ヒルコ論

 国生み説話(注1)において、いわゆる生みそこないが起こっている。その生みそこなった子は、ヒルコ(水蛭子、蛭児)である。

 然れども、くみどにおこして生みし子は、水蛭子ひるこ。此の子は葦船あしふねに入れて流しつ。次に、淡嶋あはしまを生む。是も亦、子のつらには入れず。(記上)
 遂に夫婦みとのまぐはひして、先づひるを生む。便ち葦船あしのふねに載せてなが(注2)。次に淡洲あはのしまを生む。此も亦児の数にれず。(神代紀第四段一書第一)
 一書に曰はく、かみ先づ唱へてのたまはく、「妍哉あなにゑや可愛少男をとこを」とのたまふ。便ちかみみてりて、遂に為夫婦みとのまぐはひして、あはしまを生む。次に蛭児。(神代紀第四段一書第十)
 次に蛭児を生む。すでとせになるまで、脚なほし立たず。かれ天磐あまのいは櫲樟くすふねに載せて、風のまにまに放ちつ。(神代紀第五段本文)
 一書に曰はく、つき既に生れたまひぬ。次に蛭児を生む。此のみこ、年三歳にりぬれども、脚なほし立たず。初め、伊奘いざなき伊奘いざ冉尊なみのみことみはしらを巡りたまひし時に、かみ先づよろこびことぐ。既に陰陽めをことわりたがへり。所以このゆゑに、今蛭児を生む。……次に鳥磐とりのいは櫲樟くすふねを生む。すなはち此の船を以て蛭児を載せて、みづまにまに放ち棄つ。(神代紀第五段一書第二)

 国生み説話では、イザナキとイザナミが、「「国土くに生み成さむと以為おもふ。生むこと奈何いかに」……「しかけむ」」(記)、「洲国くにつち産生まむとす」(神代紀第四段本文)るときの話である。導入部では、二神が「底下そこつしたあに国無けむや」(神代紀第四段本文)、「われ、国を得む」(一書第二)、「まさに国有らむや」(第三)、「其[浮膏うかべるあぶら]の中にけだし国有らむや」(第四)と言っている。
 生みたいのは国、国土、地面である。オノゴロジマ(淤能碁呂嶋(記)・磤馭慮嶋(紀))を手掛かりにして生もうとしている。オノゴロジマは海中に成った嶋である。

 あめ浮橋うきはしに立たして、其のほこを指しおろしてきしかば、しほこをろこをろに画きして、引き上げし時に、其の矛のすゑよりしただり落ちし塩は、かさなり積りて島と成りき。(記)
 是に滄溟あをうなはらき。其の矛のさきより滴瀝しただしほ、凝りて一の嶋に成れり。(神代紀第四段本文)

コンクリート護岸河川の中洲

 海のなかから国土が形成されようとしている。紀の用字に、クニは「国」、「洲国」、「地」である。シマには「嶋」、「洲」がある。「しま」は「おの馭慮ごろしま」と、第四段本文に限り「おほ洲国しまくに」に含めない「対馬嶋つしま」、「岐嶋きのしま」、「処処ところどころしま」がある。「潮のあわりて成れるもの」、「亦は、水の沫の凝りて成れる」(第四段本文)と形容されている(注3)。「しま」は「淡洲」、「淡路洲」から「おほ日本やまと豊秋とよあきしま」までほとんどである。地面として広がりのあるものが「しま」らしい。生みそこなったものとして、神代紀第四段一書第一に、「蛭児(ヒ・コは甲類)」と「淡洲」が挙げられている。記に、「水蛭子」と「淡嶋」とあるのと対応している。地面として広がりがあるようで、一気に消えてなくなってしまうような不確かなところが「淡洲(淡嶋)」らしい。つまり、「水蛭子」、「蛭児」や「淡嶋」、「淡洲」は、確かならざる地面ということだろう。
 確かでない地面で海水などが浸ってきてしまうところとは、である。白川1995.に、「す〔渚(渚)・洲〕 川のなかす。また川や海の浅瀬のところで、砂が堆積して盛り上がり、水面上にあらわれているところをいう。「すはま」ということが多い。「」と同源の語である。」(409頁)とある。「須比智すひち邇神にのかみ」(記)とあるのは、「沙土煑尊すひぢにのみこと」(神代紀第二段本文)に同じく、「沙土、此には須毗尼すひぢと云ふ。」(同訓注)で、ひぢの意である。
 そんなスについては、万葉集に「渚」の用字がある。「さき」(万71)、「おきつ」(万1000)、「うら」(万1062)、「どり」(万1162・2801・3578)、「渚沙すさ」(万2751)、「」(万2831・3203)、「於伎都渚おきつす」(万3348)、「[波]麻渚杼里ますどり」(万3533)、「かは」(万4288)、また、訓仮名として、「いま他田渚良之たたすらし」(万3)、「吾忘わをわすら渚菜すな」(万2763)とある。万葉集に「洲」の用字もある。「おきつ」(万1176)、「珠洲すす」(万4029・4101)、訓仮名として、「夜洲能河波やすのかは」(万4125)とある。「豊洲」(万3130)はトヨクニノと訓む。
 三角洲になるような洲には葦が生えている。しかし、川や湾の水の流れによって、洲は姿形や場所を変えて流されていく。表現として、葦船に載せて流す、また、紀第五段本文には、蛭児は三歳になっても脚が立たなかったとある。洲としてあらわれていたが、流れがきつくなって土が流されたり、塩分濃度が上がって育たなくなって脚が立たないように葦が立たなくなる。脚と葦との頓智話である(注4)。そして、葦柄がからみ合って束となって船のように流されていくことがある。よく自然観察し、洒落をこめて言い表している。ス(洲)が転変を繰り返す地形であることを、アシ(脚・葦)という言葉で端的に示している。
 水が浸るようなところにはチスイビルが生息する。すなわち、ひぢすひの意をかけている。だから、そんな洲は、地面としてはヒルの子と呼んでふさわしいようなどうでもいいところで、国として確固たるものではない。潮の干満で現れては消えるをくり返す。ヒルは血を吸い、近代まで瀉血に用いられることもあった。血を吸って大きく膨らむところが、唇という語にもあるヒル的な要素である。栄養を得て大きく膨らみはするが、手足が生えてくるものではない。そして、血を吸わないでいると再び小さくなっていく。それをくり返す。国生みにおいて、ス(洲)より発展することのないところは生みそこないであった。以上が、国生み説話に生みそこないの存在をヒルコと規定した由縁である。和名抄にはヒルとして次の三種があげられている。

