霍公鳥という鳥
万葉集で、ホトトギスは百五十六首に歌われている。初期に少なく後期になるにつれて増え、なかでも大伴家持は一人で六十五首も詠じている(注1)。ホトトギスには、訓字として「霍公鳥」という特殊な文字が使われている(注2)。また、ホトトギスが歌われた歌には、他の一定の言葉とともに用いられる傾向がある。
上代文学、なかでも万葉集のなかで、ホトトギスがどのようにイメージされていたかについて、これまでも少なからず研究されてきた。その際、ホトトギスという名前の語源について問う試みが行われている。鳴き声が、ホトトギと鳴くと聞いたからホトトギスというのだというのである。最後のスはウグイス、カラス、キギスなどのスと同類とされている。この点について検証することはできない。語源探求はどこまで行っても仮説の域を出ない。そもそもホトトギスという鳥が何時代にカテゴライズされたかなどわかろうはずがない。文字がなかった時代、記録されることはなかった。ものの考え方として、万葉びとにホトトギスという語がどのように導かれた言葉なのかを考えるべきであろう。そして、記録されている万葉集の用字に、「霍公鳥」とある点についての考証が求められる。彼らの語感に近づくことができるからである。
中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声なり、雨ふりて雙びて飛ぶ者、其の声靃然たり」とある。雨のなか飛ぶ鳥の羽音であるという(注3)。羽音と関連がありそうな歌としては次の歌のみあげられ得るが、意識した作であるようには思われない。
霍公鳥と藤の花とを詠める一首〈并せて短歌〉
…… 真鏡 二上山に 木の暗の 繁き谿辺を 呼び響め 朝飛び渡り 夕月夜 かそけき野辺に 遥々に 鳴く霍公鳥 立ち潜くと 羽触に散らす 藤浪の 花なつかしみ 引き攀ぢて 袖に扱入れつ 染まば染むとも(万4192)
霍公鳥 鳴く羽触にも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花〈一は云ふ、散りぬべみ 袖に扱入れつ 藤波の花〉(万4193)

「霍霍」の一義に声のはやいことを表し、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病である。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く(注4)、その鳴き声は早く、二羽がならび掛け合って鳴いているのではないかとも思われていたと推測される。なぜなら、雨が降ってならんで進むとき、我々は相合い傘の下に共に入るからである。そのときの彼と彼女のおしゃべりは、心が弾むさまを表して即座の受け答えとなっている。今日の鳴き声の受け取り方では、「テッペン」→「カケタカ」、「トッキョ」→「キョカキョク」と即答し、転調しているように聞こえている。上代では、「ホト」→「トギ」と聞いたということだろう。
「ホト」→「トギ」
万葉集には、ホトトギスを「名告り鳴く」と表現しているものがある。
暁に 名告り鳴くなる 霍公鳥〔保登等藝須〕 いやめづらしく 思ほゆるかも(万4084)
卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)
これらの歌で、「めづらしく」と形容されている点と、万4091番歌の解釈については後述する。
ホトトギスがホトトギ(ス)と鳴く鳴き声からそう歌っている(注5)というわけではなく、ホトトギスどうしが「ホト」「トギ」と互いに名告り合っていると聞きなしたから、歌に機知として歌われている。そうでなければ、例えばカラスにおいて、カァと鳴くからカラスと命名されたと臆せられ、カラスを以て「名告り鳴く」ことにもなってしまうが、そのような表現は行われていない。ホトトギスばかり「名告り鳴く」と表現される理由はそこにある(注6)。
そしてまた、恋の歌にもよく用いられている。
大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首
何しかも ここだく恋ふる〔幾許戀流〕 霍公鳥 鳴く声聞けば 恋こそまされ(万1475)
この歌は、新編全集本萬葉集に、「第二句の原文「幾許恋流」とあり、ソコバク恋フルなどと読み、ほととぎすが鳴くのを妻恋故かなどと解する可能性もなくはない。」(313頁)とある(注7)が、「ここだく恋ふる」が正解である。「ホト」「トギ」と鳴き交わす即応性にホトトギスを恋の象徴と見て取っているからである。ラブラブな間柄を示されると、自らの片思いがいっそうつらくなると歌っている。
霍公鳥 鳴きし登時 君が家に 徃けと追ひしは 至りけむかも(万1505)
この歌は、「ホト」と言えば「トギ」と相答するような即座性を比喩に使い、すぐに行ったことを歌にしている。
大夫の 出で立ち向ふ 故郷の 神名備山に 明け来れば 柘のさ枝に 夕されば 小松が末に 里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響むまで 霍公鳥 妻恋すらし さ夜中に鳴く(万1937)
この歌も、「山彦の相響むまで」とあるように、ホトトギスの声が「ホト」と言えば即座に「トギ」と返ってくることを言っている。雌雄関係なく異性の相手をツマという。シカの場合、雄の求愛の大声と雌の警戒声は音量が違い、呼応しているものでもない。ヒトの場合、なかなかホトトギスの鳴き声のように恋はうまくいかず、人は「物思ふ」ようになる。
旅にして 妻恋すらし 霍公鳥 神名備山に さ夜更けて鳴く(万1938)
吾が衣 君に服せよと 霍公鳥 吾を領す 袖に来居つつ(万1961)
筑波嶺に 吾が行けりせば 霍公鳥 山彦響め 鳴かましやそれ(万1497)
木高くは かつて木植ゑじ 霍公鳥 来鳴き響めて 恋益さらしむ(万1946)
雨隠り 物思ふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 吾が住む里に 来鳴き響もす(万3782)
心なき 鳥にそありける 霍公鳥〔保登等藝須〕 物思ふ時に 鳴くべきものか(万3784)
霍公鳥〔保登等藝須〕 間しまし置け 汝が鳴けば 吾が思ふ心 いたも術なし(万3785)
霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きて過ぎにし 岡傍から 秋風吹きぬ 縁もあらなくに(万3946)
次の歌では、「ホト」「トギ」の掛け合いを、「恋ひ死なば」「恋ひも死ね」との掛け合いへと比喩を連動させている。
恋ひ死なば 恋ひも死ねとや 霍公鳥〔保等登藝須〕 物思ふ時に 来鳴き響むる(万3780)
間髪を入れずに「ホト」「トギ」とぺちゃくちゃ喋れるのは、二人がとても仲睦まじいことを表していると考えられる。むろん、それがかなっている状況であれば、わざわざホトトギスを持ち出すことはない。そもそも歌というものは、少し離れたところにいる相手に伝えるために声を張って歌うものである。ラブラブな関係で互いの距離が0cmにある時に歌は歌われない。言い換えれば、距離が離れて恋心ばかりが募る時、ホトトギスを以て歌にその気持ちを託すという設定が枠組まれることになる。
故郷の 奈良思の岳の 霍公鳥 言告げ遣りし いかに告げきや(万1506)
この歌では霍公鳥に伝言に行かせているという想定であるが、その鳴き声のラブラブな関係を前提としていて、実のところ「いかに告げきや」も何もあったものではないところに諧謔の楽しみがある。
霍公鳥〔保等登藝須〕 此処に近くを 来鳴きてよ 過ぎなむ後に 験あらめやも(万4438)
この歌で霍公鳥が来て鳴いてからの「験」とは、恋愛が成就するという意味である。時機を逸してはならないことは言うまでもない。
更に霍公鳥の哢くことの晩みを怨みたる歌三首
霍公鳥 喧き渡りぬと 告ぐれども 吾聞き継がず 花は過ぎつつ(万4194)
吾が幾許 偲はく知らに 霍公鳥 何方の山を 鳴きか超ゆらむ(万4195)
万4194番歌では、霍公鳥が鳴いてほうぼうを渡っていると聞くけれど、自分ばかりは聞かずに恋は訪れずに季節はめぐってしまいつつあると言っている。
夜に鳴く
男女の仲睦まじい関係を鳴き声に聞いているのだから、その声は、必然的に夜聞くことが求められるようになる。人類は年中無休、24時間体制で発情しうる動物ではあるものの、仲良し行動をとる姿態は寝る体勢であり、仲良し行動をとれば疲れるからその後は睡眠をとるのが理にかなっている。以下に夜に鳴く例をいくつかあげる。
我が屋戸に 月おし照れり 霍公鳥 心あれ今夜 来鳴き響もせ(万1480)
掻き霧らし 雨の降る夜を 霍公鳥 鳴きて行くなり あはれその鳥(万1756)
月夜よみ 鳴く霍公鳥 見まく欲り 吾草取れり 見む人もがも(万1943)
今夜の おぼつかなきに 霍公鳥 喧くなる声の 音の遥けさ(万1952)
霍公鳥〔保等登藝須〕 こよ鳴き渡れ 燈火を 月夜に擬へ その影も見む(万4054)
居り明しも 今夜は飲まむ 霍公鳥〔保等登藝須〕 明けむ朝は 鳴き渡らむそ〈二日は立夏の節に応る。故、明けむ旦喧かむと謂へり。〉(万4068)
明日よりは 継ぎて聞こえむ 霍公鳥〔保登等藝須〕 一夜の故に 恋ひ渡るかも(万4069)
霍公鳥 夜喧をしつつ 我が背子を 安宿な寝しめ ゆめ情あれ(万4179)
さ夜深けて 暁月に 影見えて 鳴く霍公鳥 聞けばなつかし(万4181)
「斯く恋ふ」とは鳴かない
ホトトギスがホトトギと鳴くのであれば、それ以外の鳴き声は基本的に排除されると考えなければならない。岩松1990.に、カクコフ(斯恋)と聞きなして、万葉集中に「斯く恋ふ」 と続く例があるとしている(注8)。
