一
聖武天皇の伊勢行幸、または東国行幸の際の歌とされるものは次の八首である。
十二年庚辰の冬十月に、大宰少弐藤原朝臣広嗣の謀反して軍を発せるに依りて、伊勢国に幸す時、河口の行宮にして内舎人大伴宿禰家持の作る歌一首〔十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作謌一首〕
河口の 野辺に廬りて 夜の経れば 妹が手本し 思ほゆるかも〔河口之野邊尓廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨〕(万1029)
天皇の御製歌一首〔天皇御製謌一首〕
妹に恋ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る〔妹尓恋吾乃松原見渡者潮干乃滷尓多頭鳴渡〕(万1030)
右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重郡に在り、河口の行宮を相去ること遠し。若疑し朝明の行宮に御在しし時に、製りましし御歌にして、伝ふる者誤れるか。〔右一首今案吾松原在三重郡相去河口行宮遠矣若疑御在朝明行宮之時所製御謌傳者誤之歟〕
丹比屋主真人の歌一首〔丹比屋主真人謌一首〕
後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ〔後尓之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而好住跡其念〕(万1031)
右は案ふるに、此の歌は、此の行の作にあらぬか。然言ふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、従駕せしめしこと勿し。何そ思泥の崎を詠めて歌を作ること有らむ。〔右案此謌者不有此行之作乎所以然言勑大夫従河口行宮還京勿令従駕焉何有詠思泥埼作謌哉〕
狭残の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌二首〔狭殘行宮大伴宿祢家持作謌二首〕
大君の 行幸のまにま 吾妹子が 手枕纏かず 月そ経にける〔天皇之行幸之随吾妹子之手枕不巻月曽歴去家留〕(万1032)
御食つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ〔御食國志麻乃海部有之真熊野之小船尓乗而奥部榜所見〕(万1033)
美濃国の多芸の行宮にして、大伴宿禰東人の作る歌一首〔美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首〕
古ゆ 人の言ひ来る 老人の 変若つといふ水そ 名に負ふ滝の瀬〔從古人之言来流老人之變若云水曽名尓負瀧之瀬〕(万1034)
大伴宿禰家持の作る歌一首〔大伴宿祢家持作謌一首〕
田跡川の 滝を清みか 古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に〔田跡河之瀧乎清美香従古宮仕兼多藝乃野之上尓〕(万1035)
不破の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌一首〔不破行宮大伴宿祢家持作謌一首〕
関無くは 還りにだにも うち行きて 妹が手枕 纏きて寝ましを〔関無者還尓谷藻打行而妹之手枕巻手宿益乎〕(万1036)
これら八首については、伊勢、ないし東国への行幸従駕歌として一括して捉えられてきた。行幸の道行きに従って各所で歌が歌われているというのである(注1)。
ただし、その内実について核心に迫ることはできていない。 万葉集に記載の歌は、ある機会に声に出して歌われたものを後になって編纂したものである。体裁として見た場合、歌が歌われた時にあったのは、まず、歌自体である。それがいつ、どのような状況で歌われたものなのかを示すための記述が題詞である。左注は編纂の段階以降に書き加えられたもので、時間的に遅れて成っている。左注は二次資料である。
その点に留意しながらこの歌群の構成を見れば、左注が付された二首、万1030・1031番歌については、歌われたのがいつなのか、扱いが不安定ということになる。一方、万1032番歌以降は題詞のとおり行幸の道行きに従っていて、その順序で折々に歌われたものであると見て間違いない。

万1029~1031番歌の位置づけについて疑義を述べる左注は、うるさく言えば言うほどその真意を見極める必要があると印象づけている。万1030・1031番の両歌がこの位置にあるのは、歌に出てくる地名との関係で矛盾を来すから疑問と指摘しているわけだが、この位置にあることは実はそれで正しいことを裏打ちしているのである(注2)。
万1030番歌は、題詞に、「天皇御製歌一首」とだけある。「吾乃松原」の所在が万1029番歌の歌われた「河口行宮」から遠く離れていようが別に構わないことである。同じ時に歌われたことを前提にして、ことさらに問題視しようとしている。同じ時に歌われたとすると、大伴家持が万1029番歌を歌ったのに対して承ける形で歌われたものということになる。実のところそれで正しい。そうでなければ天皇の御製が第一に掲げられるだろう。後述する。
