万葉集巻第一に、采女の袖を吹きかえす明日香風を歌ったとされる歌が載る。
明日香宮より藤原宮に遷居りし後に、志貴皇子の御作ふ歌〔従明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌〕
采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く〔婇女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久〕(万51)
特に問題とされない歌である(注1)。作者の志貴皇子は天智天皇の皇子で、光仁天皇の父に当たる。采女の袖を吹きひるがえす明日香風、その風も都が藤原の地へ遷り遠くなっているので、今はただむなしく吹いている、といった意と捉えられている。作者の志貴皇子が旧都の飛鳥(明日香)の地を訪れて感じたことを歌ったと考えられており、采女と一緒に廃墟ツアーのピクニックに来ていたわけではなく、采女は新都にいてそこにはいないから「明日香風」は「いたづらに吹く」と歌っていると考えられている。ただし、歌意をどう評価するかに関しては、明朗快活ととるものと断腸悲哀ととるものとがある。両極端を示すのは、上句と下句にギャップがあるからとされている(注2)。
以上の通説はヤマトコトバに対して浅い理解のままに下されている。歌の真相に何ら近づけていない。筆者はそもそもの解釈に誤りがある点を指摘し、当時どのように捉えられていたかに迫りたい。
采女は官女である。宮室の天皇のそば近くに仕え、身の回りの雑用を担った。それが采女の本来の仕事である(注3)。部屋の掃き掃除、拭き掃除、便所掃除、洗濯、物干し、アイロン(熨)がけ、裁縫、収納、かまどの焚き付け、料理、お膳の上げ下げ、お茶出し、布団敷き、布団干し、蚊帳掛け、物を取ってくること、肩もみ、尻拭い、痰壺替え、介護等々、何でもしなければならなかった。すなわち、采女は、ひとときも着物の袖を垂らしていることはなかった。必ず襷掛けして、いわゆる袖襷にして袖を上にあげていた。それが采女の労働着たる常の姿である。歌が歌われたのは、飛鳥から藤原へ遷都した後に、旧都の飛鳥の地を訪れてのことらしいが、仮に飛鳥の地にまだ都があったとしても、そこに「明日香風」なる風が吹いたとしてさえ、「采女の袖吹きかへす」ことなどけっしてない(注4)。常に袖襷にしていたからである。

イヤーキャッチ(ear-catch)として「采女の袖」という言葉は使われている。万葉集中、題詞を除き、「采女」という言葉が歌の言葉に登場するのはこの一例のみである。袖と襷については、和名抄に、「袖 釈名に云はく、袖〈音は岫、曽天、下の二字は同じ〉は手を受くる所以なり、袂〈音は弊〉は開き張りて臂を以て屈げ伸すなり、袪〈音は居〉は其の中の虚なりといふ。」、「襷襅 続斉諧記に云はく、織りて襷〈本朝式に此の字を用ゐ、多須岐と云ふ。今案ふるに所以、音義とも未だ詳らかならず〉を成すといふ。日本紀私記に手繦〈訓は上に同じ、繦の音は響〉と云ふ。本朝式に、襷襅各一条〈襅は知波夜と読む、今案ふるに未だ詳らかならず〉と云ふ。」とある。
都が遷って更地になった場所では、袖襷にしていた采女に代わり農夫が現れている。農作業に袖襷姿である。田を鋤くのが仕事だからタスキ(襷)掛けしている。吹き返すのではなく揮き返すのである。鋤の先は板面となっている。土を掘りあげて両側に押しやって行って土を鋤いていく。畑の場合は畝に作るのである(注5)。采女がいなくなって畝ができていると洒落を言っている。イタヅラ(無用)とは、鋤の刃床部の板面のことを掛け謂わんとしている。
子麻呂、手を運し剣を揮きて、其の一つの脚を傷りつ。(皇極紀四年六月)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち ……(万1)
鋤のことをフクシ(掘串)というのは、フク(揮)という動作に由来する命名と思われる。ヤマトコトバに明確に現れており、飛鳥時代に行われていたのはこのような解釈である。無文字文化のなかにあり、歌に歌われて言葉が人と人をつないでいる。
藤原京遷都後の飛鳥の地は、皆引っ越してしまっていて空き地になっている。当時、引っ越しするときには、家財だけでなく家屋も運んだ。木組みを解いて運び、再び組み立てて家を構えている。旧都の飛鳥の地に空き家が残されているわけではなく、空き地が広がっている。あいている所は耕作のために拓かれた。「采女」は歌語として好まれていない。家事労働をする奴隷の一般名をとりあげて歌に歌っても雅でない。それでも持ち出しているのは、ウメネ(采女)がウネ(畝)に音が通じるからであった。
