姓を含む)、(c)舎人を養成、輩出するための「舎人部」の名称、(d)皇族の名としての舎人、といった分け方ができる。

(a)「舎人」(応神記、仁徳紀四十年二月、雄略紀五年二月、同十四年四月、皇極紀二年十一月、同三年正月、天智紀七年七月、天武前紀天智四年十月、天武紀元年五月是月、同元年七月、同十三年閏四月)、「近習ちかくつかへまつる舎人とねり」(仁徳紀十六年七月、武烈前紀仁賢十一年八月)、「おほ舎人とねり姓字かばねなもらせり。〉」(雄略前紀安康三年八月)、「舎人とねりども、〈名を闕せり。〉」(同)、「左右舎人」(清寧紀二年十一月是月、顕宗前紀清寧二年十一月、仁賢前紀清寧元年十一月、天武紀十三年正月、天武紀朱鳥元年五月是月)、「大舎人」(斉明紀七年五月、天武紀二年五月、持統紀五年二月)、「左右大舎人」(天武紀朱鳥元年九月)
(b)「舎人、名は鳥山と謂ふ人」(仁徳記)、「舎人鳥山」(仁徳紀三十年九月)、「舎人中臣烏賊津使主」(允恭紀七年十二月)、「舎人迹見赤檮」(用明紀二年四月)、「舎人田目連」(皇極紀二年十一月)、「舎人新田部米麻呂」(斉明紀四年十一月)、「舎人朴井連雄君」(天武紀元年六月)、「舎人土師連馬手」(天武紀元年六月)、「舎人造糠虫」(天武紀十年十二月)、「舎人連糠虫」(天武紀十一年正月、同十一年二月是月)
(c)「長谷部舎人」(雄略記)、「河瀬部舎人」(雄略記)、「河上部舎人」(雄略紀二年十月是月)、「川瀬舎人」(雄略紀十一年五月)、「白髪部舎人」(清寧紀二年二月、継体紀元年二月)、「石上部舎人」(仁賢紀三年二月)、「小泊瀬舎人」(武烈紀六年九月)、「勾舎人部」(安閑紀二年四月)、「来目舎人造」・「檜隈舎人造」・「川瀬舎人造」(天武紀十二年九月)
(d)「舎人皇女」(欽明紀二年三月)、「舎人姫王」(推古紀十一年七月)、「舎人皇子」(天武紀二年正月)、「舎人王」(天武紀九年七月)、「皇子舎人」(持統紀九年正月)

 稗田阿礼は(b)に含まれよう。(b)の「舎人田目連」は「田目」が名でないなら(a)に近く、「舎人造糠虫」・「舎人連糠虫」は「舎人」を姓にしてしまっていて(d)に近い使い方といえる。(a)にわざわざ「闕姓字也」、「闕名」と注されていて、人格が認められない存在であったことを示唆してくれている。高貴な人の側近くに仕えているにもかかわらず、人としては何者でもないのである。
 万葉集に例を上の四分類のもとに見ると、歌中には、(a)「舎人」(万201・475・3324)、「舎人之子」(万3326)、「舎人とねりをとこ」(万3791)、題詞や左注などには、(b)「舎人吉年」(万152・492)、「内舎人大伴宿祢家持」(万475・1029・1037・1040・1591・3911・3913)、「内舎人縣犬養宿祢吉男」(万1585)、「内舎人石川朝臣広成」(万1600)、「大舎人安倍朝臣子祖父」(万3839)、「大舎人土師宿祢水通」(万3845)、「大舎人巨勢朝臣豊人」(万3845)、「若舎人部広足」(万4364)、「大舎人部千文」(万4370)、「大舎人部祢麻呂」(万4379)、「他田舎人大嶋」(万4401)、「檜前舎人石前之妻大伴部真足女」(万4413)、(d)「舎人娘子」(万61・118・636)、「舎人皇子」(万117・1683・1704・1706・1774)、「舎人親王」(万3839・4294)といった例が見られる。(b)の舎人の名の呼び方に、(c)の舎人部出身者のため「舎人部」となる例がある。

