十握剣(とつかのつるぎ)を逆(さかしま)に立てる事─その上下の向きについて─

 記紀のなかで十握剣とつかのつるぎ(十掬剣)が「さかしま」に立つ例は次の三例である。はじめに、今日ほぼ定訓とされている形で示す。

 ふたはしらの神、ここに、出雲国いづものくに五十田狭たさはま降到あまくだりて、則ち十握剣とつかのつるぎを抜きて、さかしまつちつきたてて、其の鋒端さきうちあぐみにゐて、大己貴神おほあなむちのかみに問ひてのたまはく、……(神代紀第九段本文)
 是を以て、此のふたはしらの神、出雲国の伊耶佐いざさはまくだいたりて、十掬剣とつかのつるぎを抜き、さかしまに浪の穂に刺し立て、其の剣のさきあぐて、其の大国主神おほくにぬしのかみに問ひて言はく、……(記上)
 明旦くるつあしたいめの中のをしへりて、ほくらを開きてるに、はたして落ちたる剣有りて、さかしまくら底板しきいたに立てり。即ち取りてたてまつる。(神武前紀戊午年六月)

 上二例は、国譲りの場面でオホクニヌシを脅す際に立てられている。第三例は、神武天皇の東征において、熊野で霊験あらたかな剣が夢のお告げどおりに立っている。
 オホクニヌシへの慎重な脅し方は、「倒」状態で見せることである。大系本日本書紀は神代紀第九段本文の解説として、「神武即位前紀戊午年六月条の高倉下の条に武甕雷が韴霊(〈ふつのみたま〉)の剣を下し、倒しまに庫の底板に立ったことが出ており、武甕槌系の剣霊の出現の仕方として、尖端を上にして立つ剣が考えられていたのであろう。」(370~371頁)とする。
 尖端を上にするというこの説は広く認められた考え方である。新編全集本日本書紀には、「剣を逆さに立てることは、武甕雷神が韴霊〈ふつのみたま〉の剣を下す(神武即位前紀戊午年六月条……)例にもみられ、刀剣神の出現を意味する。その先に趺坐〈ふざ〉する行法は、本来神の出現を願う司霊者の行為。「踞」はすわりこむ意。ここは「趺」に同じく、足を組む、あぐらをかく意。アグムは古訓。」(117頁)、西宮1979.には、「剣の切先きつさきを上にし、つか波頭なみがしらに刺し立てる。……足を組んで剣の切先の上に坐ること。建御雷神は刀剣神だから剣の切先に姿を現したのであるが、臥剣上舞(信西しんぜい古舞こぶがく)のような「絵説えとき」による表現かもしれない。「趺坐」は仏典語。」(84頁)、西郷2005.には、「「逆に」というのは、剣はサキで刺すものであるのに、ここは柄の方を波頭に刺してたてたからである。高倉タカクラジが天照大神から霊剣を得る書紀の条……[も]おそらく神剣の示現形式であったのだろう。「逆に」つまり剣鋒を上に刺し立て云々というこの建御雷の姿も、剣を属性とする神の示現の形に他なるまい。」(265頁)、新釈全訳日本書紀には、「剣の柄を下にして地に突き立てた。巻三神武即位前紀にも、武甕雷神が地上へ降した剣が、柄を下にして庫の底板に突き立ったとある。「植」の古訓ツキタテテ。「田僕。(中略)獲者に令して旌を植(タ)つ」鄭玄注「植は樹なり」(『周礼』夏官・田僕)。」(199頁)とある(注1)
 剣の先を上とするのが「逆」であるとする考えは、本居宣長・古事記伝にすでに見られる。「○サカサマニ刺立サシタテとは、剣は、サキを以サスものなるに、是は柄の方を刺立サシタツる故に、サカサマと云り、○剣前ツルギノサキは鋒なり、上にも御刀前ミハカシノサキなどあり、【延佳本に、前を麻閇マヘと訓るは、いみしきひがことなり、こは剣鋒に趺坐むは、イトあるまじきことなり、と思へるからの強事シヒゴトなり、凡て近世の人の、漢籍カラブミにへつらへる、なまさかしら心は、みなかくの如し、】書紀には、抜十握 ヲ-植サカサマニサシタテヽツチニ テ鋒端サキニとあり、【是をさへ白井氏などが、其マヘに踞る由に註したるは、いかにぞや、さては鋒字は何の用ぞ、いと可笑ヲカシくこそ、】……然れば書紀に踞其鋒端とあるは、剣鋒にコシ懸坐カケヲルを云る」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/342、漢字の旧字体は改めた)とある。
