万葉集巻七の目録、雑歌に「芳野作謌五首」とあり、吉野関連の歌が五首おさめられている。
吉野にして作る〔芳野作〕
神さぶる 磐根こごしき み吉野の 水分山を 見れば悲しも(万1130)〔神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛〕
皆人の 恋ふるみ吉野 今日見れば 諾も恋ひけり 山川清み(万1131)〔皆人之戀三芳野今日見者諾母戀来山川清見〕
夢のわだ 言にしありけり 現にも 見て来るものを 思ひし思へば(万1132)〔夢乃和太事西在来寤毛見而来物乎念四念者〕
皇祖の 神の宮人 冬薯蕷葛 いや常しくに 吾かへり見む(万1133)〔皇祖神之神宮人冬薯䕘葛弥常敷尓吾反将見〕
吉野川 巌と柏と ときはなす 吾は通はむ 万代までに(万1134)〔能野川石迹柏等時齒成吾者通万世左右二〕
この歌群について特に大きな問題があるとは指摘されていない。万1134番歌の第二句の訓に疑義が見られる程度である。
全体に見て、「芳野作」だから吉野のことが歌われているはずで、万1130・1131・1134番歌に吉野という地名が出てくる。万1132番歌の「夢のわだ」も、吉野川の湾曲部の淵の呼称であるとされている。万1133番歌には地名が出てきていないが、吉野宮は自然に囲まれた場所で、太古からの風景を有していると感じられ、吉野宮にいるのは「皇祖の 神の宮人」と言っているとされている。
そこまで踏まえてみても、歌意に理解しきれないところがある。
万1130番歌は、「神々しい岩根がごつごつと角ばって立つみ吉野の水分山を見ると悲しい。」(新大系文庫本251頁)の意である。どうして巌の険しい分水嶺の山を見て悲しくなるのか、ただではわからない。万1133番歌は、「代々の天皇にお仕えする宮人として、(ところづら)いよいよとこしえに私はまた来て見よう。」(同)の意とする。スメロキ(皇祖)には、「①土地の最高位の男。首長。」、「②天皇。」、「③天皇の祖先。」(岩波古語辞典725頁)の意があり、ここでは「皇祖の神」となっているので③の用例かと考える。「冬薯蕷葛」と呼ばれたヤマノイモが登場する必然性は何かが問われなければならない。万1134番歌は、「吉野川の岩と柏のように変わりなく、私は通って来よう。いつの代までも。」(同)とし、「石と柏」と訓む説のあることをあげている。カシワは落葉樹だから第三句の「常盤なす」に続かないため、柏と通じる栢の意で、側柏・扁柏・円柏など松柏という言い方に表れるものを指しているというものである。井手1993.は、「「吉野川の巌と川べりの常緑の柏の木のように、いつまでも変ることなく」の意にスムーズに解釈することができると思われるのである。」(326頁)とする(注1)。確かにスムーズにつながりはするが、そう解釈すると説明調でまるでおもしろ味のない歌である。以下検討していく。
神さぶる 磐根こごしき み吉野の 水分山を 見れば悲しも(万1130)
水分山は分水嶺の山である。歌の表現にその峻険さが伝わってくる。槍のように尖っているということであろう。つまり、この歌の眼目はヤリである。峻険な水分山は水を否応なく仕分けしていく。遣り手婆のようにである。遊郭で客と遊女との取り持ち差配し、遊女の監督をする年配の女のことで、花車、香車などとも言われた。単にヤリとも言う。遊女の側の気持ちなど汲むことはない。無理やりに遣られる。「遣る」という動詞には、水を流れ行かせる意がある。「石どもにおしかかりて、水遣りたる樋の上に折敷どもすゑて、もの食ひて手づから水飯などする心地、……」(蜻蛉日記・中)、「水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。」(源氏物語・須磨)、「一品の宮の御裳着に、入道殿より、玉を貫き、岩を立て、水を遣り、えもいはず調ぜさせたまへる裳・唐衣を、……」(大鏡・昔物語)とあり、庭園設備に遣水がある。すなわち、水の気持ちを水なのに汲まない遣り手である水分山は、ずいぶんと無情な存在に思え、見ているだけで悲しくなってくる。そういう意を含んだ歌である。
