ヤマトタケルの「あづまはや」について

 古事記の中巻、景行天皇条にヤマトタケルの東征説話がある。東征を終えて帰る途次、足柄山で「あづまはや」と歎き叫んだからその国を「あづま」と言うという地名譚が載る。

 [倭建命やまとたけるのみことそこよりいでまして、ことごとく荒ぶる蝦夷えみしどもことけ、亦、山河の荒ぶる神等かみたちたひらやはして、還りのぼいでます時、足柄あしがらの坂本に到りて、御粮みかれひす処に、其の坂の神、白き鹿りて来立つ。しかくして、即ち其ののこせるひる片端かたはしを以て待ち打てば、其のあたりて、乃ち打ち殺しき。かれ、其の坂に登り立ちて、たびなげきてのりたまひて云はく、「あづまはや」といひき。故、其の国をなづけて阿豆麻あづまと謂ふ。(景行記)

 話の発端は、足柄の坂本で坂の神が白鹿になって襲ってきたことによる。蒜の食い端で白鹿を迎え打ち、その目に当てて殺し、坂に上って歎いて「あづまはや」と言っている。だからその国のことはアヅマというのだというのである。この命名譚については景行紀の叙述と違いがある。紀では、碓氷峠において馳水はしるみづ(走水)で入水した弟橘媛おとたちばなひめのことを忍び、「私の妻よ、ああ」(あづまはや)と言っている。よって、アヅマノクニというのであると述べられている。記の説話の解釈としては、この紀の内容に沿わせて妻を忍ぶ意を含んでいるとする考えがある一方、記に単独で「あつ」だからアヅマというと言っているとする見方も根強くある。両者は相容れないもので、議論は解決に至っていない。

 時に日本武尊やまとたけるのみことつね弟橘媛おとたちばなひめしのひたまふみこころします。かれ碓日嶺うすひのみねに登りまして、東南たつみのかたを望みてたび歎きてのたまはく、「づまはや」とのたまふ。〈嬬、此には菟摩つまと云ふ。〉故因りて山のひむかし諸国もろもろのくになづけて吾嬬国あづまのくにと曰ふ。(景行紀四十年是歳)

 「白鹿」は、紀ではその後の信濃の途上に登場する。

 則ち日本武尊やまとたけるのみことしな進入いでましぬ。是の国は、山高く谷ふかし。あをたけ万重とほくかさなれり。人つゑつかひてのぼり難し。いはほさがしくかけはしめぐりて、たかたけ数千ちぢあまり、馬頓轡なづみてかず。然るに日本武尊、けぶりけ、霧をしのぎて、遥かに大山みたけわたりたまふ。既にみねいたりて飢ゑて、山のなかみをす。山の神、みこを苦しびしめむとして、白き鹿かせきりて王のみまへに立つ。王あやしびたまひて、ひとひるを以て白き鹿をはじきかけたまふ。則ちまなこあたりて殺しつ。ここに王、たちまちに道をまどひて、出づる所を知らず。時に白きいぬおのづからまうきて、王を導きまつるかたち有り。狗に随ひて行でまして、美濃みのに出づることを得たまふ。備武彦びのたけひここしより出でてまうあひぬ。是より先に、信濃坂しなののさかわたひとさはに神のいきを得てえ臥せり。ただ白き鹿を殺したまひしよりのちに、是の山をゆる者は、蒜をみて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(景行紀四十年是歳)

 白鹿の目に蒜をてて殺す件は、記の足柄の坂本での出来事と同じである。おもしろいネタをどのように配置するかだけの違いであると考える。
 そう捉えたとき、記において足柄の坂本で白鹿を登場させたおもしろさの一つは、足柄という地名のアシガラの清音、アシカラ(注1)という言葉のなかにシカ(鹿)という音が隠れている点である。
 足柄の坂本という場面設定によくかなうと了解されよう。
 その鹿の目に蒜を中てて殺してしまった。鹿はその坂の神なのだから、その坂がある場所は目が見えない状態、真っ暗な状態になってしまった。険しい坂道やその坂を降りたところは薄暗かったから、ひる(ヒは甲類)を使ってひる(ヒは甲類)にして白鹿を退治しようとしたところ、なんと、鹿の目にあたってしまったのである(注2)。昼が訪れて明るくなるどころか、さらに見えないほど暗くなってどうしようもなくなった(注3)。だから、這いずるように坂を登り、峠に立って、ああこんなこともあるのかと三回も歎いて「あづまはや」と言っている。よって、その国の名はアヅマというのであると記されている。
 記の記述は簡にして要を得ている。

