万葉集のホホガシハの歌

 万葉集には朴の木を詠んだ歌が二首ある。葉が大きくて柏と同様に飲食の器(注1)に用いられ、ホホガシハと呼ばれていた。かうほふし恵行ゑぎやうと大伴家持が歌のやりとりをしている。

  ぢ折れる保宝葉ほほがしはを見たる歌二首〔見攀折保寶葉歌二首〕
 背子せこが ささげて持てる ほほがしは あたかも似るか 青ききぬがさ〔吾勢故我捧而持流保寶我之婆安多可毛似加青蓋〕(万4204)
  かうほふし恵行ゑぎやう〔講師僧恵行〕
 皇神祖すめろきの とほ御代御代みよみよは いき折り 飲みきといふそ このほほがしは〔皇神祖之遠御代三世波射布折酒飲等伊布曽此保寶我之波〕(万4205)
  かみ大伴宿禰家持〔守大伴宿祢家持〕

左:朴の木、右:青き蓋(高松塚古墳東壁 男子群像 復原図)(田村唯史「高松塚古墳の壁画の復原」『阡陵 関西大学博物館彙報』No.57、関西大学博物館、平成20年9月、7頁。関西大学博物館ホームページhttps://www.kansai-u.ac.jp/Museum/list/senryo.php)

 万4204番歌の四句目、「あたかも似るか」のアタカモという語は漢文訓読語であろうという(注2)。そして、結句の「青ききぬがさ」も漢語「青蓋」によって使われているとし、後期万葉の漢籍受容の一面を示すものと考察されている。
 この議論には平明さに欠ける点がある。アヲキキヌガサは、アヲシという形容詞とキヌガサという名詞から成っている。アヲシもキヌガサもヤマトコトバである。キヌガサについては、物として舶来したものかも知れないが、もとからあったであろう頭に被るカサという語を使って表した言葉であるだろう(注3)
 一方、「青蓋セイガイ」なる言葉は漢語である。王が乗る車は青い蓋をつけた青蓋車セイガイシヤと規定されていた(注4)。だから、大伴家持はそれを受けて「皇神祖すめろき」の話へと展開して歌を詠んでいるものと思われる。よって漢文訓読語と言うに値する。それはそれで良いようだが、車のことはどこへ行ってしまったのだろうか。万4204番歌は、一見、朴の木の枝の葉のつき方が青いきぬがさに似ているということを歌っているだけのようである。講師という存在については、大宝二年(702)にはじめて置かれた国師と同じことかとする説が通行している。奈良時代に、諸国に分置して、その国の寺院・僧尼の監督や経典の講説、国家の祈祷などにあずかった僧侶の職名を国師と言い、それが平安時代初期、延暦十四年(795)に講師と改称されたから先んじた言い方ではないかと推量されているのである(注5)。しかし、特段に歌の左注で講師と呼んでいるからには、講釈を垂れる先生をそう呼んでいたと考えるのが妥当なのではないか。肩書を明かす理由は他にあるまい。
 ほふを説くからほふしなのであるが、通常その法とは仏法のことである。ところが、歌では中国の礼法として位置づけられる青蓋車が持ち出されているように思われる。当時の僧侶には学問僧がいて、彼らは文字を読んで漢文化を理解した。その意味をヤマトの人に教え説いた人のこととして「講師」という言い方で表しているのではないか。その時、ただ説明しただけでは人々の理解は得られなかっただろう。よその国の事情など自分ごとに感じられはしない。そこで、人々が納得する形で知恵を働かせて伝えようとしたものと考えられる。キリスト教のマリア様をマリア観音として広めることができるようにしたような工夫である。漢文化とヤマトコトバの間が予定調和の形になっていれば、最もうまく伝わったに違いない。
 すなわち、アヲキキヌガサという少し珍しい言葉を使うのに、アタカ(モ)といういわゆる和訓までも創案した人ではないかと思うのである。漢籍を読んでみなければわからないことをこの歌で歌っているのではなく、当時すでに実際にアヲキキヌガサが使用されており、誰もがそれを目にしていたから歌のなかでホホガシハを譬えるのに持ち出している。そして、まさによく似ているという意味を表すためにアタカモニルカという言葉を作り、使うことを提唱しているのだろうと考える。当意即妙に家持が返していることからみても、一人で悦に入った言い回しで講釈して得意になっているのではない。歌は公に歌われるものであったから、ここでは家持が返したばかりか周囲にいる人も内容をよく理解できていたことを示している。

