仁徳天皇には、「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竃は 賑ひにけり」(新古今707)なる伝承歌があり、あたかも本当に「聖帝」であったかのように語られることがある。
是に天皇、高き山に登りて四方の国を見て詔りたまはく、「国の中に烟発たず。国皆貧窮し。故、今より三年に至るまで、悉く人民の課伇を除せ」とのたまふ。是を以て、大殿破れ壊れて、悉く雨漏れども、都て脩理ふこと勿し。〓〔礻偏に咸〕を以て其の漏る雨を受け、漏らざる処に遷り避けましき。後に国の中を見たまふに、国に烟満つ。故、人民富めりと為ひて、今はと課伇を科せき。是を以て百姓の栄えて、伇使に苦しびず。故、其の御世を称へて聖帝の世と謂ふぞ。(仁徳記)
四年の春二月の己未の朔甲子に、群臣に詔して曰はく、「朕、高台に登りて、遠に望むに、烟気域の中に起たず。以為ふに百姓既に貧しくして家に炊く者無きか。朕聞けり、古は聖王の世には、人人、詠徳之音を誦げて、家毎に康哉之歌有り。今朕、億兆に臨みて、玆に三年になりぬ。頌音聆えず。炊烟転疎なり。即ち知りぬ、五穀登らずして、百姓窮乏しからむと。邦畿之内すら、尚給がざる者有り。況や畿外諸国をや」とのたまふ。
三月の己丑の朔己酉に、詔して曰はく、「今より以後三年に至るまでに、悉に課役を除めて、百姓の苦を息へよ」とのたまふ。是の日より始めて、黼衣絓履、弊れ尽きずは更に為らず。温飯煖羹、酸り餧らずは易へず。心を削くし志を約めて、従事乎無為す。是を以て、宮垣崩るれども造らず、茅茨壊るれども葺かず。風雨隙に入りて、衣被を沾す。星辰壊より漏りて、床蓐を露にす。是の後、風雨時に順ひて、五穀豊穣なり。三稔の間、百姓富寛なり。頌徳既に満ちて、炊烟亦繁し。
七年の夏四月の辛未朔に、天皇、台の上に居しまして、遠に望みたまふに、烟気多に起つ。是の日に、皇后に語りて曰はく、「朕、既に富めり。更に愁無し」とのたまふ。皇后対へ諮したまはく、「何をか富めりと謂ふ」とまをしたまふ。天皇の曰はく、「烟気、国に満てり。百姓、自づからに富めるか」とのたまふ。皇后、且言したまはく、「宮垣壊れて脩むること得ず。殿屋破れて、衣被露る。何をか富めりと謂ふや」とまをしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是百姓の為になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆるときには顧みて身を責む。今百姓貧しきは朕が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。
秋八月の己巳の朔丁丑に、大兄去来穂別皇子の為に壬生部を定む。亦皇后の為に葛城部を定む。
九月、諸国、悉に請して曰さく、「課役並に免されて既に三年に経りぬ。此に因りて、宮殿朽ち壊れて、府庫已に空し。今黔首富み饒にして、遺拾はず。是を以て、里に鰥寡無く、家に余儲有り。若し此の時に当りて、税調貢りて宮室を脩理ふに非ずは、懼るらくは、其れ罪を天に獲むか」とまをす。然れども猶忍びて聴したまはず。
十年の冬十月、甫めて課役を科せて、宮室を構造る。是に、百姓、領されずして老を扶け幼を携へて、材を運び簣を負ふ。日夜を問はずして力を竭して競ひ作る。是を以て、未だ幾時を経ずして宮室悉に成りぬ。故、今までに聖帝を称めまをす。(仁徳紀四年二月~十年十月)
この話は、民の竃の話としてよく知られている(注1)。そして、仁徳天皇は、諡どおり聖帝であった、有徳の人であった、聖人君子であったと後講釈されている。仁徳天皇の条には長々しい皇后の嫉妬話や、義兄弟姉妹を殺したり、巨大な寿陵を作らせた記事が載る。紀では質素倹約の話の途中で「壬生部」や「葛城部」が設けられており、政策の一貫性も疑われる。なのに、どういうわけか聖帝ということで通っている。理想的な天皇像が造形され、述作されたのであると論じられている(注2)。
