記紀のなかに、ミヲシ(進食・御食)と呼ばれる食事光景が記述されている。現在、そう通訓されている箇所は次のとおりである。
壬申に、海路より葦北の小嶋に泊りて進食す〔自海路泊於葦北小嶋而進食〕。時に、山部阿弭古が祖小左を召して、冷き水を進らしむ。是の時に適りて、嶋の中に水無し。所為知らず。則ち仰ぎて天神地祗に祈みまうす。忽に寒泉、崖の傍より涌き出づ。乃ち酌みて献る。故、其の嶋を号けて水嶋と曰ふ。(景行紀十八年四月)
八月、的邑に到りて進食す〔到的邑而進食〕。是の日に、膳夫等、盞を遺る。故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今、的と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗、盞を号けて浮羽と曰ふ。(景行紀十八年八月)
蝦夷既に平けて、日高見国より還りて、西南、常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。時に挙燭して進食す〔時挙燭而進食〕。(景行紀四十年是歳)
昔に日本武尊、東に向でましし歳に、尾津浜に停りて進食す〔停尾津浜而進食〕。(景行紀四十年是歳)
夏四月の壬寅の朔にして甲辰に、北火前国の松浦県に到りて、玉嶋里の小河の側に進食す〔進食於玉嶋里小河之側〕。(神功前紀仲哀九年四月)
会明に、莿萩野に至りて、暫く駕を停めて進食す〔暫停駕而進食〕。(天武紀元年六月)
尾津前の一つ松の許に到り坐して、先に御食せし時に〔先御食之時〕、其地に忘らえし御刀、失せずて猶有りき。(景行記)
亦、筑紫の末羅県の玉嶋里に到り坐して、其の河の辺に御食せし時は〔御食其河辺之時〕、四月の上旬に当りき。(仲哀記)(注1)
これら紀六例、記二例について、ミヲシ(進食・御食)という名詞にス(為)というサ変動詞を付けて解している。本稿では、その訓み方の可否について検討を加える。
記のなかで、同じ「御食」という用字において、仲哀記の気比大神の段の「御食之魚」はミケノナ、「御食津大神」はミケツオホカミと訓まれており、そう訓まれなければ意味が通らない。
気比大神は「角鹿の笥飯大神」に当たる。ケ(乙類)という語がつながらなければ何を言っているのかわからない。だから、「御食」はここではミケと訓む。食器とそれに盛る食物をともにケと呼んでいる。和名抄に、「笥 礼記に云はく、笥〈思吏反、介〉は食を盛る器なりといふ。」とある。「御食つ国〔御食都国〕」(万933・3234)、「御食つ国〔三食津国〕」(万934)、「大御食〔於保美気〕」(万4360)とある。ここからわかることは、「御食」と書くことはヤマトコトバを表すために用いられた方便であったこと、すなわち、表記の漢字の意味をどのように理解して適用し用いるかは筆録者の恣意によっている。表記されてある漢字の字義が絶対なのではなく、表そうとしたヤマトコトバの側から考えなければわからないということである。
ミヲシという語に関して、核を成すのはヲスという言葉である。時代別国語大辞典の「をす[食](動四)尊敬語。」の【考】に、「ヲスは、上二段居の連用形に敬意を表わすスが接したものかといわれる。原義は占有する・わが物とするの意の尊敬語とみられ、①[飲む・食うの意]②[着るの意]③[統治する・治める]のような意味分化をみる。」(834頁)とある。ワ行上二段活用に、連用形がヲになるか不明ながらも語構成の点で注目に値する。ミヲシ(進食・御食)という名詞は、ミ(御、ミは甲類)+ヲ(居)+シ(敬意スの連用形)の形と捉えられていると取れる。
類例に、ミネ(哀哭)という語がある。声を立てて泣くことで、特に葬送に当たって儀式として行われた。ミネス、ミネタテマツル、ミネシタマフという形で使われることが多い。
天皇、時々に唱ひたまひて悲哭す。(斉明紀四年七月)
是に、郭務悰等、咸に喪服を著て、三遍挙哀たてまつり、東に向きて稽首む。(天武紀元年三月)
庚子に、十市皇女を赤穂に葬る。天皇、臨して、恩を降して発哀したまふ。(天武紀七年四月)