 おみむらじをして、しるしを持ちて、みこ青蓋車みくるまもちて、宮中みやのうちに迎へ入れまつらしむ。(清寧紀三年正月)
 釈迦仏しやかほとけ金銅像かねのみかた一躯ひとはしら幡蓋はたきぬがさ若干そこら経論きやうろん若干巻そこらのまきを献る。(欽明紀十三年十月)
 夏五月の庚午の朔に、空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。かたち唐人もろこしびとれり。青油笠あをきあぶらぎぬのかさを着て、葛城嶺かづらきのたけより馳せて、胆駒山いこまのやまに隠れぬ。(斉明紀元年正月)

 清寧紀の「青蓋車」は車を手配した際の筆記として漢籍から探されたものであろう。欽明紀の「幡蓋」はバンと呼ばれる旗と天蓋を指す。斉明紀の「青油笠」は、通説では油を塗った絹製の合羽のようなものとされており、青蓋などとは無関係と思われている。ただ、そうとも言い切れない点については後述する。
 次にアタカモという言葉について考える。現状では「恰」という漢字を訓読する時に生まれたもので、また、アタカモニルカにちょうど当てはまると思われる「恰似」という字面が漢籍中、特に白話において見られるから、それをもって証明とするとされている(注6)
 それはそのとおりなのかもしれないが、肝心の点が考察されていない。どうして恵行という人が率先してアタカモという言葉を作り出し、ヤマトの人たちもやがてそれを使い、習いとしていったのか。「カフ」という漢語にヤマトコトバを当てた、だから漢文訓読語であるのだと言い切れるものではない。アタカモ(ニルカ)の文献初例はこの万葉歌の原文「安多可毛似加」であり、集中に他の例はない。アタカモの例としては遊仙窟の「心肝、あたかも摧けなむとす。」と見え、アタカモニルの熟語記載例は霊異記・上十八に「門在客人、恰似死郎。」が初出の例である。
 我々が考えなければならないのは、アタカモという語の生成論である。アタカの「アタは動詞アタリ(当)のアタと同根。カは接尾語」(岩波古語辞典31頁)という。他の漢文訓読語とされる語でも言葉の謂れは考えられている。例えば、「けだし」という語があるが、「きちんと四角である意のケダ(角)の副詞化。」(岩波古語辞典459頁)と出所が検討されている。
 アタカモという語について、霊異記の例には「安太加太毛」(興福寺本)とあり、石山寺本金剛般若集験記の「宛」に「ア太カ太毛」とあるという指摘が時代別国語大辞典にすでに述べられている。アタカモという語はアタカタモという形をとることがあったようである。
 アタカタモという語の意はつかみやすい。鋳型にあてて作ったときの瓜二つの様子を表す言葉と考えられる。この体で行けば、次の例はアタカモ(アタカタモ)と訓まれていておかしくない。

 かれ味耜高彦根神あぢすきたかひこねのかみ、天に登りて喪をとぶらひて大きにみねす。時に、此の神の形貎かたち、自づからに天稚彦あめわかひこ恰然ひとしくれり。〔故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎、自与天稚彦恰然相似。〕(神代紀第九段一書第一)