けれども、記では、仁徳天皇(大雀命)のことを直接「聖帝」であるとは述べていない。「称二其御世一、謂二聖帝世一也。」とあり、その時代のことを聖帝時代と言っている。このわざとらしい婉曲表現は注意を要する。紀でも話の締め括りに、「故於レ今称二聖帝一也。」とあり、「於レ今」、つまり、その当時「聖帝」の「称」があったのではなくて、紀が編纂されている今現在、または、今までのある時に、あるいは、そのある時から今に至るまで、と断り書きを入れつつ「聖帝」と「称」されたとしている。「『聖帝』?!」という考えが貫かれている。ヒジリノミカドって何だろうね、と聞く側に問いかけられている。
聖という語は、白川1995.に、「神秘な霊力をもつ人。「ひ」は日また霊、「しり」は知る、また占るの意。わが国ではもと天皇の意に用い、のち仙・仏の行者をいう語となった。ついには高野聖にまで下落するのは、古代の巫祝者の一般的な運命である。ヒは甲類。」(641頁)とある。
聖の聖を知れること、其れ実なるかな。(推古紀二十一年十一月)
玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御世ゆ 生れ座しし 神の尽 ……(万29)
酒の名を 聖と負せし 古昔の 大き聖の 言の宜しさ(万339)
お酒の銘柄に用いられるほど「聖」という言い方は俗っぽいものとして用いられている。仁徳天皇の場合、記紀の記述に本当に聖なのか否か不分明な形で「聖帝」とされている。民の竈の話にしてもどうもしっくりこないところがある。今上天皇皇后両陛下は、政治行為はなさらないが、震災の被災地を訪問され、避難所のひとりひとりを慰められ、励まされている。大雀命(大鷦鷯尊)(仁徳天皇の名)が本当に人民の生活状況を知ろうとするなら、一軒一軒訪ねればいい。目黒のさんまという故事もある。そういうことはしないで、「登二高山一見二四方之国一。」(記)、「登二高台一以遠望之。」(紀)というように、白川郷のきれいな写真を撮りたいがために高いところへ登って行って、茅葺屋根から煙がもわっとあがっていないから生活は苦しいのだろうと考えた。統計的ともいえるこの推量手法が何を物語っているのか、よくよく検討しなければならない。
記紀の間に課役の免除期間が微妙に違っている。年数は問題ではないということのようである。記では特に宮殿の雨漏りの話に焦点を絞っている。三年間、人民に労働徴発しなかったら、宮殿が壊れてひどく雨漏りしたけれど、いっこうに修理しなかった。雨漏りするままに任せ、〓〔礻偏に咸〕で雨水の漏るのを受け、漏っていないところへ移った、ということになっている。この雨漏り放置状況をもって「聖帝の御世」話(咄・噺・譚)は成り立っている。
これは奇異なことである。当該個所の紀ではさらに詳細が記されている。それによると宮殿の屋根は茅葺屋根である。「茅茨壊以不レ葺。」とある。「茅茨」とあって、その末端がカラスにでもつつき抜かれたのか壊れてしまっている。部分的に抜けて薄くなっている。それを放置して葺き直さなかった。茅葺が薄くなればその部分を葺き足していけば良い。カヤシリと訓むからといって茅葺屋根をきれいに切り揃えることととるのは誤りであろう。きれいに切り揃えるかどうかは見た目の違いだけであり、雨が漏るか漏らないかという実用面とは無関係である。屋根は何のためにあるのか。雨露をしのぐためである。デザインは後から付いてくる(注3)。

茅葺屋根の耐久性は、最近まで残された工法によると、全体の葺き替えを要するまで三十~五十年ほどもつようである。その間、大規模な補修は十~二十年ごとに行われている。また、折りに触れてメンテナンスを行う。民俗用語で「さしガヤ」などと呼ぶが、服に穴が開いたらそこへ当て布をして繕っていっているのと同じことである。カビたり腐ったりしている(注4)ところを部分的に取り、新しいカヤ(屋根材とする草)をさし入れて縫い止める。直すには梯子をかけて外側から作業する。漏ってきたらすぐ直すのはもちろんのこと、いつもよく見ていて、危ないなと思ったら手入れする。梯子はどこの家にも常備され、いつでも屋根を点検できるようにしていた。各家から屋根に登る梯子が姿を消して行ったのは高度経済成長期である。雨漏りに即応して屋根にさしガヤをしたのは、その家のお父さんやお兄さん、隣近所の人であった。板葺やトタン葺きでも同じことをしていた。些細なことを職人さんに頼んだりはしない。服の繕いをお母さんやお姉さんにしてもらっていたのと同じことである(注5)。それを宮殿では業者任せにしていたらしい。三年手入れしないでいたら雨漏りがひどくなっていた。三年で劣化する屋根となると、カヤ(屋根材の草)に不向きな素材を使ったということか。長期間耐えるススキやアシやオガラではなく、中期間耐える麦わらでもなく、短期間しか耐えない稲藁を使っていたことを表すのであろうか。稲藁が使われていたのなら、稲は豊作であったことのほうがふさわしく、煙が起こらないことと矛盾するのでこの仮説は否定されよう(注6)。
