聖武天皇の節度使に酒を賜う御歌─「たむだく」の語義をめぐって─

 万葉集巻六に、聖武天皇が派遣する節度使に向けて作ったとされる歌が載る。

  天皇すめらみことみき節度使せつどしまへつきみたちに賜ふ御歌おほみうた一首〈あはせて短歌〉〔天皇賜酒節度使卿等御謌一首〈并短哥〉〕
 す国の とほ朝廷みかどに 汝等いましらが かくまかりなば たひらけく われは遊ばむ むだきて 我はいまさむ 天皇すめらわれ うづ御手みてもち かきでそ ねぎたまふ うち撫でそ ねぎたまふ かへりむ日 相飲まむそ このとよ御酒みきは(万973)〔食国遠乃御朝庭尓汝等之如是退去者平久吾者将遊手抱而我者将御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曽祢宜賜打撫曽祢宜賜将還来日相飲酒曽此豊御酒者〕
  反歌一首〔反謌一首〕
 大夫ますらをの くといふ道そ おほろかに 思ひて行くな 大夫のとも〔大夫之去跡云道曽凡可尓念而行勿大夫之伴〕(万974)
  右の御歌おほみうたは、或に云ふ、太上天皇おほきすめらみことの御製なりといふ。〔右御謌者或云太上天皇御製也〕

 新大系文庫本の訳を掲げる。
  聖武天皇が酒を節度使の卿たちに下賜なさった時の御歌一首と短歌
治めたもう国の遠くの朝廷に、そなたたちが節度使としてこうして赴いたら、心安らかに私は遊ぼう。のんびり腕を組んで私はいらっしゃろう。天皇である私は高貴な御手をもって、卿等の髪を撫でて労をおねぎらいになる。頭を撫でて労をおねぎらいになる。そなたたちが帰って来た日にはともに酌み交わす酒であるぞ、この美酒は。(万973)
ますらおの行くという道だぞ。いい加減に思って行くな。ますらおたちよ。(万974)
  右の御歌は、或る本には「太上天皇(元正天皇)の御歌だ」と言う。(177~179頁)

