仁賢紀、難波小野が自死した記事にある「不敬」について

 仁賢紀に、先帝、顕宗天皇の皇后であった難波小野が自死した記述がある。

 二年の秋九月に、難波なにはののの皇后きさき宿もと不敬ゐやなかりしことを恐りて自らみうせましぬ。〈けの天皇すめらみことの時に、皇太子ひつぎのみこ億計おけのみことよのあかりに侍りたまふ。うりを取りてくらひたまはむとするに、刀子かたな無し。弘計天皇、みづから刀子をりて、其の夫人みめ小野におほせて伝へたてまつらしめたまふ。夫人、みまへきて、立ちながら刀子を瓜盤うりざらに置く。是の日に、更に酒を酌むに、立ちながら皇太子をぶ。不敬ゐやなかりしにりて、つみせられむことを恐りて、自らみうせましぬ。〉(仁賢紀二年九月)

 この記事は、日本書紀において、「不敬」罪について取り扱われた唯一の例である。実際に問われたのではなく、自分で「不敬」ではないかと思って自死してしまっている。大系本日本書紀は、「億計・弘計両天皇は相譲の説話にも拘わらず、事実は政治的に対立したことの反映か。」(137頁)と注している。仮にそのように政治的対立があったとしても、難波小野皇后の振る舞いについて、紀が詳細を記した理由の説明にはなっていない。内容に立ち入らなくては疑問の解消につながらない。いずれにせよ、今日までのところその意義について熟考されていない。
 「不敬」について、訓み方としてはヰヤナシと定まっている。そのとおりだろう。ただし、ヰヤナシには「無(无)礼(禮)」字が多く用いられている。特に「不敬」と記した筆録者の工夫は、注意されるべきである(注1)

 ことごとくかぞ無敬ゐやなかたちさとりたまひて、赫然おもほてりて大きにいかりたまふ。(武烈前紀)(注2)
 天皇すめらみことここに、蒲見別王かまみわけのみこの、先王さきのきみゐやきことをにくみたまひて、乃ち兵卒いくさを遣してころす。(仲哀紀元年閏十一月)
 時に皇后きさきこころうちに、馬に乗れるひとことばの礼旡きことをおもひむすびたまひて、即ちかたりてのたまはく、「おびとや、あれ、忘れじ」とのたまふ。(允恭紀二年二月)
 四に曰はく、群卿まへつきみたち百寮つかさつかさゐやびを以てもととせよ。其れおほみたからを治むるが本、かならず礼に在り。かみ礼なきときは、しもととのほらず。下礼無きときは、必ず罪有り。是を以て、群臣礼有るときは、位のついで乱れず。百姓礼有るときは、国家あめのしたおのづからにをさまる。(推古紀十二年四月、憲法十七条)

 不敬罪なるものが、古代ヤマト朝廷でどのように考えられていたのかは不詳である。手掛かりとしては、律令の規定とこの記事ばかりである。名例律の「八虐」に、「大不敬」があり、「六曰、大不敬。〈謂、毀大社、及盗大祀神御之物、乗輿服御物。盗及偽造神璽、内印。合和御薬、誤不如本方。及封題誤。若造御膳、誤犯食禁。御幸舟船、誤不牢固。指斥乗輿、情理切害。及対捍詔使、而無人臣之礼。〉」と定めている。思想大系本律令に、「敬は本来身をつつしむ意であり、尊属や長上などの親族に対する不敬もありうるわけであるから、特に君主に対するそれを公的な不敬という意味で大不敬と呼んだのであろう。」(490頁)と注している。すなわち、仁賢紀で示されている「不敬」は、「尊属や長上などの親族に対する不敬」のことを指しながら、それが特に新天皇に対することになって公的化したから、「恐誅自死」するに及んだということを物語化したものであろう。難波小野皇后は、弘計天皇の皇后である。弘計天皇はその後を継いだ億計天皇の弟に当たる。難波小野皇后(弘計天皇の夫人小野)の義兄が億計天皇(皇太子億計)で近親関係にあるから、「無礼」ではなく「不敬」と扱われていると考えられる。
 では、どういった態度、行動が「不敬」に当たるのか。新編全集本日本書紀に、「貴人に対し、立ったままで、物を手渡したり話したりするのは不敬とされる。」(259頁)と解されている。そういう行為を承けて、「縁斯不敬」と述べているから、「斯」は「立」という姿勢を取っていたことがいけないのであろうと推測されている。
 しかし、少しわからないところがある。同じ「立」でもしていることが違うからである。