建築技術、というほどではなく、住まいの知恵レベルのことである。仁徳天皇の都、難波の高津宮は河内平野にある。低湿地帯に稲作を展開し、その近くに都があると考えればよいのだろう。低湿地帯にはアシが群生する。「豊葦原瑞穂国」、「葦原中国」と悦ばれて呼んでいるのは、稲作水田へすぐ転化可能な場所だったからだろう。つまり、いくらでも屋根材になるアシが得られる(注7)。煙があがっていなかったのは、アシが繁茂しイネが負けていたとも解釈できる。冷害の年だったのかもしれない。イネが育たなければアシも育たないとは考えにくい。アシは丈夫な植物である。耕作地の湿地帯に大火災があり、イネもアシも全部焼けてしまったという想定もできるかもしれないが、水田で夏場に野焼きして燃え広がるのか寡聞にして知らない。旱魃があったとも記されていない。イネは今日とは品種が違うと思うが、広大な湿地が近くにあるところで屋根材にするアシが不足することはないだろう。禁忌に当たることがあったとも知られない。
アシで屋根を葺いて三年で駄目になっている。紀では、「風雨入レ隙、而沾二衣被一、星辰漏レ壊、而露二床蓐一。」とある。星空が見えるように穴が開いている。当然ながら昼間は日の光が入り込む。「日知り」=「聖」と揶揄されるにふさわしい。やることが遅く、空が見えるまで放っておく愚か者としか言えない。屋根の補修には梯子をかけて外側からカヤをさしていけばいいだけである。なのに後手後手に回って雨漏りしている。記では後段に、梯子に登れない天皇をバカにする歌が歌われている。天皇は逆上して異母の兄弟姉妹を粛清している(注8)。
雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね(記68)
隼は 天に上り 飛び翔り 斎が上の 鷦鷯取らさね(紀60)
梯立の 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも(記69)
梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず(記70)
梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも(紀61)
本稿の問題を解くヒントは、古事記で最も信頼の置ける伝本の真福寺本の、「〓〔礻偏に咸〕」という珍しい字にある。誤写であろうとする考えが有力で、他の本に「椷」とあることから、木のハコの意と取る説が有力視されている(注9)。しかし、ハコと呼ばれるものは、蓋の付いた容器のことである。大切なものをしまっておくために使われる。鍵をかけることもあった。身も蓋も両方使えるから同時に二つ用意できる。秘密文書などを入れておくものだから、情報の漏洩がないような、つまり、漏れないためのものとしてある。あるいは、その考えを裏返して、漏れてしまったための受け皿として、きついジョークとしてハコがチョイスされていると考えられないことはない。
家の内側で雨漏りを受ける場合、その場所にバケツや盥類を置いたままで避けることになる。記には、「〓〔礻偏に咸〕を以て其の漏る雨を受け、漏らざる処に遷り避けましき。」とある。不思議な点は、「以レ〓〔礻偏に咸〕受二其漏雨一」という文の必要性である。実際のところ、バケツで受けようが受けまいが、雨漏りしていないところへ移動したのだから、「遷二-避于不レ漏処一。」だけで意が通じる。対策を講じたことによって雨漏りが解消された「不レ漏処」ができつつ、それでは問題がすべて解消したわけではないことを言うべく、このように念を押す表現になっているのだろう。
真福寺本では示偏と衣偏はどちらも「礻」と書かれている。すると、〓〔礻偏に咸〕は〓〔衤偏に咸〕であり、受け流すシートのようなものと考えるべきである。