暇無み 来ざりし君に 霍公鳥 吾斯く恋ふと〔吾如此戀常〕 行きて告げこそ(万1498)
恋情を歌うのにホトトギスが持ち出されているのは、カクコフ(斯恋)と鳴いていると受け取っていたからであるとの主張を展開している。ホトトギスとカッコウが同類のものとして分け隔てなく把握されていたのではないかとしている。けれども、霍公や郭公という字は、旧仮名遣いで表せばクワクコウとなる。カクコフとは音が続かない。
「霍公鳥」という字面が「郭公鳥」と似ているのは、ホトトギス科の鳥で形状が似ていることから、それに似せて表記を意識して拵えられたとも考えられなくはないが、逆に「霍公鳥」をもとにして「郭公鳥」と書くようになったのかもしれない。新撰字鏡に、「鴞 為驕反、平、鸋鵊、保止々支須」、「郭公鳥 保止々支須」、和名抄に、「〓〔監偏に鳥〕𪈜鳥 唐韻に云はく、〓〔監偏に鳥〕𪈜〈藍縷の二音、保度々岐須〉は今の郭䲲なりといふ。」、名義抄に、「時鳥 ホトヽギス」。「郭公 ホトヽキス」とある(注9)。和名抄の説明は、奈良時代のホトトギスが平安時代に「郭䲲(公)」などと記されるようになったことを示す、または、源順がそう認識していたというものである。今日カッコウと呼んでいる鳥は、奈良時代にヨブコドリ(喚子鳥・喚児鳥・喚孤鳥・呼児鳥)、平安時代にハコドリ(箱鳥)などと呼ばれていたようである。本邦で「郭公」を音読みした例としては、室町時代の伊京集になってクヮッコウと見られる。日本国語大辞典第二版に、「「かっこう」を「郭公」と表記するようになるのは近代に入ってからのことである。」(792頁)とある。ホトトギスとカッコウは鳴き声が異なり、別々の呼び名があるのは自然なことである。総称、ないし、雌雄の別と捉えていたといった特段の事情がない限り、無理に紛らわす必要はない(注10)。
一つの鳥の鳴き声を、ああも聞き、こうも聞きと言い立てては切りがない。解釈においてではなく、当時その言葉を利用していた上代人の感性に迫ることができないという意味である。ホトトギスの鳴き声がホトトギと言うのであれば、その一声によって全て定義されるのでなければ、音声言語であるヤマトコトバとして互いに理解し合えなかったと考える。反証する材料は足りている。万葉集のホトトギス歌にカクコフはこの一例に過ぎないこと、また、万葉集のホトトギス歌にカク(斯)の例はいくつか見られることである。長歌で「カク(斯)」と「霍公鳥」とが離れたところにある例を除くと次の例があげられる。
霍公鳥 念はずありき 木の暗の 斯くなるまでに〔如此成左右尓〕 何か来鳴かぬ(万1487)
あしひきの 木の間立ち潜く 霍公鳥 斯く聞きそめて〔如此聞始而〕 後恋ひむかも(万1495)
斯くばかり〔如是許〕 雨の降らくに 霍公鳥 卯の花山に なほか鳴くらむ(万1963)
行方なく あり渡るとも 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きし渡らば 斯くや偲はむ〔可久夜思努波牟〕(万4090)
橘の歌一首〈併せて短歌〉
かけまくも あやに畏し 皇神祖の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八桙持ち 参出来し時 時じくの 香の木の実を 畏くも 遺したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝萌いつつ 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて 娘子らに つとにも遣りみ 白栲の 袖にも扱入れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は 直照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐なす いや栄映えに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を 時じくの 香の木の実と 名付けけらしも(万4111)
万4111番歌で、なぜ「霍公鳥」とカク(斯)とがともに詠み込まれていたか、その理由が明らかとなっている。万葉集中にホトトギスが橘とともに使われている例は後述するようにとても多い。橘が「時じくの香の木の実」と呼ばれていたことから、カク(斯)という言葉が取り沙汰されているのである。万葉びとが通念として抱いていたのは、中国の伝説ではなくて日本の説話であったと知れる。
このような理解を敷衍させてわかるのは、当時歌を歌う際、ホトトギスという言葉を使う場合、その「ホトトギス」という音が極めて重要なものであるということである。歌は口頭の文芸である。同様に、無文字時代の言語は口頭によるものでしかなかった。言葉の基本が音声言語なのである。ホトトギスという言葉が鳴き声によるとするならば、ホトトギと鳴いたとしか聞いていないということである。逆に言えば、ホトトギスという鳥がホトトギス(ホ・トは乙類、ギは甲類)と言うのであれば、上代の人はホトトギスの音をもとに事態のすべてを了解し尽くさんとしていたということである。文字を持たなかった時代のヤマトコトバのあり方として当を得た捉え方であろう。
その流れからすれば、その語構成から意味を読み解くことも行われていたと考えられる。それは語源を繙くというものではなく、当時の人に受けとられた語釈のことである。皆がおもしろがって受け容れ、理解が共有されていた。現代、若者言葉が大流行して広まることと案外似ている。
ホト(殆・幾)+トキ(時)+スグ(過)→「古」
後の時代にホトトギスを「時鳥」と書いた。ラブラブな時になるか、「物思ふ」時になるかに関わるとして、「何時」と絡めて歌われているとされることがある。
神名火の 磐瀬の社の 霍公鳥 毛無の岳に 何時か来鳴かむ(万1466)
朝霞 たなびく野辺に あしひきの 山霍公鳥 何時か来鳴かむ(万1940)
万葉びとは、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていたと筆者は考える。彼らがホトトギスの語構成と考えた形は、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約であった(注11)。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある。
鳥に寄せたる
春されば 蜾蠃なす野の 霍公鳥 ほとほと妹に 逢はず来にけり(万1979)
この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているだけである。万葉びとの言葉の音に関心を注いでいると知ることができる。
トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)であろう。結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。その洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられたらしい。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいたということである。
慨きや 醜霍公鳥 今こそは 音の嗄るがに 来喧き響めめ(万1951)
この歌にある「醜霍公鳥」のシコは、冠する言葉の性質が頑迷なまでに愚直なことをいう。つまり、「醜霍公鳥」とは、完璧なまでにほとんど時は過ぎるようにする鳥だとし、それが「今」来て鳴いたからといって、はたして「今」が「今」でなくなって時は過ぎるものなのか、さあ皆様お立ち合い、どうなるでしょうか、ととぼけたことを歌っている。
霍公鳥〔保登等藝須〕 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも 験あらめやも(万4052)
この歌では逆に、「今」という時を進行させて峠越え予定の「明日」へと近づける役割を果たすべくホトトギスは鳴くことを求められている。「今」鳴かないのであれば名のすたれだとしている。
信濃なる 須我の荒野に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く声聞けば 時過ぎにけり(万3352)
この歌は、スサノヲが清々しいと言った須賀の宮に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて空間的にも離れたところにたどり着いたと気づかされた、と歌っている。
ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「古」である。
古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が念へるごと(万112)
この歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、北村季吟・万葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/82?ln=ja)以来行われており、山口2017.は鳴き声説を提唱している。筆者は、ほとんど時が過ぎる、の意に駄洒落解釈していたと考えている。
霍公鳥の喧くを聞きて作る歌一首
古よ 偲ひにければ 霍公鳥〔保等登伎須〕 鳴く声聞きて 恋しきものを(万4119)
霍公鳥と時の花とを詠める歌一首〈并せて短歌〉