 ①夫人、就前、立置刀子於瓜盤
 ②[夫人、]立喚皇太子

 ①では、夫人は、刀子を億計皇太子のところへ持って行って、そこで立ったまま盤に置いている。②で、夫人が喚ぶときは、その場で立っただけで声を上げている。億計皇太子の近くまで行って立ったままで呼んだわけではない。この両者が、二つながら同様に「不敬」であると捉える際、「立」という姿勢ばかりに求められている理由が解明されなければならない。早く書陵部本に、「立」にはタチナガラという傍訓が施されている。
 最初の「不敬」行為は刀子にまつわるものである。ここに大いなるヒントは隠されている。刀子はナイフである。刃がついている。刃のことはナといい、片側についているものがカタナである。もっと大きなもので両刃のものはツルギ(剣)やタチ(大刀)と呼ばれる。人や物を斬って断つからタチという。タチにもナにもあるカラ、タチナガラという言葉にあるカラとは柄のことである。エともいう。二十巻本和名抄に、「器皿部第二十三 四声字苑に云はく、皿は武永反、器の惣名なり、柄の音は篳病反、器物の茎柯なり、和名は、一に賀良からと云ふといふ。」、名義抄に、「柄 碑敬反、エ、一云、カラ、ツカ、カビ、トル、本柄、権柄、尿柄、柱柄、戈甚反」とある。エはヤ行のエ(ye)である。すなわち、タチ(大刀)+ナ(刀、あるいは助詞)+ガラ(柄)のことを表すタチナガラにより、柄=ye のことを謂わんとしていることになる。同音のエ(ye)には、兄(姉)の意味がある。同母の子のうち年少者からみた同性の年長者のこと、すなわち弟からみた兄、妹からみた姉のこと、ないし、年上の人に対する呼び方であった。難波小野皇后からみて億計天皇は義兄にして異性だから最初の用法には当たらない。難波小野皇后と億計天皇との年齢関係は不明であるが、弟の弘計天皇の妻なのだから年上の人に対する呼び方と考えて妥当だろう。すなわち、「[夫人、]立喚皇太子。」際に呼びかけた声は、「え(ye)」=兄であったとわかるのである。

 かつがつも いやさきてる をしかむ(神武記、記16)