今日でも、地震や台風などの大災害にあっては、臨時的に屋根をブルーシートで覆うことがある。それは上から、外側からかける。記の記述は、内側からあてがっているとしか読めない。地下鉄構内の臨時漏水対策の方式が河内の高津宮でくり広げられていた(注10)。そのシートが〓〔衤偏に咸〕である。
「〓〔衤偏に咸〕」は、康煕字典に、「〓〔衤偏に咸〕 ……【類篇】旌旗之斿なり。」とある。幡足のことで、和名抄では「旒」としている。
幡〈旒附〉 考工記に云はく、幡〈音は翻、波太〉は旌旗〈精期の二音〉の惣名なりといふ。唐韻に云はく、旒〈音は流、波太阿之〉は旌旗の末の垂物なりといふ。
此の時に当りて、綴れる旒の若く然なり。(雄略紀八年二月)

縦長の幡の下部に小さな布製の垂を幾条かに下げているのを足と言っている(注11)。「〓〔衤偏に咸〕」=ハタノアシがアシと呼んで正しいのは、河内の高津宮の屋根の素材がアシ(葦)だったから、葦が破れたところを幡のアシ(足)、〓〔衤偏に咸〕をもって宛がおうという魂胆だからである。ヤマトコトバでアクセントは違えど同音であり、洒落となっていて、無文字文化の人々にとってよくわかる仕掛けが整っている。そして、仁徳天皇はアシ(足)が不自由だったから梯子に登れなかったことを暗示している。上にあげた速総別王(隼別皇子)との確執の末に、それらの歌謡は定立している(注8)、(注12)。
天皇は、祭式典礼用の幡を犠牲にして雨漏り対策をしている。それが観念上あり得るのは、すなわち、お話を聞かされている側としてもよくわかるのは、皆が幡の特別形態の灌頂幡の存在を知っていたからであると推論している。灌頂幡は、天蓋の中に幡が吊るされている不思議なものである。パラソル、ないしアンブレラが、幡を保護するために覆っている。その守られている幡はおシャカにして(無用にして)、人に差し掛けるように差し掛けたという意味合いになる。すなわち、宮のなかでテントを張ったことと同じことになっている。法隆寺金堂のなかで釈迦三尊像が天蓋に覆われているかの如く、仁徳天皇は破れ屋根の高津宮内のなかで天蓋に守られていると強弁しているようである。釈迦像と同じことなのだから、仁徳天皇は生きながらにしてホトケ様と同じ姿であるということになる。足が不自由で動けないのも、結跏趺坐しているところと見てとることができる。諷刺として、「聖帝」と呼びならわされるに値している(注13)。

人が天蓋の下に入って奉られている様子は帳台と同じである(注14)。帳台の起源はわからないが、建築物の中にさらにテントがあってそのなかに御座ります姿は、防災シェルターに暮らしているようなものである。話の初めに、「登二高山一」(記)や「登二高台一」(紀)とあるのは、輿に乗って運んで行ってもらったか、人目に付かないように舎人におんぶされたか、エレベーター状のものがあったかである。
以上の考察を整理すれば、仁徳天皇の「聖帝」の話は、難波の高津宮における仁徳天皇のアシ(足、葦、〓〔衤偏に咸〕)についての揶揄話である。「帝」はミカドであるから、角立って四角い蓋であることと対応する。仁徳天皇は、四角四面で冗談の通じないお人柄だったようである。雨が漏っていることにまつわる君だから、天から降ったことになっている君、降臨した天孫の末裔として奉っておけばいい。この「烟」、「烟気」の話においても、紀には「以従事乎無為。」(四年三月)とある。シヅカニオハシマスことをもって読み返せば、ほとんど無策の政治家像に描かれている(注15)。単にほめ殺ししておけばいいのだから、人民にとっては楽な為政者であり、巡察に来ないのだから昼間は烟が立たぬようにして夜間に炊事をしておけば税金逃れができた。ありがたい話ではあるが、それでは困ることもある。富の再分配が起こらず、世の中全体の経済が回らなくなる。紀に「甫科二課役一、以構二-造宮室一。於是、百姓之不レ領、而レ扶老携レ幼、運レ材負レ簣。不レ問二日夜一、竭レ力競作。是以、未レ経二幾時一、而宮室悉成。故、於今称二聖帝一也。」(十年十月)とあるのは、社会全体の豊かさのためには、税や公共事業が必要であることを示すものでもある。寿陵として巨大古墳を造った(注16)ことも、その観点から捉え直す必要があろう。富の再配分をしたから「老」「幼」はようやく潤ってまともな暮らしができた。ただ課税を免除したから「聖帝」と人民から称賛されたというのではない(注17)。皮肉を言っていることを理解しなければならない。