以上の推論の信憑性の高さは、この歌が志貴皇子によって作られた歌である点に確認される。スキ(鋤)(注6)のことはシキと呼ばれた。成形図説に、「須岐〈書紀、耜の字を訓めり、亦鉏鐰鍬なども書けり〉 志貴 金鉏〈以上古事記○古の耜、或は木を用う、故に云〉 柄耜……於古志〈土を起すより名とす、即犂也〉……」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569437/8、読点を付した)とある。彼は、鋤を名に負っていた。だから、鋤→畝→采女といった連想が働いた。彼の歌を聞く人もそのつもりで聞いていたから、この歌は人々の間に広く通じて流布したのだった(注7)。
なぜこの歌は歌われたか。藤原京遷都後に旧都の様子を見てくるように指示された志貴皇子が、飛鳥京旧跡地の現地視察を行い、そのありさまを報告した歌であったと考える。歌という形で情報が開示される世の中であった。
(注)
(注1)「吹きかえす」と現在形であり、遷都しているのだから「吹きかへしし」ではないかとする疑問点も、「現在形によって習慣的事実を表わす。」(大系本萬葉集37頁)と片づけられている。
(注2)廣岡2020.に、「一首には底抜けに明るい華やかさと共に、華やかさ故の限りない空しさ淋しさが漂う、いわば二重構造の景の巧みなバランスの中に、この歌は佇っている。その歌詠表現が、相対立する二極の理解を作り上げる。」(375頁)とある。
(注3)節会など祭事において采女が着飾ることはあった。賑やかしのお飾りである。身分は低く、教養もないが、容姿は端麗である。鳥居本2004.参照。ふだんしていない装束や化粧、簪をしている違和感は次のように記されている。
夜更くるままに、月のくまなきに、采女、水司、御髪上げども、殿司、掃司の女官、顔も見知らぬをり。闈司などやうの者にやあらむ、おろそかにさうぞきけさうじつつ、おどろの髪ざし、おほやけおほやけしきさまして、寝殿の東の廊、渡殿の戸口まで、ひまもなくおしこみてゐたれば、人もえ通りかよはず。(紫式部日記・寛弘五年九月十九日)
(注4)中西2010.は、「「袖吹きかへす」……の表現において、われわれは風の中にひるがえり止まぬ袖を想像する。そしてそれが志貴の幻想なのだと知ると、その幻想は揺れやまぬ明滅にいろどられたものだという事に思い及ぶ。幻想の中に、采女はたしかにいるのではない。時として顕ち、時として消える美女なのだ。」(164頁)と、現代人の幻想を述べている。
(注5)ふるさとデジタルアーカイブ せいか舎(精華町教育委員会生涯学習課)「鋤による畝(うね)立て」『昔の写真』 http://seikasya.town.seika.kyoto.jp/old-photo/809 参照(2021年12月24日閲覧)。
(注6)大蔵永常・農具便利論に、「鋤は農具の内にては欠べからざるものにて、鍬と並べあげていふときは、仮令ば将棋の飛車角行のごとく用をなす事大かたならず、……惣て鋤はつかひ馴れば至て重宝なる事を覚ゆ、又溝をほり或は麦田の畝底をさらへるに、箱の底のごとくするには、鍬にてはつかい勝手鋤に及ばざることあり、湿地などは猶更鋤にて塊一つも、畝底に散ざるやうせざれば水はき悪し、半田をつくる地は必ず土おもきものゆゑ、是非鋤を用ゆべき事なり。」とあり、さらに「江州鋤」をとりあげ、「近江国栗田郡辺に此鋤を用ゆ、余国に用るとは形いさゝか大いにして、京鋤に類し少しくゞみありて、畝底の土をすくふには至て便利にして、仕業きれいに出来なり、予諸国の鋤の利方を考へあはするに、此鋤田畑ともに用ひて、もつとも便利なると覚ゆるまゝ、人々は此形を写して、つかひおぼえ給へとすゝめし事ありき。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556764/22~23、漢字の旧字体は改め読点を付し、ルビは省いた)とあって、江州鋤にて畝を作る図が載る。一遍聖絵の鋤(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577/23参照)と形がよく似ている。
(注7)現在通じていることと、飛鳥時代当時に通じていたことはまったく別のものである。思考法が違うから違っている。無文字文化と文字文化の違い、野生の思考と文明の思考の違い、具体的思考と抽象的思考の違いである。万葉歌一首の論考の注に収まるものではない。
(引用・参考文献)
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高野1999. 高野正美「志貴皇子の歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
鳥居本2004. 鳥居本幸代「采女の装束」『京都ノートルダム女子大学研究紀要』第34号、平成16年3月。
中西2010. 中西進『中西進著作集26 万葉の詩と詩人・万葉の歌びとたち』四季社、平成22年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
加藤良平 2021.12.24初出