万葉集巻十一に解釈が一部定まらない次の歌がある。
璞の 寸戸が竹垣 編目ゆも 妹し見えなば 吾恋ひめやも〔璞之寸戸我竹垣編目従毛妹志所見者吾戀目八方〕(万2530)
あら玉の伎戸が作る竹垣の編目のようなすき間からだけでも、妻が見えたら、私はこんなに恋に苦しむことがあろうか。(中西1981.45頁)
麁玉の伎倍の地の竹垣の網目のほんのわずかな、すき間からでも妹が見えたらば、何で私が恋に苦しむことがあろう。(大系本193頁)
寸戸の竹垣、この垣根のわずかな編み目からでも、あなたの姿をほの見ることさえできたら、私はこんなに恋い焦がれたりなどするものか。(伊藤2009.61頁)
この歌は反語表現を駆使した歌である(注1)。
竹垣の網目の隙間から彼女のことが見えたら恋い慕うことがあるだろうか、いやいやない、と言っている。見えたら恋い慕わないとはどういうことを言っているかといえば、実際には見えなくて恋い慕っているということである。
このような回りくどい言い方をしているところが興趣を引いている。通説では、垣根の編み目越しに妹の姿が見えれば恋い焦がれたりはしないことを歌い、妹に逢えない苦しさを誇張して、せめて姿を一目見たいのにその望みすらかなわないのが辛いと訴えた表現と解されている。恋歌の延長として恋心をいかに歌うかが焦点であったように捉えられているのである(注2)。しかし、歌は、たとえそれが恋歌であったとしても、恋情そのものを表出することに限定、拘束されるものではない。言葉というものが持っている性質上、ただ言葉だけ上辺だけのものへも、また、そのパロディへも容易に転化し得る。さらに、そのパロディをもってかえって恋情を語る手段になることさえある。その間に隔てはない。一つの歌の表現を分析して、どこまでが本心でどこからがフェイクであるかを問うてみても得られるものはない。
漫然と恋心を歌っていては陳腐になってつまらなく、なかなか人には聞いてもらえない。かといって、技巧を凝らしたつもりで回りくどい言い方をしても、ただそれだけでは面倒くさいだけで誰も聞いてはくれない。言葉の流れのなかで頓智のような謎掛けがあり、聞きながら考えをめぐらせてみると、ああ、なるほどそういうことを言いたいのね、と巡り巡って合点が行くようになっていると手の込んだ修辞に感心することになり、はては後の人にまでも伝えていこうという気持ちが起きるものである。万葉集に収載されているゆえである。
この歌の場合、アラタマノキヘの竹垣の網目の隙間からでは見えないということが、よくよく考えてみればまこと確かに見えないはずだとわかるのである。文字どおり、言葉どおり、見えるはずはないと考え落ちに悟ることになるわけである(注3)。
アラタマノは枕詞として使われる。年や月に掛かる。ここではキヘに掛かっている。その掛り方については十分にはわかっておらず、キヘばかりでなくアラタマノキヘ全体が地名であると見られることも多い(注4)。ただし、キヘ(キは甲類、ヘは乙類)と聞けば、ヤマトコトバではキノヘ(柵戸)のことかと思い至る(注5)。
「キヘが竹垣」は、柵戸の駐屯するところに竹製の高い竹垣を設けたことを表す。そこは城(キは乙類)のように周囲よりも標高が高い丘のようなところにあるのではなく、平坦で周囲と同じ高さのところに柵(キは乙類)、つまり、垣をめぐらせて限ったところであって、そこに立て籠もる形で駐屯した。防御のためには、柵(垣)をふだん以上に高く作る必要があり、しかも、隙間が空いていては中が見透かされてしまうので稠密にして遮蔽することが求められた(注6)。
歌でアラタマノがキヘに被っている。アラタマノキヘは全体として地名なのかもしれないが、言葉が語るところを気にかけてみれば(注7)、外蛮の地で、防御のために十分な柵(垣)が設けられたことが伝わってくる。少し離れたところにある標高の高いところから千里眼の偵察員をもってしても見えないように、垣根も高く作られたことだろう。高いという性質を言葉で引き継いで表すためにタケ(竹)製になっている。もし透けたり上方から見えたならば内情が筒抜けとなってしまい、ほどなく陥落することだろう。つまりは、そのようなものは最初からキヘノタカガキと呼ぶことはできないのである。そう呼ばれているのだから、名の体を表すものとして歌詞に選ばれている。内が見えないからこそ柵なのである。構造物としての通称は櫓である。
櫓 唐韻に云はく、櫓〈音は魯、内典に云ふ却敵の楼櫓、夜久良、舟具は艣に作る〉は城上にて守り禦ぐ楼なりといふ。(和名抄)(注8)
櫓という構造物の性質は、ヤ(舎)がクラ(暗)いことである。だから内が見えない。キヘは枕詞アラタマノを被っている。これも地名の一部かもしれないが、枕詞の意を含むものと認識することで名が名として屹立することになる。枕詞アラタマノは、年、月にかかることが多い。年や月は時間の流れによって改まるから、ごく自然な続き方であると感じられる。キヘに続くのは、来歴を表すからとされ、同じように時間の流れに従うものとして認識される。