 味耜高彦根神と天稚彦とは形貌がそっくりだった、となれば、共通の範、鋳型により作ったと思われるからアタカタモと言って良いはずであるが、古訓には見られない。そこにはアタカモ~ニルともない。熱田本には「正ニタリ」とある。ということは、むしろ語誌として、アタカモという語の理解を促進するためにアタカタモという語が方便的に利用されたのではないかと憶測できることになる。だからといって岩波古語辞典のように、当たるからアタカ(モ)といい、まさしく、さながら、の意が浮かび上がるとするのは短絡的な気がする。同様の意味を表すのに「こそに」という言葉もある。「恰」からアフ、「宛」からアツという訓みの音が導かれてアタカという語を形成したとすることは不可能ではないが、ケダシ(蓋)に見られるような清明さが感じられない。
 アタカモの初例である万葉集で、アタカモニルカの形をとっている。今日的語感であるが、アタカモ〜ノ如し、という言い方は理解できるものの、アタカモ似ルカ〜(ニ)、と倒置された言い方は少しまどろっこしく感じられる。手折った朴の枝に葉がついている様子を青色のきぬがさに譬えているのだが、副詞の「あたかも」が動詞の「似る」に直結している。そして、助詞「か」が付随している。多くの注釈書では詠嘆(慨嘆)の助詞とする。「か」本来の疑問の意味をやわらげれば詠嘆ということになるからである。そこで、まさしく似ることよ、の意と認められている。
 助詞の「か」が詠嘆の様相を示す際、受ける文に「も」のような不確実性を表す言葉が来ることが多い。
 苦しくも 降り来る雨か(万265)
 心無き 雨にもあるか(万3122)
 「も」によって不確実なことをあげておいて「か」と疑問をほどこしているから、〜だなあ、〜ことよ、といった意味合いになる。つまり、「も」と「か」が呼応して詠嘆を表しているのである。苦しく降ってくる雨だなあ、心無い雨であることよ、の意である。
 だから、万4204番歌「ほほがしは あたかも似るか 青ききぬがさ」は、朴の木の枝葉はまさしく似ていることよ、青いきぬがさに、という意になる。
 朴の木の枝についている葉の様子は青いきぬがさにまさしく似ていることだなあ、と表している。朴の木の葉のつき具合と青いきぬがさの広がり具合とが同じようだと言おうとしている。
 きぬがさの構造を見れば、軸から骨を出して枝分かれさせているところに技術的な見事さを認められる。古代には開閉はできなかったようであるが、それでも精緻な細工である。それをヤマトコトバで表す際にアタカモという言葉を考えたとするなら、アタカモのアタは、あたのことだろうと推測される。説文に、「咫 中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周尺なり」とある。女性が親指と中指を広げた時の長さを指している。親指と中指を広げる時、指はL字形、矩形になる。すなわち、そこに曲尺の機能を見ることになる。きぬがさは曲尺で正確に採寸し、角度をきちんと合わせて作り上げられた。その結果、きれいに大きく広がっている。
 この伝で考えれば、アタカとはアタ(咫)+カ(処)という語構成ということになる。アタカタモも、アタ(咫)+カタ(型)+モ(助詞)、つまり、衣服を仕立てるときの型紙をイメージした言葉であると推量できる。そしてまた、きぬがさが広がっているからくりは骨を集中させる部分にある(注7)。同様の構造は車に見られる。車の場合、車軸にシャーシ()が集まっている。そのハブ部分、を集める装置のことをこしきと呼んでいた。それがこしきと同音であるのは、その円形構造物の一定角度ごとに穴が空いている様子を見て同等と捉えられたからである。こしきは蒸し器である。竈の到来によって多く用いられるようになった。それまで食べ物はもっぱら煮る調理をして食べられていたが、蒸す調理法が伝えられたのである。煮る調理では100℃までしか上がらなかった温度が、蒸す場合にはそれ以上の高温を得ることができて料理に革命をもたらした(注8)。とても熱いから、アタなのである。ここに、アタカモなる言葉の生まれが仄かに見える。誰もが知っていてふだん使いにしているヤマトコトバのなかに割り込んで、新たな言葉が仲間入りする瞬間である。甑で蒸してシューシュー蒸気を発している。そんなに熱くして何を作りたいのか。蒸米である。蒸米を作って酒の原料とした。こしきがあるから酒が飲めるということである。同音のこしきのような様子をしたホホガシハを酒器にして飲むのである。至極尤もなことであり、和訓誕生の肝と言える。
 ホホガシハは植物学的にはモクレン科に属する。カシハの類と考えられていた理由は、大伴家持の歌にあるとおり、葉が大きくて食膳の器に利用されることがあったからである。今でも朴葉焼きという郷土料理が岐阜県の飛騨地方を中心に残されている。食事に関係するから甑の話になっており、特に酒を汲んだことを家持は歌にしている。恵行よ、あなたの言わんとしていることはわかっているぞ、というのが家持の応歌であった。葉のつき方が車のようになっている点は、古くから人々に注意されていたものと思われる。「あふぎの骨は朴。色は赤き。紫。緑。」(枕草子・267段)とあるように、類推思考をして丸く広げるもののために丸く広がる葉の朴の木が材に求められていたようである(注9)。もちろん、朴の木が加工しやすく、家具、建具、工芸品に重宝されていたことは前提である。ただし、恵行は、新語のアタカモをコシキ(轂・甑)のことだけから導き出したとは考えられない。なぜなら、彼は講師僧だからである。もっともらしい理屈、屁理屈をさらに重ね合わせて新語の正当性を主張しているものと思われる。
 車と関連する仏教の話としては、火車のことが思いつく。猛火の燃えている車のことで、罪人を地獄で責めたり、罪人を地獄に迎えるのに用いられる。コシキがアタ(熱)なのは当然のことなのである。
 言っているのはホホのことである。ホホときぬがさとの関係について、今日の我々は視覚的に知ることができる。彦火々出見尊絵巻である。ひこ火々出ほほで見尊みのみことが帰るときの情景が描かれており、図像では従者が花唐草の青いきぬがさを捧げ持ってホホデミを覆っている。異国風のいでたちである。
 むろん、絵巻の図像は後代に空想されて描かれたもので、記紀の話と絵巻の詞書、展開には違いがある。それでも何かの因縁をもって青いきぬがさが描かれているとも取ることはできる。ホホデミの名にホホとあるのは、出生時、産屋に火が放たれたことによるともされている(注10)。だからアタ(熱)なのである。ホホデミ(ホヲリ)は、「一尋ひとひろわに」(記)(「大鰐わに」(神代紀一書第一)、「一尋ひとひろ鰐魚わに」(一書第三・第四))にまたがって帰還したことになっている。一尋わにを御すところ、従者が蓋を差しかけていたのだろうと推定される。斉明紀の「青油笠」記事が、竜に乗る姿であったのと発想を同じくしている。「貌似唐人。着青油笠、……」という表現は、唐人のイメージそのままに、油を塗った青蓋を伴った車が空中を飛んでいくようだと言っていると考えられるのである(注11)
 恵行は、万4204番歌において、中国では皇子が王になると青蓋車に乗ることを賜与すると規定があるから、青ききぬがさを捧げて持っているのは「吾が背子」と呼ぶべき相手であるとしている。中国では封建制のもとで各国に王が置かれた。ヤマトに対応させて考えるなら、越中守である大伴家持をそれに相当すると考えて「吾が背子」と言っていると捉えることができる(注12)。万4205番歌の左注に「越中」と断られているのはその所為だろう。家持の応歌では、恵行の歌の基底をそのまま捉え返している。封建の王のような国司であるのは、大伴氏の遠い祖先が天皇から分かれ出て諸侯として封じられたということに当たるのだろう。そのような大昔のことに思いを馳せて、「皇神祖すめろきの とほ御代御代みよみよ」と歌い出している。そして、その昔は木の葉を上手に使って器にして酒を飲んだということだとホホガシハの話に回収している。そのような言い方が天皇制に対して不敬に当たるかどうかは、実際に取り締まられてみなければわからない。少なくとも、越中国で歌にしている限りにおいては咎められることはなかったと思われる。地方官に対して僧侶がジョークの歌を歌いかけただけのことである。
 これら、がんじがらめの分厚い意味的重複をもって、新しい言葉、アタカモという言葉が世に送り出されている。これを漢文訓読語であると簡単に説明して終わりとするほど、ヤマトコトバは気ままなものではなかった。双六すぐろくのようにかふという言葉が広まったのではない。ヤマトコトバの顔をした新しい言葉を拵えたからと言っても、あまねく人々に受け入れられるものでなければ言葉にならない。歌の言葉として使われているということは、言葉を耳にして意味がよくわかるものであったということである。上に見た意味の重なり合いはまるで枕詞のそれのようである。人々がどこからその言葉を捉えてみてもなるほどそのとおりだと思えるように持って行っている。ヤマトコトバの論理学、こじつけ回りの屁理屈が展開されることで、はじめて新しい言葉の析出が見られるのである。

