万葉集の「ますらをと 思へる吾や」について

 万葉集のなかで「大夫ますらをと おもへるわれ」の形をとる歌は次の五例である。

  大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ〔大夫跡念流吾乎如此許三礼二見津礼片念男責〕(万719、大伴家持)
 大夫ますらをと 思へるわれや 水茎みづくきの みづうへに なみたのごはむ〔大夫跡念在吾哉水莖之水城之上尓泣将拭〕(万968、大伴旅人)
 大夫ますらをと 思へるわれを かくばかり 恋せしむるは しくはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在来〕(万2584)
 …… とほつ神 わご大君の 行幸いでましの 山越す風の 独りる わが衣手ころもでに 朝夕あさよひに 返らひぬれば 大夫ますらをと 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひる たづきを知らに 網の浦の あま処女をとめらが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下心〔……遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨居吾衣手尓朝夕尓還比奴礼婆大夫登念有我母草枕客尓之有者思遣鶴寸乎白土網能浦之海處女等之焼塩乃念曽所焼吾下情〕(万5、軍王)
 …… 大船の わたりの山の 黄葉もみちばの 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる がみの〈一に云ふ、室上山むろかみやま〉山の 雲間より 渡らふ月の しけども かくろひ来れば 天伝あまつたふ 入日さしぬれ 大夫ますらをと 思へるわれも しきたへの ころもの袖は 通りて濡れぬ〔……大舟之渡乃山之黄葉乃散之乱尓妹袖清尓毛不見嬬隠有屋上乃〈一云室上山〉山乃自雲間渡相月乃雖惜隠比来者天傳入日刺奴礼大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴〕(万135、柿本人麻呂)

 よく似た形として次のような歌もある。

 天地あめつちに すこし至らぬ 大夫ますらをと 思ひしわれや 雄心をごころもなき〔天地尓小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸〕(万2875)
 大夫ますらをと 思へるものを 大刀佩たちはきて かにはの田居たゐに せりそ摘みける〔麻須良乎等於毛敞流母能乎多知波吉弖可尓波乃多為尓世理曽都美家流〕(万4456、葛城王)

 万5・135番歌の長歌は、「大夫ますらをと おもへるわれ」の形である。万719・968・2584番歌の短歌の場合、「大夫ますらをと おもへるわれ」、「大夫ますらをと おもへるわれ」の二通りの例がある。「乎」は「を」、「哉」は「や」と訓んでいる。だが、木下1978.は、助字「乎」が本来代表的な疑問辞であったことから、万719番歌の「乎」を「や」と訓むことを提唱している(注1)。そうなると、万2584番歌の「乎」も「や」と訓んだほうが統一感が出る。なにしろ、万968番歌では「念在吾」とあって「思へる吾」としか訓めないからである(注2)
 「乎」を「を」と訓んだ時の解釈と「や」と訓んだ時の解釈は、現状では次のようになっている。

  大夫ますらをと おもへるわれ かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)
 「ますらおと 思っているわたしだが これほどに 疲れに疲れて 片思いをすることか」(古典全集本372頁)
  大夫ますらをと おもへるわれ かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)
 「ますらおと 自負しているわたしが こんなにも やつれにやつれて 片思いをすることか」(新編全集本①353頁)

 「みつれにみつれ」は「みつれてもあるか〔三礼而毛有香〕」(万1967)の例から推して、疲れ果てる、やつれる、の意の「みつる」(下二段)という動詞を想定している。そして、「や」と訓んだ時、その「や」は疑問の意に解している。
 「みつる」という語の意、ならびに「や」を疑問の意とする捉え方に筆者は肯ぜない。

 かぐはしき 花橘はなたちばなを 玉にき 送らむいもは みつれてもあるか〔香細寸花橘乎玉貫将送妹者三礼而毛有香〕(万1967)