(注)
(注1)この和歌は日本紀竟宴和歌のひとつで藤原時平の作という。記紀の逸話は一概に民の竃の話とされている。しかし、仁徳記紀いずれにも「竃」とは記されておらず、「烟」、「烟気」とある。いつからこの話が「竃」と直結させられたかわからない。仁徳天皇時代、どのように家屋内で火を焚いていたのかについては火処の歴史に見るべきで、いわゆる「竃」がどのような形式のものとしてあったのか、渡来人による竃技術の伝播の歴史と併せて考慮する必要がある。合田2013.参照。本稿は、火処の場所がどこにあるのか、煙突によって煙はどのように排出されていたか、焚き木に代えて炭を使うことで煙は少なくなっていたのではないか、といった考古上の知見を必ずしも必要としないので深入りしない。ひょっとすると、囲炉裏式の煙がもうもうと出るのと、燃焼効率が良い竈に煙が少ないのと、燻煙によって茅葺き屋根が長持ちすることとを天秤にかけて試行錯誤していた過程が背景にあったのかもしれないが、いずれにせよ、民の家の内部構造を知る由のない記述であり、人民の生活実態から遊離して話が進められていることにこそこの話のおもしろみがあるものと思われる。
(注2)仁徳記のこの話を、いわゆる聖帝記として徳政を語るものとするのが定説化している。子ども向けのお話に多く逸話化されている。大人向けでは、中国の儒教思想に基づいて虚構されたものであると言われている。議論は、津田1963.に、「仁徳天皇が民の課役を除かれたといふ話について……これは政治的意義を有する物語の唯一の例であるが、「登高山見四方之国」とあつて、其の高山がどこであるかを説かず、「於国中烟不発」とか「於国満烟」とかいつてゐる「国」が、どこをさしてゐるかもわからぬやうに、すべてが抽象的ないひ方であるから、実は具体的な物語ではない。さうして、此の物語の精神が儒教式仁君の観念にあることは、物語そのものが明かに語つてゐるところであるのみならず、「聖帝」といふ用語が用ゐてあることによつても、それは確かめられるし、課役を除いた期間を三年とした点にも、シナ[中国]思想が現はれてゐる。」(38~39頁、漢字の旧字体は改めた)とするのに則っている。具体的ではない物語はいつ創作されたのか、どのように伝えられたものなのか、不明である。話として伝わることは、当時の人が互いに理解し合い、ひとつの話(咄・噺・譚)として受け入れることではじめて可能である。この民の竃の話は巷間に定説とされているためか、議論の対象として論じられることさえ少ない。山崎1993.、長野1998.参照。筆者は、課役免除三年という期間がどうして中国の思想なのかわからない。
日本書紀の研究では、「黼衣絓履……以従事乎無為」とあるのは、六韜・文韜・盈虚にある文章に類似するとされる。大系本日本書紀に、「殊に北堂書鈔所引の古本六韜に……よく似ているから、六韜に拠って作った文であろう。」(237頁)とある。文を作るのに漢籍に拠ることは、手紙を書くのに例文集に倣うのと同じである。単なる文例集に過ぎない漢籍が負っている中国思想に、作文に籠める意図、話(咄・噺・譚)の内容、中身まで従う必要はない。形式ばかり、字面ばかりを踏襲している。課役免除期間を三年と定める「聖帝」の話が、民の竃の煙の話の形として漢籍になかったら、中国思想に基づいて虚構されたと言えないだろう。
また、「其天之生レ民……」が荀子・大略篇などに依っているとも指摘されている。仁徳天皇が頓珍漢なものの考え方をしていることを示したいがために、わざわざ詔を述べた形にして落し込んでいる。本文ならびに(注15)参照。
(注3)日本の建築に屋根を葺いて軒を出すことは一般的である。雨が多く夏暑いこの国に最も適っている。見て珍しい家屋が耳目を集めてしまうが、平凡なものほど先人の知恵の収斂した結果である。語られないものほど知恵が凝縮しているということであるが、記紀に残る話には、そのような基本的な知恵の発祥について驚きをもって伝えているところがある。大陸から移入された、当時としては新技術であったようである。
(注4)科学的現象については、福田2012.参照。
(注5)そういう時代であったということを言っているまでであり、男女同権に関して何か物申しているわけではない。