皇祖の 神の宮人 冬薯蕷葛 いや常しくに 吾かへり見む(万1133)

「皇祖の神」は③の用例、天皇の祖先のことを言っている。吉野はその名が示すとおり、ヨ(代、世)+シノ(篠)の様子を表している(注2)。篠は竹の小型のものを指し、ヨ(節間)が節を継いで永遠に続いていくようになっている。つまり、代々続いてきたことを物語る地名と考えられ、太古から変わらないところと感じられていた。技術の発達していない大昔には、「宮人」たちはアクセサリーに玉石ガラス類を使うことはなかっただろう。それによく似た「冬薯蕷葛」、ヤマノイモの蔓に零余子をつけたものを首飾りにしていたのだろうと洒落を言っている。そのトコロヅラからトコという音をたよりに「常しくに」と続けている。ヨ(代、世)+シノ(篠)なのだから字句としても円滑に続けられる。ヤマノイモの零余子が勾玉のような姿をしていることは、当時において周知のことであった(注3)。
吉野川 巌と柏と ときはなす 吾は通はむ 万代までに(万1134)
「ときはなす」は原文に「時齒成」とある。一般に考えられている「常盤なす(トは乙類、キは甲類)」の意以外にも、「解き離す(トは乙類、キは甲類)」の意にも解釈可能である。その場合、巌の上に育った柏が台風などで分離したと考えるのはセンスが悪い。解き離れているのは、イハとカシハとである。ifa と kasifa だから、kasi なる音が解かれたと考えられる。吉野川の戕牁の意である。河岸に杭が打たれて船をつなぎ留めていた(注4)。吉野へどうやって通うかと言えば、「吉野」や「吉野宮」なら徒歩であろうが、「吉野川」なのだから船で通うものと想定されたのだろう。実際の問題ではなく想念においてそういうことになる。だから、「戕牁」という言葉が「解き離す」ことが起こり、船をもって「常盤なす」ように私は通おう、いつまでも、と歌っている。「AとBと」という強調は、それなりの意味があったということである(注5)。
以上説明してきたことはいわゆる言葉遊びに属する。触れなかった万1131番歌では、「諾も」という言葉を使って自分が恋い慕ってきたのを「恋ひけり」と相対化しているところがおもしろい。「ケリは、そのことに気がついたという意味を表わす。」(大系本212頁)のである。また、万1132番歌では、地名呼称に過ぎない「夢のわだ」を「現」に見ると戯れている。すべての歌に言葉遊びの機知が宿っており、振り返って題詞に当たる「芳野作」を考えると、「行幸時歌」などと断られているわけではないのだから、「吉野(芳野)」をテーマに「作」った歌というまでのことになる。これら歌群について、以降万1250番歌まで、一般に羇旅の歌であると考えられているが、「羇旅歌」は万1161番歌の前の題詞となっている。都での宴席に、貴人が吉野行幸のことを思い出して吉野をテーマに歌を作らないかと言い出せば、いくつか歌が作られて楽しまれ、そして筆録されたとしてまったく不思議はない。歌は言葉の表れである。きちんと理解されればそれ以上の詮議、例えば、これらの歌は讃歌として歌われたはずだ、などと屋上屋を構えるには及ばない。
(注)
(注1)他に、「「Iuadogaxiuaイワドガシワ 岩もしくは暗礁の上に成長する、苔または植物」(日葡辞書)とあるのはこれか。」(全集本219頁)とする説もある。
(注2)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」参照。
(注3)拙稿「垂仁記の諺「地(ところ)得ぬ玉作(たまつくり)」について」参照。
(注4)拙稿「弓削皇子の吉野に遊ばす時の歌と春日王の和歌(万242~244番歌)について」参照。
(注5)言葉遊びは往々にして川柳の様相を醸し出す。
(引用・参考文献)
井手1993. 井手至『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。(「巻七訓詁私按」『万葉集研究 第七集』塙書房、昭和53年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
加藤良平 2021.8.5初出2024.10.31加筆