 水蛭 本草に水蛭〈音は質、比流ひる〉と云ふ。
 馬蛭 本草に云はく、馬蛭は一名に馬蟥〈音は黄、无末比流むまびる〉、蛭の大きなるものなりといふ。
 草蛭 本草に云はく、草蛭〈賀佐比流かさびる〉は蛭の草の上に在るものなりといふ。

 従来、ヒルコについては、字義どおりの蛭子とするものと、ヒルメに対するヒルコとするものと、二つの考え方が行われてきた。神代紀第五段に見られるヒルコは、アマテラス、スサノヲ、ツクヨミを生むときに現れるため、ヒルメ(日孁)に対するヒルコという考えへと飛躍する。近年の論説としても、神田2015.は、ヒルコの出現位置が所伝により異なり、神代紀第五段に見えるヒルコは日月出現を語る神話があったとし、「日ル子」は船に乗って行くイメージをともなうものであったと唱えている。天照大神は別に、大日孁貴おほひるめのむち天照大日孁尊あまてらすおほひるめのみこと大日孁尊おほひるめのみことといった名で記され、そのヒルメとの対比としてヒルコは考えられるとする説(滝沢馬琴(注5))に従いながら、古代において太陽が船に乗って移動するとする観念があったとする説(松前健(注6))に依っている。ヒルコとヒルメの音の類似から、神代紀第五段の諸伝に「蛭児」は登場しているとされる(注7)
 記の国生みの話とは別種のモチーフとして、それも神話体系のなかにいかに位置づけるかという神話学上の議論に大上段に論じられている。世界中の神話を参照しながら、記紀の話も神話に違いないからその範疇に収められるはずだとする思いこみのなかで、「蛭児」、「水蛭子」とわざわざ記されているヒルコという語を、宇宙の創世神話が壮大に語られるなかの点景、エピソードとして挿入されていると考えたがっている。しかるに、もしヒルコを「蛭児」とはアクセントの異なる「日ル子」の意であると仮定したら、「日ル子」が流し捨てられて「日」=太陽はどこへ行ってしまったというのだろうか。
 ヒルコは流し捨てられる存在として語られている。その流し捨てること、そのことがヒルコにとって唯一絶対の出現要件である。確かに生んだはずであったのに、形にならないものをヒルコという呼称で扱っている。スヒチ(吸血)はどこまで行ってもスヒヂ(沙土)であるという洒落としての自己循環的な語義定義こそ、文字を持たなかった上代の人がヤマトコトバを理解していく際にふさわしいあり方であった。いま話された言葉が、その言葉の上でなぞなぞが仕掛けられ、逐次逐語的に相手の了解を求めながら伝えようとし、そして伝わっていった。それが無文字時代のヤマトコトバの特筆すべき特徴である。
 記や神代紀第四段一書第一に見られる「葦船」の話に対し、神代紀第五段に登場する「蛭児」については、三貴士誕生の説話とからんで語られ、「天磐あまのいは櫲樟くすふね」や「鳥磐とりのいは櫲樟くすふね」に載せて「風」や「みづ」にしたがって「放棄はなちす」てたとある。だから両者は別の話であるとする意見が今日優勢である。けれども、「天磐あまのいは櫲樟くすふね」や「鳥磐とりのいは櫲樟くすふね」とは何か、言語感覚上で踏み込んだ議論は乏しい。神代紀第八段一書第五に、「[素戔嗚尊の]乃ちことあげして曰はく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつの樹は、以て浮宝うくたからとすべし。ひのきは以て瑞宮みつのみやつくにすべし。まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさおきすたち臥さむそなへにすべし。……」とある。よって船材としてクスノキはふさわしく、イハクスフネなる存在はよくイメージできると安直に認められている。そして、天を翔けたり鳥の飛ぶことをもって修飾形容していると考えられている。しかし不思議なのは、なぜイハと付くかである。堅牢にして壊れないものと強調していると考えられないことはないが、太陽を載せる船として神話の世界に言われているとするなら、そのような船は太陽を載せこそすれ、ヒルコを載せてどこかへ廃棄してしまうことはないだろう。精霊流しの船に頑丈な鉄製やコンクリート製のものも、硬質のクスノキ材のものも見られない。
 筆者は、「葦船」の展開形であると考える。イハクスフネとは、イハク(曰)+ス(渚・洲・巣)+フネ(船)の謂いだろう。「天磐あまのいは櫲樟くすふね」とは、天の謂うところのスなる船、「鳥磐とりのいは櫲樟くすふね」とは、鳥の謂うところのスなる船、という意である。高いところにあるスとは、鳥の巣が代表である。白川1995.に、「す〔巣(巢)〕 鳥・獣や虫などが、集まって住むところをいう。「す」には、集まる、生活するというような意味があるのであろう。それで人家の意に用いることもある。」(410頁)、時代別国語大辞典に、「①鳥獣虫類などの巣。……②人の住居。……【考】現在の方言に、海藻を採る所、薪や草を採る共有地、えびの集まる場所などをスという地方があり、……地名にあるクルスのスも、栗のたくさん採れる所の意であろう。」(379頁)とある。「巣に棲み穴に住みて」(神武前紀己未年三月)とあるのは、鳥の営むような樹上の住居を「巣」としたものかも知れない。鳥の巣がそうであるように、卵を孵して巣立たせるために一時的に設けられているものがスである。この一過性の所在地としてのスの義は、浅瀬に現れては消えるス(渚・洲)と意味が共通する。永久不滅性とは正反対の意味である。だからこそ、イハ(磐)などという極端な表現をもって言語遊戯に戯れた表記が行われている。すなわち、「天磐櫲樟船」や「鳥磐櫲樟船」は、載せて流し棄てたらそれまでのことで、どこかへたどり着かせたり、天から地へと運んだり、一周回って還ってきて翌朝になると再び輝きだすことを目的とする乗り物ではない。少し経ったら自然と壊れて風や水に呑まれて藻屑と消える運命を語りたいのである。ヒルコは「日ル子」ではなく、膨張と収縮を繰り返すヒル(蛭)の様子を指し示している。
 ヒルコという言葉は、水上と天上の二つの様態を重複させながら提示している。ヒルコの水上のイメージはエビ、天上のイメージはカイコであろう。カイコガは古語にヒムシ(ヒは甲類)、またはヒヒル、カイコをコ(コは甲類)という。