 左注により、太上天皇(元正天皇)の作かもしれないと指摘されている。「右御歌」の「右」が万973・974番歌の両方を指すのか、万974番の反歌だけを指すのか不明であるが、左注が特に断っていないから両方ともを指すものと考えるのが妥当であろう。長歌では自敬表現が目立ち、「す国」、「我はいまさむ」、「うづ御手みて」、「ねぎたまふ」とある。そのため、天皇が自ら作ったのではなく、中務省あたりで起草されたのではないかとの憶測も呼んでいる(注1)。起草者が天皇に対して敬意を表した反映と考えられるというが、発想としてどうなのだろう。歌は宣命ではない。左注に元正太上天皇の御製かもしれないと言っているのなら、彼女が聖武天皇に代わって作ったと考えるのが第一なのではないか。聖武天皇が歌うべき歌を、元正太上天皇が代わりに歌っているとするのである(注2)
 これまで問題点としてとりあげられて検討され、解決に至ったと思われている言葉に「むだきて」がある。「「手抱きて」は腕を組んで何もしないこと。漢語「拱手」の和訳か。無為にして天下を治める聖天子のあり方。「手抱き(手拱)て事なき御代と」(四二五四)。「大王拱手して須()たば、天下徧(あまね)く随ひて伏せむ」(戦国策・秦第一)。」(新大系文庫本179頁)と概説されている。
 漢語「拱手」は、中国において聖帝が立つと、放っておいてもうまく治まるというときに用いられるから、その和訓語としてタムダクという言葉が作られ、同じ文脈でここでも使われているというのである。尚書・周書・武成に「信ヲあつくシ義ヲ明ニシ徳ヲたつとビ功ヲすすムレバ垂拱シテ天下治マル」とあり、蔡注に「衣ヲレ手ヲむだキテ天下おのづカラ治マル」と見えるのを契沖(注3)が採って以来、そう受け取るものと信じられてきた。近年でも菊地2024.はこの説を推し進め、「「垂拱而天下治」の儒教倫理は朝廷において広く共有される事柄であったと考えられる。」(107頁)と述べている(注4)
 この言説には不備がある。「惇信明義、崇功、垂拱而天下治。」(通行本)は前から読んでいく。結果的に為政者は何もしなくてもうまく治まるものだと言っている。今歌いかけている相手、派遣する節度使だけが言うことをよく聞いて役務をかなえたからといって、他の官吏のなかに信義に悖り、不徳で、論功行賞に偏りがあったら天皇は「垂拱」などしていられない。そもそも、わが国は、「大王拱手以須、天下遍随而伏、伯王之名可成也。」という事態を文化的に負っていない。中国とヤマトを一緒くたにするとは思われないのである。役人が下ごしらえした草案歌だとし、漢籍由来の語が堂々と幅を利かせているということはあり得ない。聞いた人がわからないことを言っても仕方がないからである。歌を聞いているのは節度使に任命された卿の四人(注5)ばかりでなく、そのまわりに控えている下級の人々も含まれている。題詞に「節度使卿」と明記されている。酒を賜う時に家来を大勢引き連れて来て皆で楽しめるようにすることは、卿も天皇もそのつもりであったに違いあるまい。上の者ばかりで贅沢していたら人の心は離れ、節度使について行くこともないだろう。中国と同じように天皇が「拱手」するだけで天下が治まるように勤めてくれよと、宴会参加者全員に説いて伝えることは難しいのである。居合わせている節度使卿の家来、役所勤めの警備員やケータリング係などは酒宴にしか興味がない。相手に通じないことを歌にして大きな声をあげることはない。