万1031番歌も同様である。左注では、歌の作者が行幸の途次で「思泥埼」までは随行せず、途中で都へ還されたからその度の行幸時の歌ではないのではないかと述べている。動静から疑問を呈することに不自然さはないものの、そのようなことを論うのはとても不自然である。題詞には「丹比屋主真人謌一首」としかなく、どこで歌ったかは記されていない。他の題詞に「○○行宮」と明記する形で「美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首」のようにあるのだから、「伊勢國朝明行宮丹比屋主真人謌一首」のように記してあったとしたらまだしものことである。むしろ、前の歌に続く形で歌われた歌だと認めていたからこその物言いで、変に取り繕っていることを露呈する結果となっている。
万1030・1031番歌についての左注は、ともに、地名を詠んでいるのにその場所に滞在していたわけではない点で疑問を投げかけている。この疑問は一見尤もではあるものの、仮にそこに所在していなくても歌を歌ってはいけないわけではない。未到の地について歌に詠むことは少ないかもしれないが、彷徨うような行幸(注3)にあって、これから訪れるつもりにしている地のことを予め歌い込み、それによって予定を公表していたとも考えられる。歌で歌ってからそこへ赴くようにして、従駕する人々の心を掌握する機能を担っていた、すなわち、皆さん、家持歌のような誤解をしないでね、ということである。
今後の行程を踏まえて周囲に知らせる役割を歌が担っていた。最初の万1029番歌の題詞にある言い分は勘違いだった。「依二大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反一發レ軍幸二于伊勢國一」なる事実は認められていない。続日本紀には、「朕、縁レ有レ所レ意、今月之末、暫往二関東一。雖レ非二其時一、事不レ能レ已。将軍知レ之、不レ須二驚怪一。」(天平十二年十月二十六日)とあって、天皇に思うところがあっての行幸なのである。広嗣の乱とは関係がない。目指しているのも伊勢国ではなく、壬申の乱時に天武天皇が辿った道順に倣っている。最終的には恭仁京へ行き着いている(注4)。
この単純な事情を整理すれば、万1029番歌の題詞は大局的な政治情勢が見えておらず、行幸が藤原広嗣の乱と関係があるかのように誤解したうえでの作、事実誤認の歌ということになる。最初の歌での誤解のほうを立てて万1030・1031番歌を捉えれば、疑義を差し挟まずにはいられない。
全八首の歌について、題詞に従ってそれぞれ歌われたと思われる場所を見てみると、特に難しいところはない。題詞に場所が記されていない場合、その前の歌が歌われたのと同じ場所、場面で歌われたと推定できる。
河口の行宮 万1029(家持)、万1030(天皇)、万1031(屋主)
狭残の行宮 万1032・1033(家持)
多芸の行宮 万1034(東人)、万1035(家持)
不破の行宮 万1036(家持)
太字で記した歌は、その歌の題詞に行宮の地名が記された歌で、その余は地名無記入の題詞の歌である。
万1034番歌と万1035番歌の関係について見れば、「田跡川」が今の養老川、つまり、多芸の行宮付近の川であり、同じ時に作られたと考えて妥当である。歌の題材に「古」を踏襲しており、家持歌は東人歌を承けて作られていると確認できる。
同様に、万1030・1031番歌は、万1029番歌を承けて河口の行宮で歌われたものと考えるのが最も素直な受けとり方である。
巻六の編者は大伴家持と目されているが、その家持が歌った歌に対して聖武天皇が応え、丹比屋主も続いている。
そのようなことがあるかといえば、内舎人の大伴家持が歌った歌の内容を、よく言えば換骨奪胎し、悪く言えば揚げ足を取るように捉え返した歌を歌った場合に起こるだろう。おいおいそこの君、違うよ、という歌である。身分の低い若き家持は、当初、今回の行幸の意味に疎かった。
二
本歌群中、家持が歌った歌では、都に残してきた妻の手枕のことがくり返しとり上げられている(注5)。
その最初の歌で、「妹が手本」への思いを歌っている。妻の衣の袂、袖枕で寝たいものだと言っている。後の歌では「手枕纏」くという表現に代っている(注6)。
最初の家持の歌は、河口の仮宮、野辺で野営する夜が何日も経過しているときに歌われた。都に残してきた妻のタモトのことが自然と思われてくるものかもしれない、と歌っている。家持は自らの個人的な気持ちを歌っているのではなく、その場にいる人々の共感を得ようと思って歌にしたつもりだった。「思ほゆ」、自然と思われてくる「かも」しれないと言っている。そろそろ帰りたくなってきませんかと、観測気球をあげたつもりだったらしい。
ところが、あろうことか天皇に聞き咎められた。万1029番歌のタモトという言葉を逆手に取るように歌い返している。