トネリという言葉

 トネリの語源説に、トノハベリ(殿侍)説(本居宣長)、トノイリ(殿入)説(大槻文彦ほか)などがある。古典基礎語辞典の「とねり【舎人】」の項の「解説」に、「トノ(殿)イリ(入)の約か(tönöiri→töneri)」(843頁、この項、北川和秀)とある。「解説」になっていないほどに未詳の語である。「殿」という語に関係があるのであれば、「殿人」などと記された例が一例ぐらいあってもよいと思われるが記紀万葉にはない。仁藤2005.にあるとおり、オーソドックスな表記に漢籍の「舎人シャジン」を採っている。中国で、官名として近侍の官、また、王侯貴族の左右に親近する者も指していて、芸文類聚で引文の記載となっている。舎は宮、屋の意である。倭での使い方と同様である。トネリという言葉はいわゆる和訓の類と考えられそうである。
 舎の字については、仏利とあるほどに仏教を思わせる。万葉集にある舎人の歌にも、ご主人様が亡くなったときの挽歌が見られる(注2)。仏教が関係するとすれば、トネリのネリは「練り」のこと、ゆっくりと歩くことではないか。後述するお練供養は、仏のお面をかぶって右に左に顔を揺らしながら行進する行事で、当麻寺の聖衆しょうじゅう来迎練らいごうねりようしきがよく知られる。掛橋を二十五菩薩が渡るが、シテ役の観音・勢至菩薩は体を左右にねじりながら前を進む。おもふ(面振)るに歩いて、右に左におもね(面練)っている。続く龍樹・地蔵・薬王などの菩薩の被り物をした人たちは、付き添いがついて連れ歩く。一緒に、の意 with は、現代語で「と」、古語で助詞の「と(乙類)」という。よって、トネリである。
 「左右舎人」については、清寧~仁賢紀でモトコノトネリ、天武紀でヒダリミギノトネリと訓まれている。モトコ(ト・コは乙類)は、モト(本)+コ(処)の意で、側近をいい、「左右」でモトコヒトと訓む例(垂仁紀七年七月、景行紀十八年三月)もある。トネリの名称がつけられる前はモトコヒトと呼んでいたらしい。ここに、いわゆる修文、潤色はないという説明になる。巧妙にトネリという語が作られたと考えることができる。

トネリの役目

 側にいてかいがいしく世話を焼くことは介添え役の役目である。介添えの介は後代の当て字で、古語では「掻き添へ」である。中古に、動詞カイソフ(カヒソフ)の例が見られる。「渡殿の口にかい添ひて、かくれ立ち給へれば」(源氏物語・空蝉)、「御髪長くうつくしうてかひ添へて臥させ給へり」(栄花物語・花山たづぬる中納言)などとある。近くに寄り沿う、近くに寄り添わせる、の義である。そこから介添え人の意となる。記紀にまでその意味を遡れば、ヤマタノヲロチ(八俣遠呂知、八岐大蛇)の話に出てくる老人、アシナヅチ(足名椎、脚摩乳)・テナヅチ(手名椎、手摩乳)がいる。クシナダヒメ(櫛名田比売)(クシイナダヒメ(奇稲田姫))の足や手を掻き撫でて守ろうとしていた。

 かれ、声を尋ねていでまししかば、ひとり老公おきな老婆おみなと有りて、中間なかに一の少女をとめゑて、かきなでつつ哭く。(神代紀第八段本文)

 スサノヲの指示のもとヤマタノヲロチは退治された。クシナダヒメと結婚するに当たり、清々すがすがしいところ、須賀すが(清地)に宮を作ろうとする。その際、垣根讃歌が歌われている。

 くもつ 出雲いづも八重やへがき つまみに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ(紀1)

 ふつうの家と異なるのは垣が添えられている点である。宮には主人とその家族だけでなく、お手伝いさん、使用人の掻き添えが住む。宮の宮たるところは、建造物、住人ともに、カキゾヘを伴っている点にある。このように二重の意味を負っているからこそ、無文字時代であっても言葉が人々の間で互いに通じ合い、わかり合えた。なるほどと納得できるから、言葉が言葉として確からしく誰にでも通用する。それがヤマトコトバの依って立つ根拠となっていた。現代の科学的な思考法では、証明ができない(反証が不可能である unfalsifiable)ため言葉については「説」が唱えられることはあっても「論」が立てられることはないとされている。しかるに、上述のようななぞなぞ的レトリックをもって言葉が成り立っていて用いられていることがわかれば、科学的な正しさ以外の、頓智を使った論理学的な正しさが証明されることになる。おそらく、人類史においては言語を獲得してから長らく続けてきたオーソドックスな思考法だっただろう。それが近代になって滅ぼされ、片隅に追いやられた。科学が経験を越えてしまい、家から表へ出て空を見上げるよりも、インターネットやデータ放送の天気予報を見たほうが当たるようになっている。筆者は、経験の復興を声高に叫ぶつもりはない。近代の思考法は人類史において特殊であり、思考方法の一部が突出した結果にすぎず、実は自らを矮小化しているかもしれないことを指摘するだけである。上代の様相は記紀万葉という資料に保存されている。