(注)
(注1)「天皇すめらみこと豊明とよのあかりきこす日に、髪長かみなが比売ひめおほ御酒みきかしはらしめて、其の太子ひつぎのみこに賜ふ。」(応神記)とある。
(注2)小島1964.に、「[あたかも似るか]の句法は漢籍に甚だ例が多い──その一例、初唐駱賓王、餞李八騎曹序「山芳襲吹、坐疑蘭室之中、水樹含春、宛似○○楓江之上」──。 この「宛似」(恰似など)が歌の中に挿入されて「あたかも似る」の表現となつたのである。」(953頁)とあり、山﨑2024.は追認し例を重ねている。
(注3)頭に直接つける「笠」も、柄を伸ばして高く掲げる「傘」も、ヤマトコトバではカサと呼んでいる。技術的に言って、笠が先にあって傘が後から到来したとも考えられるが、かといって笠がヤマトでオリジナルに考案されたものであったとも言えず、さらにはカサという言葉は笠や傘の訓読語として成り立っているとも言えない。
(注4)「青蓋車 緑車  皇太子・皇子皆安車、朱班輪、青蓋、金華蚤、黒〓〔木偏に虡〕文、画轓、文輈、金塗五末。皇子為王、錫以之、故曰王青蓋車。皇孫緑車以従。皆左右騑、駕三。公・列侯安車、朱班輪、倚鹿較、伏熊軾、皁繒蓋、黒轓、右騑。」(後漢書・輿服志上)とある。
(注5)川崎2012.は別の考えを採っている。「[それ]とは異なり、法会の際の経典の講義の役をになう僧である」(353頁)とし、文書に残る恵行という人物には東大寺僧、唐招提寺僧があり、万4204番歌の作者との関連を考察している。それらとは別人である可能性も残される。
(注6)山崎氏は盛唐期の詩の例に飽き足らず、白話に「恰似」とする例が中国であったことを敦煌変文に探っている。もし仮にそれが伝えられて恵行が知っていたとしても、あくまでも大陸の話を伝え聞いているに過ぎない。家持と二人の間だけ通じていれば良いと思われるかもしれないが、歌は忍者の使う暗号文ではなくて誰が聞いてもわかる言葉でできていただろう。もとからヤマトにあった話のなかで血肉化されなければ、アタカモという新語も市民権を得るには至らない。万葉集では一例しかなくても、後に命脈を保ってふだん使いされた言葉である。
(注7)浅岡氏は「鏡板」と呼んでいる。
(注8)肉や魚などを焼く調理温度は100℃を超えることができたが、主食の米など穀物類をそのまま焼いても食べることはできない。
(注9)枕草子は、骨が朴製の扇は素敵だと主張する。その時、張る紙の色は赤、紫、緑、という順であげている。いろいろな色をあげているのは、色は二の次であるという言い方とも、最終的に緑、つまり、朴の木の葉の様子を再現させるものだと洒落を言っているとも解されよう。
(注10)出生の件は次のとおり。