行幸の目的はこれからも続く長期に亘る彷徨である。天武天皇が壬申の乱で味わった苦難の道を追体験することにあったから、ただでは帰れない。東国へ出てからぐるっと回った末にしか畿内へは戻らないつもりなのである。なかなか旅程が進まないぐらいでなければ意味がない。まだ始まったばかりなのに内舎人には呆れたものだと思ったことだろう。
天皇がしたかったのは、タモトはタモトでもタモトホルである。タモトホルように行幸すること、それが今回の行幸の目的である。「朕」の「所レ意」である。
タモトホルと訓む字としては、廻、徘徊などが当てられている。廻り巡って元のところあたりへ戻ることをいう。一例あげる。
雲の上に 鳴くなる雁の 遠けども 君に逢はむと たもとほり来つ(万1574)
天皇が歌ったのは、鶴の状景である。
妹に恋ひ 吾の松原〔吾乃松原〕 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る(万1030)
残してきた妻のことを恋しいと思うような「吾乃松原」というところが今後の行程に予定されているが、そこを見渡すと、潮が引いて干潟になったところに向って鶴が鳴いて渡っている。
この歌には二つの点で作為が感じられる。原文の「吾乃松原」の訓は実は定まっていない。七音にするために、今日、アガノマツバラとする説が有力視されているが、アノマツバラユ(ヨ)とする説もある(廣岡2010.)(注7)。二句目は地名としてアノマツバラとあった方が掛詞としては都合がよく、私が待つという松原、という意を美しく具現化していることになる。七音にするために文字のないところに助詞を補おうとする廣岡氏の試みは評価されてよいだろう。「(都に置いて来た)妻に心ひかれて私が逢う機会を心待ちにしている、そのマツという意のこもる(眼前の)松原越しに見渡すと、潮干の潟で鶴が妻を求めて鳴いて飛び渡っている、その景が見える」(52頁)と解している。通説では、歌の作者が松原を見渡してみると、干潟に向かって鶴が鳴き渡っているのが見える、の意であるから、視点の位置が少しずれることになる。
ただし、問題はそのような微細な点にあるのではない。
左注は当地にいないはずと疑問を呈していた。「吾乃松原」の歌を「吾乃松原」に到着するはるか手前、河口の行宮で歌っていたらしいのであり、実際そうなのである。行幸の一行は、「吾乃松原」へはまだ着いていない。向かって出発してさえいないのだろう。これから訪れるところを歌っているとすれば、「吾乃松原」に補うべき助詞は「へ」である。「吾の松原へ」行こうと言っている。内舎人が「妹」のことを恋しがっていると聞こえてきた。朕も「妹」のことを恋しがっている、だからこの旅程ではそれにふさわしいところへ行くことにしているのだ、それが「妹に恋ひ 吾の松原」である。さあ、そこへ向けて行こうではないか、という歌である。
妹に恋ひ 吾の松原へ 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る(万1030)
この歌は二句切れである。三句目からは行った先の光景を想像している。妻に恋い焦がれて私が逢うことを心待ちにしているというのにもってこいのアノマツバラへ向けて行こう。見渡してみると、潮が引いた干潟に鶴が鳴いて渡っている、という意である。
潮干潟と鶴の歌としてはつとに高市黒人歌が知られている。
桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)
この歌では、桜田へ鶴が鳴いて渡って行く様子が描かれている。年魚市潟では潮が引いて干潟になった「らし」いから鶴が鳴いて渡っていると推量されている。年魚市潟の実景を目にしているわけではない。黒人は目にしていないのに、また、年魚市潟のことは誰も知らなくとも、誰もが目に浮かぶように歌いあげている。潟と呼ばれるところは、潮の干満によって水が張っていたり干上がってしまったりするところだと知られていた。常識なのである。そして、潮が引いた時には、鶴は水のある桜田へ向かって飛んで行っている。
今日、多くの注釈書には、食餌のため、あるいは交尾のために移動したものと解説されている。誤解である。
潮が引いて陸地続きになってしまうと、狐などの天敵が近寄って来る。捕食されることを恐れて鶴は鳴いて渡って行っている。水が張っている時には長い脚を伸ばして一本足で寝ることができたが、それがかなわなくなって泣く泣く渡って行ったのである(注8)。鶴はナキ渡っているのであり、喜び渡っているのではない。
妹に恋ひ 吾が松原へ 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る(万1030)
万1030番歌の後半では、潮が引いた潟に鶴が鳴いて渡っていくと言っている。干潟では休むことができないから、行ったとしても再び水のあるところへと帰って来なければならない。鶴はタモトホル運命にある。それはちょうど今回の行幸がぐるっと巡りかえることに等しい。この歌の妙味はそこにある。聖武天皇は自らの意向を伝えるべく、まだ着いていないアノマツバラという地名を出して歌っている。来た道を帰るのではない、これから先進んでも休まるところではないだろう、行宮(仮宮)続きの旅ということになる(注9)。覚悟しておいてほしい。お触れとして思いを発するために、天皇は、訳がわかっていない内舎人の歌に応える形で歌っている。