トネリの活躍

 出雲八重垣の歌は、使われている言葉や説話の設定などから、雲草くもそう重葎へむぐらすが僻眼ひがらめ藪睨やぶにらみなどが連想されて関連ある事項だろうと思われる(注3)。結論を言えば、目の悪い人には介添えが必要である。お練供養の菩薩の被り物を被った人には介添え役がついていた。見えないからである。その介添えと同じ効果があるのは目薬である。秦皮というトネリコの樹皮からとれる洗眼剤は、結膜炎など眼病に良いとされる。カテコール系のタンニン及びクマリン配糖体のクラキシンを含むので、煎じ液で眼を洗うといいという。和名本草に、「秦皮 一名に岑皮〈楊玄操、梣に作る。字は並に士林反〉、一名に石檀〈蘇敬注に葉を以て檀に似る、故に以て之れを名くと云ふ〉、一名に樊槻皮〈仁諝に音は規。陶景注に出づ〉、一名に苦樹〈俗に味苦しと見ゆ、名けて苦樹と。蘇敬注に出づ〉、一名に樊鶏〈仁諝音義に出づ〉、一名に昔歴〈雑要訣に出づ〉、一名に水檀〈忽然と葉開きて当に大水有り。故に以て之れを名く。拾遺に出づ〉、和名は止禰利古乃岐とねりこのき、一名に多牟岐たむき。」とある。淮南子・俶真訓に、「夫れ梣木しんぼく青翳せいえいやし、……此れ皆目を治す薬なり。(夫梣木已青翳、……此皆治目之薬也。)」とある。トネリコの名の由来として、樹皮を濃く煮詰めたものが膠と同様の性質を持つことによるとの説がある。墨と混ぜて共に練ったことからトモネリコ(共練濃)→トネリコとなったというのである。なぜ共練粉や共練子(いずれもコは甲類)としなかったか若干の疑問が生ずるものの、語源について筆者は論じる立場に立たない。それでも墨は写経に必要なもので珍重されたから、トネリやトネリコという言葉は上述の練供養に加え、仏教と曰く因縁のあるものに違いはない。わかりやすい洒落として飛鳥時代の人びとは言葉を理解していたのではないか。
 須賀の宮が完成した後のこととして追加記事がある。

 ここに、其の足名鉄神あしなづちのかみして、らして言ひしく、「汝は我が宮のおびとけむ」といひき。また、名を負はして、稲田宮主いなだのみやぬし須賀之すがの八耳神やつみみのかみなづけき。(記上)
 因りてみことのりして曰はく、「吾が児の宮のつかさは、即ち脚摩乳・手摩乳なり」とのたまふ。故、ふたはしらの神に賜ひて、稲田宮主神いなだみやぬしのかみと曰ふ。(神代紀第八段本文)

 紀一書第一・第二には、「稲田宮主いなだのみやぬし簀狭之八箇すさのやつみみ」とある。ヤツミミの意について、「「八耳」は、未詳。」(新編全集本古事記73頁)、「八は聖数をあらわし、耳は精霊の意で称号でもある。」(思想大系本古事記341頁)、「八箇耳は語義未詳。」(大系本日本書紀95頁)、「「八箇耳」は八箇の精霊(霊々みみ)。」(新編全集本日本書紀94頁)、「ヤツミミ・・・の名があるのは、ヤマツミ・・の子だからということになろう。」(西郷2005.231頁)、「ミミ(耳)は、「忍穂耳尊」のそれとおなじく、霊異のある、の意。「八箇」の意義は不明。」(新釈全訳日本書紀171頁)などとある。苦しい解釈をするか、解釈をせずに措くかで分かれている。
 目薬のもとになる秦皮が採れるトネリコは、田の畔に植えられて稲架はざに用いられた。たくさんの枝が耳のようにそれぞれ出ているところへ木棒や竹竿を渡して稲をかけて乾燥させる。それがヤツミミの意味するところの一つだろう。さらに、お練供養でお面を被っていると、外の音も聞き取りにくいから介添え役が耳の働きを担ってくれることにもよるのだろう。表面上は使用人であるが、お練供養でご主人様「とねり」歩くときには、歩きますよ、止まりますよと指図する立場に変わっている。
 稲を干すのには木が確かに立っていて折れることもないのが条件になる。だから硬いトネリコが好まれた(注4)。結果、干している稲が主役でトネリコは脇役、左右に控えるものになっている。つまり、モトコヒトはトネリコが大人になったトネリである。共練濃(共練粉)は脇役、煤が主役で墨は仕上がっている。