 ……其坂神、化白鹿而来立。
 爾、即以其咋遺之蒜片端待打者、中其目、乃打殺也。
 故、登-立其坂、三歎詔云、阿豆麻波夜。〈自阿下五字以音也。〉
 故、号其国阿豆麻也。

 上の三・四行目に、「かれ」とある。前の文章を承けて、ダカラ〜である、と言っている。三行目から四行目にかけてのつながりに「故」とある。「あづまはや」と云ったから、その国は「あづま」と名づけられている。そういう理屈を叙している。二行目から三行目にかけてのつながりに「故」とある理由を問うて、「中目(アツマ)」→アヅマ説を唱える根拠の一つにあげられることがある。しかし、それは強引だということから、新編全集本古事記では「故」を「そして」(228頁)と訳している。それは誤りである。坂の神である白鹿を、蒜で目をついて殺してしまい、見えないほど暗い、だから坂の上まで登ってご来光を期待して東に向かって「あづまはや」と言っている。したがって、旧来のアツマ(中目)説には無理がある。

 ……古事記では、足柄山で白い鹿を蒜の片端で打つ。その目にあてて、殺したという。ところでという語の古形はマである。今日でも、マツゲ(目ツ毛)とかマナコとかにマという古形が残っている。だから、原文の「中其目」は、ソノマニアツと訓むのであろう。この下に、「故……」とあるのだから、アヅマという名が出て来た原因は、古事記では中目にある。中目はアツマ(中目アツマ)である。アツマからアヅマハヤと言ったとするのが古事記である。(大野1982.336~337頁)(注4)

 アツマとアヅマには清濁の違いがある。稗田阿礼が誦み習わしたものを太安万侶が筆記したものが古事記である。の古形がマかどうか、「目」単独の形にマと訓んだ例が見られないため不明である。「のあたり」は顔のうち鼻の左右上方、目の周辺のこと、「のあたり」は眼前、目の前、直接のことであり、使い分けられている(注5)。そして、稗田阿礼がソノマニアツと誦んでいたとする解釈は口承伝承においてあり得ない。「中其目」と「其」という指示詞が間に入っている。音を聞いている人にとって、ソノマニアツ→アツマとは思いつかない。アツソノマなる地名があってその由来譚とするならあり得てもアツマやアヅマにはならない。肝心の洒落を言うところで、落語家や漫才師が言い淀んで説明調になっていては伝わるものも伝わらない。「其」字の割り込みは、「中目」=アツマ→アヅマと伝える気は微塵もなかったことを物語っている(注6)
 山口2005.では、動詞の能動・受動の区別から正確な訓読を試みている。結論として「爾、即以其咋遺之蒜片端待打者、中其目、乃打殺也。」部分は次のように訓むべきとしている。

 しかくして、即ち其の咋ひ遺せる蒜の片端を以て、待ち打てば〔者〕、其の目にてて、乃ち打ち殺しき〔也〕。
 末尾を受動態ではなく、能動態に訓むのは、受身を表す文字がないからである。また、「中其目」は「其の目にてて」と他動詞として訓むが、それは、右の文章が倭建命を主格とする文として統一されており、全体として倭建命の意図的行動を表していると見るからである。なお、そこにアツマ(中目)という語形が潜在しているという見方には、賛同できない。(119頁)