 かぐわしい橘を薬玉に貫き通して送りたいと思う彼女は、恋にやつれていることだろうか、の意とされている。橘の薬玉を送ることで、恋の病の薬となればいいということなのかもしれない。贈り物をされたら、本当に愛されているのか不安視していた彼女の気持ちはパッと晴れるだろうというわけである。しかし、そう取った場合、この歌は、「かぐはしき 花橘を 玉に貫き 送らむ」と「妹は みつれてもあるか」に分れるような、句の途中での切れ方をしていることになる。その意味合いなら、四・五句目は「みつるる妹に 今し送らむ」などとしたほうが表現として順序正しいのではないか。
 同様に、万719番歌でも、片思いをして食べられなくなって体がやつれてくるということの謂いかもしれないものの、述べ方として因果関係が順序立っていない。「みつれにみつるる○○片思」というかかり方になっていないのである。
 筆者は、「みつる」という動詞は、現代語の「もつれる」に近い言葉で、糸を作るのに撚り合わせる際、大掛かりにすることをいうのではないかと考える(注3)。もつれるように糸を撚り合わせるのは右巻きなら右巻きに片側からたくさんの繊維を撚って行ったためにだぶついていて、太くはなっているが、見た目としてはピンと張っていない様子を指しているものと思われる。
 万1967番歌は、花橘をもつれるほどに太い糸で玉に貫いて贈り物にしようとしている相手の女性は、どうなのだろう、どうなのだろうと心がもつれているだろうから、と言い合わせたところに妙がある歌なのだろう。そう言い合わせているから、恋の病の薬として効果があるものと歌えるのである。
 万719番歌では、「や」と訓んだ時の意は反語であると考える。

  大夫ますらをと 思へるわれや かくばかり みつれにみつれ 片思かたもひをせむ(万719)
 「ますらを」だと思っている私だからか、いやいやそういうことではなくとも、これほどに心がもつれにもつれるように片撚り偏って安定しない心理状態になって片思いをしますよ、あなたが素敵だから、という意味である。

 この歌は、「大伴宿祢家持贈娘子歌七首」のうちの一首である。家持が実際に娘子との間で恋仲になっていたかどうかはわからないし、この際どうでもいいことで、歌として表現が秀逸であるかが問題である。歌として上手ければ万葉集に採るし、そうでなければ採られなかっただろう。
 別稿(注4)で述べたように、「ますらを」という言葉の背景には、言い伝えに伝わり誰もが通念として持っているヤマトタケルの性格があった。剛強、雄大、聡明でありつつ、嘆いたり、(片)恋をしたりしながら諸国を征服して回った人のことである。「ますらを」という言葉は、剛健さの側面と嘆き恋する側面の両方を併せ持つもので、その間に矛盾や対立を認めていない。万719番歌の作者、大伴家持は、大伴氏の族長として自らをヤマトタケルに擬して捉え、諸国の国司や山陰道巡察使、陸奥按察使鎮守将軍などを歴任しており、各地方をヤマト朝廷の従うところとすることに誉れを持っていたようである。
 万719番歌の場合、「娘子」は宮廷に仕える若い女性であったと思われるが、そういう相手を想定して歌を試作してみたら七首できあがったからと万葉集に収載している。ヤマトタケルは、オトタチバナヒメが走水で人柱となって自分の行く手を助けたことを忘れずに思い続け、東国から帰還するときにアヅマハヤと嘆いたと伝えられている。相手が死んでしまっても思い続けているということは、「片思」以外の何ものでもない。歌の設定では「娘子」は生きている。ヤマトタケルの生まれ変わりと思っている私であるからか、いやいやそうでなくてもあなたに対して片思いをするよ、と歌っているのである。
 作者不詳の万2584番歌も、「念有吾乎」を「思へる吾」と訓む説が優勢である。

 大夫ますらをと 思へるわれ かくばかり 恋せしむるは しくはありけり〔大夫登念有吾乎如是許令恋波小可者在来〕(万2584)

 「ますらを」を立派な男子の意ととり、立派な男子たるもの恋に溺れることなどないはずを、そうさせているのはけしからん、と解されている。これでは歌に面白みが感じられない。ここも「思へる我」と訓むのが妥当であり、「や」は疑問ではなく反語である。

 大夫ますらをと 思へる吾 かくばかり 恋せしむるは しくはありけり(万2584)

 「ますらを」はヤマトタケルの性格によって表されている。「ますらを」と思っている私のこととてこれほどまで恋しくさせるのか、いやいやそうではなくて「ますらを」とは無関係に恋しくさせているのは、悪いことだと気づいた、という意である。「ますらを」ならば甘んじて受けるべき恋の辛さかと思ったら、彼女は八方美人で「ますらを」以外の誰であれその気にさせて辛くさせる結婚詐欺師だと気がついた、という歌である。

 大夫ますらをと 思へるあれや 水茎みづくきの みづうへに 涙のごはむ(万968)

 「ますらおと 思うわたしが (水茎の)みづの上で 涙をくことか」(新編全集本②133頁)
 「や」を疑問ととっている点が誤りである。この歌は大宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられ、都へ向かう時の送別歌に和した歌である。娘子(遊行女婦、字は児島)の歌の後に左注があり、事情を伝えている。