 文中に白井氏とあるのは、白井宗因・日本書紀神代私説(延宝二年)のことか。本居宣長は、自ら「鋒」の字をもって「漢籍カラブミにへつらへる、なまさかしら心」をもって唱えている。見慣れているかたなは片方に刃がついていて、他方が嶺となっている。刀の場合に「鋒」とあれば、確実に先端部を指すと知られよう(注2)。ところが、今問題にしているのは両刃の剣である。先っぽで刺したり突いたりすることがこの武器の活用法であったとは思われない。刺し突くものとして指向するなら先端をもっと尖らせるだろうが、そうはなっていなく、ただただ全身が刃である。刃がまわり連なって巡っている点が特徴である。牙のような刃がめぐり連なっているからツルキ(ギ)と呼ばれたのではないか(注3)
 「鋒」という字で表意しようとしているのは、全身につるんで実となっているから、どこの刃の端でも切るのに支障がないということのようである。すべてが鋒となっているものこそ剣であると言えるのである。
 通説のように、剣の刃を上にしてあれば、腰掛け坐るや否や尻は切り裂けるだろう。武甕槌神たけみかづちのかみ(建御雷之神)や津主神つぬしのかみ、または天鳥船神あめのとりふねのかみらはヨーガの先達だから、結跏趺坐して浮遊したとでもいうのだろうか。神武紀の例でも、刃の先の方を上にし、例えば頭椎くぶつちの方を土や床板に刺して立てるような状態を指すとされている。木製のつか(柄)が外れ、なかごが剥き出しにならなければ板に刺さると想定することはできない。考古遺物では、例えば稲荷山鉄剣の銘文は剣の刃の切っ先を上にして文字が刻まれている。その文字の並びの方向について、当時の人が「さかしま」であると認識していたとは思われない。
 「さかしま」・「さかしま」とは、通説とは反対、切っ先を下にした位置関係である。そのことは無文字時代の語学的証明として歴としている。立体的に大きくふくらませた柄頭をいう頭椎くぶつちつち(槌)はつちと同音であり、つちつちに刺さって一致していたらサカシマではないからである。そして、「二神」(経津主神・武甕槌神)は「踞其鋒端」(神代紀)したとある。二神は「鋒」、つまり、両刃の剣の刃のめぐりの端のところで蹲踞している。横綱土俵入りの際(この場合、十握剣が横綱の位置づけである)、登場した横綱の両サイドには二力士が控えている。さらに、底板に突き刺さっているのを「取以進之」(神武紀)とある。柄頭が上にあるから「即」座に握って抜き取ることができる。柄が底板を抜いて立っていたら、刃ばかり見えていて取るのに手を拱く。
 「逆立于浪穂」(記上)とある。わざわざ「刺」と接頭して書いてある。多少なりとも先が尖っているから「刺」すことができるのであり(注4)、柄頭を波頭に入れると考えるのは困難である。波頭に刺し立てることが「逆」であると感じられるのには、その色合いも関係するのだろう。波頭を「浪穂」と表現したように、青い波の上の方に砕けはじめの白さがある。「十掬剣」では、黒打ちの酸化膜の部分か、木製漆塗りないし革で覆われた把(柄)の黒い部分を上、両刃剣の刃を砥石で研いで白く輝いているところが下を向いている。白黒の上下関係が浪と剣で「逆」になっている。
 神代紀の「鋒端」は古訓にサキとある。切っ先のことと解されているが、両刃の剣は牙のような刃がめぐり連なっていてどこでも切れる。至るところが「鋒」である。古事記の話では、続いてたけ名方神なかたのかみ建御雷神たけみかづちのかみの手を取る場面となる。

 ……かれあれづ其の御手みてを取らむとおもふ」といひき。故、其の御手を取らしむれば、即ちたつに取り成し、亦、つるぎに取り成しき。故、しかくして、ぢて退しりぞりき。(記上)

 手には建御雷神の本地神の姿、十掬剣とつかのつるぎが顕れていた。立氷はたるの上下反対、つららの上下反対の形である。相手を威圧するために刃を上に立てている剣のさまに近似している。

