山部赤人の紀伊国行幸歌として知られる歌である。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸す時、山部宿禰赤人の作る歌一首〈并せて短歌〉〔神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作謌一首〈幷短謌〉〕
やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然そ貴き 玉津島山〔安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野由背匕尓所見奥嶋清波瀲尓風吹者白浪左和伎潮干者玉藻苅管神代従然曽尊吉玉津嶋夜麻〕(万917)
反歌二首〔反謌二首〕
沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも〔奥嶋荒礒之玉藻潮干滿伊隠去者所念武香聞〕(万918)
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る〔若浦尓塩滿来者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡〕(万919)
右は、年月は記さず。但、玉津島に従駕すと称ふぞ。因りて今、行幸の年月を検へ注して以て載す。〔右年月不記但稱󠄁従駕玉津嶋也因今檢注行幸年月以載之焉〕
これまでの研究では、聖武天皇の行幸時(注1)、公的な儀礼の場でにその地を褒めて詠まれたもので、そこには玉津島山があって玉藻同様、タマ(霊)的な性格を有する土地柄だとされている。そして、土地褒めは天皇讃歌になるのだと主張されている。荒唐無稽と言わざるを得ない。行幸へ出かけた先の景色を褒めたからといって、それがどうして行幸した天皇に対する評論へとつながるのか不明であるし、実際のところ風光を賞でてばかりの歌になっている。上代文学の研究者の多くは、万葉集の歌や古事記などはすべからく天皇制を支えるために編まれたものであるとの先入観に立ち、残されているテキストが訴えている本当の姿を見ようとしない(注2)。また、景色を描写したその語り口がうまいからといって、はたして叙景歌として、さらに言えば歌として成り立つのかという問題もある。聞いてくれなければ人前で歌っても残ることはない。景観を捉える視点が人々の間で広く行き渡っていなければ、ひとり赤人が歌にしても着いて来れないから理解されない。近代歌人たちが喜んでとり上げた点や、現代万葉学が力説して止まない議論とは別のところで万葉歌は成立している(注3)。
サヒカノ(ヒ・ノは甲類)というところで歌われている。地名から着想を得たのだろう。「神代」のことを持ち出し、潮の干満について述べている。サヒ(ヒは甲類)とは鋭利な刃物、また、鋤のことをいい、鉄器製の刃先のことを指すようである。サヒ(鉏、匕)が出てきて神代のことで潮の満ち干の関係する話といえば、火遠理命が海神の宮から帰還する際に、嫌がらせをして釣針(鉤)を捜させたその兄に対し、潮の干満をつかさどる呪詛法を教えられたことしかない。国へ帰るときに乗せた一尋和邇魚のことを佐比持神(ヒは甲類)と呼んでいる。送り出した綿津見大神が、和邇魚の頸に紐小刀をつけて守り刀としたためである。上代の人たちの間で周知の言い伝えを使って歌を作り披露しているから、大勢の人が聞いてなるほどと思い、おもしろがって聞いてくれている(注4)。
是に、赤海鯽魚の喉を探れば、鉤有り。即ち、取り出でて清め洗ひて、火遠理命に奉る時に、其の綿津見大神の誨へて曰はく、「此の鉤を以て其の兄に給ふ時に、言はむ状は、『此の鉤はおぼ鉤・すす鉤・貧鉤・うる鉤』と云ひて、後手に賜へ。然くして、其の兄、高田を作らば、汝命は下田を営れ。其の兄、下田を作らば、汝命は高田を営れ。然為ば、吾水を掌るが故に、三年の間、必ず其の兄、貧窮しくあらむ。若し其の然為る事を恨怨みて攻め戦はば、塩盈珠を出して溺し、若し其の愁へ請はば、塩乾珠を出して活け、如此惚苦ましめよ」と云ひて、塩盈珠・塩乾珠を并せて両箇授けて、即ち悉に和邇魚を召し集め、問ひて曰はく、「今、天津日高の御子、虚空津日高、上国に出幸さむと為。誰者か幾日に送り奉りて覆奏す」といふ。故、各己が身の尋長の随に、日を限りて白す中に、一尋和邇白さく、「僕は一日に送りて即ち還り来む」とまをす。故、爾くして、其の一尋和邇に告らさく、「然らば、汝送り奉れ。若し海中を渡らむ時、な惶れ畏らせそ」とのらして、即ち其の和邇の頸に載せて送り出だす。故、期りしが如く、一日の内に送り奉る。其の和邇返らむとする時に、佩かせる紐小刀を解きて、其の頸に著けて返す。故、其の一尋和邇は、今に佐比持神と謂ふ。是を以て、備に海神の教へし言の如く、其の鉤を与ふ。故、爾より以後、稍兪貧しくして、更に荒き心を起して迫め来。攻めむとする時には、塩盈珠を出して溺し、其れ愁へ請へば、塩乾珠を出して救ふ。如此惚苦ましめす時、稽首みて白さく、「僕は今より以後、汝命の昼夜の守護人と為りて仕へ奉らむ」とまをす。故、今に至るまで、其の溺れし時の種々の態、絶えずして仕へ奉るぞ。(記上)