時代別国語大辞典の「みね[哀哭・哭](名)」の【考】に、「ネはネナクのネで、泣き声のことである。ミネスの場合は動作主が天皇などであり、ミネタテマツルの場合は当然その対象たる死者が高位の人であるところからすれば、このミは、やはり敬意を添える接頭語と考えるべきであろう。」(714頁)とある。この場合、スも敬意を表しているものと考えられよう。
同様に成る言葉と考えるなら、ミヲス(御食)が動詞の基本形としてあるはずである。ミネス、ミネシタマフという形に倣い、ミヲス、ミヲシタマフとあるのが自然である。ミヲシという連用形名詞にさらに動詞化するためにサ変動詞を付けるのは、名詞を中心に言葉を形成するきらいの強い後代の造語法に従っていて棄却されなければならない。ただし、紀の用字に「進食」とあるからといって、ただちにミヲタテマツルと訓むのはなかなかに考えにくい(注2)。食べ物を尊い人や神にタテマツル時、具体物としての食べ物を呈上する。食べ物はケ(笥)に盛ったケ(食)となって具体的だから、ミケタテマツルと言われたに相違あるまい。ここに、ミヲス、ミヲシタマフは、主語となる高貴な人が旅路で食事をすることを言っていると考えられ、何ら支障を来さない。
すなわち、次のとおり訓まれるべきことが求められる。
……海路より葦北の小嶋に泊りて進食したまふ〔自二海路一泊二於葦北小嶋一而進食〕。(景行紀十八年四月)
……的邑に到りて進食したまふ〔到二的邑一而進食〕。(景行紀十八年八月)
時に、挙燭して進食したまふ〔時挙燭而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……尾津浜に停りて進食したまふ〔停二尾津浜一而進食〕。(景行紀四十年是歳)
……玉嶋里の小河の側に進食したまふ〔進二‐食於玉嶋里小河之側一〕。(神功前紀仲哀九年四月)
……暫く駕を停めて進食したまふ〔暫停レ駕而進食〕。(天武紀元年六月)
尾津前の一つ松の許に到り坐して、先に御食したまひし時に〔先御食之時〕、……(景行記)
……其の河の辺に御食したまひし時は〔御二‐食其河辺一之時〕、……(仲哀記)
すべての例でミヲシタマフとしたが、景行紀四十年是歳条の第一例、天武紀元年六月条の例では、ミヲスとしてもかまわない。助動詞スで尊敬を表しているからヤマトタケルや天武天皇(大海人皇子)の行為に敬意を表すのに十分である。他の場合は必ずミヲシタマフ、ミヲシタマヒシ(トキ)とする必要がある。それらの箇所はどれも船に乗って進んで行き、上陸した地点で食事することを言っている。船を進めて上陸するのに重要なのは、水深の比較的深いところをたどるようにうまく操舵して目指していたところへ停泊させることである。水深を確かめつつ、浅瀬や岩礁に乗り上げないようにしなければならない。ここに、紀に採用された用字「進食」のからくりが見えて来よう。船を進めていって食事をすることを表すために使っている要素が含まれているわけである。ヤマトの人の漢字利用の機知である。それをミヲシタマフと言っている。
ミヲシタマフという語は、ミヲ(水脈)が船のシタ(下)にあって、物がマフ(マヒ)(舞)ように流れていること、すなわち、船がうまい具合に通過し無事に上陸でき、陸に上がって食事会を開くことができることを兼ねて言っている。水流によってマヒ(舞)が生ずると感じた表現は、仁徳紀十一年条の茨田堤の造成の件に見える。
冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、夢みたまはく、神有しまして誨へて曰したまはく、「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子〈衫子、此には莒呂母能古と云ふ。〉二人を以て河伯を祭らば、必ず塞かるること獲てむ」とのたまふ。則ち二人を覓めて得つ。因りて河神を祷る。爰に強頸、泣ち悲びて、水に没りて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏両箇を取りて、塞き難き水に臨む。乃ち両箇の匏を取りて、水の中に投て、請ひて曰はく、「河神、崇ぎて、吾を以て幣とせり。是を以て、今吾、来れり。必ず我を得むと欲はば、是の匏を沈めてな泛せそ。則ち吾、真の神と知りて親ら水の中に入らむ。若し匏を沈むること得ずは、自づからに偽の神と知らむ。何ぞ徒に吾が身を亡さむ」といふ。是に、飄風忽に起りて、匏を引きて水に没む。匏、浪の上に転ひつつ沈まず。則ち潝々に汎りつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずと雖も其の堤亦成りぬ。是、衫子の幹に因りて、其の身亡ぼざらくのみ。故、時人、其の両処を号けて、強頸の断間・衫子の断間と曰ふ。(仁徳紀十一年十月)