 十二月廿四日、……日ごろ降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、たるいみじうしだり、つちなどこそむらむら白き所がちなれ、……(枕草子・第302段)
 朝日さす 軒のたるひは 解けながら などかつらゝの むすぼゝるらむ(源氏物語・末摘花)

 日本書紀では「端」字はハシと訓む例が多い。「瓊端たまのはし」(神代紀第六段一書第二)、「甲端よろひのはし」(允恭紀五年七月)、「縄端なはのはし」(顕宗紀元年二月是月)、「大きなる木のはし……すこしきなる木のはし」(継体紀二十三年四月是月)、「みみかねはしきが如し」(推古紀十二年四月、憲法第十条)、「床席しきゐ頭端はし」(天智紀三年十二月是月)などとある。また、一定の幅をもって両側にはしを有するところから、布の単位として「むら」と訓む例もある。「無端事あとなしごと」(天武紀朱鳥元年正月)という例は究極の使われ方である。言=事のつながりに端緒がないことの問い、すなわち、なぞなぞのことである。クイズのように正解が知識の形で与えられている場合は周辺の知識が答えに至る端緒となる。なぞなぞではそのようなことはなく、お題を提示した人の思考の巡りに自らも同調できたときにアハ体験として答えが得られる。このように「端」の字はハシと訓む例が多く、訓まなくてもその意を汲んでいる。
 対応する古事記の「剣前」は、一般にツルギノサキと訓まれている。記紀が同じ文脈であると捉えて両者に共通する訓が求められ、「前」はサキと訓めるから「鋒端」に古訓サキとあることと併せて納得してしまっている。けれども、記では「浪穂」、紀では「地」に立てていて話が微妙に違っている。「鋒端」をサキと訓むことに固執してはならない。
 古事記では、「前」の字はサキ、マヘと訓む例が多い。場所を表す場合、「御刀みはかしさき」、「気多之けたのさき」、「かさ沙之御さのみさき」、「訶夫羅かぶらさき」、「あま白檮之かしのさき」といった使われ方をしている。細長い物の先端部分、地形の岬の部分など、空間的に突き出たところを表している。また、「其の媛女をとめ等のさきに」、「最前いやさき」というように、列の先頭にいることもサキという。場所以外の例では、時間に用いられる場合、「以前さき」という。
 他方、神さまを祭る場合、「墨江すみのえ三前みまへの大神おほかみ」、「いつくまへの大神」、「まへに仕へ奉る」、「吾がみまへに」といった使われ方をしている。神さまのことを直接対象とするのは憚られてその前のところ、影が映るようなところをお祭りをするように言っている。マヘ(前)はマ(目)+ヘ(方)の意とされる。神さまはこちらを向いてくれているわけである。対して、私、ここ、陸、今から見て向こうを向いているのがサキである。
 古事記の「前」字には他の訓み方もある。「高志こしみちのくちつの鹿」、「床前とこのへ」である。越前国について、その「前」字の意味合いは都に近いところを指している。諸国は都のヤマト朝廷に仕え奉るものと想定されていた。当然、都の要求にハイハイと答えるために都の方を向いていなければならないから「前」と記され、マヘの意をもってミチノクチと訓まれている。
 「床前とこのへ」の例については、竪穴住居においても寝るために一段高くした「とこ」(ベッド状遺構)が設えられていたとされている(注5)

 赤土はに以て床前とこのへに散し、へそのうみを以て針に貫き、其のきぬすそに刺せ。(崇神記)

 「床」の「前」はサキでもマヘでもない(注6)。床を取った藁布団か何かの周囲、周辺、辺り、近いところ、ほとりのことをいうヘ(辺・端・方、甲類)の意である。「(ヘは乙類)」は別語である。

 …… 明星あかほしの くるあしたは 敷栲しきたへの とこ去らず 立てれども れども ……(万904)
 蟋蟀こほろぎの が床のに 鳴きつつもとな 起きつつ 君に恋ふるに ねかてなくに(万2310)
 里とほみ 恋ひうらぶれぬ 澄鏡そかがみ 床の去らず いめに見えこそ(万2501)
 頭辺、此には摩苦羅陛まくらへと云ふ。脚辺、此には阿度陛あとへと云ふ。(神代紀第五段一書第七)