 夏蚕なつむしの ひむしころも ふた着て かく宿やだりは あに良くもあらず(紀49)
 …… 蛾羽ひむしはの きぬだに着ずに ……(万3336)
 越前国司こしのみちのくちのくにのみこともち白蛾しろきひひるを献れり。戊午に、詔して曰はく、「白蛾を角鹿郡つぬがのこほり浦上うらかみの浜にたり。かれへひと飯神ひのかみに増すこと二十戸はたへさきかよはす」とのたまふ。(持統紀六年九月)
 蛾 柯我反、螘也、蟻也、安利あり、又比々留ひひる(新撰字鏡)
 蛾 説文に云はく、蛾〈音は峩、比々流ひひる〉は蚕の飛ぶ虫とるものなりといふ。(和名抄)
 蝱 文字集略に云はく、蝱〈今案ふるに即ち是れ蚊虻の虻の字の作りなり、下文に見ゆ。老蚕は比々ひひ〉、繭の内の老いし蚕なりといふ。(和名抄)

 時代別国語大辞典は、「名義抄には、「青蛉」と「〓(虫偏に夕即)」とにもヒヒルの訓があるが、その「青蛉」と同じ「蜻蛉」を「下カケロフ、ハヘ、蛾也」としている。やはり蛾をいうところからヒヒルの訓が付いたものか。「〓(虫偏に夕即)」は土中にいる昆虫の幼虫で、それに対するヒヒルの訓が正しいものとすれば、……和名抄の「蚕作飛虫」と「繭内老蚕」とをともにヒヒルとする記載ともあいまって、ヒヒルとよばれたものが蛾だけとは限らない。現在、方言でも、ひる・蛹、蚕の蛾、蛾・蝶や蛾の総称などとしてヒヒルに由来するかと思われる語形がかなり広く分布している。語源は動詞ヒヒル……と関係させる説もあり、またヒル柊木ヒヒラギとともにヒヒク・ヒヒラクに求める考えもあるが、ヒヒルのさす物の範囲もはっきりせず、その原義の推定は困難である。」(621~622頁)と考察する。
 語源、原義といった分析を筆者は行わない。上代、特に飛鳥時代に、言葉を受け取る際の語感こそが記紀万葉に反映されていると考える。それがたとえ今日の人にとって駄洒落にすぎないと評価されようが、当時の人がなるほどと思ったと想定されるなら、言葉の本性はその使用にあるのだから重視しなければならない。
 カイコガの幼虫は特に肥っているから、ぼよよんとした唇のようなヒル的な要素が強く感じられる。和名抄に、「説文に、脣吻〈上の音は旬、久知比留くちびる、下の音は粉、久知佐岐良くちさきら〉と云ふ。」とある。そして、蚕蛾はヒヒル(飄)ことをし、ひらひらと舞い上がろうとする。実際には家畜化されていて飛ぶことはできず、風に吹かれて転がるのが落ちである。カイコが蛹になるとき、保護する繭を作るに当たって上へ登っていく習性がある。そこで養蚕ではまぶし(注8)という巣箱の器具を使い、一匹ずつ繭を結ぶように仕向けている。二匹以上が寄り合って繭を作ると生糸を長く引き出すことができず、規格外品となって真綿につぶされることになる。上蔟容器をマブシと呼んでいるのは、猟師が身を隠すための遮蔽物と意味合いがよく似ているからであるばかりでなく、均等、均質にケージにまぶしおさめられているからでも、繭が高いところへ行ってきらきらと眩しいからでもあろう。和名抄に、「射翳 文選射雉賦注に云はく、射翳〈於計反、隠なり、障なり、師説に末布之まぶし〉は隠れ射る所以の者なりといふ。」とある。天の浮橋で、「天沼矛あめのぬほこあま之瓊のぬほこ)」を操った、きらきらしている情景を髣髴させる。ヒルのような(コは甲類)の(コは甲類)は、に作ったである。
 また、ネギ、ニンニク、ノビルなどの総称の「ひる(ヒは甲類)」は、葱坊主や零余子むかごを作る。天を指してすっくと立った葱坊主は、きらきら光る苞嚢の中にたくさんの花が隠れ、さしずめ花の巣である。擬宝珠ぎぼしともいい、欄干などの柱の頭部に丸く被せたものもそう呼ぶ。柱の上部を方錐状にしたところに被せるものをきん金物という。被髪の修験者がかぶる頭巾(兜巾、頭襟)に似ているからである。山伏の話だけにまぶしいということであろう(注10)。鳥さながらに山を翔け回り、高く舞い上がるように進むが、実際に上空へ飛び上がって渡り鳥になるわけではない。ヒヒルことをしている。
 他方、水上のイメージについては、上述したとおり、水田のなかに棲息する環形動物のヒルのことが第一にあげられる。今日では農薬により田圃でチスイビルに噛まれることは少なくなったが、山間部ではヤマビルの被害が増えている。チスイビルは、消化管のほとんどを占める胃にならんで側盲嚢があり、血液を自分の体重の十倍も蓄えることがあって、年に数回吸血するだけで生きていくことができるという。
 環形動物のヒルは脚がないから立つことはない。同様に、ス(洲)にあってス(巣)を作っている脚の立たない生き物にエビがいる。に作られているのだから、正真正銘のスである。巣という字は、説文に、「巢 鳥の木上に在るを巢と曰ひ、穴に在るを窠と曰ふ。木に从ひ、象形。凡そ巢の属、皆巢に从ふ。」とある。和名抄にも、「巢 孫愐に曰はく、鳥の巣の穴に在るを窠と曰ひ、樹に在るを巣〈音は曹、訓は、一に須久布すくふと云ふ〉と曰ふといふ。」とある。巢の字の頭の巛は、雛の頭の毛の生え立った形とされる。また、説文に、「川 貫穿して通流する水なり。虞書に曰く、く巜をさらへて川にいたるといふ。言の深きこと、く巜の水会ひて川と為るなり。凡そ川の属、皆川に从ふ。」とある。つまり、巛という形において、巣でもあり、川でもあるものといえば、エビの巣のことが考えられる。エビスとはえびすである。確かに、東北地方は、なかなかヤマト朝廷に編入されない夷狄であり、行政区分の「国」(播磨国・出雲国などの「国」)とならなかった地方である。そして、甲殻類のエビは過剰なほどたくさんの脚を持つ。たくさんの脚を持つが、いずれの脚も折れ曲がっていてまっすぐに立つことはない。この点でも、記紀の説話はあしあしをかけた頓智話であることがわかる。そして、巣というものは、作ってはいずれ崩れてしまう。産卵のためだけにあるのがエビの巣である。前にある脚を使って砂粒を持ち上げて巣穴を拵える際、穴の底から砂を運んで周りに積み上げていっている。鳥の巣も雛が孵って巣立ったら放置されてしまう。ただし、完全に倒壊しなければ、あるいは別の個体が補修して抱卵のために再利用し棲むことがある(注11)。しかし、エビの巣の場合は水流があってそうはいかず、時を経ずに流されたり埋まったりしてしまう。また、積み上げた砂が水面上に出ることもない。クニにもシマにもならないから国生みとしては失敗ということになる(注12)
