ここにあげる歌は、大伴坂上郎女が聖武天皇に献上した二首である。
天皇に献る歌二首〈大伴坂上郎女の春日の里にして作るぞ〉〔獻天皇歌二首〈大伴坂上郎女在春日里作也〉〕
にほ鳥の 潜く池水 心あらば 君に吾が恋ふる 心示さね〔二寶鳥乃潜池水情有者君尓吾戀情示左祢〕(万725)
外に居て 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを〔外居而戀乍不有者君之家乃池尓住云鴨二有益雄〕(万726)
今日まで溜飲を下げるような解釈は見出されておらず、歌意がわからないとする注釈書も多い。大伴坂上郎女が天皇と懇意にしており、恋愛感情をそのまま歌にしたとは彼女の閲歴からして考えられないし、それがどのような経緯で披露されたのかも判然としない。カイツブリのことをいう「にほ鳥」や「鴨」という鳥を登場させていることも、番いでよく見かけられるから仲良しなのを表そうとしていると説かれることがある(注1)ものの印象論の域を出るものではない。形式的に相聞の歌として作られているが、歌い回しがうまく、天皇の意にかなうと思われたから献上されていると考えるのが妥当だろう。言葉づかいが機知に富んでいて興味深く、天皇の気持ちに沿っていて、お聞かせするのに耐え得ると思って歌っている(注2)。 歌は修辞法にあふれている。万725番歌では池の水に心があるなら(注3)、自分の気持ちを代弁して示しておくれ、と言っている。万726番歌では、人間が鴨に成り代わることを譬えに使っており、どちらも表現の飛躍が激しい。いきなりそのような現実離れした譬えを持ち出されても、直ちに何のことだか理解するのは難しい。それなのに郎女は自信をもって天皇に献歌している。天皇ならすぐにわかるだろうと踏んでのことだろう。 万726番歌の「〜ズハ」の形をとる使い方は長く誤解されているが、AハBの構文の一類型である(注4)。すなわち、「外に居て恋ひつつあらず」ハ「(鴨にあらせば)君が家の池に住むといふ鴨にあらまし」ヲ、という形の論理文を構成している。別のところにいてあなたのことを恋し続けないということは、もし仮に私が鴨であるとしたら、あなたの家の池に住んでいるという鴨でありたいというのと同じことだなあ、という意味である。庭の池に鴨をペットとして飼育していたことがなかったとは断言できないが、アヒルやガチョウではないから、怪我でもしたのか飛べなくなった鴨が渡りの季節を過ぎても居続けているということだろう。当然、一羽でいる。そんな取り残されて動けない鴨になりたいわけはない。A、Bともに裏返し、Aでない状態とBでない状態とを希求していることを言おうとしている。つまりは、遠距離恋愛を断念しないという言い分を述べていることになる。
「つつ」という言葉は二つ性を表す。後半部で「池(ケは乙類)」pond と「行け(ケは乙類)」gone(注5)とに示されている。「行け(ケは乙類)」は「行く」の已然形で、すでに行ってしまったこと、ここでの比喩は渡り鳥の群れが渡ってしまっていることを指している。それとは対照的に「池」に残されている鳥がいる。変な話だなあ、ということで「に住むといふ」ともったいぶった言い方をしている。そして、人と鳥(鴨)との二つ性を明示するために、「住む」ところは「家」のはずだからわざわざ「家」という言葉を持ち出し、「家」と「池」とが存在していることをも指し示すようにしている。
ここに言う「家」は、春日の里(注6)にある天皇の離宮(高円離宮、春日離宮)を言っているものであろう(注7)。郎女は離宮の近くへ来ていて、そこで歌を作っている。離宮の存在を意識したから天皇への献上歌を作るに及んでいる。この点はこれまで指摘されてこなかったが、この歌群を考える上で重要なことである。歌を生む基盤、設定だからである。
二首とも池が詠み込まれている。万725番歌は彼女が目にしている池、万726番歌は離宮内にあって今目にしているのとは別の、ふだん見ることのできない池である(注8)。ただし、そのどちらも春日の里にある池である。すなわち、最初の歌で天皇に問題を出し、続く歌でよりわかりやすくするヒントを与えている。
「池(ケは乙類)」と「行け(ケは乙類)」とが掛詞として暗示されている。郎女が春日の里で池のことばかり訴えているのは、自らがこの地へ「行け(ケは乙類)」てしまって楽しんでいるように、離宮へおいでになってお寛ぎあそばれてはいかがですかと進上しているのである(注9)。毒に(も薬にも)ならない内容をヤマトコトバのテクニックを弄して歌に作っている。「大伴坂上郎女、在二春日里一作也」と脚注があるから、春日の里で歌を作り、おそらくは後日、平城宮内で開かれた宴席に参内した折に披露したものだろう。彼女は春日の里へ先んじてすでに「行け(ケは乙類)」してきたのである。そして、天皇が離宮へ赴くとなれば、それは行幸(御幸、ミは甲類)である。ミ(水、ミは甲類)+ユキ(行)と同音である。池水のことを盛んに論っていたのは行幸のことを言いたかったからである。天皇にとって、恋仲でもない大伴坂上郎女から相聞の歌を贈られ、その内容も何を捏ねくっているのか池水がどうしたという突飛なことを言っているのだから、ああ、これは歌の言い回しでよく行われているなぞなぞなのだな、と気づいたに違いない。そして、離宮内の池にひょっとしたら鴨 duck がいるかも? と誘いをかけられ、思わず笑い、乗せられて、その後、離宮へ赴くことがあったのではないか(注10)。
にほ鳥の 潜く池水 心あらば 君に吾が恋ふる 心示さね(万725)
にお鳥が潜る池水、そのイケミヅが心を持っているなら、私が春日の里にすでに「行け」てしまっていて明媚な風光を「見つ(ミは甲類)」、見てしまっているこの気持ちを水面に表して君に示そうておくれなさい。とても気分がいいですよ。
外に居て 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを(万726)