丹比屋主真人の歌一首
後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ(万1031)
丹比屋主は家持歌を承けた天皇御製歌に続いている。河口の行宮にあって、アノマツバラ同様、これから進む行程上にあるシデノサキのことを題材にして作っている。
「後れにし人」とは都に残してきた人のこと、家持の言う「妹」に応えたものである。その人たちを偲ぶのだったら、シデノサキというところがあるからそこで木綿を取り垂でて、無事であってくれと思うことこそですね、と言っている。「幸くとそ思ふ」で「そ」と強意しているのは、思慕する気が本当に強いのなら、家持のように自分が妻の手枕に寝たい、だから帰りたいというのではなく、きちんと相手のことを立てて神に祈るのが正しいのではないか、とやりこめている(注10)。
左注で、万1030・1031番歌が万1029番歌に続いていることを不審としているのは、万1029番歌の題詞を拠り所としたからである(注11)。しかし、万1029番歌の題詞は、行幸の本来の趣旨を誤解したものであり、広嗣の乱とは無関係で、目的地は伊勢ではなかった。だが、当初、家持はそのつもりだったから、誤解のうえで作った歌を歌った。おいおい、内舎人よ、そういうことではないのだよ、という歌が返されている。
三
その後は行幸の行程に従って、狭残の行宮(万1032・1033(家持))、多芸の行宮(万1034(東人)、万1035(家持))、不破の行宮(万1036(家持))と続いている。
河口の行宮で考え違いを正し、万1032番歌以降、家持は天皇の「所レ意」を踏まえた歌を歌うようになっている。
大君の 行幸のまにま 吾妹子が 手枕纏かず 月そ経にける(万1032)
天皇の行幸に従い、天皇の意向にも従って、私の妻の手枕を枕に巻くことなく、月は経過しているということだ、と歌っている。日が経過しているのではなく、月が経過している。時間の単位が月単位になったのは、経過の規模感を伝えているだけではない。月は潮の満ち干をダイナミックにくり返していることを表す。天皇の歌にあった潟における干満を承ける形で歌を成している。だから、助詞「そ」を伴っている。鶴が「鳴き渡る」ように徘徊るように、「手枕纏かず」に徘徊るようにいるのだ、と歌っているわけである。
つづく万1033番歌ではもう一つの丹比屋主の万1031番歌に対して答弁している。
後れにし 人を偲はく 思泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとそ思ふ(万1031)
御食つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ(万1033)
屋主の歌で「幸くとそ思」ったのは「思泥の崎」である。崎から望めば志摩の海の沖合に小さな漁船が確かな航行をしている。「ま熊野の」船はきちんと作られた良い船のことをいう。「志摩」や「熊野」とあるのは、誤解していた行幸目的の地、「伊勢」よりも広い範囲を表している。今、漕いでゆくのが見えるということは、屋主の祭祀が名実ともに果たされたことを表している。ここでも実際に祭祀を行って結果が得られたということではなく、想念として、思考の上で、必ずや成り立っているに違いないと持ち上げるために歌っている。唐突に風景描写する歌が続く理由など他にない。
家持の万1029番歌に応える形で、天皇の万1030番歌、屋主の万1031番歌があり、そのそれぞれに応える形で家持の万1032・1033番歌が歌われた。最初の家持歌に駄目出しをされ、家持は自らの誤りに気づいて天皇らの言うことを是とする歌を追い作っている。
その後も、東人が天皇の「所レ意」に沿って昔語りの伝承に準えた万1034番歌を歌い、それに応える形で家持の万1035番歌が歌われ、最終的に家持の万1036番歌で締められている。
美濃国の多芸の行宮にして、大伴宿禰東人の作る歌一首
古ゆ 人の言ひ来る 老人の 変若つといふ水そ 名に負ふ滝の瀬(万1034)
大伴宿禰家持の作る歌一首
田跡川の 滝を清みか 古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に(万1035)
多芸の行宮は今日の養老渓谷のあたりである。
元正天皇が訪れ、美泉を見て瑞祥とし、改元して養老となった。それが「古」のことだと考えられている(注12)。誤りである。往にし辺の意で、たかだか二十三年前のことではなく、経験的に辿ることのできないほどに古い時代のことでなければならない(注13)。
最初に歌っている東人の歌では、古くから言い伝えられてきたことを便りとして、滝の瀬が老人の若返る水であると歌っている。昔話そのものを引いているわけではなく、耳目を引くために、東人が換骨奪胎して面白おかしい歌を作り上げているのである。
次の家持の歌では、多芸の野の上に宮があったかのように歌っていて、実見している田跡川のきれいなことを歌の題材としている。