時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 喧く鳥の 音も更はらふ 耳に聞き 眼に視るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに 木の晩の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥 古昔ゆ 語り継ぎつる 鶯の 現し真子かも 菖蒲 花橘を 娘子らが 珠貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八丘飛び超え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き還り 喧き響むれど いかに飽き足らむ(万4166)
記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「古」話として代表的なものは、すでに万4111番歌で触れたタヂマモリ(田道間守、多遅摩毛理)の話である。古ぼけた話という意味ではなく、去にし方の意味を含んだ話である。常世国に橘の実を求め帰還してみると、時は経っていて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。完全に過ぎ去ったわけではないのは、タヂマモリ自身が生きて帰っていて用命は果たしていたはずで、そしてその話は忘れられずに伝わっているからである。結局、タヂマモリ自身は後追い自殺をしている(注12)。不老不死の実を手に入れても、悲しみに暮れて死んでしまうほどに人の命ははかないものであるということがしみじみと感じられたことだろう。結局のところ、不老不死の実など、人間の性ゆえに手に入れることはできないのである。
大和には 鳴きてか来らむ 霍公鳥 汝が鳴く毎に 亡き人念ほゆ(万1956)
この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。タヂマモリもその御陵で叫び哭いて自死している。
「本つ人」「語り継ぐ」「本霍公鳥」「本な」
ホトトギスが渡り鳥として晩春から初夏に飛来し、鳴き始める季節に合わせたかのように橘の花は咲いている。だから、歌に歌い合せて不都合なことはなかった。橘などの植物とあわせる歌は後に記すが、その前に、タヂマモリのことを「本つ人」と詠んでいる歌を掲げる。
先の太上天皇の御製せる霍公鳥の歌一首〈日本根子高瑞日清足姫天皇そ〉
霍公鳥〔富等登藝須〕 なほも鳴かなむ 本つ人 かけつつもとな 吾をねし泣くも(万4437)
元正天皇の歌である(注13)。「本つ人」は古なじみの人、旧知の人のことであり、そもそもの話の初めの人、張本人の意味である。霍公鳥がほとんど時が過ぎることを意味するのと絡めて、常世、橘などと一緒に歌われるようになっている。その由縁を生んだ人が「本つ人」であり、しかも古くから語り継がれて来ている人なので、これはタヂマモリのことだとわかる。
次の万1962番歌は訓みの問題も含んでいて、解釈が難しい歌であるとされている(注14)。
本つ人 霍公鳥をや 希しみ 今か汝が来る 恋ひつつ居れば〔本人霍公鳥乎八希将見今哉汝来戀乍居者〕(万1962)
倒置形を戻してみると次のようになる。
本つ人、霍公鳥を希しみ、恋ひつつ居れば、汝が来る[ハ]今か
タヂマモリはホトトギスがたぐいまれにかわいいと思うので、同じように恋い慕いながらいとおしんでいると、あなたは今にも来そうだ、の意ととっておく。タヂマモリの説話の中でホトトギスが登場しているわけではない。何かのご縁があって結ばれているとタヂマモリは感じているという設定である。「希し」と言っているのは、不老不死のとても珍しい橘の実を求めて常世国へ探しに行っていたからである。たぐいまれであることから、目に入れても痛くないほどかわいいという気持ちが芽生える。幼ない子をかわいいと思う次元には二段階ある。一般的な意味と、自分の子や孫であるからかわいいという意味がある。よその家の幼子はかわいいとは思っても目に入れても痛くないとは思わない。心に類まれに恋しいと思っていると、あなたが来るのはもうすぐ、今のことかと思われてくる、という意味である。
次にあげる一番目の歌で「万代に語り継ぐ」と言っているのは、タヂマモリの話が語り継がれてきていることを承けている。二番目の歌も「語り継ぐ」と言っているが、もはや形骸化、ないしは、換骨奪胎している。
霍公鳥を思へる歌一首 田口朝臣馬長の作
霍公鳥〔保登等藝須〕 今し来鳴かば 万代に 語り継ぐべく 念ほゆるかも(万3914)
右は、伝へて云はく、一時に交遊集宴す。此の日此処に霍公鳥喧かず。仍りて件の歌を作りて、思慕の意を陳ぶといふ。但、其の宴の所と年月とは、未だ詳審にすること得ず。
霍公鳥〔保等登藝須〕 まづ鳴く朝明 いかにせば 我が門過ぎじ 語り継ぐまで(万4463)
「本つ人」から「本霍公鳥」、「本な」という言い方も生まれている。
あをによし 奈良の都は 古りぬれど 本霍公鳥〔毛等保登等藝須〕 鳴かずあらなくに(万3919)
旅にして 物思ふ時に 霍公鳥〔保等登藝須〕 本な勿鳴きそ 吾が恋まさる(万3781)
「本な」は基づくところなく、の意である。ホトトギスと関係する事項、名告ることや、橘(時じくの香の木の実)、ほとんど時は過ぎることなどと無縁に、何のわけもなく、いたずらに鳴いてくれるな、というのである。もちろんレトリックである。「本つ人」を思わせるように仕組んでいて、「旅にして物思ふ」とは「恋」する相手と遠く離れていることを言っている。「ホト」「トギ」と鳴き交わすことができない状態なのに、ホトトギスが鳴いたら状況に矛盾が起こるだろうと歌っている。
「片恋」「物思ふ」
このように、そのラブラブ関係と対照的な片思い、旅の途上などの遠距離恋愛を歌うために霍公鳥が持ち出されることは多い。第一例はたまに逢える喜びを歌っている。
逢ひ難き 君に逢へる夜 霍公鳥 他時ゆは 今こそ鳴かめ(万1947)
霍公鳥 無かる国にも 行きてしか 其の鳴く声を 聞けば苦しも(万1467)
沙弥の霍公鳥の歌一首
あしひきの 山霍公鳥 汝が鳴けば 家なる妹し 常に思はゆ(万1469)
橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しそ多き(万1473)
最後の万1473番歌は後述の万1472番歌に対する「和歌」である。妻、大伴郎女を亡くした時の歌で、「片恋」は追慕の情を歌うものと考えられる。タヂマモリの逸話で、タヂマモリが垂仁天皇に先立たれていて慟哭していたことに準えているものと考えられる。
独り居て 物念ふ夕に 霍公鳥 此ゆ鳴き渡る 心しあるらし(万1476)
霍公鳥 いたくな鳴きそ 独り居て 寐の宿らえぬに 聞けば苦しも(万1484)
物念ふと 宿ねぬ旦開に 霍公鳥 鳴きてさ渡る すべなきまでに(万1960)
霍公鳥 来鳴く五月の 短夜も 独りし宿れば 明かしかねつも(万1981)
旅にして 妹に恋ふれば 霍公鳥〔保登等伎須〕 吾が住む里に こよ鳴き渡る(万3783)
我が背子が 国へましなば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴かむ五月は 寂しけむかも(万3996)
めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 何か来鳴かぬ(万4050)
毎年に 来鳴くものゆゑ 霍公鳥 聞けば偲はく 逢はぬ日を多み(万4168)
四月三日に、越前判官大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、旧る)きを感づる意に勝へずして懐ひ)を述べたる一首〈并せて短歌〉
我が背子と 手携はりて 明け来れば 出で立ち向ひ 夕去れば 振り放け見つつ 念ひ暢べ 見なぎし山に 八峯には 霞たなびき 谿辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき喧きぬ 独りのみ 聞けば怜しも 君と吾 隔りて恋ふる 砺波山 飛び超え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕去らば 月に向ひて 菖蒲 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐宿しめず 君を悩ませ(万4177)
吾のみし 聞けば怜しも 霍公鳥 丹生 山辺に い行き鳴かにも(万4178)
二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈れる、霍公鳥の怨恨の歌一首〈并せて短歌〉
此間にして 背向に見ゆる 我が背子が 垣内の谿に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに 遥々に 鳴く霍公鳥 吾が屋戸の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷片付きて 家居せる 君が聞きつつ 告げなくも憂し(万4207)
吾が幾許 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 独り聞きつつ 告げぬ君かも(万4208)
逢ってはいるけれど気持ちが通じず話がはずまない風情や、逢って何を話したらいいかわからない気持ちを霍公鳥に託して歌うこともあった。
霍公鳥の喧かざるを恨む歌一首
家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一音も鳴け(万4203)
「橘」「玉」
「時じくの香の木の実」である「橘」、また、「玉」を詠み込んだ歌は多い。
