本ヤマトコトバ学会サイトに筆者の論文を発表後、そのテーマに関連する論文が雑誌や書籍で新たに起こされることがある。筆者の築き上げたパラダイムについては興味がなく、関知もせず、なおも固陋なレベルにあって検討するに値しない内容であることが多い。個々の論文で再考するには及ばないものは、便宜のためにここで講評風に記しておこうと思う。該当する筆者論文のタイトルのもとにあげ、漸次追加していくことにする。
大伴家持の二上山の賦
塩沢一平「二上山の賦」『大伴家持─都と越中でひらく歌学─』花鳥社、2025年2月。
筆者は、当既発論文において、「二上山」が言葉の上で乳の形状を示すこと、それが海幸山幸の話の「一千鉤」にも相当すると考えついたことが大伴家持の「興」であったと見極めている。家持が得た「興」は、周囲にいて歌を聞く人々に共有されるものでなければ言語たり得ない。塩沢氏は、中国詩文にいう「興」と関係するという藤井貞和氏の説を批判し、唐突で場違いな個人的な感興を述べたものと捉えている。中国詩文由来説は漢字パズル以上のものではなく、個人的感興の吐露とする見方は「私的言語」(ウィトゲンシュタイン)を認める試みに当たり、言葉とは何かについての初歩的な思索を欠いたものである。
別の問題点を指摘する。塩沢氏は題詞、左注をパラテクスト paratext として扱っている。ジェラール・ジュネットが、テクストにある種の(可変的な)囲いを、そして時には公式もしくは非公式の、ある注釈を与えるものとしているのに負っていて、歌は題詞を縦枠、左注を横枠とする枠取られた作品であると捉えている。今日目にする万葉集の様子を共時的に見ている。しかし、歌が歌われた時点ではまず歌があり、歌しかなかった。それがどのような状況下で歌われたのかを示すために題詞が付けられている。そうしないとその場にいなかった人にはわからない。歌と題詞の両者が伝わって『万葉集』に編まれる段階になった。その際、歌とその場の設定について編纂者が検討して付したコメントが左注である。題詞は歌の枠組み frame で、左注は参考資料 reference ということになる。一次資料と二次資料を同次元に扱うことはできない。
大伴旅人の讃酒歌について
安藤信廣「大伴旅人「讃酒歌」十三首の思索と表現─漢文受容のあり方と二通りの語り─」『国語と国文学』第102巻第6号(通巻1219号)、令和7年6月。
安藤氏は、讃酒歌について、長屋王の変以降の状況のもと、大伴旅人は自己の切迫した課題に即しながら漢文中に蓄積されている思索を見出して表現を紡いでいるとしている。すなわち、魏の嵆康の作品などを学ぶことによって、それを契機として独自の発想や認識が生まれて新たに表現していった評価している。体制への批判的意思をもちつづけ、抵抗不可能な中での抵抗を歌にしたのがこの讃酒歌なのであると、尤もらしく理屈づけている。細かく見れば矛盾するところがあるが、基本的に反証可能性を有さない主張である。
相変わらずの漢詩文典故説の提唱である。ズハについての文法の議論も定まらないまま従来説の一つに依るだけで等閑視している。歌それ自体を理解しようと努めることなく、自らの意見を万葉集の歌に投影しようとしている。万葉歌を一首だけ切り取ってきて絶讃していたかつてのアララギ派との違いは、木を見て森を見ずか森を見て木を見ずかの違いに近いものがある。いずれ作り話である。
母語であるヤマトコトバで考えて、ヤマトコトバで作られているのが歌である。漢籍の出典を示して誇っている研究者は、大伴旅人が漢籍に基づく発想でものごとを考えていたと見ている。人間の営みの初源、言葉でものごとを考えることを無視している。そして、歌の形をとってヤマトコトバで音声として発表された時、聞く人が理解するしないに関わらず歌として存立していたものと思っている。安藤氏も、旅人のモノローグであることを前提にして讃酒歌十三首を捉えている。モノローグに終始したなら人々に共有されることはなく、つまりは万葉時代には歌ではなかったということになる。聞いても俄には理解できないことを述べ立てて悦に入っているスコラ哲学の講義録のようなものが万葉集の歌であったというのだろうか。個々の歌の解釈については筆者の既発論文を参照されたい。
吉備津の釆女挽歌考
三田誠司「吉備津采女の歌─柿本人麻呂と「我れ」と─」『上代文学』第133号、令和6年11月。
三田氏は、人麻呂作の万217~219番歌について、吉備津の采女と志我津の子ないし大津の子とは別人であると見立てた解釈の新案を唱えている。近江朝時代、ある美しい采女の自殺事件に遭遇した吉備津采女が、持続朝になって宮廷でその思い出をしばしば披露した。その吉備津采女が亡くなった時、彼女から人麻呂が伝え聞いていた近江朝の采女の死にまつわる思い出を長歌および短歌二首からなる歌作品に整えて、以て吉備津采女の追悼としたというのである。三田氏自身が注しているとおり、題詞からそのような設定を導き出すのは困難であり、曲解である。
三田氏は、古典のテキストを「楽譜」に譬え、解釈は研究者による「演奏」であって楽曲は演奏されてこそ「再生」を得るとする。しかし、楽譜の指示スラ―を無視してスタカートで演奏してしまうとなると、もともとの音楽とは別物に編曲されていることになる。万葉集の歌について、その作者も、編纂者も、アレンジされることを拒んではいないものの、最初から読み替えられることを願って作ったり載せたりしているわけではないだろう。その場にいない人や後世の人に伝わりにくい歌とその真意について、一生懸命に伝えようとして万葉集は編まれているのであり、それを揺るがせることは上代文学研究とは別のところに立つことになる。
加藤良平 2025.6.3初出