稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─

  記序の稗田阿礼の人物評に及ぶ箇所は次のようにある。

 ここに、[天武]天皇すめらみことのりたまひしく、「あれ聞く、もろもろの家のてる帝紀すめろきのふみ本辞さきつよのことばと、すで正実まことたがひ、多く虚偽いつはりを加へたり。今の時にあたりてあやまりを改めずは、いくばくの年も経ずして其のむねほろびなむとすなはち、邦家みかど経緯たてぬきにして、王化おもぶけ鴻基おほきもとゐなり。かれおもひみれば、帝紀すめろきのふみえらしるし、旧辞ふることたづきはめ、いつはりけづまことを定めて、後葉のちのよつたへむとおもふ」とのりたまひき。とき舎人とねりり。うぢひえ阿礼あれ、年はこれ廿八はたちあまりやつ為人ひととなりさとくして、わたれば口にみ、耳にるれば心にしるす。
 すなはち、阿礼に勅語みことのりして、帝皇日継すめろきのひつぎ先代旧辞さきつよのふることならはしめたまひき。しかれども、とき移りかはりて、いまの事を行ひたまはず。(新編全集本古事記21~23頁)

 天武天皇のやりたかったことは、詔のとおり、乱れが生じてきている伝承の本当のところを見極めて、後世に伝えることである。そこで、聡明な稗田阿礼に言い伝えを誦習させたけれど、時代が変わって事業は未完のままであるという。伝承の乱れを「討覈」したとある点は、事業を継承した元明天皇の代に、「旧辞ふることあやまたがへるをしみ、先紀さきつよのふみあやまたがへるをたださむ」(同23頁)としたとあるのに対応している。そして、太安万侶に、「稗田ひえだの阿礼あれめる勅語みことのり旧辞ふることえらしるして献上たてまつれ」(同24頁)という詔がくだったという流れになっている。
 これまでの解釈において、「度目誦口拂耳勒心」部分の「度目」について、大きく諳誦説と訓読説の二つがある。
 本居宣長・古事記伝には、「 レハ ニ ヨム ニとは、一たび見たる書をば、やがてソラにうかべて、よく諷誦ヨムをいふ、……「 ム ミ ハとは、旧記フルキフミマキをはなれて、そらにヨミうかべて、其語をしばしば口なれしむるをいふなり、抑タヾに書には撰録シルサしめずして、先かく人の口にウツして、つらつら ミ習はしめ賜ふは、コトバオモみしたまふが故なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/47)とある。
 これが諳誦説の一つとされている(注1)ことについて、筆者は積極的に肯ぜられない。最初に書を見ているからである。
 山田孝雄・古事記序文講義は、「緊句」として次のように訓み、一度目にすると口で節づけて読み上げ、一度耳にすると心に刻んで忘れることがなかった、という意味に取っている。
 度 ワタレバ ニ ヨミ ニ
 拂 カスムレバ ヲ シルス ニ
 「目所一見輙誦於口耳所暫聞於心、」(文選・孔融・薦禰衡表)によるとし、「聞耳則誦、過目則不忘」(晋書・符融載記) ともあるとしている。語釈として、「【度目】 の語は殆んど過目と同義である。度は説文に通過の義とある。【誦】は……声に節つけてよむことである。声を出して読まなければ誦ではない。こゝは暗誦の意に重きをおくのである。【拂耳】は耳をかすめる事である。一寸こすつて行く、さつとさはる、一寸聞くこと、拂耳の例は見えない。……【勒】は刻也とある。心にしつかりきざみ込むことである。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233223/85~86、一部漢字の旧字体を改めた)と解している。
 亀田鶯谷・古事記序解に、「勅語トハ、天皇親删ノ帝紀旧辞ヲ、阿礼ニ口授シ玉ヘルヲ云フ。古語拾遺ニ、上古之世、未文字、貴賤老少、口々相伝トアルモ、カノ神代欲里伊比都芸家良志ト詠セシ如ク、凡秘訣神伝ハ、必口伝スヘキハ、上古敦朴ノ神習ナルヘシ。説文ニ古故也。从十口。識前言者也。論語ニモ我欲言ナトアルハ、皆口々相伝ト云ル秘訣口授ノ古伝ナルヲ云フ。但天皇撰録ノ睿旨ニ出テタルヲ、阿礼カ誦習ニ入リシコトハ、討覈親删ステニ定リヌルコトナレハ、古道古辞ノ更ニ誤謬センコトヲ恐レ玉ヘルニ在ン。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772110/44~45、漢字の旧字体を改め、句読点を整理した)とある解が、諳誦説の真髄であろう。
 他方、訓読説は安易である(注2)。それが訓読説なのかは知らないが、新編全集本古事記は、「「目を渡れば」というので文字を読んだことが了解される。」(22頁)とする。けれども、「[文字ガ]目を渡れば[言葉ヲ]口に誦み、[声ガ]耳に払るれば[言葉ヲ]心に勒す」、すなわち、文字言語から音声言語へ、また、その逆への自由な翻訳を表していることになる。しかし、そうなると識字能力があることになり、太安万侶を俟たずとも自ら筆記すれば事業は完成していたのではないか。万葉集や出土木簡で多様な書記形態が知られている。「とき移りかはりて」とあるのは、文字の時代になって時代の要請が変わり、暗唱によっては事が完結しなくなったということであろう(注3)
 山田氏の指摘する文選・孔融・禰衡でいかうを薦むる表は、「…禰衡、年二十四、字は正平、淑質貞亮にして、英才卓躒たり。初め芸文に渉り、堂に升り奥を覩る。目一たび見る所、輒ち口に誦し、耳暫く聞く所、心に忘れず。性道と合ひ、思ひ神有るが若し。」という文章である。稗田阿礼の人物評には「聡明」とある。「聡明」の語は日本書紀に見られる。