 連れ立って歩いている七人の嬢子をとめの先頭を行く年長者を、とりあえず妻にしようと天皇が歌っている。ぞんざいな言い方である。言外に、全部自分の妻にするつもりだが、最初に一番上の子を求めようと言っている。自分のもの的な高慢な要求だから、近親関係にないのにエと指称している。
 仁賢紀の難波小野皇后が義理の兄に向ってエと呼び掛けることも失敬(注3)なことと感じられる。同母の兄弟姉妹の間柄であれば、親しみの感情をこめてエと呼ぶことは許されるだろう。しかし、義理の兄に対してエと呼ぶのは、親しき仲にも礼儀ありの原則を逸脱しているどころか、節度を越えた近親関係への介入と見られても仕方あるまい。夫である億計天皇が存命中なら億計と弘計とは天皇の位を互譲するほど仲良しだから許されたかもしれないが、もはや依って立つ後ろ盾はいない。そこで、難波小野皇后はそのときは皇太后であるが、不敬であったと思い、つみを咎められることを嫌がって自死してしまったということになる。
 無文字時代の上代においては、人々は言葉に拘束される風潮にあった。彼ら、彼女らは、言葉に生きていた。言葉と事柄とは相即であることが常時求められていた。ヤマトコトバに忠実に生きていたのである。いま、エの話である。瓜の盤に刀子を、相手に取りやすいように柄を逆さにしてではなく、おそらくは自分の方に柄があるままに置いてしまっている。和名抄に、「盤 唐韻に云はく、盤〈薄官反、佐良さら〉は器の名なりといふ。」とある。どうして瓜の盤の話になっているのか。瓜はナイフを使って半分に切り、熟れた中身を匙で掻いて食べる。食べ終わればそれは器皿の盤になる。形のゆがんだ瓢箪形のものなら、食膳具として柄のついた匙にも用いられる。伸びているところを手でつかんで使う。その部分が柄である。すべてはエにまつわる話なのだと読める。
 タチ(大刀)やナ(刀)のカラ(柄)、すなわち、エのことは、特にツカという。和名抄に、「〓(木偏に覇) 唐韻に云はく、〓(木偏に覇)〈音は覇、和名は太知乃豆加たちのつか〉は剣の柄なりといふ。考工記に云はく、剣のなかご〈今案ふるに即ち〓(木偏に覇)なり〉、人の握る所は鐔より上なりといふ。」とある。つかむところだからツカである。ツカと同音の言葉に、ツカ(塚)がある。新撰字鏡に、「壟 力勇力隴二反、上地□山高□也、塚也、豆加つか也」、和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀つか〉は塚塋地なりといふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営の二音〉は葬地なりといふ。方言に云はく、墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉はならびに塚の名なりといふ。」(注4)とある。き盛り上げた墳墓のことである。ヤマトコトバに従えば、タチナガラとはツカであり、塚のことでもあるのだから、塚に葬られるべしという公式に当てはまって、いわばヤマトコトバに準ずるように殉ずることになっているのである。もちろん、それがいわゆる史実であったかについては検証の余地がない。記されているのは話(咄・噺・譚)である。
 以上、仁賢紀二年九月の、先の皇后、難波小野の自死逸話について検討した。ヤマトコトバの全盛期なら、聞いた人は誰もがすぐに理解できる話(咄・噺・譚)であったと結論づけられる。

(注)
(注1)白川1995.の「ゐやぶ〔礼(禮)・敬〕」の項に、「饗宴の儀礼を礼という。……敬はのち敬愛の意とな」(811頁)るとある。
(注2)紀に「礼」ではなく「敬」のなきことを記す例は、仁賢紀以外ではこの例に限られる。八虐に当たるという意味から、「無礼」とせずに「無敬」としたと考えられる。武烈前紀において、天皇になる前の太子の使いに逆らって平群真鳥大臣は官馬を出さず、その息子の鮪は、太子の結婚相手の影媛に手をつけていて、太子が影媛の袖をつかんでいたのを振り払わせている。大不敬には、「乗輿の服御の物を盗み、……及び詔使に対ひ捍むで、人臣の礼無きをいふ。」とある。
(注3)広辞苑に、失敬は、「①人に対して礼を失うこと。敬意を欠くこと。失礼。」(1148頁)、失礼は、「①礼儀を欠くこと。礼儀をわきまえないこと。不作法なこと。しつらい。」(1155頁)と説明されている。類義語でありながら、失敬には二者間の関係におけるもの、失礼には社会の全構成員の関係におけるものというニュアンスの違いが見て取れる。
(注4)和名抄にある「大言圡」(伊勢十巻本、前田本、高松宮本)は、「方言云」の誤りではないかとする狩谷棭斎説が有力で、ここではそれに従った。

(引用文献)
広辞苑 新村出編『広辞苑 第四版』岩波書店、1991年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1977年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。

加藤良平 2020.4.11初出

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