…… 朝さらず 行きけむ人の 念ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には 菖蒲 花橘を 玉に貫き〈一に云ふ、貫き交へ〉 蘰にせむと ……(万423)
霍公鳥 いたくな鳴きそ 汝が音を 五月の玉に あへ貫くまでに(万1465)
我が屋戸前の 花橘に 霍公鳥 今こそ鳴かめ 友に逢へる時(万1481)
吾が背子が 屋戸の橘 花をよみ 鳴く霍公鳥 見にそ吾が来し(万1483)
大伴家持の霍公鳥の晩く喧くを恨む歌二首
吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来喧かず地に 散らしてむとか(万1486)
大伴家持の霍公鳥の歌一首
霍公鳥 待てど来喧かず 菖蒲草 玉に貫く日を 未だ遠みか(万1490)
吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来鳴き動めて 本に散らしつ(万1493)
いかといかと ある吾が屋前に 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日に 出で見るごとに 息の緒に 吾が念ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと云ひつつ 幾許も 吾が守るものを 慨きや 醜霍公鳥〔志許霍公鳥〕 暁の うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて 徒らに 地に散らせば すべを無み 攀ぢて手折りつ 見ませ吾妹児(万1507)
妹が見て 後も鳴かなむ 霍公鳥 花橘を 地に散らしつ(万1509)
霍公鳥を詠める一首〈併せて短歌〉
鶯の 生卵の中に 霍公鳥 独り生れて 己が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛びかけり 来鳴き響もし 橘の 花を居散らし 終日に 喧けど聞きよし 幣はせむ 遠くな行きそ 吾が屋戸の 花橘に 住み渡れ鳥(万1755)
霍公鳥 花橘の 枝に居て 鳴き響むれば 花は散りつつ(万1950)
霍公鳥 来居も鳴かぬか 吾が屋戸の 花橘の 地に散らむ見む(万1954)
橘の 林を植ゑむ 霍公鳥 常に冬まで 住み渡るがね(万1958)
霍公鳥 来鳴き響もす 橘の 花散る庭を 見む人や誰(万1968)
橘の 花散る里に 通ひなば 山霍公鳥 響もさむかも(万1978)
五月山 花橘に 霍公鳥 隠らふ時に 逢へる君かも(万1980)
霍公鳥を詠む歌二首
橘は常花にもが 霍公鳥〔保登等藝須〕 住むと来鳴かば 聞かぬ日無けむ(万3909)
珠に貫く 楝を家に 植ゑたらば 山霍公鳥〔夜麻霍公鳥〕 離れず来むかも(万3910)
橙橘初めて咲き、霍公鳥飜り嚶く。此の時候に対ひて、詎そ志を暢べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、欝結の緒を散らさまくのみ
あしひきの 山辺に居れば 霍公鳥〔保登等藝須〕 木の際立ち潜き 鳴かぬ日はなし(万3911)
霍公鳥〔保登等藝須〕 何の心そ 橘の 玉貫く月し 来鳴き響むる(万3912)
霍公鳥〔保登等藝須〕 楝の枝に 行きて居ば 花は散らむな 珠と見るまで(万3913)
橘の にほへる香かも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ(万3916)
吾なしと な侘び我が背子 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴かむ五月は 玉を貫かさね(万3997)
…… 霍公鳥〔保等登藝須〕 声にあへ貫く 玉にもが 手に纏き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し(万4006)
我が背子は 玉にもがもな 霍公鳥〔保登等伎須〕 声にあへ貫き 手に纏きて行かむ(万4007)
独り幄の裏に居て、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首〈并せて短歌〉
高御座 天の日継と 皇神祖の 神の命の 聞し食す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きの愛しも いづれをか 別きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴く霍公鳥〔保等登藝須〕 菖蒲〔安夜女具佐〕 珠貫くまでに 昼暮らし 夜渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし(万4089)
霍公鳥〔保登等藝須〕 いとねたけくは 橘の 花散る時に 来鳴き響むる(万4092)
…… はしきよし 妻の命の 衣手の 別れし時よ ぬばたまの 夜床片さり 朝寝髪 掻きも梳らず 出でて来し 月日数みつつ 嘆くらむ 心慰に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴く五月の 菖蒲〔安夜女具佐〕 花橘に 貫き交へ 蘰にせよと 包みて遣らむ(万4101)
霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の 香ぐはしき 親の御言 朝暮に 聞かぬ日まねく 天離る 夷にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を 外のみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 念ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取ると云 真珠の 見が欲し御面 直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 尊き吾が君〈御面は之を美於毛和と謂ふ〉(万4169)
霍公鳥 来喧き響まば 草取らむ 花橘を 屋戸には植ゑずて(万4172)
霍公鳥を感づる情に飽かずして、懐を述べて作れる歌一首〈并せて短歌〉
春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし 菖蒲 花橘を 貫き交へ 蘰くまでに 里響め 鳴き渡れども 尚し偲はゆ(万4180)
…… そこゆゑに 情慰に 霍公鳥 喧く始音を 橘の 珠に合へ貫き 蘰きて 遊ばむ間も ……(万4189)
橘と明示されない「玉・珠」も、橘と絡めて考えられている。むしろ、タチバナの実は季節的に時季外れになっているから、縁語としてばかり機能しているとも思われる。
霍公鳥 汝が始音は 吾にもが 五月の珠に 交へて貫かむ(万1939)
「蔭」
ホトトギスがどこで鳴くのかについては、屋戸や園などのほか、蔭になっているところの例も見られる。万葉びとの「ことば遊び」(注15)からすれば、ホトトギスという言葉に、ホト(蔭、ホ・トは乙類)の意味を汲み取ったものと考えられる。物の蔭、山の蔭のところだと洒落を言っている。ホトが陰部を表し、それを玉門などとしていたことを思えば、橘の実、玉のことと通じていることになってなるほどと思える次第となっている。
陰 釈名に云はく、陰〈今案ふるに玉茎、玉門等の通称なり〉は蔭なりといふ。其の蔭翳に在る所なれば言ふなり。(和名抄)
御陵は、畝傍山の美富登にあり。(安寧記)
霍公鳥〔保等登藝須〕 懸けつつ君が 松蔭に 紐解き放くる 月近づきぬ(万4464)
この歌で「紐解き放くる」と言っているのは、ホトトギスの音を、ほとんど時が過ぎたという解釈にさらに上塗りし、ホト(殆)にはホト(蔭)を、トキ(時)にはトキ(解、トは乙類、キは甲類)を重ね合わせ、愛し合っている喩えを「ことば遊び」(「依レ興作之」(万4464左注))で表現して楽しんでいる。
もののふの 石瀬の社の 霍公鳥 今も鳴かぬか 山の常陰に(万1470)
二上の 山に隠れる 霍公鳥〔保等登藝須〕 今も鳴かぬか 君に聞かせむ(万4067)
霍公鳥を詠める歌一首
二上の 峯の上の繁に 隠りにし その霍公鳥 待てど来鳴かず(万4239)
これらの歌は、「山のみほと」に鳴くことを歌っている。なかでも最適な場所は、二つの山が連なり合った間の窪みのところなのだろう。
「卯の花」
霍公鳥と卯の花との取り合わせは、万葉集中に十六例ある。卯の花十八首のうちの大多数が霍公鳥とともに歌われている。卯の花は植物学上、ウツギのことで、初夏から梅雨時にかけて咲き、霍公鳥の鳴く時期と合わさるというが、ついて回るように用いられているのには語学的からくりがあったとしか考えられない。言葉の上で共通点があるために好んで共に使われた。ホトトギスが「ホト」「トギ」と即答で掛け合うのは、互いに肯定し合っているからである。 yes yes のくり返しが行われている。ヤマトコトバで yes は「諾」である。したがって、卯の花が登場している。季節的にも概ねマッチしている。そういう事情から歌われている 。すでにとりあげた例は除いて以下に示す。
霍公鳥 来鳴き響もす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを(万1472)