 脚が立たず、「国」に当てはまらないものをヒルコとして概念規定している。それは洲のようにすぐに消えてなくなる地面を表している。ス(洲)は蛭のように大きくなったり小さくなったりしていると思っている。その蛭子命ひるこのみことは、西宮が本家とされるえびす神社の祭神となっている。ヤマトタケルの征討一行は、アヅマハヤと歎いたエビスの地を経巡って帰って来た。エビスの地を脱して野宿生活から解放され、停留したのは酒折宮である。酒折宮とは、アヅマ(東)に対してニシノミヤ(西宮)ということになる。神功皇后の親征一行は、新羅征伐後に荒魂あらみたまを「広田国ひろたのくに」、和魂にきみたまを「大津の渟中ぬなくらなが」(神功紀元年三月)、すなわち、広田神社と住吉大社に祭るようにした。出帆したのは住吉で、新羅という夷狄を討ってきた。エビス討伐の後に祭る宮ということだから、アヅマエビスとの関連から「西宮」ということになったのであろう。そして、摂津国の広田社の海に近い南側の部分が西宮戎神社と呼ばれるようになり、ヒルコ(蛭子)を祭るエビス神社へと昇華していったものと語学的に推測される(注13)
 水蛭子(蛭児)の次に生まれたアハシマについて触れておく。アハシは、濃度が薄い、淡白であるという意味で、「淡海」とは海のように広いが塩辛くない琵琶湖を表す。「淡洲」はシマのように面積をもった陸地のようでありつつ存在が薄いところ、あったと思ったら消えてなくなるところであろう。端的に言えばかた(滷)である(注14)。古代にはラグーンとなっていたところはとても多かった。和名抄に、「潟 文選海賦に海浜を広潟と云ふ。〈思積反、昔と同じ、師説に加太かた〉」とある。新撰字鏡では、「滷 思赤反、苦也、醎也、浜也、又郎古反、上、加太かた」とあって、塩水を干潟で取る意のようである。満潮時に隠れ、干潮時に現れる。中国古代の揚浜式塩田の事情はともかく、いろいろ工夫をして塩を獲得していたことには疑いがない。せき(舃鹵)は塩水につかって塩分を含んだ海辺の土地、ひがた、しおはまのことをいう。潟と舃(舄)は通用している。
 説文に、「舃 かささぎなり。象形、鵲は篆文に舃、隹昔に从ふ。」とある(注15)。白川1996.に、「そ[カササギ]の形とはみえない。」(925頁)とし、飾りを縫い付けたくつであるとする。二重底のくつである。カササギは、一説に、湿気を嫌って巣を作る性質から乾鵲かちがらすともいったとされる。くつの底を二重にするのと意味が通底する。松浦静山・甲子夜話に、「或はかち鴉と云。是は群行と啼声によりて称す。」とする説が載る(注16)。また、もともと中国で「乾鵲」と呼んでおり、その訓訳としてカチガラスと言ったとも考えられる(注17)。筆者はこれとは別に、説文に記載の漢字、「舃」字の解釈によるのではないかとも考える。臼に搗くことをカツ(搗)という。つまり、臼+烏→舃という成り立ちを示すものである。カササギは腹部が一部白いため、樹上の巣にいるときなどきらきらして見える。「鳥」という字は字の頭の部分が「白」になっていて、中に目が描かれてあり、真ん中の横棒がない烏に目が描かれない。全身真っ黒だから識別がつかないからとされる。それらとよく似た舃の字は上部が「臼」で、その目は見えたり見えなかったり淡いということを表しているように思われる。潮の干満で地面が現れたり消えたりしながら光がきらめいたり、姿がゆらめいたりする潟の様子によく似ていると認められたものと考える。鳥類のカササギと地形の潟とは意味が通底するということである。
 中国では、七夕にカササギが牽牛織女の天の河の懸け橋になるとの民間伝承があった。淮南子逸文に「烏鵲填河成橋而渡織女。」(劉文典撰「淮南鴻烈集解」)とあり、我が国では懐風藻に、「鵲影じやくえい波をひて浮かぶ(鵲影遂波浮)」(33、藤原朝臣史「五言七夕一首」)、「仙車せんしや鵲の橋を渡り(仙車渡鵲橋)」(56、出雲介吉智首「五言七夕」)などとある。一夜限りで消えてしまう淡いものと認識されていた。あまの間に架空のはしがあってア+ハシ+マ→アハシマである。塩田の干し、ならぬ星はきらきら光っている。舄(舃)が干潟のことをも表し、字のなかに火が重なるレッカ(列火)をいだいている。舃という字は烈火のごとく燃え盛っていて、熱気がたぎりあがることを表す。干潟において藻塩焼きが行われているようである。
 天空にあって一時的に顕現しては消滅するものとしては蜃気楼がある。蜃気楼は密度が異なる大気に光が屈折し、実像と異なって浮き上がったり逆さになったりして見える現象をいう。そのうち、砂漠や舗道、草原などで、遠くに水があるように見えながら近づいてみると逃げて行ってしまう現象のことを「逃げ水」と呼んでいる。水があったりなかったりする点は潟に等しい。古典文学では「東路」や「武蔵野」の名物と捉えられていた。「東路にありといふなるにげ水の にげのがれてもよをすぐすかな」(散木集1503)とある。景行記に、「さねさし 相模の小野に もゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも」(記24)とあるのは、後に歌枕として捉えるようになった端緒だったかもしれない。蜃気楼一般の名称は、古語に「陽炎かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」である。ちらちら光ることを意味する「かぎる」+火の意と考えられている。炎のさま、立ちのぼる水蒸気に光が当たり揺らめいて見えるものなどを言っている。枕詞カギロヒノは「春」や「心燃ゆ」にかかる。

