後行研究について その三

「一重山(ひとへやま) 隔(へな)れる」歌
村田右富実「家持をめぐる相聞─大嬢に贈る歌─」『恭仁京と万葉集』関西大学出版会、2025年。

 村田氏は万葉集の相聞部に載る恭仁京時代の歌のうち、大伴家持と女性との間にくり広げられた歌について検討している。その方法は、(筆者の論考以外の)これまでの諸説を参照比較して、歌の解釈の可否、評価を問うように進んでいる。
 村田氏が新たに編み出したのは、相聞歌に多く見られる自立語上位十語(「逢ふ」「恋ふ」「寝」「心」「妹」「子」「君」「言ふ」「思ふ」「我」)の多寡によって、家持の対大嬢歌と対大嬢以外歌とを分ける手法である。それによって誘導されるのは、家持の大嬢以外との間の相聞は「恭仁京と平城京とにわかたれた特殊事情を背景にしつつ歌に遊ぶもの」(177頁)であり、大嬢とのそれは「類型性は高いものの、より気持ちの通じやすい表現を選ん」だものとしている。しかし、村田氏が引用する大浦誠士氏の「歌が一回的な「作品」としてではなく、繰り返し歌われ、伝承されることでこそ意味を持っていた」(『万葉集の様式と表現』(笠間書院、2008年、28〜29頁)という前提に立てば、対大嬢歌であれ対大嬢以外歌であれ、使用される言葉に歌の題材や贈る相手による違いがあったとしても、それが相聞歌自体の性格に違い(擬相聞歌と真相聞歌)となって現れるべくもないだろう。いわゆる「作品」ではないとはどういうことか、よくよく見つめ直す必要がある。親密な相手が住む平城京へ遣わした歌が歌として認められているのは、人々が耳にしていたことが大前提であり、同じく二京の別という特殊事情を歌に作って戯れているのである。

恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─、田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─
村田右富実「福麻呂歌集所出の恭仁京讃歌」『恭仁京と万葉集』関西大学出版会、2025年。

 田辺福麻呂の恭仁京讃歌と呼ばれる歌(万1050~1058)について、先行する研究者同様、成立時期を問うており、「布当の宮」と表現されているのは正式名称の「恭仁京(宮)」決定以前であると目算をつけている。知識を外注して歌を理解しようというわけだが、万葉集編纂者はテキスト(歌、題詞、左注)だけで理解できるように企図していたことだろう。成立時期のせいで歌がよくわからなくなるのであれば、題詞などに仔細に書いておけば済む話である。そうしていないということは、歌の理解に成立時期など問題ではないからである。
 そしてまた、都の名称は、俗称、綽名で呼ばれなかったと決めつけられるものではない。正式名が付いたら正式名でしか呼ばれないとする先入観はどこから来るのか。おそらく万葉集(の歌)というものに対する価値観の表れなのだろう。歌の文句の語彙について、理解が不十分な段階で議論しても無駄である。一例をあげれば、題詞を「恭仁の新京をむる歌」と訓んでいるが、正しくは「恭仁の新京をたたふる歌」である。溜池の水がたくさんあってたたえるように、たくさんの言葉を使ってたたえている。同様の誤解は他にもあり、書評の域を出る。歌自体を見ずに制作時期ばかり問うことは、万葉(歌)研究者の立場やセンスの問題でもある。

大伴家持の布勢水海遊覧賦
山﨑健太「『万葉集』テキストを通して読む「布勢水海遊覧賦」─テキスト論的作品論の試み─」『日本文学』第74巻第6号、2025年6月。

 山﨑氏は、いわゆる越中三賦が、都の人へ披露しようとして作られたとする先行研究の考えに疑問を投げかけている。「大宮人の野遊」という歌の様式性について聞き手が共有していなければ、歌の景物が春なのに作歌時点は夏の四月二十四日であるという不整合は納得されなかっただろうと主張する。そして、『万葉集』テキスト自体が用意している構造のなかで個々の歌は読み解かれなければならないとしている。
 この考えによると、万葉集のすべての歌を知らなければ万3991〜3994番歌は理解できないことになる。しかし、歌はその場で歌われて、周りにいる人に聞かれ、その時に通じたものであったろう。「あぢ群騒く」や「木末花咲く」という言い回しは優先的に歌のなかで使われるかもしれないものの、「騒く」や「花」や「咲く」という語は日常用語である。「あぢさはふ」という枕詞化した言葉ならいざ知らず、「あぢ群騒く」という言い方を韻文以外で使うことに問題があるわけではない。春の景を示す歌語であると決めてかかっているのは研究者の思い込みである。万葉歌は歌語よりはるかにヤマトコトバでできている。
 筆者がすでに指摘しているとおり、布施水海遊覧賦の諸歌はヤマトコトバの駄洒落、地⼝を数多く束ねた歌である。それを「賦」と呼んでみている。近現代の⼈が常⽇頃の感覚では近づくことのできない⾔語空間に、家持や池主は「賦」という歌のなかで「遊覧」 していた。⾔葉遊びの極みの歌がこれらの歌であり、歌われるなかで発せられる言葉を逐一拾っていけば、発せられる瞬間ごとになるほどおもしろいことだと楽しまれたであろうことは理解されるのである。

加藤良平 2025.7.8初出

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