他方、アラタマには荒玉(麁玉)、まだ磨き上げていない原石の意がある。万葉集では仮名書きの十一例を除くと、「荒玉」(十四例)「荒珠」(二例)」、「璞」(六例)、「荒璞」(一例)、「麁玉」(一例)と表記されるなか、「未玉」(万2956)の用字例もあって、未完成の玉の意が意識されていたと考えられている。
璞 野王案ずるに、璞〈普角反、阿良太万〉は玉の未だ理めざるなりとす。
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の襴に 月立たなむよ(記28)
万葉びとが意識したであろうアラタマ=荒玉(麁玉)という認識と、改まるから年、月、来歴へと続くとする認識の連絡について、現状では得心の行く説明はされていない(注9)。
しかし、話は単純である。月や年は太陰暦で決まっている。月の欠けているとき、新月が月の初め、一日である。光っていない。ただし、必ず十五日ほどで丸くなって完璧に輝くことが約束されている。月が「あらたま」った日には「未玉」ではあるが、望月になれば「玉」をなす。このような頓智の才こそ言葉の深奥に迫るものと感じられ、万葉びとたちはその豊かさを享楽したのだった(注10)。
以上のようにヤマトコトバを理解した時、はじめてこの万2530番歌は「読めた」と言える。
璞の 寸戸が竹垣 編目ゆも 妹し見えなば 吾恋ひめやも〔璞之寸戸我竹垣編目従毛妹志所見者吾恋目八方〕(万2530)
アラタマノキヘというところに建てられた竹垣の編み目越しに彼女の姿が見えたら、私は恋い慕うことがあるでしょうか、いやいやありません。なぜといって、アラタマノキヘというだけに、璞ならではいまだ光を放たず、柵戸ならではものものしい櫓仕立ての高い竹垣をめぐらせ、わずかな隙間もなく作られていて、屋暗くて内の様子を窺い知ることなどできないに決まっているではありませんか。
歌の設定を「柵戸」のこととしたのは、蛮族のなかに駐屯する最前線の砦を比喩として用いたかったからである。多くの猛々しい男性陣の目に止まるところとなったならば、必ずや誰かの手がついてしまうであろう彼女、しかし、それはまだ宝石の原石のように光り輝く以前の存在で、今はただ自分一人が思いを寄せている。その魅力に人が気づいたら、おそらくは自分のものにはならないだろうという気持ちを歌にしているのである。
歌で歌われている命題「妹し見えなば吾恋ひめやも」の対偶は「吾恋ひむは妹し見えざり」、私が恋い慕うに決まっているのは彼女のことが見えない状態にあるということだ、である。自分以外の男性は皆恋敵になる可能性を秘めている。彼女は今、蛮族の住む地へ食い込んだ最前線の砦にいると比喩表現をすることで、男性たちはとても野蛮なふるまいをして大切な彼女をめちゃくちゃにしてしまいかねないと言っている。人目に曝されたらあっという間にその餌食になってしまうことだろう。彼女がそうならずに済んでいるのは、まだ子どもっぽく見えて女性の魅力を発揮する以前だからなのだという理屈である。
この言説のために設定をアラタマノキにしたことは、地名に触発された作であったにせよ、とても見事な状況の定義(W. I. トマス)である。枠組みが文脈を誘導してその内容を自ずと語る仕掛けになっている。図と地の間の論理階型を分かたず、むしろ入れ籠めてしまうことで、主張の正当性、説得性を高めた表出となっている。多く自己言及のパラドックスとして議論されるところであるが、有無を言わせず問答無用、言い得て妙の弁述手法として上代には好まれていたようである。枕詞とはその一類型で、口頭言語(歌)上において型に嵌め込んで議論を先導し、なかば強引に言述を進めるために編み出された言葉であった。決まり文句を言えば方向性は決まってくるということである。
(注)
(注1)反語は今日の日本語ではあまり用いられない。ひょっとすると、近代になって科学的な思考が席巻してしまったために直截的な言い回しが好まれるようになり、修辞のための修辞のような堂々巡りにも思える言い方は顧みられなくなったということなのではないか。現代語で理解するには、……であるか、いやいや……ではない、とくり返すように訳すことが早道である。なにしろ、反語とは、そのようにくり返すことを目的とした言い方だからである。
(注2)品田2026.は恋歌の延長として考えた際に釈然としないものを感じ、「不」字の脱落を想定する案を提出している。
璞之寸戸我竹垣編目従毛妹志不所見者吾戀目八方
(麁玉の寸戸特産の竹垣、その編み目越しにそなたの姿が見えなければ、私はどうして恋しく思うだろうか。美しい姿が仄見えたばかりに恋に落ちてしまった)(25頁)
(注3)歌は言語芸術である。言語遊戯の側面を否応なく持っている。表現の巧みさを追い求めることに躊躇しない。言語は言語ゲームである。
(注4)アラタマが地名と解される例としては他に万3353番歌がある。東歌である。二十巻本和名抄に、遠江国に「麁玉郡」と見え、寸戸はその小地名と目されている。枕詞としてキヘと続く例としては万881番歌がある。
麁玉の〔阿良多麻能〕 寸戸の林に 汝を立てて 行きかつましじ 寝を先立たね(万3353)
かくのみや 息づき居らむ あらたまの 来経行く年の 限知らずて(万881)