 はにざか が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群いへむら つまいへあたり(記76)
 …… かぎろひの ゆる荒野に ……(万213)
 …… 平城なら京師みやこは かぎろひの 春にしなれば 春日山 ……(万1047)
 …… 味さはふ 夜昼知らず 蜻蜓かぎろの 心えつつ 悲しび別る(万1804)
 今更いまさらに 雪降らめやも 蜻火かぎろひの 燃ゆる春へと なりにしものを(万1835)
 炎 烏胡反、アツシ、ホノホ、カケロフ(名義抄)
 野馬 カケロフ(名義抄)
 蝍蛉 上音即、又子結反、カケロフ(名義抄)

 野馬は翔けるからカケロフと言って相当である。蜉蝣、蜻蛉の類もゆらゆらきらきらするものだから、カギロヒと呼ばれるに至って相当である。逃げ水を含む自然現象について、カタ(潟)と関連があると捉えられていたものと考える。ともに水が現れては消えるものであり、また、水蒸気のあがりやすく光の広がりやすい開けたところであることのゆえである。炎の字は、「淡」のサンズイ偏が失われた形になっている。富山湾や琵琶湖によく見られる蜃気楼も、陸地がかなたにあるようなないような、淡くて消えたり現れたりして見える。史記・天官書に、「海旁かいばうの蜃気は楼台に象り、広野の気は宮闕を成す。(海旁蜃気象楼台、広野気成宮闕。)」とある。巨大なはまぐりが息を吐いて現れたものとの説が伝わった。ハマグリ(浜栗)は潟におり、そこはクニ(国)と呼ぶだけの確固たる地面の条件を果たしてはいないことで意は通じている。
 かた陽炎かぎろひなどは、光が当たるときらきらしてまぶしく、まばゆく、まぎらわしいものである。上代語に、マキラハシ(キは甲類)と清音である。目にきらきらし、陸からすれば端にあるところは、切り捨てて顧みない(「きらふ」)視野の外れに当たり、地面としては葦船に流すようなところ、数に入れないところとされた。陸地としてあったと思っていたところがいつの間にかなくなる。そんなニヒリズムの地面が洲であり、潟であると上代人は考え、ヒルコやアハシマと表しておもしろがっている。そして、海の中における国土くにつちの諸相として説話化し、国生み=国土形成説話を重厚なものに仕上げている。

(注)
(注1)本稿では、以下、当該の記紀所載の話について国生み説話と呼ぶ。一般には、国生み神話と呼ばれ、神話学の対象となっている。大いなる誤りであることを証明するのが本稿の目的の一つでもある。
(注2)日本書紀の「便載葦船而流之。」の「流之」の傍訓には、ナガシヤリテキ(吉田本右)、ハナチヤリキ(吉田本左・乾元本右)、ナガシヤル(乾元本左)などとある。記の「此子者入葦船而流。」にならって訓じられている。日本書紀巻一の「而」+他動詞+「之」の形は、~してその結果~する(~せよ)という順接の叙述に用いられている。「而」+自動詞+「之」の形は、~つつ~する、~しながら~するという同期性を示している。~して~するという単純な続き方で、そのままである。疑問の余地がない時の表現である。

 乃ち時日を卜定うらへてあまくだす。(乃卜定時日而降之)(神代紀第四段一書第一)
 伊弉諾尊きこしめしてめたまふ。(伊弉諾尊聞而善之)(神代紀第五段一書第十)
 ……、百机ももとりのつくゑあさへてみあへたてまつる。(……貯之百机而饗之)(神代紀第五段一書第十一)
 乃ちほそめいはを開けてみそなはす。(乃細開磐戸而窺之)(神代紀第七段一書第三)
 ……かきなでつつ哭く。(……撫而哭之)(神代紀第八段本文)
 故、諸の神、おほするに座置くらおきを以てし、遂にやらふ。(故諸神科以千座置戸而遂逐之)(神代紀第八段一書第三)
 ……めぐみてひだせ。(……宜愛而養之)(神代紀第八段一書第六)