伝承の世界を材にした二首ではあるが、その源が同じであるとは言えず、また、その必要もない。聖武天皇の「所レ意」が伝承の世界を基にしたものだった(注14)から、それに倣う形で歌われたものである。
タギのセという名に負っていることで、老人が若返る水を思い起こさせる昔話とは何か。
昔話に登場する著名な老人に武内宿禰がいる。若返りの水と関係する話は武内宿禰が活躍する忍熊皇子との戦の話に出てくる。折しも、聖武天皇の行幸は天武天皇の壬申の乱での行軍を踏襲している。
神功皇后は新羅親征から凱旋したところ、皇子(応神)とは異母の麛坂皇子と忍熊皇子が謀反を起こしていた。麛坂皇子はうけひ狩で猪に襲われて死んだが、忍熊王軍は神功・応神方の武内宿禰軍と菟道(宇治)で対峙することになる。武内宿禰は相手を欺くため、まず自軍の兵に髪をあげさせ、あげた髪の中に予備の弓弦を隠させ、真剣は脇に置き木刀を身につけさせた。そして敵の忍熊王に対し、互いに弓弦を断って和睦しようと提案し、自軍は手にしている弓の弦を切り、手にしている木刀を川に投げ入れた。忍熊王はそれを信じ、同様にした。そこで武内宿禰は弓に予備の弦を髪から出して張らせ、本物の刀を身につけさせた。そして、川を渡って戦いを挑んだため、丸腰の忍熊王軍はただ敗走するしかなかった。瀬田まで逃げたところで忍熊王は味方した五十狭茅宿禰を呼んで辞世の歌を歌い、入水している。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな(紀29)
さあ、我が君、五十狭茅宿禰よ、武内宿禰の攻撃で重傷を負って痛がらないで済むには、カイツブリのように長く水に潜ることじゃないかい、という意である。
ズハの用法については諸説述べられているが、「[Aズ]ハB」の形の構文である。ハは提題の助詞と称される。Aでないということはどういうことかというと、Bであるということと同等、同格である、の意である(注15)。武内宿禰の攻撃の痛手を負わないとはどういうことかといえば、体の小さな鳰鳥が水に潜ってしまうことである、だからそうしよう、と言っている。武内宿禰はこの歌を聞き、鳰鳥は潜水が上手で長く潜ってどこと知れないところで上って来るから、気になって方々探し回っている。数日後、田上川を経て宇治まで下ったところで死体を発見している。
武内宿禰が相手を欺くために自軍に命じた件は次のとおりである。
時に武内宿禰、三軍に令して悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく、「各儲弦を以て髪中に蔵め、且木刀を佩け」といふ。(神功紀元年三月)
髪をあげている。髪型に関する記述は少ない。
是の時に、厩戸皇子、束髪於額にして、〈古の俗、年少児の、年十五六の間は、束髪於額にし、十七八の間は、分けて角子にす。今亦然り。〉軍の後に随へり。(崇峻前紀)(注16)
いずれにせよ、若者になった時に意識的に髪を結いあげている。武内宿禰は全軍に対して、老若を問わず、「椎結」することを強制し、範となるよう自らもあげた。まるで成人式に際してするようにである。日本書紀のなかで何代にもわたって天皇に仕え、三百年ぐらい生きたことになっている武内宿禰が、成人式を迎えたかのように「椎結」しているのだとすると、彼はそのとき若返ったと戯れに言っていることになる。
髪をあげることは現在でもたくし上げるというようにタクという言葉が使われていた。
たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻き入れつらむか(万123)
その連用形タキ(キは甲類、taki)という名に従う地名があるところに、聖武天皇の行幸の一行は滞在している。謀反に勝利した点も応神天皇・神功皇后と似通っていて、行程を倣っている天武天皇・持統天皇にも通じており、昔話を再生する準備は整っていたと思われる。川の水にまつわる歌になっているのも、神功紀にあるとおり川を間に両軍が対峙し、最終的に入水して潰えていることから想起される。今わの際にはアギ(吾君、ギは甲類、agi)と呼び叫んでいて、タギ(tagi)を惹起するのに役立っている。
美濃国の多芸の行宮にして、大伴宿禰東人の作る歌一首
古ゆ 人の言ひ来る 老人の 変若つといふ水そ 名に負ふ滝の瀬(万1034)
はるか遠い昔から今日まで人が言って来ている、つまりは応神・神功以来、天武・持統でも同様にして言い続けている、老人が若返るという水であるぞ、名に負っているタギの急流であるからには、川を挟んだ戦に臨んだときの武内宿禰の「椎結」を彷彿とさせる、と歌っている。
天皇の「所レ意」、すなわち、昔話をもとにした考えから行幸が行われている点を底流としてこの歌は捻られている。
続く家持の歌も同様である。
大伴宿禰家持の作る歌一首
田跡川の 滝を清みか 古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に(万1035)
家持は古くからタギの野の上に「宮」が置かれていたと当然視して歌っている。仮宮が設けられたことは、昔話に一度語られている。ヤマトタケルは、東国遠征から帰還する際に訪れている。