 是に天皇すめらみことみをば倭迹やまとと迹日とひ百襲姫命ももそびめのみこと聡明さと叡智さかしくましまして、能く未然ゆくさきのことりたまへり。(崇神紀十年九月)
 「我が先皇さきのみかどおほ足彦天皇たらしひこのすめらみこと[景行]、聡明く神武たけくましまして、つぎてあたしるしを受けたまへり。(成務紀四年二月)
 わかくして聡明く叡智しく、貌容壮麗はなはだかほよくまします。かぞみことあやしびたまふ。(神功摂政前紀)
 天皇、幼くして聡明く叡智く、貌容美麗みかたちすがたうるはしくまします。をとこざかりいたりて、仁寛慈恵めぐみうつくしびまします。(仁徳前紀)
 天王すめらみことこんわういつとりの中に、第二ふたりにあたる末多またわうの、幼年わかくして聡明きを以て、みことのりして内裏おほうちし、みづか頭面かうべを撫でて、誡勅いましむるみこと慇懃ねもころにして、其の国にこにきしとならしめたまふ。(雄略紀二十三年四月)
 我が気長おきなが足姫尊たらしひめのみこと霊聖くしひさとあきらかにして、天下あめのした周行めぐり、群庶もろひと劬労いたはり、万民おほみたから饗育やしなひたまへり。(欽明紀二十三年六月)
  [大錦だいきむ百済沙宅昭明くだらのさたくせうみやう為人ひととなり聡明く叡智しくして、時に秀才すぐれたるかどはる。(天武紀二年閏六月)

 ヤマトコトバのサトシを書き記すのに「聡明」という熟語を用いている。耳目を以て神意を察しうることが「聡明」である。「聡」字は記では他に「厩戸豊聡耳命」にのみ見える。単に暗唱や記憶の能力に長けていたに過ぎないものを「為人ひととなり」とはいわない。稗田氏は猿女君の一族だから「為人」(人となり・人となる)と捩って皮肉ったと仮定できなくはないが、他にそのような例を見ない。また、文化人類学の知見によれば、記録手段を持たない無文字社会では暗唱能力が優れている人は珍しいことではないのである。
 誤りを含んでしまっている伝承を正すことに関して、西郷2005.は、「何が正実で何が虚偽であるかを決める客観的規準のごときものがあったわけではない。ある意味では、すべての伝承はそれぞれ真実だといえる。伝承はその場に応じた変化を身上とする、したがってそこには、固定された権威は存しない。」(68頁)という。近代哲学に基づく言い分である。簡潔にいえば、天武天皇の意向に沿う伝承、端的にいえば、天武天皇が覚えている伝承が「正しい」のである。「勅語」とは、教育勅語のように長い文章でありながら天皇の発した言葉であり、聞いた方は丸暗記して諳んずることを強要されるものである。教育勅語の「夫婦相和し」を「夫婦は鰯」と聞いて、家庭の健康面、経済面に配慮されたものと受け取られたこともあった。すなわち、天武天皇の覚えていた伝承を丸ごと稗田阿礼に覚えさせた。和銅四年九月十八日の元明天皇から太安万侶への詔に、「稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とあり、天武天皇の「勅語」した内容がこの箇所の「旧辞」そのものであったことを教えてくれている。上述の亀田氏は過不足なくその真相を語っている。
 そんな個人伝授を受けるに堪える資質とは、「夫婦は鰯」などと受け取るときに誤解しない、また、誰かに伝えるときに誤解させない聡明さに他ならない。ヤマトコトバのサトシ(トの甲乙は不明)は、物事に敏感で、すばやく理解し判断できることをいう。「聡明」のほかに、「聡」、「明達」、「黠」などと記される。「さとあた」(神武前紀戊午年十一月)の例から、悪賢いこともサトシと言ったとわかる。語の構造は、(一)サ+ト(利・敏)シ、(二)サト(悟・喩)+シの二説ある。サトル(悟・智)には、「文献さとり」(仁徳前紀)、「通達とほりさと」(応神紀十六年二月)などとあり、文字を読むことが必須条件のように感じられる。「度目誦口拂耳勒心」の通訓が正しければ(二)説が有力となる。ただ、他動詞のサトス(覚・喩・諭)は、その連用形からサトシ(聡)が生まれたとするには語義が遠く、また、悪賢い義が派生する兆しも見えない語である。(一)説の可能性として、稗田阿礼の聡明さの具体例、「度目誦口拂耳勒心」を訓んでみる。
 「目」は、真福寺本には「日」とある。「度日」であれば、日を過ごす、生活する、の熟語の例がある。ただし、ここは対句ととるのがふさわしいと考えられ、「目」が適当とされている。すなわち、目・口・耳・心に、それぞれ聡明さが表れているということである。見る・言う・聞く・思うの機能においてそれぞれ尋常ならざる程度を示すはずである。「度」は、渡るの意以外に、忖度、諮度など、はかる意がある。「度目」は、品定め、鑑定する目をもっているということであろう。いま稗田阿礼は天武天皇の勅語を賜っている(注4)。言葉を目で受けるとは、天武天皇の勅語の際の表情やハンドアクションなどをきちんと理解していることに当たる。「誦」は、後の文の「誦習」に直接関わる能力であろう。節付けて声をあげてよむことである。「誦口」は、その話しっぷりが相手にわかりやすいということを指す。「拂」は、記には、ふれる意で二箇所用いられるが、拂(払)暁、拂(払)拭とあるように、紀では、はらう意で用いられている(注5)。「拂耳」は、さまざまな訴えを聞いても、情報を払い分け、事の真相を明白にして聞くということである。「勒」は、抑勒とあるように、おさめる意がある。記序の中でも、「勒于遠飛鳥」と用いられている。勒は、もともと馬具の面懸おもがいを指す。面懸は轡をつなぐために馬の頭から両耳を出してかける革紐のことで、これにより馬を制御することができる。「勒心」は、疑念、邪念を持たずに心のなかにきちんとおさめる技量があるということである。
 以上から、稗田阿礼の聡明さ、それも勅語して覚えさせ、誦習させるに値する為人を説明する「度目誦口拂耳勒心」は、「目にはかり、口にとなへ、耳にはらひ、心にをさむ」と訓んで正しいと考える。目・口・耳・心という器官の働きの、それぞれ優秀な様子を示していると捉えられる。

