允恭記に、木梨之軽太子と軽大郎女の話が載る。異母兄弟の関係は許されるが、二人は同母兄妹の間柄のためインセストタブーを冒したとされて流罪にあっており、悲恋の物語として受け止められている。そのときの歌が記されている。
天だむ 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く(記82)
天だむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(記83)
天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね(記84)
これらの歌は「天田振」であると注されている。同様の話は允恭紀二十四年六月条にもあり、記82番歌謡とほとんど同じ形の「天だむ 軽嬢子 甚泣かば 人知りぬべみ 幡舎の山の 鳩の 下泣きに泣く」(紀71)という歌が載っている。
「天だむ」は「軽」の枕詞とされる。天をかけめぐる意から、「雁」と類音の「軽」にかかるとされている。また、「天飛ぶや 軽の路より〔天翔哉軽路従〕」(万543)、「天飛ぶや 雁を使に〔安麻等夫也可里乎都可比尓〕」(万3676)とあるところから、「天だむ」を「天飛ぶ」の転とする向きもあるが、新編全集本古事記や山口2005.は、音転としては無理があるから「天廻む」と考えるべきであるとする。なにしろ、記84番歌謡では「雁」ではなく「鶴」となっている。
雁は秋に来て春帰る渡り鳥の代表である。万葉歌の雁の用いられ方をみると、秋の黄葉や萩、夜の月とともに詠まれることが多い。中国では、礼記・月令や淮南子・時則訓に、雁は秋来て春帰るとする考えが載る。万葉集でもそれを真似たのではないかとされる作例も見られるとする説もある。風物詩と捉えられたならば季節が巡るということにはなるが、そのことをもって「廻む」と表現されたとは言い難い。
…… 雁が音の 来継ぐこの頃 かく継ぎて ……(万948)
今朝の旦開 雁が音聞きつ 春日山 黄葉にけらし 吾が情痛し(万1513)
雲の上に 鳴くなる鴈の 遠けども 君に逢はむと た廻り来つ(万1574)
さ夜中と 夜は深けぬらし 雁が音の 聞ゆる空に 月渡る見ゆ(万1701)
九月の その初鴈の 使にも 念ふ心は 聞え来ぬかも(万1614)
…… あらたまの 月日も来経ぬ 雁が音も 継ぎて来鳴けば ……(万3691)
燕来る 時になりぬと 鴈がねは 本郷思ひつつ 雲隠り鳴く(万4144)
古代の軽の地は下つ道と山田道が交差するあたりで、「軽の池」(垂仁記、応神紀十一年、万390)、「軽の坂の上」(応神紀十五年八月)、「軽の村」(雄略紀十年九月)、「軽の路」(万207・543)、「軽の市」(天武紀十年十月是月、万207)、「軽の街」(推古紀二十年二月)、「軽寺」(天武紀朱鳥元年八月)、「軽の地」(懿徳紀、孝元紀)、「軽境岡宮」(懿徳記)、「軽堺原宮」(孝元記)、「軽嶋明宮」(応神記)、「軽の曲殿」(欽明紀二十三年八月)とある。また、人名の軽には、木梨之軽太子らのほかに、孝徳天皇や文武天皇も軽皇子である。
枕詞の掛り方には音の連なりをおもしろがる側面が強い(注1)。山口2005.の指摘どおり、アマダムのアマは天であろう。時代別国語大辞典などから整理すれば、「天」は、①単独で使われる語として、天、空、天界のこと、②アマノ(アメノ)……、アマ(アメ)……と冠される語として、(a)空自体を指す、(b)高天原に関する事物に添える、(c)神話の世界の事物で立派なの意、があげられる。しかし、佐藤1993.では、「天」は、神の存在する天上界を示すために、中国の思想によってできた言葉であり、万葉集において、「天~」とあるのは、漢語「天~」の訓読語であると捉えている。天雲、天下、天火、天河(川、漢)、天海、天橋、天宮、天空、天験(印)、天人、天神、天水、天数、天地、天飛(翔)、天門、天路のことである。慧眼であり、考慮に入れなければならないことである。ヤマトコトバのうち新しく創作されたもの、いわゆる和訓と同時期に枕詞も創作されている。同種の思考法によって生まれた言葉なのだろう。タムの音つながりの「田身嶺」(斉明紀二年是歳)という地名は、アマダムという言葉から拡張的に理解されたと思しく、天竺の仏塔のことを指していると見られる(注2)。トネリコの別名のタムノキや垣をめぐらす意の廻む、塔の訛り(訛む)のことなどと連繋しながら名が定まっている。体系を維持しながらそれぞれの言葉は確立している。他方、軽池の存在からはアメダム(雨溜)の意をも想起され、それらすべてを関連づけながら枕詞「あまだむ」は考案されたと推測される。