其処より発ちて、当芸野の上に到りし時に、詔はく、「吾が心、恒に虚より翔り行かむと念ふ。然れども、今吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。故、其地を号けて当芸と謂ふ。(景行記)
ヤマトタケルは「当芸野の上」で、たぎたぎしくなり、足が動かなくなった。そのためにそこをタギというのだという地名譚となっている。そこはヤマトタケルの終焉地ではない。さらに先へ進み、しばらく行くとまた疲れてきたため、杖を衝いて歩いて行った。だからそこを杖衝坂と言ったといい、さらに先へ進んだところでは、「吾が足は三重に勾れるが如くして甚だ疲れたり」と言って、そこは三重というのだとしている。その後、能煩野で望郷の歌を歌い辞世となる。古事記の話の上での行程である。
タギというところで足が動かなくなって仮宮を営み、回復して先へ進んでいる。記の記述に「当芸野上」とあるとおり、家持もきちんと「多芸の野の上」と歌っている。そこがタギの地だったから回復したとすれば、田跡川のタギ、急流の水が清くてその水の力によって英気が養われたのだろうと考えられる。今、行幸の一行はその場所に来ている。東人の歌に触発されて昔話に取材した歌を家持は作り、自分たちも壮大な言い伝えの世界のなかにあることを人々に思い起こさせる歌になっている。
一連の行幸時の歌は、家持の勘違いから始まっていた。その勘違いで歌われたのは「たもと」であった。だから正しい認識を示すために「手枕」の歌で締め括っている。
不破の行宮にして大伴宿禰家持の作る歌一首
関無くは 還りにだにも うち行きて 妹が手枕 纏きて寝ましを(万1036)
この歌にある「……は……ましを」の構文は、「……ずは……まし(もの)を」の形同様、これまで誤解されてきた。骨格を決めるのは助詞ハである(注17)。
「関無く」ハ「(寝ませば)還りにだにもうち行きて妹が手枕纏きて寝まし」(もの)ヲ
ハの前は、関がないということ、の意である。
ハの後は、もし仮に寝るとするならとんぼ返りにでも弾丸で行って妹を腕を枕にして寝たい、のだけれどなあ、の意である。
この両者が、助詞ハによって結ばれており、前後が同等であることを言っている。
隔てとなる関所がないということは、もし仮に寝るとするととんぼ返りにでも弾丸で行って妹を腕を枕にして寝たい、のだけれどなあ、という回りくどい言い方である。
本当に言いたいことは、それとは真逆のことである。隔てとなる関所があればこそ、寝るときにはとんぼ返りをしなければならないような落ち着かない一夜を過ごすのではなく、一旦関を越えて畿内に入ったらずっと彼女と共寝するようになること、そうあったらいいよなあ、という意である。
関所があることを是とする歌が歌われているのであって、その逆ではない。すなわち、天武天皇が壬申の乱で不破の関で逗留し、戦況が好転して一気に畿内へ入って政権を掌握したことを、今、聖武天皇が追体験(空想)していることを基として歌っている。関は行く手を阻むが、内にあって外からの攻撃に対して守るものとなる。要所であり、陣(行宮)を置いて関を堅固にすることは尤もなことだと考えている。もし関がなかったら、攻撃を防御することができず、つまり、妹と共寝するにも弾丸ツアーのような仕儀で心が安らかにならない。落ち着かない一晩だけの共寝が欲しいのではなく、心穏やかに妹との共寝を長く続けられるような状況をこそ願っている。むろん、家持が個人的に、特定の一女性を念頭に思っているのではなく、行幸参加者に向けて、皆さん、そう思いませんか、と同調を誘う歌を歌って気を引いているのである。あくまでも行幸を肯定する歌、天皇の「所レ意」を拡散、周知させるための歌になっている。恋歌ではない(注18)ことは確認しておきたい。
以上が聖武天皇の東国行幸時に歌われた歌の真意である。
(注)
(注1)新沢2005.の整理を示す。
両氏[真下厚氏・影山尚之氏]の指摘するごとく、一〇二九番歌のみならず各行宮でよまれた歌が「〜行宮大伴宿祢家持作歌〇首」という題詞をもち、そのうち一〇三四番歌を除くすべてが家持作歌から始まっていることを考えると、家持が自らの歌を行程に沿って並べた後、歌に含まれる地名を手がかりに他の歌人の歌を挿入していったという具体的な編集プロセスが想定できる。すなわち、家持が手控えにあった自らの歌を、行程順に整理し、その後、歌に含まれる地名を参考に、他の歌人の歌を挿入していった、その結果、天皇御製歌が家持作歌の後に来たり、左注の指摘するような齟齬が生じたりしたと考えられるのである。(3頁)
家持の「歌日誌」として記されたものと取り扱っている。大胆にも天皇の歌まで含めてしまっている。話は逆で、「〜行宮大伴宿祢家持作歌〇首」という体裁を頻出させることで最初の歌で家持自身が誤解していたのを取り繕っている。そもそも万1030番歌の題詞には「天皇御製歌一首」としかない。歌中に「吾乃松原」という地名が出てきていて並べたに過ぎないのなら、左注の人の指摘しているように朝明の行宮で作られたと捉えるのが自然である。河口の行宮で歌われたとは書いていないのだから、河口の行宮から遠いところだなどと指摘するのは言わずもがなのことを言っていることになり、おかしなことなのである。最初から河口の行宮で歌われたという事実を知っていて、反対に万1029番歌について一応の正当化のために取ってつけたような疑念を語りつつ、結局は馬脚を顕すようにしている。