左:当麻寺お練り供養(1980年代)、中:トネリコの稲架(新潟市「満願寺のはさ木並木1」新潟市ホームページhttps://www.city.niigata.lg.jp/shisei/seisaku/it/open-data/opendata-gazou/od-fukei/od-denen/od-denen003.html、右:サーンチー塔の欄楯(ウィキペディア Vidishaprakash様「ASI monument number」Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Sanchi)

トネリと仏教思想

 仏教関連の話としては、浄土には七重の欄楯、垣根があるとされる。阿弥陀経に「又舎利弗、極楽国土、七重欄楯、七重羅網、七重行樹、皆是四宝、周匝囲繞。是故彼国、名曰極楽。」、観弥勒菩薩上生兜率天経に、「此摩尼光迴旋空中。化為四十九重微妙宝宮。一一欄楯万億梵摩尼宝所共合成。諸欄楯間自然化生九億天子五百億天女。」などとある。欄楯の原語は vedikā で、インドのストゥーパに欄楯がほどこされ、信者は参詣に当たりそのまわりを右回りに練り歩く。初期の浄土教徒はそれを七重と想像していたとされる。欄楯という言葉については、欄楯の二字をあえて区別すると、「「欄」はてすりの横木で、「楯」は縦の木をいみするのであろう。」(中村1988.696頁)という。筆者は、縦横の関係よりも、縦にたつ柱に穴を横にあけて、柵にすべく貫が通されている点が重要であると見る。今のところ、ストゥーパと記紀における須賀の宮との親近性について論じられたものはない。七重の欄楯と八重垣や釘貫との関わりについても論じられていない。釘貫は、和名抄に「欄額 弁色立成云はく、欄額〈波之良沼岐はしらぬき〉は柱貫なりといふ。」、和漢三才図会に「欄額 按ずるに凡そ家は柱に孔をり、横木を貫て総柱を縫ふ者を欄額と曰ふ。仮令たとへば柱は経線たていとの如く、欄額は緯糸ぬきいと〈故に沼岐ぬきと曰ふ〉の如し。家、之れを為すに固し。」とある「貫」のある柵のことである。寺社や墓地によく見られる。
 また、垣根と稲架とが見た目の様子以上によく似ているとの指摘もされていない。稲架は一見、垣根のようであるが、本来の目的は稲穂を干すためである。守られているのは米粒、すなわち、舎利である。欄楯のなかに仏舎利があって守られているのと相同している。稲架を横に渡す方法は架すだけで貫ではないものの、稲束を掛けてしまうと架しているところは見えなくなる。それらの色味はみな金色を含めて黄色系である。本邦の場合、各地の寺院にある五重塔などは金堂などとともに伽藍の一部を構成しており、欄楯は回廊へと意味合いを変化させているが、その場合、れんじ(連子)窓を伴うように発展している。欄楯、八重垣、釘貫、稲架の影響を残すゆえのことだろう(注5)。神護景雲元年(767)、僧実忠によって東大寺南の朱雀路沿いに作られたという頭塔に欄楯がめぐらされていたかは不明である(注6)
 以上から、舎人とねりという語は、仏教思想の伝来後に本邦において作成された和訓であることが明らかとなった。須賀の宮へと展開するヤマタノヲロチの説話も、仏教思想の影響下、飛鳥時代前期にかけ創作されたものであると推測される。

(注)
(注1)トネリの語源については古くから多くの説が立てられ、近年でも「刀禰」との関係について論じられているが、参考文献を含め触れなかった。
(注2)万葉集巻第二に、「皇子尊の宮の舎人らのかなしび傷みて作れる歌二十三首」(万171~193)が載る。
(注3)言語は体系となってはじめて使用に耐える。記紀に載る上代説話が人々に共有されていたのは、使用される言葉が群となって互いに関連があるものと認識され、あるいはそのように説話で語られていることを通して言葉の理解が深まって行ったからであろうと考えられる。人間は言葉を使って考えるものであり、考えるための言葉がゆたかになることは人間であることを確かならしめていた。ここであげている語群に関する具体論は、拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」歌について」参照。
(注4)浅野1990.、浅野2005.参照。
(注5)拙稿「お練り供養と当麻曼荼羅」参照。
(注6)現在はフェンスがめぐらされている。後考を俟つ。

(引用・参考文献)
浅野1990. 浅野明「稲干しのすがた」『民話と文学』第21号、民話と文学の会、1990年5月。
浅野2005. 浅野明『稲干しのすがた』文芸社、2005年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第二巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)2005年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想体系1 古事記』岩波書店、1982年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1988. 中村元編著『図説佛教語大辞典』東京書籍、昭和63年。
仁藤2005. 仁藤敦史「トネリと采女」上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史 ひと・もの・こと 4─人と物の移動─』岩波書店、2005年。

加藤良平 2021.5.12改稿初出

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