仏塔のようにタワー状でなかに舎利が収まっているものとして、稲を乾燥させつつ保存するための「堆」がある。刈稲を円錐状に高く積み上げている。中干し法を支える溜池が作られたのと相俟って稲作の技術が進歩し、穂首を切り摘んでいく方法から藁束ごと刈り取る方法もとられるようになってきている。刈田に貯めておいて、必要な分だけ抜き取って脱穀、精米していく。カル(刈)によってできた堆という天塔はタム(貯)である。塔も堆もなかに舎利が入っている。仏舎利と銀舎利である。仏教の塔の考えには雁塔がある。玄奘三蔵が長安に作った大雁塔はよく知られている。小乗の教えでは浄肉を食う僧を教え導くために、雁に化けて空から落ちたところに塔を建て供養したという。アマダム(天塔)は雁にゆかりがあると伝えられたわけである。雁が渡り鳥の代表だけに、大陸の知識も渡って来ているということのようである。
つまり、軽の地は、音のつながりで仏塔が関係することになる。塔の形は、造成した堤に生えることが多いツクシに似ている。ツクシはスギナの胞子茎である。造成地は土壌が痩せており、また、溜池の土手の斜面は日当たりもよく、他の植物にまさってスギナが生育しやすい。土筆の古名、ツクヅクシに似た音の、槻の古名ツクが思い起こされ、軽の地には槻の木、今のケヤキが似合うことになる。
天飛ぶや 軽の社の 斎槻 幾世まで有らむ 隠妻そも(万2656)
「天飛ぶや」という枕詞は「天だむ」を意図的に誤解して生まれた枕詞であろう。「斎ふ」とは良いことがありますようにと念じてお祈りをすることである。「斎(忌)」に動詞を作る語尾をつけた言葉とされている。イな状態にしようとすること、つまり、そのおまじないである。「味酒を 三輪の祝が 忌ふ杉」(万712)とあるように、三輪では杉の木を斎うことになっている。また、市のシンボルツリーとして、海石榴市では椿、阿斗桑市では桑、餌香市では橘があげられている。餌香市ではヱグキカヲリから橘の花が思い起こされている。市のある地名によってメルクマールとなる樹木の種類が決まっている。
軽の地では槻の木が斎う木とされた。「長谷の ゆ槻が下に〔長谷弓槻下〕」(万2353)、「池の堤の 百足らず い槻が枝に〔池之堤之百不足五十槻枝丹〕」(万3223)とある。カル(刈)してタム(貯)した塔に見立てられる土筆と類音のツク・ツキ(槻)が選ばれている。言葉の洒落、言語遊戯の極みである(注3)。神頼みにお願いをすることは、叶うこともあり叶わぬこともあると思いながらの行為である。信じる、信じないというより、何か御利益があるとの謂れを聞いては、できればそれにあやかりたいと願っている。汎神的な神聖性である。そのはじまりは言が事であるとするように言語を使用していった結果現れた言霊の信仰に負っている。軽の地と槻とは因縁が深いとされてかこつけられている。
天然記念物になるようなケヤキの巨樹をもって、槻の木はすべからく神聖性を持つと考える向きがある(注4)。しかし、その考え方には、西洋近代の自然観、分類学や景観学の基となる思考の枠組みが潜んでいる。上代の思考と嚙み合わない。ヤマトコトバが先にあり、その言葉を使ってゆくに際してさまざまな観念が醸成されていったと考えるべきである。当時の人々は文字を持たず、近世の寺子屋や近代の教育制度のように知識を授けられることはなかったからである。ここでとりあげたアマダムとカルの関係でも、枕詞となる言葉の連なりが先にあって、斉明朝になって「両槻宮」はこじつけられたものと考えられる。
(注)
(注1)廣岡2005.は枕詞の本質を言語遊戯性に見ている。
(注2)拙稿「多武峰の観(たかどの)とは何か─両槻宮・天宮という名称から見えてくるもの─」参照。
(注3)言語自体、その本性からして「遊び」にまみれている。ウィトゲンシュタイン2020.参照。
(注4)今泉1993.、辰巳2009.参照。
(引用・参考文献)
今泉1993. 今泉隆雄『古代宮都の研究』吉川弘文館、1993年。
佐藤1993. 佐藤武義「翻訳語としての万葉語「天+~」」鶴久教授退官記念論文集刊行会編『鶴久教授退官記念国語学論集』桜楓社、1993年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
辰巳2009. 辰巳和弘『聖樹と古代大和の王宮』中央公論新社、2009年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。
ウィトゲンシュタイン2020. ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン、鬼界彰夫訳『哲学探究』講談社、2020年。
加藤良平 2025.8.17改稿初出