  冬十二月、大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみみやこに上りし時、娘子をとめの作る歌二首〔冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作謌二首〕
 おほならば かもかもむを かしこみと 振りたき袖を 忍びてあるかも〔凡有者左毛右毛将為乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞〕(万965)
 大和やまとは 雲がくりたり しかれども あが振る袖を 無礼なめしとふな〔倭道者雲隠有雖然余振袖乎無礼登母布奈〕(万966)
  右は、大宰帥大伴卿の大納言を兼ねけて、みやこに向ひて上道みちだちす。此の日、馬をみづとどめて、府家ふけを顧み望む。時に、まへつきみを送る府吏ふりの中に、遊行女婦うかれめ有り。其のあざなじまと曰ふそ。ここ娘子をとめ、此の別るることの易きを傷み、の会ふことの難きを嘆き、なみたのごひて、自ら袖を振る歌をうたへり。〔右大宰帥大伴卿兼任大納言向京上道此日馬駐水城顧望府家于時送卿府吏之中有遊行女婦其字曰兒嶋也於是娘子傷此易別嘆彼難會拭涕自吟振袖之歌〕
  大納言大伴卿のこたふる歌二首〔大納言大伴卿和歌二首〕
 大和道の 吉備きびの児島を 過ぎて行かば つくの児島 思ほえむかも〔日本道乃吉備乃児嶋乎過而行者筑紫乃子嶋所念香裳〕(万967)
 大夫ますらをと 思へるわれや 水茎みづくきの みづうへに 涙のごはむ〔大夫跡念在吾哉水茎之水城之上尓泣将拭〕(万968)

 大伴旅人の「和歌」である。自分から積極的に歌いかけたのではなく、遊行女婦うかれめじまの歌を受けて歌っており、万968番歌の歌う様子も左注を受けているとわかる。伏線の回収が行われていると考えるべきところである。別れを嘆きながら涙を拭って歌っているのは娘子、遊行女婦の児島であって旅人ではなく、その娘子が歌っているのは大宰府政庁であって水城の上ではない。大伴旅人は涙を流しているわけではないのだが、それは流した涙を拭ったからだと戯れ答えているのである。「水茎みづくきの みづ」と殊更に「水」を強調している。「みづ」はミ(水、ミは甲類)+ヅキ(尽、キは乙類)、つまり、涙の水が涸れたと洒落を言っているわけである。
 一首の大意は、ヤマトタケルのような「ますらを」と思っている私だからか、いやいやそういうことではなく、(水茎の)水城の上なのだから、涙の水が尽きてしまうように涙を拭いますよ、というものである。「ますらを」ならば嘆き悲しむことがあるのは当然なのだが、この時嘆いているのは遊行女婦の児島の方である。お株を奪われた格好の大伴旅人は、わざわざ「ますらを」と言い立てて諧謔の歌を詠んでいる。「ますらを」だから涙を流すなんてみっともないことはしないと捉えるのは本末転倒で、歌の前提が崩れてしまう。
 最後に、長歌の二例に見られる「大夫ますらをと 思へるわれも」について一言しておく。歌の作者は軍王と人麻呂である。歌われているのは旅の道中である。ただ、ヤマトタケルの征旅とは異なり、ただ都へ還るための道程のようである。だから、自らを「ますらを」と呼べるかどうかは疑問視されることなのである。そこで、不確定を表す助詞「も」を付けている。「ますらを」というヤマトコトバがヤマトタケルの逸話に基づいて造られていたことについて、当時の人々に十分浸透していたとわかる事例である。

(注)
(注1)他に例がないから「乎」は「を」と必ず訓むべきとする見解もあるが、「乎」を必ず「を」と訓むのか疑わしい例もある。「狂言たはことか 人の言ひつる 逆言およづれ 人の告げつる〔枉言哉人之云都流逆言乎人之告都流〕」(万4214)。
(注2)類歌の万2875番歌で、「思ひしわれ〔思之吾耶〕」となっていることも傍証となる。
(注3)中西1978.に、「みつる・みだる・もつる、皆同語か(ミはともに甲類)。」(336頁)とある。
(注4)拙稿「舎人皇子と舎人娘子の歌の掛け合い─「ますらを」考─」。

(引用・参考文献)
木下1978. 木下正俊「「斯くや嘆かむ」という語法」五味智英・小島憲之編『万葉集研究 第七集』塙書房、昭和53年。
木下1983. 木下正俊『万葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
古典全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集2 萬葉集一』小学館、昭和46年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6・7 萬葉集①・②』小学館、1994・1995年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1987年。

加藤良平 2025.4.14初出