 現状では、古事記の、浪の穂に刺し立てた十掬剣の「前にあぐて」いる状態は、十掬剣の霊力をもって浪が収まっているためで、その刃の上にじっと趺坐することができているのだと解釈されている。頭のなかでの思考実験だから不可能ではないが、浪の穂に上から刺し立てた十掬剣のある浜辺で趺坐していると考えた方が穏やかに思われる。前文で、二神の降り立ったのは出雲国の伊耶佐いざさはまであると断られており、浪の穂の上に降り立ったわけではない。浪の穂に剣を刺し立てた理由は、浪が立って潮がかかるのが嫌だから浪を抑えようとしてのことらしい。浪の穂の泡立つ様子は白く輝いていて、同じく剣も刃のところは磨かれて白かったから対照させている。目には目を、歯には歯をという対処法である。そうすることによって波は収まり、凝り固まって陸地になったと思わせている。イザナキ・イザナミ二神の国生みの話の最初に、「其の矛の鋒より滴瀝る潮、凝りて一の嶋に成れり。」(神代紀第四段本文)とある。知られているイメージを再構成して話が進められ、聞く人に受け容れられやすくなっている。
 一方、日本書紀では少し違っていて、十握剣を鞘から抜いてふだんのあり方とは逆に地面に立てたという。剣は、威信財として、刃のある方を上、柄の方を下にして立てて見せびらかせて誇示し、相手を脅す道具として用いられていた。その十握剣の「鋒端」にあぐらをかいている。脚を組むように座ることがアグムという動作である。すでに「地」であると言っており、刺し立てたら剣の「鋒」、すなわち、切っ先は地面にめり込んでいる。「鋒端」は剣を刺したてた付近、辺りということになるだろう。
 古訓では、「前」(記)、「鋒端」(紀)ともサキとされている。しかし、サキと訓んでいる限りにおいて、ふだん使いの剣の示威展覧と上下(天地)は同じになり、指示のように「逆」を表すことにはならない。剣は、記紀のいずれも、上から下、天から地へと刺している。「前」や「鋒端」は刺している箇所付近のこと、辺りのことを指す。その場合、サキラという言葉がふさわしく字義にもかなう。

 ……十掬剣とつかのつるぎを抜き、さかしまに浪の穂に刺し立て、其の剣のさきらあぐて、……(記上)
 ……則ち十握剣とつかのつるぎを抜きて、さかしまつちつきたてて、其の鋒端さきらうちあぐみにゐて、……(神代紀第九段本文)

 サキラという語は用例が少ないが、弁舌や書における才覚の現われ、唇の両端のことをいい、後者はクチサキラともいう。新訳華厳経音義私記に「吻 無粉反、謂脣両角頭辺也。くち左岐良さきら」、和名抄に「脣吻 説文に脣吻〈上の音は旬、久知比留くちびる、下の音は粉、久知佐岐良くちさきら〉と云ふ。」、「觜〈喙附〉 説文に云はく、觜〈音は斯、久知波之くちばし〉は鳥の喙なり、喙〈音は衛、久知佐岐良くちさきら、文選序に鷹の之れを礪ぐは是〉は鳥の口なりといふ。」とある。名義抄で「話 サキラ」とあるのは、巧みな言葉の義で意味が拡張している。ラは接尾語で、辺りのことをいう。角川古語大辞典では「ら【等】接尾」について、「②一般的な体言に付いて、ややぼかした表現とする。そのものだけに限らず、同類のものを含めたり、周辺のものにまで及ぼしたりする。」(882頁)と解説している。

 …… ぐはし 花橘はなたちばな しづらは 人みな取り ほつは とりらし ……(紀35)
 あららに 里はあれども 大王おほきみの 敷きす時は 都と成りぬ(万929)
 大野らに さめ降りしく もとに 時と寄りね へる人(万2457)
 吾妹子わぎめこと 二人ふたりわが見し うちする 駿するらは くふしくめあるか(万4345)
 ひさかたの あまかはに 舟けて 君待つらは 明けずもあらぬか(万2070)
 富人とみひとの 家の子どもの 着る身み くたし棄つらむ 絁綿きぬわたらはも(万900)