(注2)巻六の編者と、万1030・1031番歌の左注筆者の関係については主に二つの立場がある。第一は、ともに大伴家持であるとする。その場合、万1029番歌で自ら歌っていて行幸に供奉していたのだから自ら書き留めた資料に疑いを挟むはずはなく、行幸には別に正規の記録係がいて、その記録をもとに家持が整理する際に疑義を生じたのだろうと見られている。明快に見える解釈であるが盲点がある。多く認められているように、行幸時に歌われた歌の場合、宴席での歌である可能性が高い。万1029番歌も同様であるが、家持がこの歌を歌った後に、宴の席を退いてから、万1030・1031番歌が同じ場で歌われたという状況も想定可能である。そして、後に家持がそれらを入手したとすれば、不審と感じて左注を書き込んだとして不思議なところはない。また、家持はすべてを承知の上で、時間が経過した後にも万1029番歌を表に出すために、そのまま万1029番歌を題詞ごと記したとも考えられる。行幸の真の狙いについて与り知らぬ立場で歌ったという事実を明らかにするためである。すると、流れとして、追歌である万1030・1031番歌の方に疑義を抱くことへとつながる。この受け取り方のほうが、万1029番歌の題詞に「内舎人」と地位をわざわざ断っている説明としてはふさわしい。
第二は、左注は編纂後に後人が書き足したものであるとする。この考え方には無理がある。万907~1067番歌が巻六に並んでいて、そのなかに天平十二年の東国行幸関連の歌として万1029~1036番歌がある。当時のことをつぶさに知っていて、細かな事情を鮮明に覚えていないとこのような左注は書けない。巻六には恭仁京を捨てて廃墟となったことを歌った歌があり、天平十八年に歌われたと考えられている。万1029番歌の天平十二年から六年経過してから以降に、「吾乃松原」は河口の行宮から遠く離れている、丹比屋主は命じられて都へ戻っていたはずだ(この人が誰なのかについての考証は別にある)、などと目くじらを立てることがあったとは思われない。記録を点検して書いたということも考えられなくはないが、もしそのような視点から読み返す作業が行われたとするのであれば、他の歌にも同様の態度で臨んで現状よりはるかに多くの左注が施されていなければならない。
(注3)史学では「彷徨五年」と言われている。史学の成果については触れない。
(注4)この歌群に続くのは「十五年癸未の秋八月十六日に、内舎人大伴宿禰家持の、久邇の京を讃へて作る歌一首(十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久邇京作歌一首)」(万1037)である。家持は天皇の「意」を悟り、「久邇の都」に流れる川は天の安の川のことである旨を歌っている。その時も「内舎人」という地位であり、題詞はそのことを明示的に表明している。天皇の側近くで仕え、情報に通じるべき内舎人として一人前になったことを誇示しているようである。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
なお、品田2025.に、史実とは別にテキストが読者に伝えようとしていることを読み取るべきであるという見解がある。しかし、上代にフェイクニュースが拡散していた、あるいは、万葉集のテキストでは別して架空の物語が構想されていたなどといえるのか、はなはだ疑問である。家持かもしれない編集者が曲解をもとにして一連を組み立てたからその通りに読むことがふさわしいと言おうにも、曲解をもとにして一連を組み立てたかに見せかけているだけで実は違っていることを家持かもしれない編者が知りながら惑わせるように構成しているとしたら前提はもろくも崩れてしまう。
(注5)真下1990.ではそれを「妻恋ひ」の歌として扱い、そのはたらきを探っている。見当違いである。
(注6)万1029番歌で、「妹」に思いを馳せる歌が歌われていることについて、廣岡2020.は、「旅先の宴の席でなぜこのように家人「妹」のことを歌い挙げるのであろうか。それは当時における旅歌の趣向であったのであり、歌い込むことが粋だったのである。素面の語りではとても言うことの出来ないことが、倭歌として歌い上げる際には様になったのである。」(597頁)とし、「宴という場における文藝意識に由来する」(598頁)と見ている。筆者は、万葉集の歌に近代の観念である「文藝」を認めることはできないと考える。宴に集まっている人たちの総意を歌にして披露することで、人々の心に届くことが企図されているだけである。皆さん、帰りたいですよねと、侫っているのである。
(注7)廣岡2010.では、「吾の」までを含んで序詞と理解し、第二句は非地名であるとしている。
(注8)拙稿「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)」参照。