 最後の部分がウチコロサエキと訓まないことは筆者も同意見である。倉野1979.に言うとおり、「其の目に中つて、其の鹿を打ち殺されたで意は十分に通じる。」(174頁)のである。そうではあるのだが、山口2005.が、「そもそも、倭建命が鹿を殺したのは、意図的な行動であって、蒜を振り回したら、それがたまたま鹿の目に当たって、鹿が死んでしまったというようなものではない。そのことは、「待打者」という表現からも明らかである。」(114頁)とする点には疑問が残る。
 倭建命は、お腹がすいたから足柄山を越えて坂を下ったところで「御粮」を食べていた。近くで摘んだノビルも一緒に食べたのであろう。球根を食べて茎の方を残している。それが「蒜片端」である。そんな柔らかく弱いもので「待打」とはどういうことか。せいぜい束にして鞭のようにピシャリと叩いてお灸をすえる程度のことしか想定していなかっただろう。ところが、それがたまたま目に当たってしまったので、意図とは異なり白鹿を「打殺」すことになってしまった。たいへんなことをしてしまったのである。「其坂神、化白鹿」なのだから、神さまを殺してしまっている。
 山口2005.は、「「中其目」を「其の目に中てて」と他動詞に訓むならば、問題の、
 ○尓、即以其咋遺之蒜片端待打○○者、其目、乃打殺○○也。
という文は、すべて倭建命を主格とする文として、統一的に理解できるのである。この「中」が他動詞では都合が悪いという理由も、特に見当たらないから、アテテと他動詞に訓むべきであろう。」(116頁)とするが、それは都合が悪い。「打」という字が「待打」と「打殺」と二か所に見える。この「打」を別物、つまり、前者が「蒜片端」を使ってであり、後者が他の武具を使ってであるとは考えられない。目に「蒜片端」が刺さったことが急所を突く形になって図らずも殺してしまったということを言っている。「乃」のスナハチは、前後の時間的つながりが即座にという意味ではなく、それすなわち、の意である。「中其目」=「打殺」ということ「也」、と言っている。最初から倭建命が白鹿を殺そうと意図していて「蒜片端」で臨むことはないであろうし、目を狙っていて殺せたのなら、条件節を表す「者」字は書かれないだろう。意図していたのなら、例えば次のような文章が想起される。

 爾、即以其咋遺之蒜片端待打而、因其目殺也。

 そのようには記されておらず原文のようにあるのだから、「中」は自動詞としてアタリテと訓まなければならない。何もかも倭建命の思いどおりに事が運んでいたとしたら、どうして「三歎」ことになるのか。降りてきた坂を再び登って戻ったことも意味不明になる。
 「白鹿」について、新編全集本日本書紀は「「白」は神異を表す色。後文にも「白狗」がみえる。」(380頁)と説明する。筆者はアルビノ説をとらない。ふつうに見かける鹿も月光の下では白く見えることがある。それを言っている。月明りだけでは暗いから、ヒル(昼)を望んでヒル(蒜)で活を入れようとしたら、当たり所が悪くて目に刺さって殺すことになってしまったのである。月明りさえないほどひどく暗くなってしまった。困ったことだ、早く朝が来てほしい。だからご来光を望もうと坂を再度登り、歎いて、東の方を向いて言っている。アヅマハヤ。
 倭建命が坂の神の化身、白鹿の襲撃に対してしようとしていたことは、追い払うことだけを考えていたのだろう。最初から殺そうと思っていたのであれば、草那芸剣くさなぎのつるぎなどで立ち向かえばいい。そうしないで「其咋遺之蒜片端」で対処しようとしている。どういうことか。それは「鹿」の話だからである。

 また曰はく、「圧乞いで戸母とじ、其のあららぎ一茎ひともと」といふ。〈圧乞、此には異提いでと云ふ。戸母、此には覩自とじと云ふ。〉皇后きさき、則ち一根ひともとの蘭を採りて、馬に乗れるひとに与ふ。因りて、問ひてのたまはく、「何にむとか蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者、こたへてはく、「山にかむときにまぐなきはらはむ」といふ。〈蠛、此には摩愚那岐まぐなきと云ふ。〉(允恭紀二年二月)