 サキラは、クチサキのどこらへんのことを指すかと言えば、辺りのこと、先端ではなく口角のところを言っている。「鋒端」の「端」字は、日本書紀で「端正きらぎらし」(神代紀第十段一書第第三)、「端麗きらぎらし」(雄略紀二年十月)、「端厳きらぎらし」(欽明紀十三年十月)にも使われている。キラが二つあわさった語として成っていて、口角が口の両端にあることと通じている。そしてまた、刃物を振り回した時、刀の光の反射は一度のきらめきにしかならないが、両刃である剣の光の反射は二度起こるからきらぎら○○○○しいという表現はぴったりである(注7)。剣が先っぽ一箇所が光彩を放つものではなく峰を挟んで二箇所光ることを示すとするなら、複数形を示すラの付いたサキラという言葉はうまく示した言葉であり、両刃をもって存在自体で威力を発現する特長を述べるのに、才覚の現われと口の両端のことをともにいう言葉サキラで集約的に語ることは義にマッチしている。サキラという言葉はよく練られた語である。

左:銘文付鉄剣(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/稲荷山古墳出土鉄剣#/media/ファイル:稲荷山古墳出土鉄剣_(表面).JPG)、右:「<ruby>逆<rt>さかしま</rt></ruby>」にどすを持つ

 殊更に「さかしまさかしま)」と言っている。第一に考えられるのは持ち手のあり方の違いである。順手でなく逆手のことが念頭にあるらしい。ヤクザ映画で、乗り込んだ先の組事務所の机にどす○○を逆手に持って突き刺すシーンがある。「どす」という語についてはおどすの略ではないかとされている。あいくちのことをいう。十握剣も同じく示威のために用いられている。実用品ではなく脅しの道具であった。
 国譲りの際、剣は地面や波頭に上から下へと突き刺し、その突き刺した辺りに、二神は脚を組んで座ったのである。現実に刃の上に「踞」や「趺坐」することはできず、表現上、宙に浮くようなさまを「踞」や「趺坐」と書くこともない。神武紀の例では「ほくら底板しきいた」にさかしまに突き刺さっている。その際に「さかしま」と強調する所以は、そこが「ほくら」だからだろう。「ほくら」は「神庫、此には保玖羅ほくらと云ふ。」(垂仁紀八十七年二月)とあり、ホコラ(祠)へと音転する語である。名義抄には「秀倉 ホクラ、一云神殿」ともある。ホクラのホは「浪穂」のホと同じである。高く抜きんでていて人目に立つ部分であり、ホクラは高床式倉庫のことである。刃のある部分が身、手で握るところがつか(柄)である剣を顕示する際、輝く身を上に掲げ、ツカは下にくる。高床式倉庫は倉庫の空間に宝物や穀物を納める。そこがクラの(ミは乙類)の部分となり、穀物などの(ミは乙類)を入れておく。「底板」の下には束柱の立つ床下がある。
 日葡辞書に次のようにある。

 Tçuca. l, tçucabavira. ツカ.または,ツカバシラ(束,または,束柱) 床板などの下に,それを支えるために立てる小さな柱,すなわち,支柱.¶Tçucauo cǒ.(束を支ふ)ある材の下にこの支柱を立てる.
 Tcuca. ツカ(柄) 刀の柄,または,小刀などの柄.(622頁)

 ツカ(把、柄、束)が下、ミ(身、実)が上なのが通常である。それが今、ツカが上、ミが下になっている。本来の上下(天地)の関係とは反対になるから、逆(倒)に突き刺さっていると言っている。
 以上、ヤマトコトバに示される事柄についてヤマトコトバによって解釈した。現代の研究では、「倒植」は漢語であって中国での意味は云々、他の民族に見られるように神話学では云々、と解されることがある。しかし、ヤマトの人は基本的にヤマトのことしか知らず、ヤマトコトバしかわからなかった。よその国の人が抱く観念によって説明をつけてみたところで、ヤマトコトバによる伝承世界とは無縁である。聞いただけでわからなければその時限りで消えていく(注8)。消えずに残って記紀に記されているということは、ヤマトコトバの話(咄・噺・譚)として容易に理解でき、誰もが共有できたからである。おもしろがって伝えている。つまらないものは受けないから伝わらない。伝える価値があると認めて伝えようとし、伝わっていくように配慮、工夫された結果が記紀に残されている。剣とは何かについて述べようとして、「さかしまさかしま)」という言葉を使って言い表したのであった。