(注9)この歌群の題詞は、「○○の行宮」という形式で整えられ連なっている。天皇の行幸の「所レ意」に沿わせている。大伴家持の「歌日誌」構想によるとする説は当たらない。
(注10)修辞術として正しいと主張しているのであり、実際に当地に着いたときに祭祀行為を行ったのかはわからない。そもそも、祭祀行為の発端は、このような修辞、語呂合わせに由来することも多かったのではないか。上代の人たちはコト(事)とコト(言)は一致、相即するものと捉え、あるいはそうなることを志向していた。事→言ばかりでなく言→事というベクトルも正しいものと認識されていた。だから一つの言葉なのである。
(注11)大伴家持が題詞にあるように思って作った歌が万1029番歌として載っており、歌の軌道を修正するために天皇と丹比屋主真人の二首が後を襲っている。事の整理には、万1030・1031番歌に左注を付けるのではなく、万1029番歌に左注を付けたほうが容易いが、そうしてしまうと、万1029番歌は事実誤認から作られた歌であると評することになる。もしそこでその歌を採らないとなると、歌い合いの発端となった歌を欠いてその後の歌の位置づけがおぼつかなくなる。そこであえて万1029番歌の題詞を尊重して、編纂者の家持自身が万1030・1031番歌に対して疑義を呈する左注を付けたのだろう。
品田2025.は、「家持は、河口での自作の後ろに詠作地未詳の天皇御製を並べたうえで、その歌に左注を付して「河口での作ではあるまい」とことさら訝ってみせたことになる。この、自作自演という想定は、従来の編纂・成立論の推理手法の埒外にあるし、少なくとも、編纂資料を整理すること自体が目的なら、こんな手の込んだまねをする必要はない。」(288~289頁)と述べ、我田引水の論を展開している。歌自体の解釈が行き届かないまま議論を進めても意味がない。
(注12)○癸丑、天皇臨レ軒、詔曰、朕以二今年九月一、到二美濃国不破行宮一。留連数日。因覧二当耆郡多度山美泉一、自盥二手面一、皮膚如レ滑。亦洗二痛処一、無レ不二除愈一。在二朕之躬一、甚有二其験一。又就而飲浴之者、或白髪反レ黒、或頽髪更生、或闇目如レ明。自余痼疾、咸皆平愈。昔聞、後漢光武時、醴泉出。飲レ之者、痼疾皆愈。符瑞書曰、醴泉者美泉。可二以養レ老。蓋水之精也。寔惟、美泉即合二大瑞一。朕雖二庸虚一、何違二天貺一。可下大二-赦天下一、改二霊亀三年一、為中養老元年上。(続紀・元正天皇・養老元年十一月)
(注13)語の成り立ちとして、イニシヘは往にし方のことで、はるか遠くに過ぎ去っていて、伝承などで聞いて知っていても自分がその時点のことを確かめることはできない過去をいい、一方、ムカシは 向か方で、振り向き返ってみた時にその時点のことを思い浮かべられるような、自分とつながりのある過去のことをいう。自分の経験した過去のことでも、もうまったく過去のことになってしまって縁遠く感じられることを誇張してイニシヘということもあった。拙稿「上代語のイニシヘ(古)とムカシ(昔)」参照。
(注14)拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
(注15)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注16)年齢階梯と髪型については、江馬1976.参照。
(注17)(注14)に同じ。
(注18)会いたくても会うことができない男女の情を明示する格好の装置として「関」が機能し、恋情表出上の隔概念として有効に働いている(廣岡2010.131頁)といった捉え方は本末転倒も甚だしい。
(引用・参考文献)
江馬1976. 江馬務「日本結髪全史」『江馬務著作集 第四巻』中央公論社、昭和51年。
影山1992. 影山尚之「聖武天皇「東国行幸時歌群」の形成」『解釈』第38巻第8号、1992年8月。
拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
品田2025. 品田悦一『万葉集のたくらみ─行間に仕組まれた聖武天皇の物語─』KADOKAWA(角川選書)、令和7年。
新沢2005. 新沢典子「歌に示された聖武朝史─巻六・一〇二九~四三の配列をめぐって─」『名古屋大学国語国文学』第97巻、2005年12月。名古屋大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.18999/nagujj.97.1(『万葉歌に映る古代和歌史』笠間書院、2017年。)
廣岡2010. 廣岡義隆『行幸宴歌論』和泉書院、2010年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
真下1990. 真下厚「天平十二年聖武東国巡行歌群歌考─〈妻恋ひ〉の歌のはたらきをめぐって─」『城南国文』第10号、平成2年2月。
吉井1984. 吉井巖『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
加藤良平 2026.3.31初出