ミヲシタマフによって、「水食し給ふ」と「水脈下舞ふ」とが二重の意味で用いられている。それは、一般的な掛詞の概念とは異なり、同語多義的な説明となっている点ですぐれて無文字文化的な言語表現となっている。始原的に言葉を使うに当たり、言葉の本質、状況の定義、再定義をその場で完了させる効果がある。どう転んだってそういう言葉使いになるだろうと、ぐうの音も出させない言いくるめになっている。
景行紀の的邑での状況は次のとおりである(注3)。
八月、的邑に到りて進食したまふ〔到二的邑一而進食〕。是の日に、膳夫等、盞を遺る。故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今、的と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗、盞を号けて浮羽と曰ふ。(景行紀十八年八月)
船に乗って川を進んで的邑に到っている。確かに水脈が船の下の部分まで舞うようにあったから遡上できている。そして食事をしているわけであるが、そのとき、料理人や配膳係が酒坏のことをいう盞を忘れたという話になっている。奇妙な話に聞こえ、地名譚としてまとめられているが、船はきちんと浮いて進行して到着、上陸できていて、膳夫が食事を進上する運びになっている。「到」という言葉もその場所に到着したという単義ではなく、ふつうならなかなか到着できなかったところへたどり着くことができて「進食」に到っているという意を兼ねている。そして、酒坏を忘れた話が付随している。どうして酒坏を忘れていたかと言えば、船が川の上流にさしかかって水深が浅くなり、このままでは遡れないと判断し、積荷を極力減らそうと不要不急の食器を下ろしてきたからである。「時人」のコメントにある「浮羽」について、大系本日本書紀に、「ウキハとは、膳夫が盞(ウキ)を忘れたので、相手となった人が、「盞は(どうしたか)」と訊いたのである。」(371頁)とする説をあげている。「盞はこれなのか」という意味で首肯されよう(注4)。天皇は地方の名物料理を食べるに当たり、朴葉焼きのようにふだんと違う食器で提供されるのはかまわない。なにしろ、提供しているのは膳夫、つまり、柏の葉を食器にあしらえるような細やかな手業師である。ところが、いつもの酒坏、土器製のものがなくて、木製などの代用品で出されたから尋ねたのである。「盞は」浮くようにするために途中で置いてきていて、曲水の宴に船の如く浮いて流れる木器などにいたしました、と洒落で答えていることにしているのである(注5)。
景行紀の葦北の小嶋の話も示唆的な文脈となっている。海路を進んで小嶋に停泊、上陸して「進食」している。その時、島に水がなかった。どうしたらよいかわからず天神地祇に祈ったら崖から水が涌出したという。ミヲ(水脈)を頼りに上陸し、神を頼りに水脈を見出している。持参している食料は糒、乾飯の類で、水でふやかさなければ食べられない。和名抄に、「糒 野王案に、糒〈孚秘反、備と同じ、保之以比〉は乾飯なりとす。」、「餉 四声字苑に云はく、餉〈式亮反、訓は加礼比於久留、俗に加礼比と云ふ〉は食を以て人に遣るなりといふ。」とある。海水でふやかしたら塩辛くてどうにもならず、だから陸に上がって清水を求めている。「進食」と水脈とは切っても切れない関係にあった。ミヲス(進食・御食)とは、水で糒をふやかしてお食べになることをいう言葉なのである。ミは接頭語ミ(御)ではなく、ミ(水、ミは甲類)の意であった。
以上、ミヲス(進食・御食)という語に込めていたと思われる飛鳥時代の人の語感について見極めた。連用形名詞ミヲシにサ変動詞を付してミヲシス、ミヲシセシトキ、ミヲシシタマフなどと訓むのは、ヤマトコトバの含意を伝えることのない誤りであった。
