源順の和名類聚抄は平安時代の承平年間(931~938)に成立した百科事典的な古辞書である。古来、権威ある辞書の代表格として利用されてきた。江戸時代には、元和三年(1617)に那波道円の古活字本(二十巻本系)が刊行され、それに基づいた附訓整版本も流布した。さらに、狩谷棭斎は諸本を校合して詳細な考証を加え、箋注倭名類聚抄(十巻)が文政十年(1827)に成っている。百科事典に対して漢和のさらなる考証を加えた途方もない注解書である。右に出る者はもはや現れないだろう。研究は尽くされており、今の人には馴染みのない文体のためわかりにくいものになっているのだと思われている。
しかし、そうとばかりは言えない。源順が志した方針と狩谷棭斎が考証したことには、基本的な姿勢に違いがあるのではないか。
一例をあげる。和名類聚抄の巻第一、天地部第一、田野類六の「田」の項である。
田 釋名云土已耕者為田〈徒年反和名太漢語抄云水田古奈太〉田填也五穀填滿其中也
附訓流布本に従うと次のように訓める。校訂が問題なのではない。
田 釋名に云はく、土の已に耕す者を田と為といふ。〈徒年の反、和名は太。漢語抄に云はく、水田は古奈太〉。田の填るなり。五穀、其の中に填満すなり。
箋注倭名類聚抄では次のように記されている。
田 釋名云、土已耕者爲レ田、〈徒年反、和名太、漢語抄云、水田、古奈太、○水田見二後漢馬援傳一、按新撰字鏡、墾字訓二古奈多一、谷川氏曰、日本紀熟訓二古奈須一、蓋粉成之義、然則古奈太、熟田也、〉田、塡也、五穀塡二滿其中一也、〈○所レ引釋地文、原書無二土字一、爲作レ曰、五穀作二五稼一、齊民要術引作二五穀一、與レ此同、按禮記禮運注、田者人所二捊治一、哀十二年公羊傳疏、凡言レ田者、指二墾土之處一、是卽土已耕之義、說文、田陳也、樹レ穀曰レ田、象二四囗一、十阡陌之制也、爾雅釋文引二李巡注一云、田〓(陳偏に欠)也、謂二〓(陳偏に欠)列種レ穀之處一、廣雅亦云、田陳也、劉氏釋爲レ塡者、恐非レ是、〉
くだくだと引用しているけれど、結局のところ源順が選び書いた「填(塡)」字について理解に至っていない。
源順は「田填也五穀填滿其中也」と書いている。「田」は「填」である、それだから、「五穀」が「其中」に「填滿」するのであると言い切っている。それが本当かどうかが問題ではなく、源順がそのように解した、あるいは説いている、その理解の仕方について理解する必要が(原典の和名類聚抄を対象とする研究には)ある。
「填(塡)」についてミテルという附訓ばかり気にしていたら正解にはなかなか辿り着けない。彼はまず音で理解した。テン(デン)という音である。中国では音が同じなら意味も同じと聞いたことがあった。つまり、「田」は「填」のつもりだったのだろう。だからこそ、「田」は、「五穀填滿其中也」なのだと仮説している。そして、それが我が国でも当てはまるか検証してみた。「田」という字は三本線が縦横に刻まれている。すなわち、「田」はミツ(三)の完成形である。だからミツ(填)と言って正しい(注1)。結果、たくさんの稔りで填満する(注2)。
最初の説明の「釋名」では耕したらそれが「田」であるとしているが、耕しただけで「田」になることはない。読んでみてそれが伝わって来なかったら辞書として説明不足である。解いてわかりやすくする工夫をしている。デンがテンになって稔りがミツ(填(満)&三(|||))、結果的にそうなるように前もって耕作した地のことは「田」というのである、と。
田 釋名云土已耕者為田〈徒年反和名太漢語抄云水田古奈太〉田填也五穀填滿其中也
田 釋名に云はく、土、已に耕せば田と為るといふ。〈徒年の反、和名は太。漢語抄に水田は古奈太と云ふ。〉田は填つるものなり。五穀、其の中に填ち満つなり。
眉唾な説であるものの洒落のわかる人にはわかる。和名類聚抄はそういう類の書き方がされた箇所があるという側面は、いまだ誰も気づいていないようであるが研究するには外せない要素である。源順は学問を積んだ人であったが、学者として一生を送った人ではなく、和歌所の寄人になるなど実践の人であった。万葉集にある「左右」をマデと訓んだという逸話は石山寺縁起絵巻に描かれている。
(注)
(注1)ミツという言葉は、上代に「三」、「填」ともにミは甲類である。この言説は案外に早くから行われていた可能性が高い。源順が素っ気なく記している所以であろう。
(注2)「填(塡)」字にミテルと附けた訓は疑問である。自動詞は四段活用、他動詞が下二段活用である。
(参照)
狩谷望之写・和名類聚抄(京本)(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2545186/1/22)
那波道円校・倭名類聚鈔(早稲田大学古典籍総合データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_04312/ho02_04312_0001/ho02_04312_0001_p0017.jpg)
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1126429/1/32)
加藤良平 2025.9.1改稿初出