(注6)天然素材であり、条件によっても耐用年数は変わる。比較的長持ちするもの、中程度のもの、短期間で劣化するものがあるということである。話として通行するとは、多くの人が当たり前のこととしてそのとおりだと思えたからであろうことから、素材の想定を考えたまでである。
(注7)宮の地が、例えば雄略天皇の、長谷(泊瀬)朝倉宮のような丘陵地とおぼしき場所であれば、屋根材のカヤは、ススキが身近にあるからそれによって葺かれたと考えられる。江戸に茅場町があるのは、都市の屋根材供給業者が住んでいたからその名がある。江戸川、荒川、中川、墨田川流域の低湿地地帯の周縁に当たる。江戸の町の茅葺屋根は、もっぱらアシで作られていたのではないかと推測される。
(注8)拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注9)真福寺本に「〓〔礻偏に咸〕」とある箇所、兼永筆本・寛永版本に「〓〔禾偏に咸〕」、延佳本(鼈頭古事記)に「椷」とあり、本居宣長は「楲」としている。古事記伝に、「楲は、本どもに或は〓〔禾偏に咸〕と作、或は椷と作るを、今は一本に依れり。【〓〔禾偏に咸〕は誤なり、】椷【字書に篋也とも函ノ属也とも木篋也とも注して、波許なり、】も然ることなれども漏雨を受るには篋の類は少し物遠きこゝちするを、楲は、玉篇に、決レ塘木也と注して書紀武烈ノ巻にも塘楲とあり、其は必しも細く長き樋ならずとも、水を受る物を云べければ、椷よりは、今少し似つかはしく聞ゆ、【此ノ字又虎子也とも注せり、虎子は、大小便を受る器にて、今云麻流なり。此は、大小便には非れども、水の属を受るなれば、由なきにあらず、】比と訓べし、和名抄には、楲ハ和名以比とあり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/331)とある。消去法で考えている。部屋中におまるを置いてまわっているとの憶測には弱ってしまう。現代の諸解説書にみな「椷」を採り、木の箱のこととしている。
(注10)臨時的な漏水対策としたが、完成された完全な雨除け(屋根)というものはそもそも存在しない。点検補修を繰り返すのが必定である。比較的永続的な方法として、屋根瓦やガルバリウム鋼板などが開発されている。地下鉄の場合、地下水の滲出は宿命であるが、見えないようにすることは不可能ではないため保守点検が行われている。キレイ化という見えない化によって、地下空間に漏水があって当たり前であることに気づかなくなっていく。今日のふつうの生活者は、屋根とは何か、雨樋とは何かを忘れかけている。
(注11)本邦に、足の付いた幡がいつからあるのか、あるいは認知されていたかについて、大いに議論されるべきだろう。仏教公伝記事の欽明紀十三年十月条に「幡蓋若干」とあり、蓋に覆われた幡が伝わっている。また、幡の用途についても議論されなくてはならない。法隆寺に伝わった金銅製の大灌頂幡という不思議なものがあり、仁王会、追善供養、葬儀などとの関係から造られたものではないかと考えられている。三田2010.参照。五来2009.では、葬送天蓋の機能は灌頂にあるとしている。
筆者は、いま、幡足について、いつからあって何に使われどのように思われていたのかについてはひとまず措き、それが仁徳天皇の故事に当てはめられてどのような頓智となっているかについてのみ考察している。雄略紀の例は、かがって垂らした幡足のように新羅が高句麗の思いのままに振り回されているという譬えとして、魏志などの文例に従って書かれている。幡と幡足(旒)では言葉の扱いが異なる。幡本体ではなく、幡の足について、かがって付けるものだから、ちぎって他に用いて何ら問題がないという思いがあったことを例えている。仁徳天皇時代、本邦に、幡、幡足があったかは不明である。その検討には、おそらく凧揚げ(烏賊幟、紙鳶)の歴史についても検討を要する。なお、美術史学に、幡頭、幡身、幡足といった名をつけて作品を見ているが、ヤマトコトバの上では、ハタ(幡)とハタアシ(旒、幡足)の区別しか見られない。
(注12)仁徳天皇は即位前、宇遅能和紀郎子(菟道別郎子)との間で皇位を譲り合っている。ひょっとするとこれも仁徳天皇が足が不自由で、高御座(壇)の階を登ることを躊躇ったことを暗示させるための小ネタかもしれない。