この歌には、霍公鳥と関係があるのか不明瞭な左注がついている。「右は、神亀五年戊辰に大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣して、喪を弔ひ并せて物を賜へり。其の事既に畢りて駅使と府の諸の卿大夫等と、共に記夷の城に登りて望遊せし日に、乃ち此の歌を作れり。」とある。「城」は奥つ城を思わせ、墓所へ行ったという意ととれる。大伴郎女の実際の墓所である必要はない。「駅使」と「府諸卿大夫等」とが、「共」にキ(記夷)のキ(城)(キはともに乙類)に登っていることになっている。そこがミソなのであろう。相和していることをカテゴリーミステイク的に歌に詠んでいる。ホトトギスが yes yes 的に鳴くから卯の花が持ち出され、キのキのことだと注されている。次の万1474番歌は大伴郎女の歌であるが、そこにある「大城」がキノキに当たるようである。キノキだから「大城」と呼べるのである。追憶のためにきちんと「共登二記夷城一」しているとわかる。
大伴坂上郎女の筑紫の大城の山を思ぶ歌一首
今もかも 大城の山に 霍公鳥 鳴き響むらむ 吾無けれども(万1474)
前にあげた次の歌の解釈も自ずと正される(注16)。
卯の花の ともにし鳴けば 霍公鳥〔保等登藝須〕 いやめづらしも 名告り鳴くなへ(万4091)
一句目の「卯の花の」とある箇所は、卯の花がたくさん咲いていることを「鳴く」ことに準えていて、yes yes と言っていると捉えている。だから、卯の花と霍公鳥がともに鳴いているというのである。
大伴家持の霍公鳥の歌一首
卯の花も 未だ咲かねば 霍公鳥 佐保の山辺に 来鳴き響もす(万1477)
皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴く霍公鳥 吾忘れめや(万1482)
大伴家持の、雨の日に霍公鳥の喧くを聞ける歌一首
卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 雨間も置かず 此間ゆ鳴き渡る(万1491)
霍公鳥 鳴く峯の上の 卯の花の 厭きこと有れや 君が来まさぬ(万1501)
霍公鳥 鳴く音聞くや 卯の花の 咲き散る岳に 田葛引く娘女(万1942)
この歌は、桜井2000.に「美しい歌」と賞され、「農事とかかわることを暗示している歌のようだ。」(105頁)とあるが、見当違いである。これまでにもしばしば出てきたように、蘰とのかかわりとして、つる性植物のクズが出てきている。またクズは、その這え延びる性質から、「…… 延ふ葛の いや遠永く 万世に 絶えじと念ひて ……」(万423)と歌われている。ホトトギスがほとんど時が過ぎるの意で想われている限りにおいて、時間が長く経過したことを表現する比喩のために植物のクズを持ち出しているのである。
朝霧の 八重山越えて 霍公鳥 卯の花辺から 鳴きて越え来ぬ(万1945)
五月山 卯の花月夜 霍公鳥 聞けども飽かず また鳴かぬかも(万1953)
卯の花の 散らまく惜しみ 霍公鳥 野に出山に入り 来鳴き響もす(万1957)
この歌に、「野に出山に入り」と歌われている点、中西1983.は「落着きもなく」(332頁)の意とするが、ホトトギスの鳴き声が「ホト」「トギ」の掛け合いであることを言い換えた表現である。
問答
卯の花の 咲き散る岳ゆ 霍公鳥 鳴きてさ渡る 君は聞きつや(万1976)
聞きつやと 君が問はせる 霍公鳥 しののに沾れて 此ゆ鳴き渡る(万1977)
これらの歌は「問答」と題されている。あまり意味のない「問答」であるように思われているが、ホトトギスが「ホト」「トギ」という鳴き声のうちに問答をしているのだから「問答」の歌なのである。論理階梯を行き来する敏腕さについていかなければ、無文字時代の音声言語が独自進化していたヤマトコトバの実勢を理解することはできない。
…… 近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕 指し交へて 寝ても来ましを 玉桙の 路はし遠く 関さへに 隔りてあれこそ よしゑやし 縁はあらむそ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を 外のみも 振り放け見つつ ……(万3978)
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば ……(万3993)
…… 嘆かくを 止めもかねて 見渡せば 卯の花山の 霍公鳥〔保等登藝須〕 哭のみし泣かゆ ……(万4008)
卯の花の 咲く月立ちぬ 霍公鳥〔保等登藝須〕 来鳴き響めよ 含みたりとも(万4066)
「菖蒲」
植物では菖蒲も、卯の花同様に霍公鳥とともに用いられている。万葉集中に十二例ある菖蒲のうち、十一例が霍公鳥とともに用いられている。次は唯一、霍公鳥とともに歌われていない歌であるが、霍公鳥が出てくる万4101番歌の反歌である。
白玉を 包みて遣らば 菖蒲〔安夜女具佐〕 花橘に 合へも貫くがね」(万4102)
アヤメグサの語の由来は、メが甲類だから文目(メは乙類)ではなく、漢女(メは甲類)に負っている。岩波古語辞典に、「漢女(あやめ)の姿がたおやかさに似る花の意。」(63頁)とある。しかし、一般に、アヤメグサはサトイモ目の渋い花をつける植物であると同定されている(注17。筆者は、アヤメグサと断っているのだから、草の部分を生活に利用したことを指していると考える。芳香が高いことから、節句に邪気を払うために用いられた。一方、ハナアヤメと呼ばれるものがある。花を見てそう名づけている。もともとの自生種は、今日、ノハナショウブと称されている。
問題は、なぜ漢女の意味を植物の名前に当てたかである。漢女は渡来人の女性で、機織りが巧みな人のことであった。「漢機」(雄略紀十四年正月)のことで、中国式の高機を操って見事な織物を織り上げていた。織りの組織として綾織りという織り方もあり、地に文様をつけることができた。特に綾織りでなくても、文様をつけて織られたものをよくよく見てみると、花弁の様子と似ていることに気づく。新式の織物のように模様がついていると見立てられたわけである。その結果、「菖蒲」の類を漢女と呼ぶようになったと考えられる。似た葉をした植物から少しずつ違う柄の花が咲くのがアヤメ属である。それらが今日のアヤメなのかショウブなのか検討する必要はない。漢女の手にかかれば、いろいろな地模様に織り上げてくれる。命名は植物学の外にある。そして、同類の葉をつけるもので、香気が強くて節句に用いる素材として活用できる植物をアヤメグサと呼び、「菖蒲」という字を使い慣わしていたと考えることができる(注18)。

漢女が機織りをする作業は、本邦で従来行われていた機織りとは大きく違った。高機は、大掛かりに経糸を上下に分離させ行き交わすメカニズムとなっている。文様が生まれるようにあらかじめ経糸を準備(機拵え)しておけば、後は単純作業になる。織るだけで地に文様が浮かび上がる。その高機の操作にパタパタという音を立てる。だから機のことをハタと呼んだのであるが、絶え間なくパタパタと音を立てている。在来の地機で織った織物のことを倭文織(注19)というように、静かに織られていたのとは対照的である。高機の操作に熟練している漢機は、パタパタパタパタ連続して音を立てている。 間髪を入れずに受け答えしているさまに似ており、ホトトギスの「ホト」「トギ」の即応にパラレルな関係であると見立てられた。季節的にも、ホトトギスが鳴くのとアヤメグサを刈り取って五月五日の節句に用いるのとが概ね合致するから、歌に合わされている。
アヤメグサは邪気を払うものとして、五月五日に家の軒にさし掛けたり、身につけたり、薬玉のように作られたかとされている。「菖蒲 花橘を 玉に貫き」という慣用表現で用いられる。香りが立って邪気を払うとされたものどうしが連なっているわけである。風習としてはもっぱら中国由来のことと考えられており、荊楚歳時記などに見られるという。高機とともに本邦に伝わったということであろうか。今日、端午の節句に菖蒲湯を使う風俗へと続いている(注20)。
ただし、どこまでが中国の風俗に由来したものであるかは不明である。橘は、タヂマモリが常世の国から持ち帰った不老不死をもたらす時じくの香の木の実であり、その際、「縵」(垂仁記)にも作られている。その橘が万葉集に歌われる際、霍公鳥とともに用いられる傾向にあったのは、両者が、ほとんど時は過ぎると言える存在だったからである。
「菖蒲」も、漢女が織りあげるのにはパタパタパタをくり返して、ほとんど時は過ぎている。機織りはとても時間がかかる。そのアヤメ、今日、ノハナショウブと言い当てられている植物だと思って刈り取ってきた葉のなかに、似ても似つかぬ蒲のような花序のものが混じっていた。何か違うのではないかと思っても、必要な知識は植物学にあるのではなく、実用に供すればよいだけだから、類似する葉については一括してアヤメグサと呼んでおけば済むと考えたのだろう。これは頓智である。結果的に、ヤマトコトバのなかで生きていた人々に納得され、歌においては霍公鳥とともに詠まれている。すでにとりあげた例を除き以下に示す。
霍公鳥 厭ふ時なし 菖蒲 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万1955)
霍公鳥〔保等登藝須〕 厭ふ時なし 菖蒲 蘰にせむ日 此ゆ鳴き渡れ(万4035、重出)
…… 霍公鳥〔保止々支須〕 来鳴く五月の 菖蒲 蓬蘰き 酒宴 遊び慰ぐれど ……(万4116)
霍公鳥を詠む歌二首
霍公鳥 今来鳴き始む 菖蒲 蘰くまでに 離るる日あらめや(万4175)〈毛・能・波、三箇の辞を闕く〉
我が門ゆ 鳴き過ぎ渡る 霍公鳥 いや懐かしく 聞けど飽き足らず(万4176)〈毛・能・波・氐・尓・乎、六箇の辞を闕く〉