 かれ、其の火の盛りにゆる時にれませる子の名は、火照命ほでりのみこと、次に生れませる子の名は、火須勢ほすせ理命りのみこと、次に生れませる子の御名みなは、火遠ほを理命りのみこと、亦の名はあま津日高日子穂穂手つひこひこほほで見命みのみこと。(記上)
 則ち火をけて室を焼く。始めて起るけぶりすゑよりり出づるみこを、火闌降命ほのすそりのみことなづく。〈是隼人はやひと始祖はじめのおやなり。火闌降、此には褒能須素里ほのすそりと云ふ。〉次にほとほりりてしますときに、り出づるみこを、ひこ火火出ほほで見尊みのみことと号く。次に生り出づる児を、火明命ほあかりのみことと号く。〈是尾張連をはりむらじの始祖なり。〉(神代紀第九段本文)
 ……、則ち其の室の中に入りて、火をけて室をく。時に、ほのほ初め起る時に共に生むみこを、火酢芹命ほのすせりのみことと号く。次に火のさかりなる時に生む児を、火明命ほのあかりのみこと号く。次に生む児を、ひこ火火出ほほで見尊みのみことまをす。亦のみな火折尊ほのをりのみこと。(神代紀第九段一書第二)
 ……、初め火燄ほのほあかる時に生めるみこ火明命ほのあかりのみこと。次に火炎ほむら盛なる時に生める児、火進命ほのすすみのみこと。又曰はく、火酢芹命ほのすせりのみこと。次に火炎る時に生める児、火折彦ほのをりひこ火火出ほほで見尊みのみこと。(神代紀第九段一書第三)
 則ち火をけて室をく。其の火の初めあかる時に、たけびてづるみこ、自らなのりたまはく、「われは是天神あまつかみみこ、名は火明命ほのあかりのみこと。吾がかぞいづにかします」とのたまふ。次に火盛なる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名は火進命ほのすすみのみこと。吾が父といろね、何処にか在します」とのたまふ。次に火炎ほのほしめる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名は火折尊ほのをりのみこと。吾が父と兄たち、何処にか在します」とのたまふ。次に火熱ほとほりる時に、躡み誥びて出づる児、亦言りたまはく、「吾は是天神の子、名はひこ火火出ほほで見尊みのみこと。吾が父と兄等、何処にか在します」とのたまふ。(神代紀第九段一書第五)