 この文章は、後に皇后となる人に対して闘雞国造つげのくにのみやつこが無礼な嘲りをした記事であるが、「あららぎ」とも呼ばれたノビルのことが記されている。「まぐなき」とも呼ばれたヌカガを山中で払うために使うと言っている。カ(蚊)除けにヒル(蒜)は効果があると考えられていた。だから、ヤマトタケルはカ(鹿)に対して蒜で対抗しようとしている。カ(蚊、鹿)の洒落である(注7)
 そんな洒落を言っていたのに目に命中して殺すことになってしまった。「其咋遺之蒜片端」とは蒜を嚙んだ残骸であったろう。すでに噛んでいるから「噛む」の已然形、「め(メは乙類)」である。「あた」ったのは、「鹿目かめ(メは乙類)」である。事柄上、「其咋遺之蒜片端」は「鹿」の「目」に命中し、言葉上、「め」は「鹿目かめ」にあたっている。カメがカメを攻略してしまったというのが落ちである。驚き桃の木山椒の木、たいへんだぁ、アヅマハヤ、という流れになっている。
 ハヤは失われたものへの哀惜を示す助詞である。と同時に、はやし、という形容詞の語幹でもある。失われたのは光であり、早くしてほしいのは日の出である。そこで「あづまはや」と「詔云」している。「三歎」と書いてある。どのように歎いたのかについては具体的には記されていない。多くは三度溜め息をついたことと考えられている。ああ、ああ、ああ、とでも言ったということか。筆者には、「三歎」の音声がはっきり聞こえる。kok・kok・kok(コケコッコー)である。ニワトリは頸を前へ突き出して歎くように鳴く(注8)。「とりが鳴く」は「あづま」にかかる枕詞である(注9)。万葉集には、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄之鳴吾妻乃國之〕」(万199)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄之鳴東國尓〕」(万382)、「鶏が鳴く 東の国に〔鷄鳴吾妻乃國尓〕」(万1807)、「鶏が鳴く 東の坂を〔鶏鳴東方坂乎〕」(万3194)、「鶏が鳴く 東の国の〔鷄鳴東国乃〕」(万4094)、「鶏が鳴く 東の国の〔鳥鳴東国能〕」(万1800)、「鶏が鳴く 東をさして〔等里我奈久安豆麻乎佐之天〕」(万4131)、「鶏が鳴く 東男あづまをとこの〔等里我奈久安豆麻乎等故能〕」(万4333)、「鶏が鳴く 東男あづまをのこは〔登利我奈久安豆麻乎能故波〕」(万4331)とある(注10)
 世界が真っ暗になった時、日の出を求めた例は、記紀ではアマテラスが天石屋あめのいはや天石窟あまのいはや)に籠った話が早い。アマテラスは日神である。

 ここを以て、百万ほよろづの神、あめやす河原かはら神集かむつどひ集ひて、たか御産巣みむす日神ひのかみの子、思金神おもひかねのかみに思はしめて、とこ長鳴鳥ながなきどりを集め鳴かしめて、……(記上)
 時に八十万神やそよろづのかみたち天安河辺あまのやすのかはらつどひて、其のいのるべきさまはからふ。かれ思兼神おもひかねのかみ、深くはかり遠くたばかりて、遂に常世の長鳴鳥をあつめて、互いに長鳴きせしむ。(神代紀第七段本文)

 「常世の長鳴鳥」は鶏のことである。明け方鳴く習性から日の出を求めるものと解されて自然である。
 以上、古事記のアヅマハヤという発言について検討した。「ひる」と「ひる」、「鹿目かめ」と「め)」の同音をモチーフにした一口話が語られていた。それを今日的な意味で、地口、洒落遊びなどとして無碍に片づけることはできない(注11)。無文字時代の上代の人にとって、言葉はすべて音声であった。同じ音の言葉は何かしら同じ意味があると思いたがり、その志向をくり広げたことでヤマトコトバの言語体系は確かなものになっていた。ヤマトコトバはその確からしさを担保するのに、言葉の定義を多重にして縦横に編んだテキストとなっていたのである(注12)。音声でしかない言葉が音声により定義され続けるというたゆまぬ進歩、深化の過程をとっていて、人々の観念体系は構築、再構築をくり返しつつヤマトの人々を巻き込んで共感、賛同を得て進んでいっていたわけである。ヤマトが一つの社会体制たり得るに至ったのは、ひとえにヤマトコトバの爛熟による普及による。大和地方に発して列島の大半、倭国へと版図を広げた古代ヤマト朝廷は、ヤマトコトバによってこと向け和平やはして国々をまとめ治めた、精神的な面に限って言えば暴力的な政治体制と呼べるものであった。人々の立場から見れば、記紀に残るような話(咄・噺・譚)が作られることによって、ヤマトコトバをよく理解していると実感できるようになり、自らのアイデンティティの礎とすることができて、ヤマトの民としてなにほどかの自負を持てるようになっていたということである(注13)