「背向」という語がどういう語なのかこの歌から問う向きがあるが、鉤を返すときの呪詛法として、「『此の鉤はおぼ鉤・すす鉤・貧鉤・うる鉤』と云ひて、後手に賜へ」と明言されている。手を後ろに回して釣針を返している。「後手」という言葉は、イザナキが黄泉国から脱出する際に、「御佩の十拳剣を抜きて、後手にふきつつ逃げ来るに」(記上)とも使われている。手を後ろへ回して金属器を操作することを思い起こさせるのに、「背向」という語は効果的である(注5)。 長歌では、紀伊国まで足を伸ばしており、海に近いサヒカノと呼ばれるところあたりに離宮を設けたことから、海神宮のことを思いついている。むかしむかし、神代の頃から、「常宮」であるとされてさまざまな海の生き物が仕えたであろうと思いを馳せ、だからそのように貴いのだと言っている。火遠理命が海神宮に滞在したことになぞらえているわけである。 第一反歌で、潮が満ちて玉藻が隠れてゆくということは、玉藻は溺れているのであって、助けてほしいと懇願しているのだろうと思われると歌っている。おもしろいジョークになっている。第二反歌で、潮が満ちて干潟がなくなり鶴はおちおち寝ることもできず(注6)、葦辺へと泣きながら渡っていくのも塩盈珠の効果だと言っている。
万葉集の歌は、上代の人たちの日常語で成り立っている。通じないものをいくら歌っても聞いてはくれない。聞いてくれないとは言葉として成り立たっていないということである。無文字の時代、コミュニケーションを伴わない言葉は存在しない。最初から聞かれないものは誰も記憶せず、取っておかれることはなく、後になって記録に留めようにも不可能である。今日伝わっているということは、当時の人たちの共通理解の内にあったということに他ならない。この歌は行幸従駕歌である。行幸に参加した宮廷の人、天皇、皇族、高級官吏から、下級官吏、舎人など身の回りの雑用係、バイトで雇われた運送屋、現地の食事や宿泊等にかかわる世話役などが耳にした歌であろう。声を張り上げて歌われたのだから、聞いた誰もがすぐに内容を理解し、おもしろがったものであっただろう。一部の人だけで悦に入るようなことでは場の雰囲気は白けてしまう。ここはすばらしいところですね、などとお追従を述べることなどなおさらで、誰も気に留めたりせず忘れられる。これまでの研究は、歌の作者が何かすばらしいことを言おうとしていたに違いないと思い込み、ありもしない想念を探ることばかりに囚われていた。すなわち、聞く人の身になることがなかった。「歌人」という概念など存在しない時代である。今で言えば小学生でも理解できるような日常言葉で歌はできていた。下働きの人も含めて聞かれることを前提として、その場で声を張り上げていたからである。それを今日、研究対象として難しく考え、すごいことを言っていると説いている。万葉天動説でしかない(注7)。
(注)
(注1)左注にあるとおり、続紀・神亀元年十月条に記事がある。
○辛卯(5日)、天皇紀伊国に幸したまふ。○癸巳(7日)、行して紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮に至りたまふ。○甲午(8日)、海部郡玉津嶋頓宮 に至りて、留まりたまふこと十有余日。○戊戌(12日)、離宮を岡の東に造る。是の日、従駕の百寮、六位已下伴部に至るまで、賜禄ふこと各差有り。○壬寅(16日)、造離宮司と紀伊国の郡司と、并せて行宮の側近の高年七十已上とに賜禄ふこと各差有り。百姓の今年の調庸、名草・海部二郡の田租咸く免す。又、罪人の死罪已下を赦す。名草郡の大領外従八位上紀直摩祖を国造とし、位三階を進む。少領正八位下大伴櫟津連子人、海部直士形に二階。自余の五十二人に各兼ること一階。又、詔して曰はく、「山に登り海を望むに此間最も好し。遠く行くこと労らずして遊覧ぶに足る。故、弱浜の名を改めて明光浦とす。守戸を置きて荒穢くこと勿かるべし。春秋の二時に、官人を差し遣して、玉津嶋の神・明光浦の霊を奠祭らしめよ」とのたまふ。……○丁未(21日)に、行、還りて和泉国所石行宮に至りたまふ。郡司少領已上に位一階を兼ぬ。監の正已下百姓に至るまで、賜禄ふこと各差有り。○己酉(23日)に、車駕、紀伊国より至りたまふ。
(注2)諸説については下記文献や注釈書を参照されたい。
(注3)伊藤1976.に、「万葉時代の歌は万葉時代の方法に立ってみなければ、その本質は浮上してこないであろう。赤人は赤人なりに、いわゆる万葉宮廷歌人としての、確かな表現技法を具備していた。」(124頁)と述べているが、以後半世紀経っても万葉集研究者はことごとく万葉時代の方法、本質を外している。
(注4)村瀬2016.は、この鉤の説話を引いているが、「潮の干満によって現出し消滅する、生成期の砂州の様相に驚嘆した万葉びとは、人智を超えた大自然の力に海神の神の存在を観たのである。ここにも潮の満干に海神の存在を透かし見ているのである。」(14頁)と要領を得ていない。砂州の消長にいちいち驚嘆するのは現代の都会人であろう。村瀬氏の考えとは真逆に、潮の干満を自在に操れる呪詛法の説話を具現化するために、当地の景色をいろいろと詠み込んで歌を作っている。冷静に読み返せば、大したことを言っているわけではなく、いわゆる叙景歌ではないことに気づくだろう。