(注11)通典・礼二十四・五輅に「緑油蓋」との規定が見える。
(注12)伊藤1998.は、「あまりに高く持ち上げられたので、家持はいささか照れくさかったのであろう。」(172頁)とし、万4206番歌のように答えているとしている。

(引用・参考文献)
浅岡1990. 浅岡俊夫「きぬがさの検討─出土木製笠骨をとおして─」『今里幾次先生古稀記念 播磨考古学論叢』今里幾次先生古稀記念論文集刊行会、1990年。
浅岡1997. 浅岡俊夫「多枝付木製品考─蓋骨の再検討─」『立命館大学考古学論集Ⅰ』立命館大学考古学論集刊行会、1997年12月。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注 十』集英社、1998年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
梅原1964. 梅原末治「飛鳥時代天蓋軸木の一遺例」『大和文化研究』第8巻第2号、昭和38年2月。
川崎2012. 川崎晃『古代学論究─古代日本の漢字文化と仏教─』慶應義塾大学出版会、2012年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
林1976. 林巳奈夫『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
古田2011. 古田雅憲「「彦火々出見尊絵巻」図像私註(四)─幼児・低学年児童の古典学習材として再構成するために─」『人間科学論集』第6巻第2号、2011年2月。西南学院大学機関リポジトリ http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/489
山﨑2024. 山﨑福之『万葉集漢語考証論─訓読・漢語表現・本文批判─』塙書房、2024年。
※万葉集の通釈書については引用文献に限って記した。

加藤良平 2025.4.1初出