 第二・三例も、敬語の補助動詞を除けば、「聞きてむ。」、「……百机に貯へてあへす。」である。簡潔な訓こそ望ましい。したがって、「便載葦船而流之。」という表現も、「便ち葦船に載せて流す。」が適切である。簡にして要を得ている。流した後どうなったかは知らないよ、というニュアンスまで伝えている。この訓の正しいことは、後述のとおり、洲が洲でなくなるところの、海水の浸入のために葦が生息不良となり、立たずに流れることと相俟った頓智表現であることから確かめられる。
 ここでは深入りしないが、上代の文献に見られる文末助辞「之」については多くの議論がある。廣岡2020.に、「用言としての「之」辞であり、他の用言と熟合して一つの用言を形成する「熟合用法」であるとする。山田1935.に、「その上に来る字が陳述をすることを示す用をなせるものと考へらる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273/181)とある。おおむねその理解で誤りないが、日本書紀に動詞の後に「之」字をつけることを「愛用」(西宮1970.183頁)している理由を明らかにする取り組みが求められよう。筆者は、「之」字の持つ再帰性ゆえ、用言に下接して付け加えることによって、当該動詞を強調する役割を担っているように感じられたからと考えている。上述の例でいえば、卜定うらへにしたがってあまくだすのは当然であろう、聞いたらめるのは当然であろう、あさえたらあへすのは当然であろう、開けたらるのは当然であろう、かきなでて哭くのは当然であろう、おほせてやらうのは当然であろう、めぐひだすのは当然であろう。このように、前後する二つの動詞は必然的な結びつきを表している。良いことを聞いて褒めないのはおかしいし、ご馳走を並べるだけ並べておいて饗宴を開かないというのはおかしいという意味である。すなわち、上代において、助辞「之」を「愛用」していたのは、ヤマトコトバに生きていた人が、言語の論理においてかなり理屈っぽい人たちだったからであると考えられるのである。
(注3)この神代紀第四段本文のシマ字の使い分けについては、後考を俟ちたい。
(注4)葦船について、虫送りの習俗が投影されているとする説(尾崎1966.39頁)や、大祓の思想性との関連を指摘する説(古典集成本古事記29頁)、足の麻痺した子は穢れているので邪気を祓うべく葦や楠の船に載せて祓い捨てたとする説(新編全集本日本書紀①36頁)といった背景を考える向きもある。説話の口誦性の点からアシ(悪)キ子だからアシ(葦)船に入れて流し去ったとする駄洒落であるとする説(西郷2005.153頁)も見られるが、対して、素材の葦についてはむしろ生命力の象徴とする説(金井1998.7~8頁)からはそんなはずはないと批判されている。これらは、テキストから離れた議論のように感じられる。「三歳になるまで、脚猶し立たず。」(神代紀第五段本文)、「年三歳にりぬれども、脚尚し立たず。」(第五段一書第二)とあるのだから、脚の立たない葦のこと、つまりは、砂州の流出や潮の干満の影響によって葦が育ちにくいところのことを言っていて、だから国生みに際して生みそこないの場所なのである。きちんと循環的にまで説明されている。現状、研究の趨勢としては、記(ならびに神代紀第四段)の話と、紀(第五段)の話とは別種のもので、無関係であると決めつけられている。古事記は日本書紀とは別種の書物であって、それぞれ一つの「作品」であると定義する考えも幅を利かせている。話を理解するにあたっては、世界中から神話を探し出してきて知見を外注しようとしている。不可能であり、ナンセンスである。
 第一に、神話学では、「神話する人々」(松村1955.271頁)なる概念をもって、古代においては「神話した諸民族の思考・観想の、およそたくまざる自然の流路」(同270頁)に集約されるはずだとして話根(roots)を研究している。しかし、話は話されてはじめて伝えられ、すなわち、言葉によって成り立っている。外国語を訳して大意が似ているから同じ発想だとするほど、我々人類は多様性ダイバーシティーを欠いていて画一性ユニフォーミティーに収斂されるものではない。脳の利用領域さえ異なるほどに言語は多様である。その言語活動の結果として記紀に所載の説話は伝えられている。
 第二に、文学「作品」という考え方は、およそ近代の産物にすぎない。話(咄・噺・譚)のレベルで描かれているものを、話型を科学分析器にかけて理解できるはずがない。試しに一つの話(咄・噺・譚)、例えば創作落語を思案してみれば、頭のなかで推敲するとき話が入り組んでしまうことや、話の先後どちらに付けたらいいか迷ってまぎれることなど、いくらでも生じることは容易に知られよう。そして、仮に話が先後して混線してもオチ(サゲ)の意味合いは変わらない。オチ(サゲ)が話したいから話は作られているきらいすらある。無文字時代の話(咄・噺・譚)は話(咄・噺・譚)以上のものになりえない。多くの人に理解されなければ伝えられることはないからである。
(注5)滝沢馬琴・玄同放言の「蛭児進雄ひるこすさのを」に、「又書紀〈神代紀〉に、日臣命をみのみことあり、ひる子日臣ひのをみに臣子の義なり、後世に至てハ、ひこまたひめとのみ書ども、まれには古義の存するあり、……日女ひめ大日孁尊おほひるめのむちにはじまり、日子ひこ蛭児ひるこ権輿はじめとす、日孁ひるめ日女ひめも、その義ことなることなし、萬葉集、〈第二〉日並皇子尊ひなめしのみこのみこと〈天武皇子〉殯宮之時、柿本人麻呂歌に、天照日女之命あまてらすひるめのみこと云々しかじか、とよみたる是也、かゝれバ姫と書、彦と書るハ、後に漢字からもじ配当あてたるのみ、字義に和訓をかけて見るべし、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002877/14?ln=ja)とする。馬琴は、荻生徂徠・南留別志の、「一、ひるこに蛭をかき、ひるめに日をかけるは、本義にはあらざるなり。ふたばしらながらひるといひて、子とめとにて、男女をわけたるまでなれば、元来は義おなじかるべし。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002815/112?ln=ja)を負っている。
(注6)松前1960.は、「こうした[ウツボ舟漂流譚に見られる聖器なる]容器で流される太陽的存在にヒルコがある。ヒルコは恐らく日神の妻としてのひるに対して、日神の子としてのひるであり、その分身として、かつその代表として水に流される存在なのであろう。」(42頁)とする。「恐らく」「であろう」の推測的観測である。松本1931.にも同様の趣旨が述べられている。筆者は、記紀のヒルコの話を、ヒルコ「神話」であるとする前提がそもそも誤りであると考えている。