(注)
(注1)アシガラという地名はアシカラと清音で呼ばれたこともあったようである。

 足柄あしから〔阿志加良〕の み坂たまはり 顧みず あれく ……(万4372)
 足柄〈阿之加良あしから〉(二十巻本和名抄)
 足柄あしから山といふは、四五日かねて、おそろしげにくらがりわたれり。(更級日記)
 Axicaracara anata mademo guxi mairaxôtowa zonzuredomo,(足柄あしからから あなた までも 具し まいらしょうとわ 存ずれども、)(天草本平家物語・巻第四)

 更級日記の例は、足柄山が森が深く暗いところとして知られていたことを暗示させる。白鹿の目に蒜の端が中ったという話を生み出す条件はそろっていた。
(注2)蒜については、古典集成本古事記に、「ねぎ以上に強い臭気があり、その臭気が邪気を払うのである。白鹿が死んだのもそのためである。」(165頁)、新編全集本日本書紀に、「ニラ・ニンニクなどの類で、その異臭は邪気を払うと信じられた。」(381頁)とある。さらには、王2011.に、「「蒜」で山神を退治するこの記事の成立については、中国から伝来した本草学の知識との関連において考えるべきであろう。」(76頁)とするが、そのような必要はない。記の説話においては、ヒル(ヒは甲類)という言葉がすべてを物語っており、それを「其咋遺之蒜片端」状態であることが話の要点なのである。
 そもそも、本草学の知識なくして成り立たない話は、無文字にして学究的でない上代の人にとっては伝え続けていくのに難しく、無用のことであったろう。その必要がないほど、今日の人に比して格段に、生活の知恵に加えて言葉の知恵が豊かであった。実際に臭いによって虫を払うことは、生きるのに必要な観察力を持ちあわせていれば経験上周知のことであったに違いない。常識として通行していたのであって、学問知識として学んだのではなかった。ニワトリをよく観察しているから、「三歎」といった比喩も生まれて、口承上の話として伝えられていく。蒜の薬効について漢籍による知識があったかどうかについては、悪魔の証明に似てあったともいえるしなかったとも言える。問いの立て方が本質から外れている。噛んだ後のものでなければここに話として成り立たないからである。
(注3)紀の信濃での蒜による白鹿殺害も、「爰王忽失道、不出。」と、暗い森から出られなくなって困っている。そして、わずかな光に映る「白狗」を見つけて何とか暗い森から脱出することができたという話に仕上げている。「蒜」=「昼」なるモチーフは記に同じである。ただ、紀の古訓に、「鹿かせき」とある。糸を巻くかせに似た角の形からそのように呼ばれている。紀の古訓のカセキと訓む例は確かではないとする意見もあるが、記ではシカ、紀ではカセキで正しい。記はアラとの洒落に仕立てるため、紀では深い森の木々の枝が縦横にわたるさまを言い当てているからである。シカが森の中でも平気で生活できるのは、桛木のような角で木々の枝に太刀打ちできているという類推思考によっている。目には目を、歯には歯を的な発想である。大型獣のシカは、茂る木々の枝を抜けるすべを心得、自らが森を抜ける道を知っている。獣道である。そのシカを殺してしまい、日本武尊は抜け出るすべを失った。「不知所出。」は、「不知所如。」(垂仁紀四年九月、仁徳前紀、推古紀三十二年四月)を「せむすべ(を)知らず。」と訓み慣わしている例から、「でむすべを知らず。」と訓むべきかもしれない。一か所を表すトコロよりも美濃までの経路が問題になっている。小型獣のイヌ(狗)がわずかに漏れる月光に見えた。そこで身をかがめながらイヌの後を追い、抜け出るすべを得て信濃から脱出している。
 余談として、「是より先に、信濃坂をわたひとさはに神のいきを得てせり。ただ白き鹿かせきを殺したまひしよりのちに、是の山をゆるひとは、ひるみて人及び牛馬に塗る。自づからに神のいきあたらず。」と付け足されている。「踰是山者嚼蒜而塗人及牛馬、自不神気也。」とは、「人及牛馬」に虫除けを兼ねて「蒜」を塗っておけば、そこは「昼」だから明るくて遭難せずに済むという話である。これを知恵と呼ばずに何とするか。