 すなわち、歌を聞いた人が皆、なるほどそのとおりだと納得するものでなければならないのである。事情は題詞にあるとおり、節度使に任命して派遣するに当たっての前祝いである。節度使はこのとき初めて定められたとされているが、同じような事態としてはヤマトの逸話で誰もが知っている。ヤマトタケルの派遣のことである(注6)。有名な話だからそれを念頭に歌が作られて人々に受け入れられたに違いあるまい。反歌にくり返されている言葉からして検証される。「大夫ますらを」である。ヤマトタケルは「大夫ますらを」と呼ぶに最適の人物像である(注7)
 つまり、中国の「大王拱手……」を典故として語られたものではなく、ヤマトタケルの話をもとにして構成されたものがこの二首である。「節度使」のことをヤマトタケルになぞらえ、「聖武天皇」のことを景行天皇になぞらえている。
 長歌に「ねぐ」という言葉が登場している。景行記にもネグという言葉が出てくる(注8)。ヤマトタケルが若かりし頃、小碓命をうすのみことと呼ばれており、兄に大碓命おほうすのみことがいた。景行天皇は、兄のほうが朝食会、夕食会に出て来ないのをいぶかしがり、小碓命をうすのみことに出て来させるよう取り計らわせた。その時、ネグ、心が安らぐように拝み倒せと命じたのであったが、彼は、ネグを別の意にとり、手足をもぎとって殺処分してしまった。新撰字鏡に、「麻採 祢具ねぐ」とある。麻の種子を採るために枝をもぎ取るように四肢を分けてしまった(注9)小碓命をうすのみことの荒ぶる心を天皇は恐れ、全国を掃討するように西に東に向かわせている。彼は後にヤマトタケルと呼ばれ、その派遣は節度使と同じことだというわけである。
 長歌のなかに「たひらけく われは遊ばむ むだきて 我はいまさむ〔平久吾者将遊手抱而我者将御在〕」とある。
 後者の「いまさむ」は自称敬語である。前者の「将遊」もそのように訓むべきだろう。すなわち、「たひらけく われは遊ばさむ〔平久吾者将遊〕」である。「遊ばす」は、するの尊敬語で、なさる、の意である。具体的に何かをする、ないし、演奏をしたり狩りをしたり神遊びしたりするということではなく、何をするのでも「たひらけく」、穏やかに無事安泰に行うことができるということを一般論として述べているものと思われる。ただし、歌の根底にはヤマトタケルの逸話がからんでいる。その文脈に沿って考えれば思い浮かぶ一節がある。景行天皇は彼に「東方ひむかしのかた十二道とをあまりふたつのみちあらぶる神とまつろはぬ人等ひとどもとをことやはたひらげよ」(景行記)と言って東方征伐に向かわせていた。ヤマトタケルが「たひらげ」るから天皇は「たひらけく」いられるということであろう。それが第一の要点である。そして、オホウスノミコトが出席していなかった「おほ御食みけ」についても、無事に行われて天皇は御馳走を平らげることができる。それが第二の要点である。歌が歌われている時点で、節度使等に「賜酒」ておほ御食みけを開催しているのだから、大御食を「遊ばす」ことを暗示して述べているから人々に受け入られやすかったと考えられる。
 「むだく」が和訳語かどうかはさておき、意味としては手を出さないでいること、手を拱いていることである。ヤマトタケル(ヲウスノミコ)はオホウスノミコトをネグした。つまり、手をもぎ取ってしまったのであった。そんな「たけあらこころおそりて」、節度使的な任務がふさわしいとされ、各地を征伐するために派遣されたのであった。ヤマトタケルは大夫ますらをである。身近に置いていたら手がもぎ取られてしまう。ちょっとでも手を出したら掴まれてネグされるから「むだきて」、天皇は手を自分の体に巻きつけてじっとしていると洒落を言っているのである。長歌と反歌の結びつきがわかるように試訳しておく。