 なお、中村1991.に、「中世に至って、水蛭子は海を統治する西宮大明神(夷三郎殿)として祀られることになった。言わば、長く流離していた水蛭子が戻ってきたのである。海を統治する神として。この事は、平安時代を通じて水蛭子に向けられていた〔哀れ〕という感情が、〔貴種流離譚〕としての完成を導いたのではないだろうか。」(4~5頁)とある。どうして、水蛭子は、選り好みして西宮大明神に迎えられて他のところではないのかについては述べられていない。原田1994.には、「[「エベスさま」としての]民間伝承の信仰現象は、まさにわが国特有の現象であって、世界の何処の国にも、一度、葬り去った死神を、再度、蘇生した神として甦かせ[ママ]えらせ、限りなく崇敬する国民のアイドル的神の型は、見出せない。勿論、世界の説話類の中からも見出すことは不可能な現象であろう。」(150頁)とある。
(注7)大内2000.は、「ヒルコをめぐる記紀の二つの異伝は、その出現位置およびその出生順序等の全き違いという点からも本来、その神話的意味を全く異にする二つの別の神話である……。その一つは、洪水兄妹型の人祖を語る神話であり、もう一つは天体の運行の起源とそれに伴う天災の始まりを説く神話と見なしうるものであっ」(12頁)たとまとめ、「この[姉ヒルメ=「日女」に対する]弟ヒルコ[=「日子」]は自らの幼児性を帯びた暴虐性によって、姉ヒルメに対しその運行を邪魔し、日食や嵐といった天変地異をひきおこす邪悪な存在態なのである。」(4頁)と規定している。葦船に乗せて流し去られたことになっているのに、その後も日食や嵐は起きている。
(注8)蚕に繭を作らせるための養蚕器具である蔟は、先が繁茂している木の枝が用いた朶蔟だまぶしが用いられていた。車枝になるツツジやマツ、細かく枝を出すハギ、ツガなどが使われていた。藁を使うものでは、束ねた藁の中ほどを結んで折り返したものや、束ねた藁を折り曲げて蚕座の上に蛇腹風に広げたものなどが使われていた。いずれも、今にも繭を作りそうにおとなしくなった蚕をつけていく上蔟じようぞく法によっていた。納豆を包む苞のようにした「しゅく」へ蚕を入れることも行われた。大正末期に長方形の枠に区画を設けた箱を積み重ねて回転させる回転蔟が特許開発され、一躍、上蔟作業の効率化が図られている。板橋1988.に、「古い時代の蔟の材料については、近世以前の文献はないのではっきりしたことはわからないが、山の中に自然に成育しているヤママユ(山繭)がクヌギ・ナラ・クリ・カシなどの葉を食べ、大きくなるとそれらの樹木の枝に営繭し、また野生の蚕といわれるクワゴ(桑蚕)が桑の枝に営繭することなどから推測すると、恐らく原初的には、桑の小枝あるいは枝の密集した萩などの灌木の枝をそのまま利用していたものと考えられる。」(1頁)とし、「群馬県内では蔟の材料として稲藁・茅・萩・麻幹おがら・竹・ツツジ・菜種幹・豆幹などが報告されている。」(2頁)と近代化以前の姿を伝えている。
(注9)和名抄に、「蚕簿 兼名苑に云はく、簿〈音は薄、衣比良えびら〉は一名に筁〈音は曲〉、蚕を養ふ器なり、蚕を其の上に施し、繭を作らしむる者なりといふ。」とある。矢の容納器にえびらと呼ばれるものがあるが、簀の子仕立てにしたところへ鏃をさし込んで揃えている。蔟と同じく反射して光るものを一つずつ小分けにおさめるものである。簀の子とはスのコ、つまり、エビラという海老の巣、エビスは、蛭のような蚕を入れるヒルコであるとわかる。
(注10)修験者のことをいう山伏やまぶしという語は、文献では中古以降に見られる。ヒルコ説話にいうヒルが植物のヒル(蒜)のことを指して造形されたとはにわかには信じられない。むしろ、ヒルコ説話の伝承が波及する形でヤマブシ(山伏)という語が用いられるようになったと考えたほうが正解に近いだろう。字面から山野に伏して修行するからヤマブシであると決めてかかっては興醒めである。その翔けひひるさまと頭巾姿が、葱坊主とはよく言い当てていると感じられた。仏教の影響を受けた修験の様子によくマッチするところから納得されていったものと思われる。
(注11)詩経・召南・鵲巣に、「維鵲有巣、維鳩居之。之子于帰、百両御之。」とある。(注16)参照。
(注12)エビは、腰が曲がり、長いひげを持っており、老人を連想させるから長寿と慶祝の象徴として縁起物にされてきている。エビを「海老」と記した早い例として、島田忠臣・田氏家集(890)・「賦海老、卅字絶句」に「躅脊長髯称海老」とある。和名抄に、「鰕 七巻食経に云はく、鰕〈音は遐、衣比えび、俗に海老の二字を用ゐる〉は味は甘、平にして毒無き者なりといふ。」、延喜式・主計式に、「海老一升」とある。
(注13)拙稿「「かがなべて」考」参照。古く広田神社と称していた一部が西宮と呼ばれた記録としては、台記、康治元年正月条の、「世俗説、広田社有巫、……具前事状、求西宮宝殿之内、得銀筥云々」、広田社歌合(承安二年(1172))の「述懐二番 右〈勝〉 頼政」に、「おもへただ神にもあらぬえびすだに しるなるものをもののあはれは」(120)とあるほかを早い例とされている。
 また、戎神社の祭神が蛭子であるとする文献は、神皇正統録・上に、「蛭子トハ西宮ノ大明神夷三郎殿是也此御神ハ海ヲ領シ給フ」とあるに始まる。源平盛衰記・剣巻には、「蛭子は三年迄足立たぬみこととておはしければ、天磐櫲樟船あめのいはくすぶねに乗せ奉り、大海が原に押出だして流され給ひしが、摂津国つのくにに流れ寄つて海を領する神となりて、えびす三郎殿と顕れ給ひて、西宮にしのみやにおはします。」とある。エビス信仰の研究ではさまざまな習合仮説が唱えられているが、単に海つながりというだけでは納得できない。抽象的な連関をもって祭神名が決められるとは考えにくい。曰く因縁、つまりは、言葉がそれ自体を説明しきるものとして語られていることを根拠としなければ、人口に膾炙せず、誰もが信ずるに至らない。西宮夷神社の祭神として皆が納得していることの証を解かなければならない。筆者は、この国生み説話の言葉のあや、機知から普及していったものと考える。文献に中世以降の例しか残らないが、それ以前から巷間に認められていたと考える。口承の世界でヒルコはエビス、エビスはヒルコと楽しまれていたと推し測られる。理解の裏付けとなった地形的な性質として、平安時代末期にも付近はまだ潟湖であった点があげられる。「広田より戸田に渡る船もがな 浜のみたけへことづけもせむ」(梁塵秘抄552(治承年間(1180頃)))とある。