 なお、蒜と昼では同じヒル(ヒは甲類)でもアクセントが異なるとする反論も予想される。日本書紀の伝本に、「ひる」に上上(熱田本)、「ひる」に上平(前田本)と記される。その際には、このコンテクストは話(咄・噺・譚)なのだということを思い出す必要がある。一休さんの頓智話に、「このはし(橋)を渡るべからず」と書いてあった時、真ん中を通ってきて、このはし(端)は渡っていない、と主張して罷り通っていた。
(注4)大系本日本書紀377頁に同様の主旨が述べられている。
(注5)マノアタリには、マナアタリ、マナタリという形もある。
(注6)倉野1979.は、アツ(中)マ(目)説について、「一見甚だ面白い説で蓋然性がありさうに思はれるが、やはり単なる思ひつきの域を出ないであらう。といふのは、⑴アツがどうしてアヅと濁つたか、⑵話の上では記紀共に鹿の目にアテタのではなく、目にアタツタのである。……アツマではなくてアタリマといふことになつて、折角の妙案もナンセンスとなつてしまう。⑶書紀もアヅマハヤの話に続いて、右に述べたやうに蒜で鹿をつて眼にあたつて殺したといふことが見えてゐるからである。」(175頁)と評している。
 また、阪下2002.は、「「目にあててしまったなア」の意だとしても、それがアヅマハヤという語形をとりうるとは考えられない。ヤマトタケルは「三歎」してアヅマハヤといったという。その歎きの深さは、やはり鹿の目にあてたことよりも、弟橘比売、皇子に代って渡りの神への犠牲となった妻のことにかかわると見る他はなかろう。」(36頁)と評している。
(注7)カ(蚊)については、拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注8)本居宣長・古事記伝に、「三歎は、泥母許呂爾那宜加志弖ネモコロニナゲカシテと訓べし、【……三歎とは、殊に多く云なる故に、ココにも其字を用ひたるにこそあらめ、古言は三遍ミタビナゲくには非じ、】カヘカヘす歎き賜ふを云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/133)とある。センスがない。
(注9)枕詞「鶏が鳴く」が「あづま」にかかる理由については、著名なものに三説ある。西郷2011.は、「第一は、東国のことばが中央のものには解しがたく鳥のさえずりのように聞えたとする説。第二は、トリが鳴くぞ、起きよ吾がツマの意でヅマから東国へかけたとするもの。第三は、鶏が鳴くと東方より夜が白みそめるからとするもの等だが、最後の説は論外としてよかろう。」(374頁)とまとめている。筆者は、「論外」とされてしまった第三説にこそ、記のアヅマハヤを理解するのに欠かせない古代語世界の真髄が宿っていると考えている。第一説があやしいのは、「豚が鳴く」でもかまわなくなるからである。第二説があやしいのは、通い婚で鶏鳴をもって帰らせようとする女性の気持ちと東国との関係が理解できないからである。西郷氏は、防人との関係まで指摘するが、別れ惜しい気持ちと、さっさと起きろという気持ちとは重なるところがない。
 西郷2011.の「アヅマとは何か」論稿は、一 地名起源譚としての「アヅマはや」、二 ツマツマの連動、三 二つの辺境 アヅマとサツマ、四 坂・境・峠、五 宮廷と辺境、の章立てから成る。アヅマとは何かと問い立て言葉とは音なのだと言いながら、「四」以降ばかりか「三」からすでに、書契的な概念範疇、ものの考え方によって説明、了解しようとしている。理屈が先にあって言葉があると考えている。「文字に馴らされてしまった私たちは、書契以前の時代にことばが音としてどのように連動し機能していたかにつき、あまり敏感に反応できなくなっている。古文辞学ではコトコトなりというが、しかし真にコトコトつまり event でありえたのは、ことばがまだ文字というものを知らず、もっぱら音として生きていた世のことであったらしい。文字との結びつきが強まるにつれ、新しい次元がひらける一方、ことばは事であることをやめ、次第に外なる物(thing)へと平面的に同化されてゆく。今の例でいえばつまり妻はしょせん妻であるにすぎず、ツマとの連動関係が弱まり、消えてしまう。……私のいいたいのは、古代の地名起源譚に近づくには、まずことばを文字から切り離しそれを音として受けとめること、音としてそれがいかに迅速果敢に運動していたかをとらえねばならぬということである。」