ヤマトコトバを学ぶ人がどのように学んだらよいか、参考文献や研究方法について述べてみたいと思います。
まず第一に、言葉とは何か? について考えなくてはなりません。そのために、
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』
が良いのですが、これをまともに読んでいくとなると哲学科へ転身しないといけません。野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』や橋爪大三郎氏などの解説書を頼るといいでしょう。
言葉とは何かを感覚的に会得するのに最良のエッセイとしては、
福田定良『落語としての哲学』
があります。言語学の田中克彦氏や思想史の藤田省三氏も絶賛していました。昭和時代の本である点はお断りしておきます。
言語学を学ばないといけませんが、記念碑的著作の
ソシュール『一般言語学講義』
から始めようとすると挫折します。これも丸山圭三郎『ソシュールの思想』というすぐれた解説書が役に立ちます。
ヤマトコトバは無文字時代に立ちあがった言葉ですから、その成り立ちについて考えていくことが求められます。漢字に対しては形から入り、ヤマトコトバに対しては音から入ることだと悟っていた
白川静『字訓』
は名著です。『岩波古語辞典』(助動詞・助詞の文法を含む)、『古典基礎語辞典』、『時代別国語大辞典 上代編』、『日本国語大辞典 第二版』とともに辞書として欠かせません。漢字に関しては、白川静『字通』、諸橋轍次『大漢和辞典』、訓みの入っている『康煕字典』(標註訂正本)です。芸文類聚のようなものをあげないのは、書き方練習のこととヤマトコトバ学とは別物だからです。
ヤマトコトバが無文字時代に形成されるに当たり、その言葉を自ら証明するように自己言及的な性格を有していたことについては、フレーム理論を理解しなければなりません。どの分野でもかまわないのですが、たまたま筆者は社会学の
アーヴィング・ゴフマン
の著作から学びました。その場その場の都市人類学を展開していますから、その言葉その言葉のヤマトコトバを根気よく研究するのとよく似ています。
文法に関しては、佐佐木隆氏の論文にあるような面倒くさい議論がそれぞれの言葉について行われていますから、それを読んでいくしかありません。全体像としては小田勝『実例詳解古典文法総覧』がネット上の補遺稿も含めて役立ちます。
実地に記紀万葉を読んでいくに当たり、テキストとしてすぐれているのは、日本書紀では岩波書店の古典文学大系『日本書紀』です。古事記は、うーん? どれがいいのかなあ、ひょっとすると本居宣長の古事記伝かも。万葉集はハンディで使いやすいから中西進『万葉集 全訳注原文付』です。他のテキストと対照しながら使ってください。
ヤマトコトバはその当時の社会や技術を背景としてできあがっていますから(ヤマ(山)やカハ(川)は縄文時代からあったでしょうが)、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代がどのようであったか知らなければなりませんし、言葉ごとにいちいち百科全書的な知識を持っていないと十分な理解とは言えません。百科全書を目指したものではありませんが、関根真隆『奈良朝食生活の研究』『奈良朝服飾の研究』は見逃せません。百科全書製作の営みとしては江戸時代の和漢三才図会や明治時代の古事類苑があり、江戸時代の風俗関連では守貞謾稿、産業関連では日本山海名産図会、日本山海名物図会も参考になりますが、言葉の側面から和名抄のように作られたものではありません。古字書としては新撰字鏡(国語索引)や名義抄も重要です。
けれども、そのレベルでは駄目なのです。当時の人たちがどういうつもりで個々のヤマトコトバを使っていたのか、当時の人になり切らなければなりません。現代語に訳して理解したつもりになっても、それはつもりでしかありません。当時の人たちの常識、共通認識に染まらなければなければなりません。例えば、
ネット通販で買い物をした
さつまいもを食べた
鉄鍋で料理した