万4175・4176番歌は、基本的な助詞を使わないで歌を作った歌であると注記されている。なぜそのような試みが行われたのか。ホトトギスの鳴き声が、「ホト」「トギ」だけで成り立っていると認められていたことと関係するのではないか。ホトトギスに負けじと諧謔を弄して、助詞を省いて簡潔な言葉で立ち向かったということだろう。
「藤波」
霍公鳥とともに詠まれる植物としては、ほかに「藤波」がある。葛同様に蔓を伸ばす。ホトトギスが鳴く時期に花が咲き、蘰にしたことから持ち出されているのだろう。房が波打つように見えるから「藤波(浪)」と表現することが多く、その複数の花房をつけた状態で採取し蘰にしたらしい。波は次から次へと間断なく押し寄せてくるものである。「ホト」「トギ」と間断なく鳴くホトトギスに由縁して「藤波」という語が選択されている。既出以外の例をあげる。
藤波の 散らまく惜しみ 霍公鳥 今城の岳を 鳴きて越ゆなり(万1944)
霍公鳥 来鳴き響もす 岡辺なる 藤波見には 君は来じとや(万1991)
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴くべき時に 近づきにけり(万4042)
明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも〈一は頭に云ふ、保等登藝須〉(万4043)
藤波の 繁りは過ぎぬ あしひきの 山霍公鳥〔夜麻保登等藝須〕 などか来鳴かぬ(万4210)
霍公鳥 飛幡の浦に しく波の しばしば君を 見む因もがも(万3165)
最後の万3165番歌は、「藤波」ではないが波のことを言っている。十分な理解に至っていないため、冒頭の「霍公鳥」を枕詞と解する説もある。
「木の暗」
ほとんど時は過ぎるとは、一日という単位で言えば日が暮れることである。クレ(呉)の国から来た新技術こそ、「漢織」であると言いたいのである。日が暮れそうになると、機織りは一日の作業を終わらせる。見えにくくなると文様が揃わないからであり、明かりを灯してまでしないのは灯油がもったいないからでも、煤が出てはせっかくの織物が台無しになるからでもある。したがって、ホトトギスの歌では、ホトトギスは「木のクレ(暗・晩)」で鳴くように仕向けられている。
霍公鳥を詠む歌一首
木の暗の 繁き峯の上を 霍公鳥〔保等登藝須〕 鳴きて越ゆなり 今し来らしも(万4305)
木の晩の 夕闇なるに〈一に云ふ、なれば〉 霍公鳥 何処を家と 鳴き渡るらむ(万1948)
多胡の崎 木の暗茂に 霍公鳥〔保登等藝須〕 来鳴き響めば はだ恋ひめやも(万4051)
木の暗に なりぬるものを 霍公鳥〔保等登藝須〕 何か来鳴かぬ 君に逢へる時(万4053)
「網」「夏」「初声」
ホトトギスは後の時代に網鳥という言い方がされている。記録されている始まりは大伴家持の歌にあり、網をさしてホトトギスを捕まえるからであるとされている。網を使って捕まえてペットとして飼い、翌夏に初声を楽しむためであったと考えられている。
霍公鳥〔保登等藝須〕 夜音なつかし 網ささば 花は過ぐとも 離れずか鳴かむ(万3917)
橘の にほへる園に 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴くと人告ぐ 網ささましを(万3918)
霍公鳥 聞けども飽かず 網取りに 獲りて懐けな 離れず鳴くがね(万4182)
霍公鳥 飼ひ通せらば 今年経て 来向ふ夏は まづ喧きなむを(万4183)
玩弄する目的で捕まえていたか、そうしようという欲望が芽生えていたかしている。他の鳥、例えば文鳥などではなく、ホトトギスに限って網鳥と言われるに至っている。わざわざホトトギスに限って網を持ち出して歌い上げているのは、網という言葉が動詞アム(編)に由来していることと関係するのだろう。編むためには編み棒を両手に二本持って互い違いに交わす。その交わし方が「ホト」「トギ」と即応する鳴き交わしに相応すると見られたからではないか。万4183番歌で、来年の夏に一番に鳴くであろうとするのは、万4182番歌に、それが懐いているからであるとナツ音つながりですでに語られている。この点を強調するなら、ホトトギスが鳴くのは夏のことであると定まる。万3984番歌の左注に「霍公鳥者立夏之日来鳴必定」とあるのは、現状では漢詩文の詠物詩の影響を受け、四季と結びつけてホトトギスを歌っているものと考えられている(注21)が、必ずや駄洒落の延長上にあるのだろう。歌を歌う大伴家持に漢詩文を理解しヤマトコトバへと展開する能力があったとしても、その歌を聞く側、周囲にいる家人や召使いがそれを理解できなければ、たちまちのうちに変人、狂人扱いされてしまう。
大伴家持の霍公鳥の歌二首
夏山の 木末の繁に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥けさ(万1494)
立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作る恨みの歌二首
あしひきの 山も近きを 霍公鳥〔保登等藝須〕 月立つまでに 何か来鳴かぬ(万3983)
玉に貫く 花橘を 乏しみし この我が里に 来鳴かずあるらし(万3984)
霍公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定す。又越中の風土は橙橘の有ること希なり。此に因りて、大伴宿禰家持、感を懐に発して聊かに此の歌を裁る。 三月二十九日
四月十六日に、夜の裏に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐を述ぶる歌一首
ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥〔保登等藝須〕 鳴く音遥けし 里遠みかも(万3988)
二十四日は立夏の四月の節に応る。此に因りて二十三日の暮に、忽ちに霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひて作る歌二首
常人も 起きつつ聞くそ 霍公鳥 此の暁に 来喧く始音(万4171)
月立ちし 日より招きつつ うち偲ひ 待てど来鳴かぬ 霍公鳥かも(万4196)
万4196番歌の「月」は夏四月のことである。
景物
以上のように、ホトトギスという語自体の特徴から万葉集の霍公鳥の歌を見てきたが、ヤマトコトバの「ことば遊び」以外の、景物として、あるいはとても思い入れを強くした対象としてホトトギスを見た歌もある。ただし、言葉の使い方、他の語との連動性については、それまで作られてきた歌を踏襲する傾向にあり、すでに多くの例をあげてきた(注22)。
霍公鳥を詠む歌一首〈并せて短歌〉
谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども 霍公鳥〔保登等藝須〕 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと 朝には 門に出で立ち 夕には 谷を見渡し 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず(万4209)
ホトトギスの声を聞きたくてたまらないといった偏愛ぶりなどは、個人的な感情の吐露に聞こえる。これまでに見てきた歌のあり方とは少し違っている。ヤマトコトバに意味を圧縮させようとしてきた営みが、反対に解凍する方向へと向かう一端が窺える。人々の言語観が変化する片鱗を覗かせている。一語一語の言葉をそらで覚えることですべてを知恵として生きていた時代は幕を下ろし、文字文化に突入して記録によって伝える術を持つようになっていく。知識の時代の始まりである。人々の言語活動は、その半身を麻痺させ始め、現在へと続くこととなった。
おわりに
万葉集では、ホトトギスは基本的に、その言葉(音)自体の「ことば遊び」をもって歌われている。そして、ホトトギス歌は、ホトトギスという言葉と関連する語ばかりで構成されることになっている。ホトトギス歌には、ホトトギス歌のための言葉のサプライチェーンがあったということである(注23)。このことは、我々が抱いている言語に対する感覚からすれば、計り知れない違和感をもよおす。無文字時代の言語活動は、文字時代の今日までのものとは位相が異なるものであったことを教えてくれている。異文化であると言っても過言ではない。そのことは、人類の可能性として、現代の文明とは違う道があり得たことをも示唆している。その可能性をいま見ることは、万葉集の歌を味わうのに、実は最も実りある鑑賞法なのではないか。現代における万葉集の研究は、ともすればその万葉歌を、漢文学の影響を付会するための検索の基点へと貶めてしまっている。「ホト」「トギ」の即答唱和や、ほとんど時は過ぎるの語釈に愉快を感じていた彼らの心を軽んじて、ホトトギス歌の出典を漢詩文に求めても無意味であって自己満足に過ぎない。街に歌詠みが多数いて、人々は言葉のなかに生きていた。ヤマトコトバに生きていた上代人の心性を顧慮せずにいては、ほとんど時は過ぎることになるだろう 。
(注)
(注1)東1935.に、「集中でも初期の間は馬とか、鹿とか、鴨など手近のものや、狩猟の対象となつた実用的な動物が多く歌はれてゐたのであるが、漸次その末期に近づくにつれて、支那文学の影響を蒙り時鳥や鶯の鳴声を鑑賞する様になつて来たのである。」(227頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注2)以下、万葉集の原文に「霍公鳥」とあるものはそのままに、それ以外の用字については〔 〕に入れて追記する。
(注3)小池2001.は、霍公鳥という字面の「霍」に、雨の中鳴く鳥であることを含意したかったためかとしている。