(373~374頁)という自身の着眼は活かされていない。同じ音の言葉がまず先にあり、それを何がしかかかわりを持たせなければとしてものの考え方の方を変えてみた結果、なるほど同じ音の言葉として成り立っていることに疑問がないと納得している。それこそが無文字時代のヤマトコトバの世界であった。語源という概念はそれとは対極にあって無縁である。もとより、語源なるものはどこまで行っても説の域を出ない。西郷2011.には、「アヅマは本来、たんに地理的・・・に都の東の諸国をいうのではなく、都の東に存する辺境・・の地つまりフロンティアを意味する語ではなかったか。語彙として分析すれば、アヅマのアは接頭語で、この語の本体はツマ、そしてそれはもののツマの意に違いない。つまりアヅマとは、大和から見て一つの端なる辺境をさす語であったはずだ。」(371~372頁)とある。菅野2018.にも、「古代語「アヅマ」とは、本来「遠い所・辺境」の意味であった。それを「東」の訓とし、中央の都から遠く離れた東方の僻地の意としたのは、中国正史各書の「東夷伝」の影響であったろう。」(231頁)とある。固有名詞のことなのか、普通名詞のことなのか、はたまた「東夷伝」に鶏鳴の話が出てくることなのか、わからなくなっている。
 記紀で、「故、号其地○○。」、「故、名之曰○○。」などと記される時には、話として地名譚がありますよ、おもしろいでしょうとは言っていても、地名の由来の信憑性に固執して論説しているとはとても考えられない。「くそ出で、はかまに懸りき。故、其地そこを号けて屎褌くそばかまと謂ひき。〈今は久須婆くすばと謂ふ。」(崇神記)とる箇所、今の樟葉という地名譚についてしかめっ面して断じていたのか、とぼけた顔で言い放っていたのか、上代の人の言語感覚に慣れなければ何もわからない。
(注10)「鶏が鳴く あづまの国」という形が散見される。この「東の国」という言い方は、行政単位を言っているのではなく、一般的な呼称である。記に、「故、号其国阿豆麻也。」とあるのを、福田2007.は、「東方地域が初めて「国」として組織化されたことも示すのではないか。」(6頁)と捉えているが、万葉集にあるようなおおらかな言葉づかいなのだろう。古事記は行政文書ではないからである。
(注11)デリダ1989.は、「一口に言葉遊びといっても、いろいろあるわけです。しばしば、言語ラングの身体を無傷アンタクトのままにしておくためになされる言葉遊びもあるのです。つまり、言語ラングに興ずるために、言語を循環させるためになされる言葉遊びですね。そういう言葉遊びは、根底においては、人びとが言語についてもちうる制圧メトリーズにおいて彼らを安堵させるわけです。……しかし、別種の言葉遊びもあって、これは反対にもっと不安を起こさせるわけです。」(284頁)という。彼の説く「陥入(invagination)」の概念は興味深い。
(注12)テキストという語は、言葉によって織られたもの、という含みを持つ語である。つまり、一つ一つの言葉を織物の経糸や緯糸の一本一本と見立てている。ところが、ヤマトコトバにあっては、その言葉の一語一語の組成にしてもすでに織られたものと認める構図となっている。言葉があるところは至るところに模様がある、いわば地無しテキストとなっていたことは、ヤマトコトバの大きな特徴である。
(注13)近代においても語族をもって一つの国民国家とする考え方が一般的である。

(引用・参考文献)
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デリダ1989. ジャック・デリダ、高橋允昭編訳『他者の言語─デリダの日本講演─』法政大学出版局、1989年。
古典集成本古事記 西宮一民『新潮古典文学集成 古事記』新潮社、昭和54年。
福田2007. 福田武史「「あづまの国」の成立─倭建命による「東方十二道」平定が果たしたもの─」『萬葉』第199号、平成19年12月。萬葉学会ホームページ https://manyoug.jp/memoir/2007
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。
山口2005. 山口佳紀『古事記の表現と解釈』風間書房、2005年。

加藤良平 2021.9.26改稿初出