離れていて恋しく思わないということは、もし私が鴨であるなら君の離宮内の池に住むという鴨になりたいというのと同じことで、渡りを忘れて取り残された鴨がいるかもしれないと思うと、そんな孤独は嫌だなあと思えてきます。たえず近くにいて熱々の仲なのが良くて、離宮内の池に取り残された鴨なんかになりたくないわ。
(注)
(注1)東1994.は、中国文学においては苑池で催された宴の詩に水禽を詠み込むことがあり、関係があると指摘しているらしいのであるが、証明になっていない。また、「にほ鳥」は深く潜るから、秘めた恋心の象徴としているとする見解もあるものの、「潜」いているのは「池水」である。
(注2)土屋1976.は、聖武天皇御製の歌を賜っていたからそれに返報したものとする説を唱えている。青木1997.は、大伴氏の家刀自として宮廷への接近を願ったものとの説を唱えている。
(注3)当時、心字池といったものがあったわけではない。また、池の中心付近のことを池の心というからそれによる作とする見方もあるが、その時、「心あらば」と仮定することはない。中心のない池はない。さらに、「池心」と称する漢語から、池にも思う心があるとした表現によるとの説もあるが、漢文を訓読しながら漢語にはない意味を生み出したことになる。万葉集とその同時代に他に見られない奇想天外な新語はあり得ないだろう。難しい言葉を作って口にしたとしても、聞いた人に通じなければ言葉として成り立たない。
(注4)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注5)イク(行、往)はユク(行、往)に比べて新しく、俗な形かと思われており、万葉集歌では字余りの句に現れている。この駄洒落では彼女の立場としてイクと俗っぽく言って謙譲し、天皇のミユキ(行幸)という敬語表現との違いを適切に表している。
(注6)春日の里は平城京の東、現在の奈良市白毫町付近のことであるとされている。岸1966.。
(注7)万725・726番歌にそれぞれ「池」が出てきている。伊藤1975.は、平城宮内裏に西池と称する池があり、そこに違いないという。詩や歌の宴が催された文雅の場で、坂上郎女も参加することがあったか、ないしはその様子を洩れ聞いていたから歌ができているとする。しかし、そうなると題詞下の脚注にある断り書きは、ただそこで作ったというだけになり、特筆の用を足していないことになる。一方、中西1996.は、坂上郎女は宮中に奉仕した命婦で、何らかの事情で春日の里に里居していたことを言うための注で、命婦だったから天皇と歌の交渉ができたのだと主張している。「外に居て」という歌詞を説明するものであるとするのだが、そうなると「春日」を省いた「大伴坂上郎女在里作也」で十分ということになる。歌では水鳥のいる「池」が殊更に詠まれている。職掌上、池と関係が見えない命婦を問題にしても始まらない。
(注8)岸本由豆流・万葉集攷証は、「禁中をさして家などはいふべからず。されば、思ふに、この二首の歌は、天皇まだ皇太子におはしましゝほどに奉るにもあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970579/1/139)とする。木下1983.は「離宮ならばイヘといってよいのではなかろうか。」(364頁)としている。実質的に離宮のことを言っていることになっている。
(注9)行楽みやげに天皇へその地の良さを喧伝奏上することは行われていた。一例あげる。
九月に、有間皇子、性黠くして陽狂すと、云々いふ。牟婁温湯に往きて、病を療むる偽して来、国の体勢を讃めて曰はく、「纔彼の地を観るに、病自づからに蠲消りぬ」と云々いふ。天皇、聞しめし悦びたまひて、往しまして観さむと思欲す。(斉明紀三年九月)
(注10)これまでこの歌はわからなかった。何がわからなかったか。駄洒落によるなぞなぞの歌だった点である。万葉集の研究者は万葉集の歌を学問の対象としている。言葉遊びにすぎないとわかったら熱意も冷めてしまうだろう。しかし、歌は歌い手と聞き手のあいだで言葉が保たれることで成り立っている。理解されない言葉で歌が作られることはない。歌の聞き手とは、歌を贈られた当事者のみならず、周囲で耳をそばだてている有象無象も含まれている。オーディエンスのいない舞台はむなしい。知恵さえ働けば誰でもわかる言葉が使われることでオーディエンスの心をとらえて座は盛り上がる。豊潤な言語活動の賜物として地口、頓智の言葉遊びが現れている。当時の言語水準は、文字に頼るのではなく口頭の音声によって高められていたのであり、その沃野を今日、万葉集の伝書にテキストデータとして辿ることができる。現代とは異なる文化を垣間見ることのできる希少なチャネルである。
(引用・参考文献)
青木1997. 青木生子『青木生子著作集 第5巻 萬葉の抒情』おうふう、平成9年。
伊藤1975. 伊藤博『萬葉集の歌人と作品 下 古代和歌史論4』塙書房、昭和50年。
岸1966. 岸俊男『日本古代政治史研究』塙書房、昭和41年。
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
庄司1999. 庄司恵「大伴坂上郎女における献天皇歌表現について」三重大学日本語学文学会編『三重大学日本語学文学』第10号、三重大学日本語日本文学研究室、1999年6月。三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクション http://hdl.handle.net/10076/6547
土屋1976. 土屋文明『万葉集私注 二(巻第三・巻第四) 新訂版』筑摩書房、昭和51年。
中西1996. 中西進『中西進 万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。
東1994. 東茂美『大伴坂上郎女』笠間書院、1994年。
※注釈書に関しては行論上重要なもののみ記した。
加藤良平 2025.4.2初出