(注4)荊楚歲時記逸文に、「三月三日。杜鵑初鳴。田家候之。此鳥鳴昼夜。口赤上天乞恩。至章陸子熟乃止。」とある。本邦の人がこれを見て「霍公鳥」と記すようになったとは考えにくい。「杜鵑」とある。荊楚歲時記にはまた、「四月有鳥、名獲榖。其名自呼。農人候此鳥、則犁杷上岸。按爾雅云、鳲鳩鴶鞠。郭璞云、今布榖也、江東呼獲榖。崔寔正論云、夏扈趍耕鋤、即竊脂玄鳥鳴獲榖、則其夏扈也。」とあり、カッコウは「獲榖」と自ら双声に呼んでいるとしている。
(注5)伊藤1998.に、「ホトトギスを擬人的に「名告り鳥」と呼ぶことが、遅くとも近江朝の頃には成り立っており、人々のあいだに一般の言葉として定着していたであろう……。……古くから日本人のあいだにあったこの「名告り鳥」の称に想を致し、「名告り鳴く」時鳥の表現に思い至ったのではなかろうか。地の言葉、口頭言語としてホトトギスについて言われ来った語「名告り鳥」がここではじめて「名告り鳴くなるほととぎす」という和歌表現に奉り上げられたのである。」(38~39頁)とある。
(注6)集中には、雁が「名を告る」歌がある。
ぬばたまの 夜渡る雁は おほほしく 幾夜を経てか 己が名を告る(万2139)
この歌では雁が名告っている。カリと自ら鳴いていると聞きなして、別名をカリガネ(雁が音)ともいうことをおどけて言っている。ただそれだけである。雁が鳴いているさまを「名告り鳴くなる」とは表現しない。霍公鳥に「名告り鳴くなる」という定型化をもたらしている点に注目すべきなのである。「大伴」という人が「名に負ふ」として曰くある歌を歌っていても、その人のことを「名告り人」と言わないことと同じである。
(注7)山口2019.は、この訓にて解釈を展開している。
(注8)「「かくこふ」のところは掛け詞のように二重写しになっていて、私がこんなに貴方を恋い慕っているとういうことを、ホトトギスよ、あの方の所へ飛んで行って、『斯く恋ふ、斯く恋ふ』と鳴いて伝えておくれ。」という意味に解釈すべきもののように思われる。つまり、「霍公鳥」は「ホトトギス」と言われると同時に実体は「郭公鳥」そのものであり、「カクホフ」即ち「斯く恋ふ」と鳴く鳥なのである。こう解釈してこそ、この歌の意味も深くなり、ホトトギスが此所に登場してくる理由も、「霍公鳥」と書かれた意味も首肯できるというものである。」(18頁)とある。
(注9)「郭公」という漢字も、中国での古い用例は知られていない。集韻に、「〓〔監偏に鳥〕鷜 鳥名、郭公也。」、元の李孝光・寄朱希顔二首の其一に、「会有行人回首処、両辺楓樹郭公啼。」と見える程度である。もともとカッコウには鳲という字を作っているのではないかとされるが、種の同定には至らない。
木村1901~1911.に、「本集に霍公鳥とかきたるは、皇国にて名づけたる称にて漢名にはあらず、……公はかゝるものに添ていふ文字にて、鶯を黄公、燕を社公、布穀を郭公、蝍蛆を呉公……といふに同じ、又古ヘ此方にて漢名に準へて物ノ名を製したる例は、胡枝子を鹿鳴草といひ、梫木を馬酔木などいへるなど是也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/874365/22、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注10)霍公鳥を、種としてホトトギスとカッコウとの総称としたり、混同しているとする見方があり、万葉集中の鳴き場所などから推測して見解をなしているものがある。今日の動物分類学をもって何を示そうとしているのか、言語学的立場からは不明である。
ソシュール2013.に復刻されているが、丸山2014.からソシュールの発言を引く。「コトバについて哲学者たちがもっている、あるいは少なくとも提供している考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせるようなものである。すなわち、アダムはさまざまな動物を傍に呼んで、それぞれに名前をつけたという。……コトバの根拠は名詞によって構成されてはいない。……それにもかかわらず、〔哲学者たちの考えには〕コトバが究極的にいかなるものかを見る上で、我々が看過することも黙認する出来ないある傾向の考え方が、暗黙のうちに存在する。それは事物の名称目録という考え方である。

それによれば、まず事物があって、そこから記号ということになる。したがって、これは我々が常に否定することであるが、記号に与えられる外的な基盤があることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。
ところが、真の図式は、a─b─cなのであって、これは事物に基づく*─aといったような実際の関係のすべての認識の外にあるのだ。」(130~131頁)。
(注11)室伏1966.に、「程時過」説がある(3頁)が、「程(ホ・トは甲類)」と「霍公鳥、ホ・トは乙類)」は音が合わない。
(注12)記紀に載る文章をあげる。
又、天皇、三宅連等が祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣して、ときじくのかくの木実を求めしめたまひき。故、多遅摩毛理、遂に其の国に到り、其の木実を採りて、縵八縵・矛八矛を将ち来る間に、天皇、既に崩りましぬ。爾くして、多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛を分け大后に献り、縵四縵・矛四矛を以て天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木実を擎げて、叫び哭びて白さく、「常世国のときじくのかくの木実を持ちて参ゐ上りて侍り」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。其のときじくのかくの木実は、是、今の橘ぞ。(垂仁記)
九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて、常世国に遣して、非時の香菓を求めしむ。〈香菓,、此には箇倶能未と云ふ。〉今、橘と謂ふは是なり。……
明年の春三月の辛未の朔にして壬午に、田道間守、常世国より至れり。則ち齎る物は、非時の香菓、八竿八縵なり。田道間守、是に泣ち悲歎きて曰さく、「命を天朝に受り、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、神仙の秘区、俗の臻らむ所に非ず。是を以て、往来ふ間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや、独峻き瀾を凌ぎて、更、本土に向むといふことを。然るに、聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ること得たり。今、天皇既に崩りましぬ。復命すこと得ず。臣生けりと雖も、亦、何の益かあらむ」とまをす。乃ち天皇の陵にまゐりて、叫び哭きて自ら死れり。群臣聞きて皆涙を流す。田道間守は、是、三宅連の始祖なり。(垂仁紀九十年二月〜垂仁後紀九十年明年)
(注13)伊藤2009.に、「父草壁、弟文武、母元明が時の元正天皇にとっての亡き人。」(278頁)とある。
(注14)新大系文庫本万葉集に、「一首の意味は判然としない」(145頁)とある。山口2017.は、「〈AヲBミ〉型のミ語法の場合、ヲの後に疑問あるいは詠嘆のヤが入ることは考えにくいから」(68頁)、訓み方を「本つ人 ほととぎすをば めづらしび 今も汝が来る 恋ひつつをれば」としている。ミ語法については、青木2016.参照。
(注15)「ことば遊び」という術語は言語学上いまだ確立途上の概念によるが、上代の「ことば遊び」はさらにその辺縁、あるいは極限に位置づけられるもので、これまで検討されたことはない。ほとんど研究対象とされていないなか、滝浦2005.は、ヤーコブソンにならって「あらゆることば遊びが遊びとしての相互行為性を有する限り,「指示的機能」の背景化の度合いに応じて,……「交話的機能」の機能レベルは上昇する.ここに,ことば遊び全体に共通のコミュニケーション論的機能を見ることができる.」(408頁)としている。ここではその滝浦氏の行論にあえて従って考えることにする。
上代語であるヤマトコトバは、無文字時代にやりとりされた音声言語である。峠を越えた隣村の人とやりとりするためには、この「交話的機能」が大前提となっていなければならない。そのときはじめて言葉は「指示的機能」を有しうる。反対から言えば、ヤマトコトバは「ことば遊び」でなければ存立しえなかったのである。“伝え合う”行為は、“ともに遊ぶ”行為を条件としていた。そのことは、「言向け和す」という言い方に最もよく理解されるであろう。なぜ言うことによって敵対勢力は和してくるのか。交話可能になって言葉においてともに遊ぶことができれば、ヤマトコトバを共有するものどうしとして、ヤマトコトバ人としてアイデンティティを得て特権的な意識が育まれるからである。ヤマトコトバの生成動態段階と言ってよく、ヤマトコトバ圏の版図の拡大段階に一致する。その「ことば遊び」のコードは、ヤマトコトバの民に共有されるべき基礎的な伝承、すなわち、記紀に記されて残っている共通の記憶体系としての諸説話群を「百科事典的知識」とし、基にしている。その「ことば遊び」のルールは、言葉が一音、一義であるとする約束事に従っていた。現代人のような圏外の人からは、説話は秘儀的に見えるがけっして神話ではなく、新たに加わることとなった周縁地域の人々にとっても速やかに了解され得るものであった。説話自体が「ことば遊び」、なかでも「ゲーム型」に当たる〈なぞなぞ〉の上に成り立っていたからである。〈なぞなぞ〉がヤマトコトバの本質であり、「交話的機能」と「指示的機能」を両立させて最大化することにかなっていた。そのような状況下にあっては、滝浦氏が想定する語用論的な逸脱も、情報性の低減や欠如ももたらさない。