(注)
(注1)記の旧訓においてミヲシ系統の語としてかつて訓まれたことのある他の語をあげる。今日では、景行記の足柄之坂本の段の「御粮」はミカリテ、「食」はハム、「咋遺之」はクヒノコセル、応神記の天之日矛の段の「飲食」、「食」とあるのはクラヒモノ、また、「食」はハマシメキなどと訓まれている。なお、筆者の訓読においては、本稿の課題であるミヲス、ミヲシタマフ部分のみ改めた。他にも疑義のある箇所はあるがそのままにした。
(注2)岩田2017.は、「「進食」は「食をたてまつる」という訓義ではないだろうか。」(172頁)と問題提起し、名義抄の「進」の訓、また、漢籍の「進食」の用例から、土地の神へ「進食」したのに対して、征討された側が服属するという構図のための表現であると見ている。「[日本書紀の「進食」の]例は、いずれも、征討を目的とする行路の途中、或る土地に着いたときに「進食」をするという共通性を持つ。従来、それぞれ景行天皇・日本武尊・大海人皇子が「食事」をした意と解されており、文脈に齟齬は無いようである。しかし、なぜ征討の途路に食事をしたことがこのように記されるのか、果たしてそれを単なる食事と解してよいのか、検討の余地のあることを考えさせる。……「進食」は天皇が他の尊者に対して食を差し出したことを意味する。すなわち、[景行紀十八年四月条で]天皇が新たに訪れた地の神に「進食」をしたことが前提となって、天神地祇に祈って「寒泉」が「湧出」したという結果に結びつくという構図である。「進食」を天皇がその地の神を祭る行為とすると、それを受けてその地の神は実利に繋がる瑞祥を示したことになる。……「進食」、神への祈り、瑞祥の出現、地名を名付けるという構図を示し、「進食」はその前提としての行為であることを窺わせる。」(174~175頁)とある。give-and-take の形を示したとする考え方には一理あり、筆者も全面否定するものではない。神饌としてお供えしたものを下ろしてきて皆で食べることは今日に続いている。ただ、それが支配─被支配(服従)関係かと言われれば少し違うように感じられる。旅路を進めた先で持参した糒、乾飯を主食に食事をすることを「進食」と書き、ミヲスと訓んで意味として適っている。そしてまた、神饌の供え方とピクニックでの膳の設え方とにおいて、今になってその先後を問うことはできない。
(注3)ヤマトタケルの尾津でのできごとについては、拙稿「ヤマトタケル譚の尾津前の一つ松をめぐって」参照。
(注4)飯田武郷・日本書紀通釈に、「かく盞者也と詔ひ出て。惜しみ玉へるは。尋常の御物にはあらし。世に珍しき大御酒坏にてそありけらし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933890/121)と勢い込んでいるが、それは違うであろう。和名抄・器皿部・瓦器に、「盃盞 兼名苑に云はく、盃〈字は亦、坏に作る〉は一名に巵〈音は支、佐賀都岐〉といふ。方言注に云はく、盞〈音は産〉は盃の最も小さき者なりといふ。」とある。貯蔵のための甕類や調理のための土鍋類など、液が抜け出ることを好まないものには、香りづけほかの意味合いがないなら木器は使いたくない。酒のような高価な飲み物も、一滴残さず飲み干したいから瓦器をあてるのが相当なのである。木村蒹葭堂・蒹葭堂雑録にも、「椐棚の上に並ぶ御供器いづれも土器なり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562884/1/27)とあり、「御飯」、「若和布(キンカン)」、「スルメ(柿)」、「鯛」、「鰤」を盛るのは「槲御膳」としている。
(注5)答えは記されていない。洒落を言っていることについて、それを説明するといった野暮なことは行われない。洒落のわからぬ人が紛れていて無理に説明を求められたら、噺家にとっては地獄の時間となるだろう。
(引用・参考文献)
岩田2017. 岩田芳子『古代における表現の方法』塙書房、2017年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
加藤良平 2022.7.30改稿初出