(注)
(注1)倉野1973.193頁。
(注2)序の終わりのほうで、太安万侶が録す仕方の一例として、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。」とある。「日下」や「帯」と書いてあるものがあったからそのまま「日下」、「帯」と書いたと言っている。訓読説の立場の人は、書いたものがあったのだから諳誦説は当たらないとする根拠にあげることがある。しかし、「日下」や「帯」しかとり上げていないということは、逆に庚午年籍のような戸籍にしか安定的に書き通用しているものがなかったことを示しているのではないか。しかも、太安万侶が録し始めたのは元明天皇の和銅四年(711)のこと、稗田阿礼が誦習をものにしたのは天武天皇の時代(~686)である。稗田阿礼は手控えを持っていてそれを読んでいて、手控えは他の人には解読不可能だったから広く読める形にしたのが太安万侶の古事記であるとする考え方もあるが、そういう次第があるならそう書いてあって不思議はないが微塵も書かれていないし、書き表すのに苦労したと大仰に述べることなどなかったであろう。
(注3)今日のスポーツの実況中継などでも、文字を読まずに口で上手に抑揚をつけながら話していてそればかりでわかるものであるが、テレビなどには字幕スーパーが映し出され、翌朝のスポーツ紙は文字を使って解説がほどこされている。
(注4)「特に天皇が阿礼に御自ら勅したまふたのである。」(山田孝雄・古事記序文講義、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233223/86、漢字の旧字体は改めた)
(注5)山田氏が触れながらとらない漢書・東方朔列伝に、「夫れ談は、目にさかひ、耳にもとり(拂於耳)、心にあやまちても、身に便なる者有り。或は、目によろこび、耳にしたがひ、心に快くしても、行ひにやぶる者有り。明王・聖主に有ること非ずんば、孰れか能く之を聴かん。」とある。「拂耳」は、諫言が耳に逆らうことを意味する熟語である。主語は「談」で一貫している。悖・拂・謬は類義語、説・順・快も同様である。記の「拂耳」をもとる意とすると稗田阿礼の聡明さの説明にそぐわない。

(引用・参考文献)
亀田鶯谷・古事記序解 亀田鶯谷著、中島慶太郎編『古事記序解』大関克、明治9年。
倉野1973. 倉野憲司『古事記全註釈 第一巻 序文篇』三省堂、昭和48年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
本居宣長・古事記伝 本居宣長著、本居豊頴校訂、本居清造再訂『古事記伝 乾』吉川弘文館、校訂第六版、昭和10年。
山田孝雄・古事記序文講義 山田孝雄『古事記序文講義』国幣中社志波彦神社鹽竃神社、昭和10年。

加藤良平 2021.5.24改稿初出