滝浦2002.は、グライスが「会話者が(特別な事情がないかぎり)遵守するものと期待される大まかな一般原理」とする「協調の原理 Cooperative Principle」のもとに具体的な「格率 maxims」が置かれているとしていることを引き、次のように指摘する。「ことば遊びにおける格率違反は,何はともあれ言葉の流れそのものを撹乱することによって行なわれる違反である。それによって大文脈は背景に退くか,少なくとも一旦は宙吊りにされ,その分だけ情報の伝達性は(意味的にというよりもむしろ,端的に物理的に)阻害されることになる。つまり,その限りにおいて,ことば遊びは,多かれ少なかれ“本当に伝えない”のであって,その点ではまさしく,「合理的」ではないコミュニケーションの一形態であると言わなければならない」(90~91頁。滝浦2000.は、「ただし、《なぞなぞ》のような「論理」遊びはここでは除外して考える。」(23頁)と断っている。)。上代人の言語活動における「ことば遊び」はその限りではない。強いて格率違反であると捉えるなら、滝浦2002.が指摘する「グライスの論じたような「含み」を生み出す“見かけ上の格率違反”」であり、話し手は「協調の原理」を遵守しており、聞き手は、「発話の意味」と「発話者の意味」とがヤマトコトバの体系のなかに一致していることを目の当たり、耳の当たりにして、驚きをもって迎え入れざるを得なかったのである。
ベイトソンの文脈に則していうところの滝浦氏のいう「ことば遊び」が、「これは遊びだ」というフレーミング(framing)においてのものであるとしている点からして、上代のヤマトコトバの「ことば遊び」はすでに虚を突いている。ヤマトコトバは「ことば遊び」であることを当初から前提としており、「ことば遊び」でなければ言葉ではないのである。ヤマトコトバの「ことば遊び」は単なる to play language ではなく、to play language that is played であること、メタ「ことば遊び」がヤマトコトバなのであった。ふだん使いの言葉が「遊び」であることをモットーとしているので、発言を取り消す気などさらさらなく、発せられた言葉はそのまま残されることを期待している。「交話的機能」と「指示的機能」、“伝え合う”行為と“ともに遊ぶ”行為を同時に成し遂げることが目途とされていた。話し手は言葉の字義をたゆまず再定義していく過程のなかで言葉を発していて、そこに生まれた新たな意味の含みが旧来の意味との整合性をその瞬間に理路整然と証明して見せるほどに気合いの入った発言にこだわっていて、聞き手もそのつもりで本気で聞いていたのであった。すべての言葉は〈なぞなぞ〉のなかでやりとりされている。言葉と事柄との間で相即性を保ち、けっして違わないようにしていた様相については、筆者はそれを「言霊」信仰と呼んでいる。ヤマトコトバの生成者、創出者として生きていた彼ら彼女らは、発言に際して慎重を期し、逆に言葉を手玉に取ることを目指しているかのような入れ籠構造に作った言葉を飛び交わさせるようにしていた。挙句に、今日の人ばかりか中古の人にとっても理解できない枕詞といった独自の言葉の発表大会が、歌の歌われる場面でくり広げられていた。発言、発語、発話に際しては、「ことば遊び」によって生ずる小文脈を大文脈との間の誤謬を意味的に調整することこそ、頭のひねりどころだったわけである。メッセージとメタ・メッセージとを行きつ戻りつする「遊び」、〈なぞなぞ〉の活動こそ、上代人が行っていたヤマトコトバの言語活動(「ことば遊び」)である。無文字時代、音声言語ばかりが言語なのだから、発し発せられる言葉はメタ言語的であることが常に意識の上にあり続け、今日的感覚とは異なる緊張状態が継続していたのである。
「ことば遊び」の性質としてあげられる、「“伝えつつ伝えない”ことと“伝えないことにおいて伝える”こととの間を往復する運動」である点は、本稿にとりあげている万葉集のホトトギス歌がよく“伝えて”くれている。コミュニケーション論の立場から上代のヤマトコトバとは何かについて定位しておく必要が求められるが、壮大なテーマなのでいつの日か改めて論ずることにしたい。
(注16)中西1983.は、「卯の花が咲くのといっしょに鳴くので、ほととぎすは一層愛すべきであるよ。名告り出るように鳴くにつれて。」(168頁)と訳している。
(注17)クロンキスト体系、新エングラー体系などによる。
(注18)ショウブについて、漢語の菖蒲、石菖、白菖蒲などの総称で、平安時代からそれをシャウブ、サウブと呼ぶようになっている。和漢三才図会(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569772/6)参照。
(注19)「倭文、此には之頭於利と云ふ。」(天武紀十三年十二月)とある。
(注20)荊楚歳時記に、「五月五日、謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戯、採艾以為人、懸門戸上、以禳毒気。以菖蒲或鏤、或屑以泛酒。」などとあるが、藝文類聚に菖蒲の件は載らない。
続紀・天平十九年五月五日条に、「太上天皇[元正]、詔して曰はく、「昔者、五日の節には、常に菖蒲を用て縵と為。比来已に此の事を停めぬ。今より後、菖蒲の縵に非ずは、宮中に入ること勿れ」とのたまふ。」とあって、菖蒲を蘰にすることが一時期廃れていたところを見ると、節句─蘰─アヤメグサ─ホトトギスという結びつきは弱く、アヤメグサ─漢女─機織り─「ホト」「トギ」スという結びつきが強かったようにも見受けられる。また、大伴家持作歌が全十二首中九首を占めており、万1955・4035番歌は同じ歌だから、家持以外に歌ったのは山前王と田辺史福麿だけで、汎用されていたのか不明である。以下に示す菖蒲蘰の作り方も、復古的な擬作なのかもしれない。藤原師輔・九暦・五月節(天慶七年)条に、「一、造菖蒲蘰之體、用細菖蒲草六筋〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以短四筋当巾子・前後各二筋、以長二筋廻巾子、充前後草結四所、前二所後二所、毎所用心葉縒組等、」(大日本古記録https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/0901/0061?m=all&s=0055&n=20、漢字の旧字体は改めた)とある。
また、いわゆる「薬玉」とされるものが、万葉集の「玉(珠)」とどのように関係しているのか、疑問なしとしない。
(注21)靑木1971.に、漢書・楊雄伝第五十七の、「徒恐鷤繯之将鳴兮、顧先百草為不芳。」とある箇所の顔師固注に、「鷤、鴂鳥、一名子規、一名杜鵑、常以立夏鳴、鳴則衆芳歇。」とあるのによるとある。(e国宝https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=101356&content_part_id=001&content_pict_id=012&langId=ja&webView=参照)
橋本1985.はその説をあげつつ、「なお、植木久行氏によれば家持を中心とする日本におけるほととぎす熱愛、ないしは憧憬の念は、六朝以来の中国の詩文の影響下に生まれたものではなく、万葉人独自の美意識によるものであるとしている……。」(204頁)と注している。植木1979.参照。
なお、この題詞に見られる「暮」をクレと訓むべきかについては不詳である。
(注22)一応の傾向として見ている。万葉集のホトトギスに関連する歌の中でどこまでがホトトギスという語自体にまつわるもので、どこからがホトトギスを自然景として見切っていったものなのか峻別することはできない。作者に聞いてみなければわからないことである。以下の歌はその分類上、分類しきれないままに積み残した。後考を俟つ。
狛山に 鳴く霍公鳥 泉河 渡を遠み 此間に通はず〈一は云ふ、渡り遠みか 通はずあるらむ〉(万1058)
小治田広瀬王の霍公鳥の歌一首
霍公鳥 音聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の乏しき(万1468)
言繁み 君は来まさず 霍公鳥 汝だに来鳴け 朝戸開かむ(万1499)
霍公鳥 今朝の旦明に 鳴きつるは 君聞きけむか 朝宿か寐けむ(万1949)
雨𣋠之 雲に副ひて 霍公鳥 春日を指して 此ゆ鳴き渡る(万1959)
過所なしに 関飛び越ゆる 霍公鳥〔保等登藝須〕 多我子尓毛 止まず通はむ(万3754)
(注23)ホトトギスという語を語るに、パラセームのなかにその意味を語ろうとしていたのである。ソシュール2013.にある、「おのおのそれ自体のために取りあげられた個別的記号という誤り。─あるいは、五〇〇の記号+五〇〇の意義だと思う誤り。─あるいは、「語とその意義」などと堂々と言い放ち、その語が[多くの語ないしパラセーム[parasème、特定共時的な体系内に共存する各辞項]]に取り囲まれていることをすっかり忘れているのに、言語の現象というものをほんの些細なことで示したと思い込んでいるその誤り。」(169~170頁)をおかしてはいなかったということである。
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加藤良平 2021.4.27初出2025.2.1訂正補筆