(注5)垣見2012.らは、「背向」という語を曲げて解釈しようとしている。拙稿「万葉集の「そがひ」について」参照。
(注6)この歌は次の高市黒人の歌とよく似ていると指摘される。
桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)
この歌の歌意は、年魚市潟で潮が引いたらしく、桜田のほうへ鶴が鳴いて渡っている、というものだが、鶴が貝や小エビを食べるのに適さなくなったから移動しているのではなく、水がなくなると、キツネやオオカミのような捕食者が近寄ることができて狙われかねないから休んでいるわけにいかず、あるいは仲間の一羽がすでに餌食になっているのかもしれず、泣く泣く移動していると歌っているのである。拙稿「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)」参照。
それと同様に、万919番歌でも、潮が引いて鶴は危険な状態に陥っている。葦が生えている岸辺へ行って陰に隠れようとしている。それはまるで潮乾珠による呪詛に悩まされているのと同じではないか、と言っているのである。今日まで歌の真意は理解されていなかった。
(注7)ひとたび万葉地動説を知れば、学を積んで研究するに値する事柄なのかという素朴な疑問さえ生じるだろう。修辞法研究の一環としてジョークを研究する言語学者の場合も、日本語ではなく英語のジョークを対象にしてごまかす人がいる。ただし、言語とは何かについて心底考えるとなると、ウィトゲンシュタインのように戦うしかなくなることについて、上代文学の研究者はあまりにも暢気である。野矢2022.参照。
(引用・参考文献、注釈書は割愛した)
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
井上2010. 井上さやか「山水の遊覧─玉津島歌─」『山部赤人と叙景』新典社、2010年。
垣見2012. 垣見修司「そがひ追考」『高岡市万葉歴史館紀要』第22号、2012年3月。
梶川1997. 梶川信行「東アジアの中の玉津嶋─神亀元年の紀伊国行幸について─」・「神功皇后伝承と「玉津嶋」─玉津嶋讃歌の論─」『万葉史の論 山部赤人』翰林書院、1997年。
鈴木2024. 鈴木崇大「紀伊国行幸従駕歌」『山部赤人論』和泉書院、2024年。
鈴木1990. 鈴木日出男「赤人の叙景の構図」『古代和歌史論』東京大学出版会、1990年。
坂本1980. 坂本信幸「赤人の玉津島従駕歌について」『大谷女子大国文』第15号第2輯、1980年12月。奈良女子大学学術情報センター http://hdl.handle.net/10935/880
清水1970. 清水克彦「不変への願い─赤人の叙景表現に就いて─」『萬葉論集』桜楓社、昭和45年。
高松2007. 高松寿夫「大伴旅人「吉野奉勅歌」の性格─〈翁〉の祝言─」『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
田中2006. 田中真理「景物と人事」『日本語と日本文学』第42号、筑波大学国語国文学会、2006年2月。つくばリポジトリ https://doi.org/10.15068/00139787
野矢2022. 野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』岩波書店、2022年。
平舘2000. 平舘英子「「風吹けば 白波さわき」考」『高岡市万葉歴史館紀要』第10号、2000年3月。
廣岡2020. 廣岡義隆「山部赤人の若の浦讃歌」『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
廣川2016. 廣川晶輝「山部赤人「紀伊国行幸歌」の空間把握について」『上代文学』第117号、2016年11月。上代文学会ホームページ https://jodaibungakukai.org/02_contents.html
古舘2007. 古舘綾子「「そがひに見ゆる」考─赤人紀伊国行幸歌を中心に─」『大伴家持自然詠の生成』笠間書院、2007年。
身﨑2001. 身﨑壽「赤人の景・序説─玉津島行幸従駕歌の景観叙述をめぐって─」伊藤博・稲岡耕二編『萬葉集研究 第二十五集』塙書房、平成13年。
村瀬2001. 村瀬憲夫「赤人の紀伊行幸歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
村瀬2016. 村瀬憲夫「神代よりしかぞ尊き玉津島山」・「若の浦に潮満ち来れば─弱浜から若の浦へ─」村瀬憲夫・三木雅博・金田圭弘『和歌の浦の誕生―古典文学と玉津島社―』清文堂出版、2016年。
村瀬2022. 村瀬憲夫「山部赤人の玉津島行幸従駕歌考─第一反歌の解釈をめぐって─」『解釈』第68巻第3・4月号、令和4年4月。
村山1993. 村山出「玉津島の讃歌─基礎的考察─」『奈良前期万葉歌人の研究』翰林書房、平成5年。
加藤良平 2026.3.12再掲