(注)
(注1)専論に岩田2017.がある。基本的に従前の考え方を踏襲している。

 [記紀]両伝とも、十掬(握)剣を抜き、逆さまにして、その上に「趺坐(踞)」(あぐみ)をして坐したとある。「前」は、空間的にはある位置を中心に据えた、その前方部を指すが、『古事記』では、「御刀之前」(神代記 迦具土殺害)、「甜白檮之前」(垂仁記)など細長い「もの」の尖端を表わす意が見られる。「気多之前」(神代記  稲羽素菟)、「御大之前」(同 少名毘古那)、「笠沙之御前」(同 天孫降臨)、「訶夫羅前」(神武記)は岬の意で、空間において突き出した先端部をいうと考えられる。逆さまというのは、刃の先端を上に向けて立てたということ。その上に座ることは、通常なら考えられない行為である。『古事記」ではさらに、それが「浪の穂」の上で行われたとある。(44頁)

 「通常なら考えられない行為」が想定されていることが十掬剣や建御雷神の凄さであると仮定して検証して行っている。「通常なら考えられない行為」を伝えることはとてもコストがかかる。行論では、上代の人はそのコストに見合うものを伝えようとしたとの主張ではなく、記紀の話を懸命に解釈してなんとか理解しようと努めて迷宮入りしている。
 岩田氏は、「「剣」で「もの」を刺す行為は本来、刃を対象に向けて行使する。それが「逆」であることは力が対象とは逆、この場合は上方に向かっていることを意味する。」、「「剣」の刃が上を向いている状態であることを示す「さかしま」という表現は、「剣」の霊威が対象(建御雷神の場面では刺し立てる場所)とは逆の方向に向くことを意味する。」(52頁)と言う。その前提で「もの」の表現方法について議論を展開している。「もの」をいかに表現するか、すなわち、言葉が後付けされるとする考えは誤りである。「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」(ソシュール)。言葉で/が切り取ることによって世界は存在している。また、無文字時代に抽象的な思考が行われて形而上学たることもあり得ない。
(注2)刀の名所については、「王曰、天子之剣何如。曰、天子之剣、以燕谿・石城鋒、齊代為鍔、晋衛為脊、周宋為鐔、韓魏為夾。……」(荘子・雑篇・説剣第三十)の高山寺本鎌倉初期訓点に、「鋒」にサキ、「鍔」にヤキハ、「脊」にミネ、「鐔」にツミハ、「夾」にツカとある。これは、片側に刃の付いた刀である。両刃剣に「脊(背)」となる峰は見えない。日葡辞書に、「mine.ミネ(嶺・峰) 山の頂上.¶catanano mine. (刀の峰)刀(catana)の背のとがった所.」(407頁)とある。
(注3)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」参照。
(注4)なかごを柄の中に込めることを言っているとは思われない。
(注5)小泉2005.参照。
(注6)床は寝所である。寝ると目は機能しない。マ(目)+ヘ(方)に当たらないわけである。
(注7)推古天皇が、「姿色みかほ端麗きらぎらしく、進止みふるまひ軌制をさをさし。」(推古前紀)と形容されるのは、右から見ても左から見ても美人であり、秩序立って乱れないことを言っている。豪族間の左派、右派どちらから見ても同じであって、ヲサ(長)たる人としてふさわしかったことを表す文章としてふさわしい。文章としてふさわしいのは実態としてそうであったということを表すのにふさわしい。語学的に証明されているわけである。
(注8)今日、記紀の説話、時に神話と呼ばれるものが、天皇制の正統性を訴えるための産物であったとする教理のようなことがまことしやかに語られている。しかし、教理を説こうとすることがあったとしても、そのようなことはその場限りで消えてしまうことが多かっただろう。つまらないことは伝わらずに自然消滅する。そもそも、天皇制の正統性を声高に訴えていたとする仮定は、その時点で天皇の統治が正当なものなのか疑われる状況にあったことを想定していることになる。揺るぎないものなら主張する必要はない。古事記などの編纂過程において天皇制を吹き込もうと画策して偏向されたのだとも説かれるが、当時の人々が文章で記録していくことを重視していたとも思われない。そうであったら、平安時代、日本紀講筵の席で頓珍漢なやりとりが行われたりはしないだろう。

(引用・参考文献)
岩田2017. 岩田芳子『古代における表現の方法』塙書房、2017年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・阪倉篤義・岡見正雄編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
小泉2005. 小泉和子『室内と家具の歴史』中央公論社(中公文庫)、2005年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第三巻』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和59年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編・訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1992年。

加藤良平 2025.8.26改稿初出

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