(注14)紀伊の加太かた神社の祭神は、淡島(粟島)、また、淡島殿(阿波島殿)と呼ばれる。潟の連想であろう。
(注15)魏志倭人伝に、「其の地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し」とある。牛・馬・虎・豹・羊といった四足獣をあげる理由は、農耕や牧畜、狩猟や毛皮の観点から意識にのぼって指摘されて当然であろう。しかし、なぜ、鳥類のカササギに着目しているのか不思議である。この点についてこれまでどのような議論が行われてきたのか知らないが、いま筆者に思いつく点としては、江戸時代に佐賀にいたことが知られており、おそらくは17世紀初頭に人為的に朝鮮半島から佐賀や柳川に持ち込まれて定着したらしいことも調べられているものの、ひょっとしてそれが古代にまで遡るとするなら、邪馬台国の九州説は分が悪く畿内説が優勢となる傍証となるものであろう。
 あるいは、漢字の「鵲」は「㹱」に通ずるので、猟犬の不在について語られた記事かもしれない。礼記・少儀に、「守犬田犬は則ち擯者に授くれば、既に受けて、乃ち犬の名を問ふ。(守犬田犬、則授擯者、既受、乃問犬名。)」とある注に、「謂若韓盧宋鵲之属」、その疏に、「則㹱・鵲音同字異耳」とある。四足獣に続いて猟犬があげられていることは自然である。ただ、狩猟生活をしていた縄文時代以来、猟犬はいたであろうから、この仮定には無理がある。
 さらには、たまたま七月の七夕の時期のことで、七夕の風習がないことから興味が行って記されているのかもしれない。しかし、魏の時代の中国人記者に、七夕行事が特筆すべきものと認識されていたとは知られていないからこの仮説も強引である。
 残る説は、鵲=舃だからヒルコ、アハシマ的な国土ではない、しっかりした国だとヤマトコトバで主張したために、カササギがいないということになったのではないか。その場合には、魏志の記述時代にすでにこの説話が人々の間に行き渡っていたことになる。その点については不明としか言えない。邪馬台国の所在地論議が盛んだが、カササギの不在に着目した理由について納得できる説がくり広げられることを期待したい。
 なお、推古紀六年四月条、天武紀十四年五月条に、新羅から鵲が届けられた記事がある。
(注16)松浦静山・甲子夜話に、「予毎歳ニ肥筑ノ間ヲ往来ス。然ニ佐嘉ヨリ神崎マデノ間ニ奇シキ鳥アリ。外ニテハ希ニモ不見。其形嘴尖リ、頭小ク、尾長ク、首長共ニ黒ク、翅ト脊トニ白色アリ。鳩ヨリハ余ホド大キク、鴉ヨリハ小クシテ、全体ハ鴉ニ似タリ。俗ニ呼テ肥前ガラスト云。コレ他国ニ無キニ因テノ称ナリ。或ハカチ鴉ト云。是ハ群行ト啼声ニヨリテ称ス。昔佐嘉ノ領主朝鮮ニ取得テ領地ニ放チ後蕃息スト、土俗ノ伝聞ナリ。或人曰ク、コレ漢土ノ鵲ナリ。我邦ニカサヽギト名ヅケタル黒白班セルヲ以テカラスサギト云ト聞ケリ。百人一首家持卿ノ歌ニ鵲ノコト云ル講説ノ秘訓ナリトゾ。〈校書余録〉……嘗テ東上ニカ西帰ニカ、佐嘉ノ郊外ヲ通行セルトキ、カノ鴉樹梢ニ巣ヲカケヰルヲ処々ニ見ル。然ルニ鳩来テ巣ノ辺ヲ飛求スル体ナルニ、鴉ハ多ク巣中ニヰテ其鳴クコト喧シ。因テ詩ノ鵲之彊彊ノ注ヲ見ルニ、毛奇齢云、郷壠灌木、当二三月間鳩将子。或率群鳩鵲巣。鵲亦多禦。各飛槍哲戞、呼噪震林落。及既散而鳩居寂然。凡有目者皆得之。実ニ此体なり。和漢異ルコトナシ。又召南ノ維鵲有巣、維鳩居之ト云シモ、ナルホド鴉ノ古巣ト見ヘタルニ、鳩ノヰテ子ヲ育スルモノ処々ニ見ユ。然レバカノ鳥ハ正シク鵲ナリ。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300001127/388~389?ln=ja)とある。
(注17)葛洪・西京雑記に、「乾鵲噪而行人至、蜘蛛集ツテ而百事喜。……乾鵲噪グトキハ則餧、蜘蛛集ルトキハ則放。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556169/1/27)とある。

(引用・参考文献)
板橋1988. 板橋春夫「養蚕技術の発達と民俗─群馬県下における蔟を例として─」『地方史研究』第38巻第2号(通号212号)、地方史研究協議会、1988年4月。
大内2000. 大内建彦「二つの「ヒルコ」神話本説」『国文学研究』第130集、早稲田大学国文学会、2000年3月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/43727
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
金井1998. 金井清一「水蛭子と葦船」『古典と現代』第66号、1998年10月。
神田2015. 神田典城『記紀風土記論考』新典社、平成27年。
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西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第一巻』筑摩書房(ちくま文庫)、2005年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
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白川1996. 白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集 日本書紀①』小学館、1994年。
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廣岡2020. 廣岡義隆「助辞「之」の様相─『萬葉集』中の散文例を対象に─」『美夫君志』第73号(平成18年11月)(『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。)
松前1960. 松前健『日本神話の新研究─日本文化系統論序説─』桜楓社出版、1960年。
松村1955. 松村武雄『日本神話の研究 第二巻─個分的研究篇(上)─』培風館、昭和30年。
松本1931. 松本信広『日本神話の研究』同文館、昭和6年。(平凡社(東洋文庫)、1971年。)
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

加藤良平 2021.8.31改稿初出

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