(注13)仁徳朝期には仏教はまだ伝わっていないとされている。それとは別次元の課題として、話がいつ作られたものか、また、ヒジリ(聖、日知り)なる言葉がいつから使われるようになったのか、探るすべを持ち合わせていない。それでも、生きながらにホトケと思われたことが、話の上では寿陵建設の推進に一役買っていると思われる。いずれにせよ、飛鳥時代の人にとっては「聖帝」はセイテイではなく、ヒジリノミカドであり、中国思想そのままの受け売りではない。
(注14)帳台のようなものに貴人が鎮座ましましている様子は、他にも描かれている。
亦、其の山の上に、絁垣を張り帷幕を立て、許りて舎人を以て王と為て、露に呉床に坐せ、百官が恭敬ひ往来ふ状、既に王子の坐す所の如くして、更に其の兄王の河を渡らむ時の為に具へ餝りき。(応神記)
妾、性交接の道を欲はず。今皇命の威きに勝へずして、暫く帷幕の中に納されたり。然るに意に快ばざるなり。(景行紀四年二月)
帳台の究極の形態が高御座である。一般的に高御座は八角形、寺院の蓋高座は六角形、帳台や御輿(神輿)は四角形が多い。何か軌があったのか、筆者は不勉強で確かなことはわからない。養老令・儀制令に、「凡そ蓋は、皇太子は、紫の表、蘇方の裏、頂及び四角に、錦を覆ひて総垂れよ。」とあり、四角く定められている。
また、蓋高座かどうかはわからないが、斉明紀に「高座」の記述がある。
是の月に、有司、勅を奉りて、一百の高座・一百の納袈裟を造りて、仁王般若の会を設く。(斉明紀六年五月是月)
(注15)何もしない政治家は、失点が少ないために善政であったかのように誤解されることがある。仁徳紀六十七年是歳条に、「於是天皇、夙興夜寐、軽レ賦薄レ斂、以寛二民萌一、布レ徳施レ恵、以振二困窮一。弔レ死問レ疾、以養二孤孀一。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無レ事矣。」とあって、天下太平を謳っている。淮南子・脩務訓の「湯夙興夜寐、以致聰明、軽賦薄斂、以寛民氓、布徳施恵、以振困窮、吊死問疾、以養孤孀。百姓親附、政令流行。」とほぼ同じ記述がある。人名の「湯」が「天皇」に、「民氓」が「民萌」に、また、「百姓親附」を省いて「天下太平」を補っている。日本書紀編纂者は、潤色は潤色でも脱色という方法も用いたらしく、仁徳天皇に対して「百姓親附」ではなかったようである。
(注16)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。
(注17)記では話を締めくくるに、「故、其の御世を称へて聖帝の世と謂ふぞ。」とある。「称ふ」とは水を「湛ふ」というのと同根の言葉で、たくさんの言葉を致し極め、いっぱいに溢れるように表すことをいう。長い名前を新しくあえてつけて形容を充満させることがタタフの意である。天皇の御世を「称へ」た例としては、他に、「故、其の御世を称へて初国知らす御真木天皇と謂ふぞ。」(崇神記)という例がある。「御世」を称えて「……天皇」とあり、「……天皇の御世」とない点について、これまでのところ納得の行く解説は行われていない。
(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 新装普及版』平凡社、1995年。
合田2013. 合田幸美「火処」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学 第六巻』同成社、2013年。
五来2009. 五来重『五来重著作集第11巻 葬と供養(上)』法蔵館、2009年。
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長野1998. 長野一雄『古事記説話の表現と構想の研究』おうふう、1998年。
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三田2010. 三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討─造立典拠を中心として─」『MUSEUM』第625号、2010年4月。
山崎1993. 山崎正之『記紀伝承説話の研究』高科書店、1993年。
加藤良平 2021.3.3改稿初出