といった言い方をしても、それぞれ、バブルの頃、豊臣秀吉、紫式部には通じませんでした。それぞれの時代にはまだなかったからです。記紀万葉に残されているヤマトコトバを理解するためには、古墳~飛鳥~奈良時代の生活水準、技術水準を自らの内に収めてそれを常識とする必要があるのです。当たり前に使っている電気・ガス・水道はなく、文字が読める人も非常に限られていて、その書き表し方も定まっていません。そんな状況を理解、体得するためには、今のところ自ら開拓していくしか道はありません。例えば、考古学関連の博物館をめぐって個々の展示物についてこれは何か? 当時は何と呼ばれていたものなのか? どうしてそう名づけて満足していたのか? それ以前はどうやって作業していたのか? 今使っているような代替品はなかったのか? といったことを考えながら探っていくのです。コフン(古墳)は考古学の用語で、ヤマトコトバではミサザキ(御陵)やツカ(塚)、ハカ(墓)ですから分けて考えてください。民俗学関連の資料館でも同じことをすれば、道具の名前をたくさん知ることができます。
絵巻物を逐一繙きながら、言葉では何ということをしている光景なのかを考えていくのもためになります。小松茂美氏の絵解きはかなり正しいと思います。『絵巻物による日本常民生活絵引』やネットで閲覧できる三省堂の辞典・書籍にまつわるコラム・倉田実「絵巻で見る 平安時代の暮らし」(倉田実『図鑑 モノから読み解く王朝絵巻』)も参考になります。虎尾俊哉『訳注日本史料 延喜式』が大成されているのも大いに助かります。だからといって、例えば源氏物語に精通すると書き言葉に慣れてしまい、時代も考え方も違うからかえってヤマトコトバ学からは遠ざかることになるでしょう。
事典類では『国史大辞典』、『日本史大事典』、鈴木敬三『有識故実大辞典』、中村元『佛教語大辞典』、『原色染織大辞典』、木下武司『万葉植物文化史』、梶島孝雄『資料日本動物史』、菅原・柿澤『図説日本鳥名由来辞典』、木村陽二郎『図説草木辞苑』、そして、法政大学出版局からシリーズ化している『ものと人間の文化史』も勉強になります。ただし、この文章の後半になって文献類を強調するために改行していないのにはわけがあります。考え方を学ぶことと参考にすることとでは次元が異なるということです。
そうやってヤマトコトバについて考えて行って、どうして「機 weaving machine」のことをハタと呼ぶことにしたのか? ということを問いつづけ、旗、端、鰭、将もハタと言うなあと連想をたくましくしながら、ある日、はたと気づいて、近代になって battery を「電池」とうまく訳した以上にすごいことだ、これこそがヤマトコトバの知恵なのだと得心が行くことがあります。文字を知らない人どうしが互いに通じ合える言葉としてきちんとできあがっているではないか、すごい! と感動を覚えることさえあるでしょう。その時、ヤマトコトバを実際に使っていた人たちと同じ地平に立てたということになります。もちろん、それは、語源というわからないことを調べるということではなくて、記紀万葉の現場にいた人たちと語感を共にしたということです。めでたくヤマトコトバ学に入門できました。
ヤマトコトバの知恵に慣れるためには、頓智の働きが良くなるようにしておく必要があります。言葉を覚え、文字を習い始めたばかりの幼児期~小学校低学年の子供たちが特異になぞなぞ遊びに興じているさまは、記号操作を伴わない飛鳥時代の人たちとよく似ているようです。ですから、ふだんからの駄洒落づかい、なぞなぞ遊び、二つの意味が掛かっている川柳解きなどがトレーニングとして有効なのかもしれません。そうこうしているうちに、はたしてこれは学問なのか? というところまで考えをめぐらせられたなら、文化人類学的なフィールドワークをしているのだと自らを納得させてその沼にはまっていくか、あるいは、ヤマトコトバ学から無事に卒業(中途退学)ということになるでしょう。
コンピュータ言語を学ぶと未来および将来は開かれていますが、ラテン語を学んでその先に何があるかというのよりもさらに難問(おそらく愚問)です。考え方は人それぞれですからご自身でお決めになってください。ちなみに筆者のひそかな野望としては、「飛鳥・藤原」が世界遺産に認定されたら、つづいて古事記、日本書紀、万葉集をユネスコの記憶遺産(「世界の記憶」)への登録も目指してもらい、達成された暁にはヤマトコトバ博物館を作ることです。ヤマトコトバ学には斜め上への伸びしろがあると思います。
加藤良平 2025.2.12初稿