また、橋本四郎氏に、キヘは地名ではなく、竹垣を廻らしたある種の建造物ではないかとする説がある(澤瀉1962.257頁)。中西進氏は夏目隆文氏を承けてか、部曲の一として伎戸を捉えて渡来系の機織部の人とし、荒い竹垣を編んだかとしている(中西1981.46頁)。
(注5)上代に城のことをキ(乙類)と呼んでおり、柵も同じ意で使われているとして一般にはキ(乙類)と考えられている(時代別国語大辞典236頁)。誤解であろう。
家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。(皇極紀三年十一月)
「城柵」は城塞を成す柵のことである。すなわち、城(キは乙類)を構成する構築物として垣根の意の柵(キは甲類)がある。カキの頭音が脱落して柵という言葉が成ることは十分自然に考えられるので、屯田兵を指す「柵戸」、柵の長官をいう「柵造」、投降して従った蝦夷を示す「柵養の蝦夷」などの「柵」は甲類と考えられる。多賀城、秋田城と渟足柵、磐舟柵は書き分けられていて、「城」と「柵」は通用していない。
渟足柵を造りて、柵戸を置く。老人等、相謂りて曰はく、「数年鼠東に向きて行くは、此、柵造る兆か」といふ。(孝徳紀大化三年是歳)
伎倍人の 斑衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に(万3354)
中西進氏は、斑衾について、「渡来系の機織技術によって染めた布であろう。衾は寝具。伎倍地方の人の寝具を知識によっていう。」(243頁)としている。遠い地の風俗知識について、声を上げて歌われるなかで聞いて理解する人はいないだろう。
伎倍人は遠江国の地名にキヘというところがあって、それに柵戸の意を掛けて作っている。蝦夷地に設けられた最前線の駐屯地に駐在している人たちが使っていた、ないしは使うと思われていたのが斑衾である。遠くて物資供給がままならず、品質がまだらなのかもしれず、だから後半で綿の入りの話になっている。そしてまた、模様もまだらなのである。軍備品として支給されている。迷彩柄に仕上げられて敵の目を欺くべく野営にも重宝されたのだろう。そう考えれば、歌詞が歌意のなかに嵌って整合する。
柵は木材を立て連ねて一定の地域を画した防衛施設のことである。新唐書・日本伝に「国に城郛無く、木を聯ねて柵落と為す。」とある。柵落の一つは虎落があり、枝付きの竹を筋違いに組み合わせて立て並べ、縄で結び固めた垣のことをいう。その用途を離れて紺屋の物干しとして使ったものもそう呼んだ。
なお、万葉集で「柵」字が使われるのは「馬柵」(万530)の一例である。名義抄に「柵 叉白反、柵編以立木、マセカキ」とある。
(注6)内を窺うことができないような垣根の嚆矢はスサノヲの須賀の宮の歌にある。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
(注7)中古以降の和歌でよく知られた例に「逢坂の関」がある。地名の「逢坂」を「逢ふ」とかけて使うことが常態化した。言葉の使用のなかでは、固有名詞は「固有」であるとも「個有」であるとも言い切れない。
(注8)和名抄の記述では「城」の一部として扱われている。「城(乙類)」にあって「柵(甲類)」にないのは、依拠する山丘という地形であり、また、「城」には面積的なゆとりが少しはあって散策、遠望が可能なところである。
(注9)管見に入らないというだけで、どこかで誰かが明瞭な説を唱えているかもしれない。言葉の「学」はその程度のものである。
(注10)枕詞アラタマノを考える際に、「あらみたま」の意とみて霊魂に関する神事や呪術に由来するとする説がある。およそナンセンスと言わざるを得ない。
(引用・参考文献)
伊藤2009. 伊藤博『新版万葉集三 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
澤瀉1962. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
賀古1964. 賀古明「あらたまの『きへ』の原義─古代思惟の探求─」『美夫君志』第7号、昭和39年6月。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂。1967年。
品田2026. 品田悦一「万葉集本文批判の一方法・続貂─巻十一・二五三〇歌の脱字を想定する─」『国語と国文学』第103巻第3号、令和8年3月。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
夏目1964. 夏目隆文「「あらたまのきへ」私考─古代帰化人と機織─」李沂東編『韓来文化と其の事蹟─東海地方─』韓国資料研究所、昭和39年。
夏目1965. 夏目隆文「「あらたまのきへ」私注─鹿玉郡覇多郷の伎人の民戸─」『美夫君志』第8号、昭和40年3月。
宮川1982. 宮川久美「枕詞「あらたまの」について」奈良佐保女学院短期大学編『研究紀要』第3号、同発行、昭和57年11月。
加藤良平 2026.3.13初出