 治めたもう国の遠の朝廷に、そなたたちが節度使としてヤマトタケルのように赴いたら、心安らかに我はおほ御食みけあそばすことぞ。腕組みしたまま手つかずに我は御座すことぞ。景行天皇に当たる我は高貴なる御手で、卿等の髪を撫でてネグなさり、頭を撫でてネグなさる。そなたたちが帰って来た暁には、再びともに酌み交わす酒であるぞ、この美酒は。無事に帰って来いよ。(万973)
 ヤマトタケルに代表される大夫ますらをおの行くという道であるぞ。お前たちは大夫なのだ。敵がたくさんいるから気持ちを引き締めて行けよ、大夫たちよ。(万974)

(注)
(注1)今日も引かれる代表的な考え方として武田1956.がある。「かような臣下を奨励される性質の歌には、型があつて、時に臨んで下されたものであり、巻の十九にも遣唐使に酒肴を賜わる歌(四二六四)があつて、後半は同一の詞章から成つている。数代の天皇に同型の御歌があり、それでここにも作者の別伝を存するに至つたのであろう。真実の作者は、宣命と同じく中務省あたりで起草したであろう。なお巻の十九は、助詞などを小字で書き、いわゆる宣命書せんみようがきになっているが、それが原形であつたと考えられ、この歌ももとは宣命書きになつていたのであろうと推測される。」(115頁、漢字の旧字体は改めた)としている。踏襲している奥村2001.も、「聖武の歌が、重要な政策の実行にあたって臣下に親しく天皇の意向、言わば内意を伝える点で、宣命と並ぶ効果を期待されている」(39頁)という。 養老公式令に歌の型は載せておらず、無用の憶測である。
(注2)万8番歌、額田王の熟田津の歌の左注のなかにも、「即此歌者天皇御製焉」とあり、斉明天皇の歌であるとする別伝を伝えている。その場合、額田王が斉明天皇に代わって、その歌いたいところ、人々に発表したいことを声に出して歌っているために別伝が記されている。当該歌の場合、「賜酒節度使卿等御歌」とする主役が天皇なのか太上天皇なのかといえば、執政者は天皇だから天皇であり、歌の実作者としては太上天皇であったと見るのが穏当ではないか。聖武天皇は32歳、伯母に当たる元正太上天皇は53歳である。より昔話に馴染みのある世代のほうが作歌しやすかっただろう。
 なお、この代作とする考えは、万973番歌に見られる自敬表現との関係からいくつかの立場が析出され、それぞれに論じられてきた。西田1995.に研究史が概説されており、西田氏自身は「「天皇語」としての「自敬表現」の確立」(152頁)期に当たるものと当て推量している。筆者は、自称敬語を使う自敬表現は、少なくとも当該歌に関しては往年の帝やヒーローとの関係から作られたものと捉えている。景行天皇やヤマトタケルにあやかりながら今ここにいる自分(聖武天皇)と節度使卿のことを言おうとしているのだから、敬語表現を自らに適用するのにかなっている。猪股2016.は、古事記歌謡における人称転換と自称敬語とのかかわりを見ている。自敬表現が確立しているから行われているのだとする演繹的発想ではなく、それぞれの歌に即して一つずつ解釈していくことが求められるだろう。
 残念ながら現状では、影山2009.に、「節度使発遣という重大な場面に際して……[万973番歌]は必ず天皇自身が直々にうたわなければならない歌であった。天皇が自ら一人ひとりの節度使に対して労いのことばをかけ、勇気づけて送り出すところに一首の目的がある。それゆえ一首には「天皇御製歌」としての特別な装いが凝らされる必要があり、その要請から自敬表現を頻用するこのような文体が選択されたと見るべきである。」(199~200頁)とあるように大仰な言述が行われ、誤解されたままである。 節度使卿は酒食のために集まっているのであって、労ってもらいたくて参内しているわけではない。
(注3)契沖・萬葉代匠記初稿本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979063/1/118)参照。
(注4)「天命を受けた聖君に仕える廷臣は賢臣としてともに天命を果たすべき存在であり、そこに賢臣の適切な任用が求められ、結果、無為の「手抱きて」という理想的なあり方が将来されることになる。そうした賢臣は、聖武天皇御製歌の反歌においては「ますらを」の語で示され、規範としての「ますらを」像はすぐれた律令官人としてとらえられる。」(菊地2024.113~114頁) と、天動説のような予定調和が語られている。懐風藻の漢詩のうち、紀古麻呂、藤原総前の作に「垂拱すゐきよう」という熟語が用いられており、意味も尚書の例と同じであるが、文選の使用例を引いてきて形にしているだけで言葉に習熟しているとは言えない。元明天皇の和銅元年七月詔にも「垂拱」はみえるが、衣を垂れ手をこまねくことをタムダクと訓んだ形跡はない。儒教倫理が官人層に浸透していたとの仮定は非常に怪しいものである。聖武天皇は仏教思想に近づこうとしていた。
(注5)続紀に、「○丁亥。……正三位藤原朝臣房前を東海・東山二道節度使と。従三位多治比真人県守を山陰道節度使と為。従三位藤原朝臣宇合を西海道節度使と為。道別に判官四人、主典四人、医師一人、陰陽師一人。」(天平四年(732)八月)とある。
(注6)ヤマトタケルはクマソタケル、イヅモタケルを征服して帰還後、さらに東方十二道の平定に派遣されている。同様の事績としては、崇神紀十年条に載る四道将軍の派遣があり、崇神記にも諸道への派遣の記事があるものの、逸話として展開しておらず、人々の興味を引いていたとは考えにくい。よく知られている話こそ歌の素材のために典故とするに値する。
(注7)拙稿「 舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─」参照。
(注8)該当記事は次のとおりである。

 天皇すめらみこと小碓命をうすのみことのりたまはく、「何とかもなむちが兄の朝夕あさゆふ大御食おほみけに参ゐ出で来ぬ。もはら汝、ねぎ教へ覚せ」〈泥疑の二字は音を以ゐよ。下此に效へ。〉と如此かく詔ひてより以後のち、五日に至るまで、猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝の兄の久しく参ゐ出でぬ。若し未だをしへず有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしき。又、詔はく、「如何にかねぎつる」とのりたまふに、答へて白さく、「朝署あさけかはやに入りし時に、待ち捕へひだきて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とまをしき。(景行記)

(注9)拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」

(引用・参考文献)
猪股2016. 猪股ときわ『異類に成る─歌・舞・遊びの古事記─』森話社、2016年。
奥村2001. 奥村和美「家持歌と宣命」『萬葉』第176号、2001年2月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2001
影山2009. 影山尚之『萬葉和歌の表現空間』塙書房、2009年。
菊地2024. 菊地義裕「聖武朝の思想と表現─万葉歌の「たむだく」に注目して─」『文学・語学』第241号、令和6年8月。
武田1956. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 六』角川書店、昭和31年。
西田1995. 西田直敏『「自敬表現」の歴史的研究』和泉書院、1995年。
吉井1984. 吉井巖『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

加藤良平 2025.6.11初出